ロウディーン帝国の都近くにあるアトラスの森には数多くの魔物が存在する。
単に魔物と言っても多くの種類があり、人に懐く温厚な種から人肉を食らう獰猛な種類まで様々だが、アトラスの森には特に獰猛な種類に分類される魔物が住み付き、森に入る人間を餌食にしていた。
この危険な森に一人の少女が迷い込んでいた。
腰まで流れる長い漆黒の髪と、黒曜石のように黒い瞳の可愛らしい少女。白い軟肌は驚くほど透き通っていて、思わず触れてみたくなる程にさわり心地が良さそうだ。
粗末な薄い緑のワンピースに身を包み僅かな荷物が入ったカバンを肩に下げ、少女はどんどん森の奥へと足を踏み入れて行く。
うら若い娘が一人でアトラスの森に入るなど無謀極まりない事だったが、娘―――リアとて自ら好んで森に入った訳ではない。
リアの両親は、リアが物心付く前に魔物の餌食となり命を失った。その為リアは都の外れにある孤児院に引き取られ、多くの孤児仲間と共に元気いっぱいに育った。
そのリアも今年で一七歳になり、決まりによって孤児院を出て一人で生活して行かなければならなくなった。
リアは紹介された就職先に向かうため孤児院を出て、下働きとして雇い入れてもらう予定の屋敷を目指したのだが…気付いたら森にいたのだ。
その屋敷は都の中心部に位置しており、孤児院から歩いて三時間程で到着する予定だったのだが―――
現在リアが歩いているのはアトラスの森で、迷った事に気付いたリアが道を探すも森深くへどんどん進んで行ってしまう。
「まいったなぁ…また道に迷っちゃったみたい。」
迷う事を想定し早朝出立したというのに、辺りは既に夕闇に包まれている。
リアにもここがアトラスの森の何処かだという事までは理解できたが、ここから出る方法が思い付かない。
都の外にある危険な森にどうやって分け入ってしまったのかは思い出せないが、リアは極度の方向音痴。一日中険しい森を歩き疲れていたが、魔物の巣くう森で歩く事を止めてしまう事は死を意味していた。
「方向音痴が命に関わる事だったなんて思いもしなかったわ―――」
刻一刻と闇に包まれて行く森の風景に心寂しさを覚え、魔物に出くわす恐怖に足がもたつく。
顔も覚えていない両親が命を落としたのもこの森だ。親子そろって同じ運命には合いたくないと、疲労困憊で震える体を自身で抱きしめた。
その時目の前に生い茂る草木がガサガサと音を立て、そこから真っ黒い大きな巨体が姿を現す。
「ひっ―――!」
ついに自分も襲われる時が来たのかと、身を縮めると同時に足を取られ尻餅を付く。
臀部を強打しながら見上げた黒い物体に、リアは思わず目を見開いて凝視してしまった。
尻餅を付いたリアの目の前に現れたのは一人の大男だった。
髪は短めの金色だが、返り血を浴びて真っ赤に染まっている。その血は決して美しいとは例えようのない恐ろしい形相をした顔にも飛沫し、全身を包む黒い衣服にも飛び散っていた。
太く大きな腕には体に見合った大ぶりの剣。
男が握り締めた剣からは、たった今何かを切り捨てた事を物語るかに真っ赤な血が滴り落ちている。
突然目の前に現れた血だらけの大男…しかも真っ青な瞳は眼光鋭く、人を視線だけで射殺しそうな鋭さを持っている。くわえて子供なら必ず泣く事が予想される厳つい面差しに、普通の娘ならこの場で悲鳴を上げて逃げ出すか意識を失うかのどちらかだろう。
だがリアは、血だらけの男を見上げて心底ほっとし胸を撫で下ろすと満面の笑みを浮かべた。
「よかった…」
こんな森で迷ったうえ、夜が近づいて来ている。このままここで死ぬか夜を明かす事になるのかと不安でたまらなかったリアは、血だれけだろうと強面だろうと怪しかろうと、とにかくここに人がいてくれてよかったと心から安堵したのだ。
*****
自分を見上げ安堵の表情を浮かべるリアに、男は一目で恋に落ちた。
