神様、あの巨大ビルが倒れて、僕をぺちゃんこにしますように。
【1】
真夏のうだるような暑さの空気は、まだ気を抜けない木曜日の香りを帯びている。その空気をかきわけながら、会社の長いエスカレーターを下っていく。降りきったところで、ふり返る。そこには巨大なビルがある。200階建ての直方体のビル。マッチ箱を長細くしたような形をしている。
そのビルの頂上から視線を下にたどっていく。全部でちょうど200階だから、たぶん、あそこらへんが190階。さっきまで仕事をしていた場所。夜の22時だけれども、まだあのフロアあたりは明かりがついている。
その窓の明かりたちをぼんやりと視界に留めながら、ビルがゆっくりと僕に倒れてくるところを想像する。ビルの壁は僕の目のまで近づいてくる。わあっと思うひまもなく、僕はぺしゃん、とつぶれる。
会社帰りにビルをふり返り、そんな想像をするのが、ここ数ヶ月の日課になっている。あの巨大なビルが僕を押しつぶすところを想像すると、なぜだろう。不思議な安心感に包まれる。あるべきものが、あるべきところにあり、あるべき状態におさまっているような。そういう種類の安心感だ。
【2】
僕の人生は、とてもありふれた平凡なものだ。しかし、備えている平凡の種類はそれなりに多い。そういう意味では、非凡だといえるのかもしれない。
大学は、地方の国立大学を卒業した。その後は世間的には知名度が高い、いわゆる一流企業と呼ばれる会社に就職した。女の子とはこれまでに、8人ほど付き合った。多いか少ないかについてはいろいろな意見はあると思うが、少なくとも自分のために時間をさいてくれる人は存在してくれた。
今では結婚もしている。高級ではないが、都内に新築のマンションを持っている。長年趣味にしているポーカーは、国内の大会では上位に入るくらいの腕前だ。
そこそこの人生。決してハイグレードとは呼べないものの、一般的に『幸せの条件』と呼ばれているものは、一通りそろえている気がする。
しかし、ちっとも幸せを感じないのはなぜだろう。
『幸せの条件』たちはみな、不安で不吉で不気味だ。僕のような人間が持つべきではない気がする。僕の持っているものは、すでに自分のキャパシティを超えている気がする。
毎日見慣れたはずの『幸せの条件』たちは、まるでエレベーターに乗り合わせた微妙な距離感の知り合いのように、僕の居心地を悪くさせる。
会社のビルの広いエレベーターホールも、1階にある高級なワインバーも、2階から190階まで直通でのぼるエレベーターも。一見、社交辞令のような笑みを浮かべながらも、陰では僕のことを場違いだとあざ笑っている気がする。
「神様、あの巨大なビルが倒れて、僕をぺちゃんこにしますように」
巨大なビルをながめながら、神様に向かって祈ってみる。今すぐぺちゃんこになりたいなあ。しかしビルは微動だにせず、立派に立ち続けている。『神様、あまり役に立たないな』と勝手なことを思いつつ、その祈りに引きずられて、ふと新しい考えが頭にうかぶ。
【3】
ビルの裏側は、トラックなんかがビルに荷物を搬入する入り口になっている。その裏側につながるビルの側面は、この時間帯は人通りがほとんどなく、長めの木々が植えられていて人目につきにくい。
僕は、ビルの側面にまわる。木々があるせいか、車の音が少しだけやわらぐ。周りに誰もいないことを確認する。
それからビルの横壁を、おもいっきり蹴りつける。靴の裏側で。ゴッ……ゴッ……と、靴の軽い音がする。足が痛くなったところで、僕は蹴るのをやめて、ため息をつく。ため息をつきながら、ため息の理由を考えてみる。もちろん、こんなことでビルを倒せるなんて本気で思っていなかった。ため息をつくのは筋違いな気がする。
そんなことを思案していると、不意に後ろから女の声がする。
「何してんの? あんた?」
ふり返ると、金髪で細いポニーテールをした女が立っている。涼やかな細いつり目。気の強そうな太い眉毛の下には、憮然とした表情を浮かべている。年齢は自分より一回り若く、20代後半くらいに見える。女はパリッとしたキャリアウーマンのようなスーツを着ている。そしてそのスーツに不釣りあいな、大きなスコップを右手で肩にかついでいる。左手は、スタイル良くくびれた腰に当てられている。
「蹴ったら、こっちに倒れてこないかなって」
「そう。このビルに恨みでもあるの?」
少し考えて「ないかな」と僕は答える。
それから逆に質問する。
「そういう君は、スコップなんか持って、何しているの?」
「決まってるじゃん」
彼女はスコップの先を僕に向ける。
「このビルの横に穴を掘って、倒すのよ」と、無表情のまま宣言をする。
「君こそビルに恨みでもあるの?」
ない、と彼女は答える。
そう答えると彼女は僕に興味をなくしたのか、一瞥もくれずにスコップでビルの横を掘り続ける。