恋などという可愛らしい言葉が全く似合わない、この厳つい面差しの血だらけの男…ロウディーン帝国の黒騎士団団長を務めている。
黒騎士団と言えば、騎士の中でも精鋭だけを集めた二十人足らずの集団で、黒騎士団に所属する者はたとえ平民の出であっても貴族の位が授けられる。黒い制服を着て馬に跨り街を闊歩すれば羨望の眼差しを送られ、言い寄って来る女も常に二桁だ。
そんな中に合って現在の黒騎士団団長は異質な存在だった。
まず、名をザガートという。
生まれはロウディーン帝国の王宮…彼は今年二十一歳になるロウディーン帝国の第二王子であった。
帝国の第二王子という位にありながら黒騎士団の団長を務める程の実力を持つザガートだったが、彼は女嫌いなうえ、常に人を威嚇するような恐ろしい形相をしている為、黒騎士であっても女子供はおろか男ですら近寄らない。子供は石のように固まり、遊ぶ女は震えながら身を任せ、最後には失神していた。
強靭な肉体を持ち体は極めて大きいため、騎士というよりも獰猛な戦士の印象しかない。
そんなザガートの唯一の趣味は肉体を鍛える事で、今日も幼馴染の魔法使いを連れてアトラスの森で魔物狩りを楽しんでいた。
最後の魔物を切り捨て、そろそろ切り上げて屋敷に戻ろうとした時、人の気配を感じたザガートは生い茂る背の高い草をかき分け、気配のした方へと足を進めた。
生い茂る草をかき分けた先にいたのは、ザガートの様な男を最も恐れるであろううら若い娘。
小さな悲鳴を上げ尻餅をついた娘が失神して厄介な事になる前にと、共に行動していた魔法使いの幼馴染を振りかえり相手をまかせようとした時―――
娘は満面の笑みをうがべて『よかった』と安堵の声を漏らした。
そこに媚やへつらいはない。
娘は澄んだ美しい純粋な瞳でザガートを見上げている。
その瞬間、ザガートは生まれて初めて女性に対して心惹かれる思いに目覚めた。
駄目だと分かっていても思わず手を差し出してしまう。
ザガートが触れると女達は何時も怯えて体を委縮させていた。
だが今目の前にいる娘は、ザガートの差し出した大きくてごつごつした手を素直に握り返し―――
「ありがとうございます。」
と、笑顔のまま礼を述べる。
初めて受け取る感謝の言葉に、ザガートの心に淡い思いが沸き上がった。
*****
「ザガート、誰かいたの?」
後を追って来た魔法使いのアルフォンスが前に立ち塞がる巨体を押すと、ザガートは握り締めたままになっていたリアの小さな白い手を放した。
ザガートの後ろから頭一つ分小さな黒髪で紫の瞳をした整った顔立ちの青年が姿を現し、リアはアルフォンスにもザガート同様に笑顔で挨拶を送る。
「女の子?!」
アルフォンスは驚き紫の目を見開く。
何故こんな若い娘が一人でアトラスの森深くにいるのだろうと驚き、同行者がいないか辺りを見渡したがここにいるのは娘と自分達男二人だけ。
「この様な所で何をしている。」
相変わらず人を威圧する冷たく厳しい口調で言葉を発したザガートは、直ぐ様己の行動に後悔するが、当のリアは危険な森で人に会えた嬉しさが先立って構いはしない。
「道に迷ってしまって…申し訳ありませんけれど同行させて頂いても宜しいでしょうか?」
縋る様な眼差しで二人を見上げるリアに、アルフォンスは直ぐ様頷いた。
「僕達も帰る所だから構わないけど、君は何処に行くの?」
黒いローブに身を包んでいるため、一目で魔法使いと分かる風貌の青年にリアは視線を移す。
「ゲルハルク様のお屋敷に―――」
「ゲルハルク?!」
リアの言葉に真っ先に反応したのはザガートだった。
隣に立つ幼馴染の魔法使いをちらりと見下ろした後で再びリアに視線を戻す。
「ゲルハルクに何の用だ?」
まるで尋問するかに厳しい口調で威嚇している様だが、ザガートがリアに気を使っていつもよりも優しく言葉を紡いでいる微妙な違いにアルフォンスは気が付く。