カツン、カツン。コンクリートにはばまれて、スコップは少しも地面にささらない。しかし、コンクリートとスコップがぶつかると、かすかに火薬のような香りがする。その香りは子供の頃の記憶を呼び覚まし、懐かしい気持ちにさせた。あの頃、友達と秘密基地に集まって、石をぶつけて火薬を作ろうとしてたっけ。
僕はその音や香りを楽しみながら、ぼんやりと彼女が格闘する姿を立って眺めている。
通行人でも通りがかれば、彼女に教えるつもりでいたが、結局のところ、30分の間、誰一人としてここを通らなかった。
「なかなか倒れないね。さて、僕はそろそろ帰るよ。警備員に見つからないようにがんばってね」
ハンカチで汗をふきながら、彼女に声をかける。
彼女はやはり僕には視線を向けず、それでも無言でこくりとうなずく。
【4】
防犯カメラのついた自宅マンション。
エントランスには、猿の形を抽象的に模した石像が置かれている。猿をあえて抽象的に模す必要性も、それをエントランスに置かなければならない必然性も、僕にはまったく理解できない。
プレートに書かれた作家名を、ネットで調べてみたことがある。一応は名の知れた作家の作品らしかった。誰がなんの目的で、こんなものをここに置くべきだと考えついたのだろう。これを見た人に、どんな気持ちになって欲しかったのだろう。謎である。
僕は猿と一緒にエレベーターを待つ。エレベーターが到着すると、僕は猿を一階に残して、一人でエレベーターをのぼる。自宅まで通路を進み、玄関の扉を開ける。
「ただいま。疲れたよ」
「おかえりなさい。今日も連絡なかったね。連絡なかったから、家事全然終わってないよ」
「ごめん、ぼんやりして忘れてた」
「気をつけてね。ご飯はできているよ」
帰るときに連絡をするのを忘れると、妻は10分くらい激怒するのが常だった。しかし今日はまったく怒られなかった。むしろ、いつになく上機嫌だ。
麦茶を飲もうと冷蔵庫を開けると、ビールが二本入っている。シャワーを浴びてテーブルにつくも、大きなハンバーグが2つ、皿の上にのって出てきた。
いつもなら、晩御飯なんて、明日のお弁当の余りが出てくるものなのに。浮かれたご飯に、嫌な予感がする。
そしてその嫌な予感は、当然的中する。ハンバーグを一枚食べ終えたところで、妻は本題を切り出してくる。
「ねえ、わたし、そろそろ子供が欲しいの」
僕はゆっくりと妻の顔を見る。まるでとっておきのプレゼントを渡すときのように、ニコニコとした笑顔をしている。僕はいつもの3倍くらいの時間をかけて、ハンバーグを咀嚼する。そんなに簡単に飲み込める話ではない。よく噛んで飲み込んでから、僕はゆっくりと、なるべく妻を刺激しないように、自分の考えを述べる。
「申し訳ないけれども、僕は欲しくないな」
「……どうして?」
妻の笑顔が消え、その代わりに鋭い殺意を帯びた表情が浮かぶ。
「これ以上、何かを増やしたくないんだよ。もう限界なんだ。これ以上何かを増やしたら、本当におかしくなってしまう」
「どうして、私の前でそんなひどいこといえるの?」
「ねえ。僕は今まで君がしたいことを、たくさん叶えてきたよ。今は働く気持ちになれないというから専業主婦をさせてあげたし、茶道の学校だって通わせてあげた。先生に勧められた茶器や茶道具だって、僕の給料の身の丈に合わないものだったけれども、それでも買ってあげたんだよ」
「あげたあげたって、随分恩着せがましいのね。それに、私だって家事とかしてる。遊んでいるだけみたいな言い方しないで」
「恩なんて感じなくていいよ。だだ、僕は君の希望をかなえるために、もう随分無理をしてきた。これ以上はもう無理だよ。申し訳ないけれども、もうこれ以上は何も増やせない」
僕がそういうと、彼女は火がついたように感情を爆発させる。マンションのベランダに飛び出す。ベランダの鉄柵の足をかけて、飛び降りようとする。
「自分が死ねば、あなたは満足なんでしょ!?」
という趣旨のことを大声で叫ぶ。
これは、彼女が自分の感情を押し通すときに使う、いつもの手口だった。いつもの手口だと分かりつつも、放置するわけにはいかない。このまま放っておくと、彼女は夜通しわめき散すことになる。
「分かったよ。前向きに考えるよ。なんとかできる方法を考えてみよう。だから部屋に入っておいで」
「ほんと?」
僕は形の上で、彼女の要求を飲むことにする。
それから二人でビールを飲み、妻と寝室に入る。妻は上機嫌で布団に入り、すぐに気持ち良さそうな寝息を立てる。
その寝息を聞きながら、思えば今自分が手にしている「幸せの条件」のコレクションの大半は、妻がさっきの手口で手に入れたトロフィーに過ぎないことに気がついた。
【5】
僕の、持ち物が、また増える。
それも、ぴかぴかで立派な持ち物が。
僕はそれを守らなければならないだろうし、これ以上守るものを増やすことなんて、果たして自分に可能なのだろうか?自分には、自分の持ち物に見合う価値や力があるのだろうか?そもそも自分はそれを、欲しいのだろうか?