だが言葉を投げかけられたリアの表情は少しずつ陰りを帯びて行った。
「今日から下働きでお世話になる者ですが…もしかしたら…もう雇ってもらえないかもしれない―――」
終わりの方は自分に対しての呟きだ。
本来なら午前中には屋敷を訪れ下働きに入る予定だった。それが有り得ない方向音痴のせいで森に迷い込み大遅刻。初日からこれでは雇ってもらえない可能性も視野に入れなければならない。
自分に嫌気がさし小さく溜息を落とすリアを励ますように、紫の目の魔法使いが優しく言葉を添える。
「それなら大丈夫。ゲルハルクは―――」
―――僕の家だから。
そう言おうとしたアルフォンスを差し置いてザガートが冷たい一言を言い放つ。
「時間を守れない人間などゲルハルクの屋敷には必要ない。」
ザガートの冷たい言葉にリアだけでなくアルフォンスも真っ青になった。
ゲルハルクはアルフォンスの家名で、ゲルハルクの当主であるアルフォンスの父オーレンは、こんな可愛らしい娘を前に決してそんな無体な事はしない。そもそもロウディーンの魔法師団長たるオーレンが下働きの娘を気にかける暇はないが、アルフォンスが口添えすれば娘の遅刻程度穏便に済ましてやれる問題だ。
それをザガートは横から口出ししたうえ、何時もなら何の興味も示さないか弱い乙女に向かって何て非道な事を口走るのだろうか。
「ゲルハルク家はそんな非道な事はしないよ!」
ザガートは抗議の声を上げるアルフォンスの鳩尾を軽く殴りつけ、その体がくの字に曲がる。
黙らせる為とはいえ…魔法使いで肉体的戦闘能力に欠けるアルフォンスは、鍛え上げられた強靭な肉体を持つザガートに軽く殴られただけでその場によろよろと蹲った。
「大丈夫ですか?!」
驚いたリアは蹲るアルフォンスに駆け寄り手を伸ばすが、その手がアルフォンスに触れる前に、アルフォンスの体はザガートに首根っこを掴まれ引き起こされた。
「問題ない。」
「―――何で君が答えるんだ?」
殴られたのは自分なのにと、涙の滲む目でザガートを睨みつける。
その様子をおろおろと見守るしかないリアに、ザガートは決して誰にも見せた事のない、ほんの少しの微笑みを向けたが、リア自身はその表情の変化に気付く事はない。
「兎に角ゲルハルクの屋敷は駄目だ。仕方がないので俺が雇い入れてやる。」
「はぁ?!」
何がどう仕方がないんだ?!
驚きの言葉を発したザガートに対してアルフォンスが疑問をぶつける前に―――
「本当ですか?!」
リアが両手を合わせ祈るような姿をで歓喜の声を上げた。
その眼差しはきらきらと輝き、まるでザガートを神のように崇めているかにも見える。
「ではゲルハルク様のお屋敷に失礼を詫びた後で雇って頂けない場合は―――」
「その必要はない。この魔法使いが始末は付けるからお前は俺に付いてくればいい。」
「えっ…でも―――」
リアの漆黒の瞳が不安気にアルフォンスを見上げ、ザガートの射殺さんばかりの視線がアルフォンスに狙いを定めていた。
ザガートの視線に捉えられ、アルフォンスは小さな溜息を落とす。
「彼の言う様にゲルハルクの方は心配ないよ。僕はゲルハルクの屋敷に住まう者で、後の始末は喜んで付けさせてもらいます。でも君が彼の下に行くならいくつか質問させてもらう事になるけどいいかな?」
リアはこくこくと嬉しそうに頷いた。
その愛らしい笑顔を見ていたアルフォンスは、ザガートを前にして気丈に振る舞える…否…普通に笑顔で振る舞える人間を初めて目の当たりにした気がする。と同時に、ザガートがいらぬ事を口走って強引にこの娘を手に入れようとしている現実を目の当たりにし、こんな猛獣の様な男に目を付けられるなどはあまりにも娘が可哀想だと哀れに思った。
*****
そんなアルフォンスの心配を余所に、リアはザガートを神様の様な人に感じていた。
危険なアトラスの森に迷い込んだ所を助けてもらったうえ、素性も知れないリアを雇い入れてくれるという。素性についてはアルフォンスに事細かに質問され、彼がリアの育った孤児院まで確認に赴いた後、リアはめでたくザガートの屋敷で働く事を許可される。
この時になって初めて自分を助けてくれた大男がロウディーン帝国の第二王子ザガートだと知り、アルフォンスが魔法師団長の長子でその後継者である事を教えられた。
リアなどが一生かかっても口を聞いてもらえる事すらないと思っていた雲の上の存在であるザガートが、ただのちっぽけな孤児であった自分を気にかけてくれるなんて、何て親切で情の厚い人なのだろうと…アルフォンスが聞いたら涙を流して全力で否定しそうな事をリアは思っていた。
ザガートは黒騎士団に所属した頃から、城ではなく自身の屋敷で生活を送るようになっていた。
広大な敷地に建てられた大きな屋敷に度肝を抜かれながらも、リアはザガートと別れ、侍女頭でライラと名乗る高齢の女から渡された質のいい侍女服に着替える。
「あなたは頃合いを見てザガート様の専属になる予定です。それまで暫くはわたしに付いて仕事を覚えて頂戴ね。」
ライラはザガートの幼少期に教育係として城に努めて女性で、ザガートが黒騎士団に所属する時に城を出た折、共にこの屋敷に移って来た。
常に人を射殺さんばかりの覇気と威厳をたたえるザガートを恐れない、数少ない人間の一人である。
「ザガート様自らが人を雇い入れてくれるなんてとても有り難い事よ。実の所…人を入れてもあの方を恐れて長続きしなくて困っていたの。」
目が合っただけで殺されるとか、怪しい魔法を放つとか傍若無人で女子供すら容赦なく首を切り落とすとか…見た目のせいでかなり悲惨な噂話もあった。その為この屋敷は慢性的な人手不足に悩まされている。
「そんな事…確かに見た目は怖いかもしれませんけど、ザガート様はとっても心優しいお方です!」
拳を握りしめ必死に訴えるリアにライラは優しい面差しを向ける。
長年ザガートに使えてきたライラは、ザガートが他人に対してどのように接するかという事を十分に理解していたつもりだった。
そんなライラでさえ実際の所、ザガートが自身の手で娘を屋敷に連れ帰って来た事実に困惑したのである。しかも連れて来られた娘はザガートを恐れるでもなく心優しいと訴えるのだ。二人の間に何があったのかも分からないしザガートの心の内も見えないが、たった一人でもザガートを恐れずに接してくれる娘がいてくれた事にライラは感謝する。
この日からリアは屋敷に住みこみ、ライラに仕事を教わりながらザガートに使える事になった。
*****
一国の王子でありながら黒騎士団の団長としての顔も持つザガートが屋敷に戻って来るのは深夜に及び、帰宅しない日すら多かった。
ザガートの気持ちとしては、本当なら一刻も早くリアのいる屋敷に帰りたいというのが強かったのだが、自分が女子供からどのような評価を受けているかを知っており、リアに恐れられ恐怖に満ちた視線を送られるのが怖くて、ザガートは今まで以上に仕事と鍛錬に打ち込むようになっていた。
人々が寝静まった深夜、ザガートは気配を消し音もなく屋敷に戻る。
今日は事前に帰らない事を知らせておいたので出迎えはない。
ザガートは帰宅したその足で使用人に与えられた部屋のある一角を訪れた。
リアの部屋が何処かは知らないが、新入りの娘が使う場所は見当が付く。
ザガートはリアの部屋の前に立つと扉に手を付き、中の気配を伺った。
―――深い眠りに落ちているだろうか?
息を殺して気配を探るが、部屋の中にはリアの気配がない。
部屋が違うのかと扉を開けると、部屋はもぬけのからだったが確かにリアの物と思われる私物が置かれていた。
あの娘…何処に行ったのだ?