そんなことを考え始めると、心が苦しくなって呼吸が乱れる。とてもではないが、このまま寝ることなんてできそうにない。すやすやと寝息をたてる妻を起こさないよう、僕は胸をおさえながら、こっそりと寝室を出る。
リビングに向かう。ぜえぜえとする呼吸をととのえながら。
棚の上のポーカー大会のトロフィーが目に入る。それからテレビの横の棚をのぞく。好きだった映画を録画したDVDが目に入る。ラストシーンは何度見ても泣けるやつだ。百回くらい見たなあ。それから擦り切れるほど聞いたCDも見つける。失恋したときに、自分に浸りながら聞いたやつだ。それから、学生時代から使っているゲームハードにソフト。本棚のある部屋に向かう。狭い本棚の中に残った本たちは、お気に入り中のお気に入りの精鋭たちだ。
それらを僕は、まとめてゴミ袋に入れる。
トルフィやゲームハードのように壊せるものは壊す。CDやDVDは、ひっかいて使えなくする。本は破り捨てる。もう間違えて戻ってこなくてもいいように。
僕の持ち物は、たった45リットルのゴミ袋ひとつにおさまった。時計を見ると、深夜の3時だった。僕は妻を決して起こさないように、可能な限り静かにマンションのドアを開く。
蒸し暑い空気と、蝉の声が部屋の中に流れ込んでくる。蝉の声のほかに聞こえるものはない。僕は儀式のようにおごそかに、マンションのごみ捨て場にそれらを運んでいく。
持ち物を捨てると、少しばかり身体が軽くなった気がする。呼吸もようやく、整いはじめてくる。息が吐ける。息が吸える。僕は安心して睡眠導入剤を麦茶で飲みほし、それからようやく眠りにつく。
【6】
その日、僕は夢をみた。
真夜中にどうしても太巻きが食べたくなって、家をこっそりと抜け出して、コンビニに行く夢だ。
コンビニに入ると、すべての棚にずらりと太巻きが陳列されていた。コンビニには、太巻き以外の商品は、何一つ置かれていなかった。様々な種類の太巻きがあった。僕はエビとアボカドの入った太巻きを選び、レジまで持っていった。
レジには、あの金髪の女の子がいた。無表情なつり目で、くだらなそうな手つきで太巻きをスキャンした。
「680円になります」
僕は千円札を差し出す。彼女はお釣りとレシートを差し出す。僕がそれらを受け取りコンビニから出ようとすると、彼女はとても大きな声で独り言をいった。
「惰性で決め打ちした人生を嘆いて終わるって、何それ一瞬のギャグ? 別に大して欲しくもなかった幸せ食べすぎて、だらしなく太った身体持て余してんの、本当に笑える。これから真夏日が続くっていうのに、それ本当に大丈夫?」
彼女の言葉は背中にぐっさりと突き刺さったが、僕には返す言葉がなかった。本当に、彼女の、言うとおりだった。
【7】
翌朝、発狂した妻の怒声で目を覚ます。僕が夜中にいろんなものを捨てたことに気がついたようだ。
「子供作るのがそんなにいやなの!? あなたはどうして、いつもこんなあてつけみたいな真似をするの!? もういやだ!!!もう耐えられない!!!」
「当てつけじゃないよ。こうしないと、ダメだったんだよ。こうしないと、君の願いを叶えてあげることができなかったんだよ」
「ねえ、子供欲しいって、そんなに特別なことなの? そんなに特別なわがままなの!?」
「そんな話はしてないよ。僕はこれ以上、何も持てないだけだよ」
「私は世間一般の幸せも手に入れられないの!?」
「……ごめんね。生きてるだけでやっとなんだ。これでも最善をつくしているんだよ。どうしても気持ちよくそれを叶えたいんだったら、他の人と叶えてくれたっていいんだ」
【8】
通勤電車。職場にはいつもより早くついてしまった気がする。
海外出張から帰ってきた同僚が、見たことのないおやつを配っている。来客用の会議室をとるために受付にいく。受付嬢さんは化粧もばっちりで、スタイルも抜群にいい。ものすごい美人で、笑顔も素敵だ。
そういえば今日は給料日だった。給与明細を見る。いつものように、立ちくらみがする。とてもじゃないが、自分はこれをもらえるだけの仕事をしているとは思えない。