極度の方向音痴で一人にするとこの屋敷でさえ迷子になっていると報告を受けていたので、こんな夜更けに何処に行ったのかとザガートは心配になり辺りを捜すがリアの姿はない。
行きそうな場所に足を運ぶが人の気配はなく、ザガートは自室のある二階に上がってみた。
すると自室の扉の前で丸くなって規則正しく寝息を立てるリアに遭遇する。
何故こんな場所に―――安心したザガートがリアにそっと触れると、小さな体がピクリと反応して漆黒の瞳が見開かれた。
「あ…お帰りなさいませ。」
眠そうな目を擦りながらリアは体を起こした。
「ここで何をしている?」
「ザガート様がご帰宅した時に熱いお茶をお入れしたくてお待ちしておりました。」
「今日は帰らぬと申した筈だが?」
「はい。ですが今宵の様に突然のお戻りもあるやもしれないと思って―――」
まさがこの娘は…自分が帰宅しないと分かっていても、何時もこの様にして夜を明かしていた訳ではないだろうな?
「すぐにお茶の用意をさせていただきますね。あ、それともお食事の方が?」
「いや…腹は空いておらん。」
「かしこまりました。」
頭を下げて小走りに階下へと向かって行くリアの背を見送りながら、ザガートは明日からはどんなに遅くなっても必ず屋敷に戻って来る事を誓う。
献身的に主に使えようとするリアの心根は嬉しいが、それ以上の感情が向けられる事はないだろうと思うと、ザガートは初めて切ない思いに駆られた。
ザガートは女が自分に向ける評価を心得ているし、彼自身が人に対して優しく振る舞えたためしなどない。リアとて奇跡的に笑顔を向けてくれてはいるが、その笑顔がいつ凍りつくとも限らないのだ。その日を思うとザガートは胸が締め付けられた。
だが当のリアはザガートや周囲の心配を余所に、これでもかという程にザガートを敬愛していた。
何がどうなればそんな感情が生まれるのかと誰もが問うだろうが、リアにとってザガートは命の恩人に等しい人なのだ。あの場にアルフォンスという魔法使いもいたのだが、側に使えるという理由一つで主であるザガートに献身的に尽くしたくなってしまう。
それともう一つ、誰もが恐れるザガートの形相なのだが…リアは部類の下手物好きで、アトラスの森で出会ったアルフォンスよりもザガートの様な容姿の方に好意的思いを抱いた。身分差を心得ているので決して口にはしないが、ザガート同様リアも少なからずザガートに淡い思いを抱いたのである。
*****
ザガートの僅かな変化に真っ先に気が付いたのは、あの日同じ場所にいた幼馴染のアルフォンスだったが、最近は城に上がる度に柔和になって行く…と言っても見る人が見なければ分からない程の微々たる変化だったが…ザガートの様子に、次代のロウディーン国王でありザガートの兄でもあるフェルティオ王子も気が付いた。
同じ母親から生まれたというのに、第一王子であるフェルティオは眉目秀麗の、おとぎ話に出て来る王子を絵にかいたような美男子であった。ザガートと似ているのは金髪碧眼という髪と瞳の色だけ。ザガートよりも二歳年上で今年で二十三歳になるフェルティオには、既に妃と生まれて間もない姫が一人いたが、多くの妾を囲う無類の女好きで有名でもあった。
妾の多さはフェルティオ自身が率先して囲っている訳ではなかったが、王太子という身分とザガートとは相反して女性もうらやむ容姿をしていたので、毎日のように良家の子女たちが群がって来るのだ。
それを拒む理由などないフェルティオは、言い寄る女全てに優しく接し、気にいった者には遠慮なく手を付けて行った。
そんなフェルティオであったが、醜悪な容姿をしているうえに極悪非道なザガートを兄として一応は気にかけている。ザガートに微々たる変化をもたらした原因が一人の娘にあるという話しを耳にするや否や、その娘の情報をアルフォンスから聞き出し、王太子という身分に関わらず城を抜け出しザガートの屋敷に忍び込んだ。
言い訳がましくなるが、決してザガートお気に入りの娘を手篭めにしようとか考えての事ではない。
可愛らしい娘だとアルフォンスから聞いてはいたが、絶世の美女も普通の容姿の娘も、あらゆる女はフェルティオにとっては引く手数多、よりどりみどりで辟易する程だ。
まぁ…向こうから勝手に落ちてきた場合は仕方がないのだがと、勝手ないい訳を考えながら、あのザガートを虜にする娘にフェルティオは期待に胸を膨らませていた。
そうして見付けたリアの容姿を見て、フェルティオはかなりがっかりと肩を落とす。
可愛らしい娘と聞いてはいたが、フェルティオの頭の中では何時の間にか妖艶な絶世の美女を連想していた。