残業して、後輩のプレゼン資料に赤入れをする。前に僕がしたアドバイスが的確に反映されている。優秀だなあ、と思う。
時計を見ると22時。これ以上仕事はしたくなかったが、家に帰る気もしない。僕はカードを切ってオフィスを出て、長いエレベーターを190階から無気力に落ちる。
広いロビーにつく。長い長いエスカレーターを降りる。
僕の足は自然と、ビルの裏側に続く道へと向かう。暗がりの中を、カツン、カツンと不気味な音がしている。期待した通り、金髪の女がスコップでビルの横側に穴を掘ろうとしている。
僕はその横に無言で立ち、ビルの壁に蹴りを入れる。
カツン……ドッ……。カツン……ドッ……。
2つの音が、交互にコンクリートの壁に反射して鳴り響く。
汗だくになりながら、壁を蹴る。足が痛くなったが、今日は構わずに蹴る。気がつけば金髪の女の子も、汗だくになりながら、一生懸命に穴を掘ろうとしている。
二人でハァハァいいながら、汗だくになっている姿は、どことなくセクシーでもある。
「今日の明け方さ。君にひどいこと言われた。言葉に殺されるって思ったの、初めてだったな。でもあれ、正しすぎるくらいに正しかったよ」
「そう。太巻きは美味しかった?」
「そういえば、まだ食べてない」
「もったいない。美味しいのに、あれ」
カツン……。ドッ……。
しばらくして、彼女は糸が切れたように、突然その場に座り込む。僕もその横に座る。彼女は無表情で巨大なビルを眺めている。
「残念ね。力になれそうにないわ」
「君は僕のために穴を掘ろうとしてくれてたの?」
「さあね。でも、これくらいのことはしてあげれるわ」
彼女は座りながら、僕の頭にそっと手をあてる。手は汗まみれで、じっとりとしている。
「目つぶって」彼女にうながされるように、僕は目を閉じる。
すると、不思議なことが起こる。目を閉じているのに、僕の目の前にはこの巨大ビルがそびえ立っているのが見える。ビルは僕の50メートルくらい先にそびえ立ち、僕はその前に立ちはだかっている。横を見ると、金髪の女の子も、ビルに向かって立っている。
彼女は無表情で、自分のポニーテールから髪の毛を数本抜きとる。そしてそれにふうっと息を吹きかける。金の髪の毛は金色の蝶々に変わり、ビルに向かってひらひらと飛んでいく。蝶々はビルからはじき出される会社員たちの肩を通り抜け、入り口へと向かって飛んでいく。
蝶々が長いエレベーターに沿って、ビルの中に入っていく。しばらくすると、音もなくビルがこちらに向かって倒れてくる。巨大なドミノが倒れるように、まっすぐと。
ふと、彼女を横目で見ると、彼女はビルが倒れてくるのを下らなそうに眺めている。僕も彼女と一緒になって、それを眺める。ビルの壁は僕の目の前まで倒れてくる。壁が頭に触れる。顔を押し込む。理不尽なまでに強大な圧力で、ビルは僕の頭を、身体を、そして魂さえも押しつぶす。僕はぺちゃんこになって、世界も意識も、真っ暗になる。
「どう? 少しはすっきりした?」
目を開くと、彼女も僕も、ビルの横側に座り込んでいる。
彼女は頭の上においた手をそっと離す。頭の上が、彼女の汗でしっとりとしている。
「うん。なんていうか、ものすごい爽快感だった。やはりあれはさ。僕のあるべき姿なんだと思う」
「そう。じゃあ、これからどうしたものかしらね」
「そうだなあ」僕は少し考えてから答える。
「太巻きが食べたいな。今日こそはどうしても、太巻きが食べたいんだ」
「へえ」
「だからさ。これからコンビニ行くの、付き合ってくれる?」
僕が立ち上がると、彼女は目を細め、口角をかすかにあげる。
彼女は汗まみれの手を、僕に差し出してくる。僕はその手をつかんで、彼女を起き上がらせる。
僕はじっとりとした彼女の汗を手のひらに感じながら、神様も汗をかくんだなあ、と思った。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。