勝手知ったる人の家。お忍びに慣れているフェルティオは、誰に見咎められる事無くザガートの部屋に忍び込み、そこで水差しを寝台横のサイドテーブルに置こうとしている娘を見付ける。
アルフォンスの言ったように確かに可愛らしかったが…この程度の娘ならいくらでもいるし、ザガートの相手が出来る様な肝の据わった娘には見えない。
他の何処かに男を魅了する何かがあるのかと、フェルティオは過去何百人という女に向けて来た瞬殺ものの微笑みをリアに向けた。
*****
リアは突然主の部屋に現れた男を前に唖然としていた。
下手物好きのリアですら目を見張る程の美貌の持ち主がこちらに向かって微笑みかけているのである。あまりの美しさに夢でも見ているのかと思ったが、人の気配がある事に気付いて慌てて己を正しつつ、突然現れた見知らぬ男を相手にどの様な態度を取ればいいのかがはっきりと分からない。
ここは主であるザガートの寝室。もしかしたら主を狙う輩かもしれないと思いつつも、見た目華やかで身分も高そうな男を前に、客人であるならそれ相応の接待が必要になると頭を巡らせた。
そもそもリアがこの屋敷に来てからここを訪れた客人はアルフォンスだけで、そのアルフォンスも何故か直ぐにザガートの手によって追い返される始末だった。その為リアは客人に対しての対応の仕方を理解していないのだ。
「主はまだ屋敷に戻ってはおりませんが―――」
腰を沈め挨拶した後でそつない言葉で誤魔化してみると、「知っている」と言う返事が返って来た。
「ザガートが森から連れ帰った娘というのはお前だな?」
「あの…」
口籠るリアに男は歩み寄りながら自己紹介をした。
「私はフェルティオ、ザガートの兄だ。」
ザガートの兄―――
その言葉にリアは慌てて跪く。
「フェルティオ王太子殿下―――!」
何故そんな高貴な身分の方がここにいるのだと不思議に思いつつも、ザガートも王子であり、フェルティオからすれば弟なのだからおかしな事ではないのだと、改めてザガートの置かれる立場と身分を実感し、平伏すように首を垂れる。
「お忍びで来ているのだから形式ばらなくても良い。さあ、顔を上げてごらん。」
フェルティオはリアの前に片膝を付くと、繊細な長い指でリアの顎を捕え上を向かせた。
緊張からか漆黒の瞳は涙を湛えて揺れていて、僅かに開かれた唇は紅を塗っている訳ではないのに艶やかに赤く染まっていた。捕えた顎は細く、同様に細い首から下に見える鎖骨が透き通る程白い肌に影を落としてとても綺麗だ。
フェルティオはおもむろにリアの後ろに手を伸ばすと、一つに束ねられた髪を解く。
その瞬間、されるがままだったリアの体がびくりと撥ねた。
長い漆黒の髪がリアの白い軟肌を更に引き立たせている。
確かに美しい事は美しいのだが―――この程度でザガートを虜にしたとは納得できない。
フェルティオはリアを抱きかかえると側にある寝台に運び、その身をリアごと寝台に沈めた。
*****
リアはフェルティオの行動が理解できず眉間に皺を寄せていた。
「あの…別に具合が悪い訳ではないのですが―――」
跪いたのは相手がフェルティオだからで目眩を起こしたとか気持ち悪いとか、体の不調からではない。
「私とてそうだよ。」
面白い事を言う娘だと、フェルティオは思わず噴き出した。
「変わった子だね。そんな所がザガートの気にめしたのかな?」
「ザガート様?」
リアは上から覗き込むフェルティオの瞳を見上げた。
姿形はまるで違うというのに、同じように深い青の瞳をしている。
ぼんやりと見上げているとフェルティオの顔がリアの傍らに沈み、ふんわりと甘くいいにおいが鼻を掠める。
フェルティオの身体の重みがリアに圧し掛かった。
「だっ…大丈夫ですか?!」
いったい何があったのだと焦るリアに対して、フェルティオはリアに密着し顔を埋めたまま肩を震わせ静かに笑いだした。
吐息が首筋を撫で、くすぐったさに顎を引く。
「あのっ…王太子殿下?」
肩を震わせるフェルティオから逃れようと力を込めるが身動きが取れない。
「ご気分がすぐれないのでしたらお医者様をお呼びいたしますが…」
「お前はこの状況が理解できない程幼いのか?」
「あの…一応年相応には見られますが。」
「幾つ?」
「十七でございます。」
少し考えた後でフェルティオはリアに圧し掛かったまま身を起こすと、その姿を吟味するように見つめた。
「確かに年相応のようだが―――男は知らぬようだな。」
「あのう…男女の区別なら付きますが?」
要領の得ない間の抜けた答えに、フェルティオはリアから体を離し横に転がると、ついに声を上げて笑い出した。
十七にもなって今時こんな娘がいると言うのか?!
孤児院で育ったのなら男女が何たるものか、ある程度の知識が身に付いていてもおかしくはない筈である。それなのにリアの口から洩れてくる答えは決してかまととぶっている訳ではない、純粋に自分の置かれた状況が把握できていない子供の物だ。
なんて危険な娘だろう。ザガートの心を捕えたのは病的なまでに疎く鈍い娘の態度だ。
恐らくこの娘は純粋な瞳でザガートを見据え、屈託ない笑顔を向けるのだろうとフェルティオは推察する。
さすがは女好きなだけあって、フェルティオはあっと言う間に全てを見抜いてしまった。
鬼神の如く獰猛で猛獣と例えても足りない程のザガートに言い寄れる娘などやはり存在しない。もしこの娘がそのような輩なら、さっさと弄んでザガートの元を去らせる予定だったが―――
さて、この先の二人はどうなる事やら。
それにしてもあのザガートがこんな娘に本気で恋をしようとは、さすがのフェルティオにも予想が出来なかった。
リアは何時までも笑い転げているフェルティオに対して、何か失礼な事をしてしまったと心配になり、不躾と思いつつも、寝台の上で体を折り目尻に涙をためて笑い転げる綺麗な顔を覗き込む。
何処からどう見ても笑っているようで、怒りを買った気配はないし、医者も必要なさそうだ。
リアはほっとして、乗りかかったままになっていた寝台から体を下ろした。
「わたしに出来る事があればなんなりとお申し付け下さいませ。」
「お前に出来る事?」
笑うのを止め、目尻に溜まった涙を拭うとフェルティオは目を細めてにっこりとほほ笑んだ。
柔かな笑みとは裏腹に瞳の奥には鋭い光が宿っている。
それに気付く事のないリアはザガートと同じフェルティオの青い瞳に見入っていたため、彼から伸ばされた腕に気付かない。
次の瞬間、リアは再びフェルティオの腕の中に引き込まれたかと思うと、あっと言う間に組み敷かれていた。
「王太子殿下?」
無意味に近過ぎる破壊的に綺麗な顔を目前に、リアは薄っすらと頬を染める。
やっと女性らしい反応を勝ち取り、フェルティオの悪い虫が騒ぎだした。
「では私の相手をしてもらおうか?」
「王太子殿下のお相手でございますか?」
答えの代わりに微笑むと、フェルティオは吐息がかかる程リアに顔を寄せ―――唇を重ねようとした。
「お顔が近いです。」
そう言ってリアの掌がフェルティオの唇を拒む。
二人の間に、小さな白い手が滑りこんでいた。
「お前に出来る事はしてくれるのではないのか?」
「はい。ですが何の相手をすればよいのか承っておりません。」
組み敷かれている事も理解できず、リアは眉間に皺を寄せ答えを求める。
ザガートの兄であるフェルティオに出来る限りの事をしたいと必死で、自分の置かれた状況が把握できていないのだ。
「伽の相手をせよと申せば分かるか?」
「とぎ―――」
リアは小さく呟き考える。
とぎ…とぎとぎとぎ――――とぎ?
とぎっ?!
リアの顔がまるで夕日の様に真っ赤に染まった。
「とっ…伽でございますか?!」
「そう、伽だ。」
フェルティオは過去に幾多もの女を陥落させて来た微笑みを落とした。
しかし当のリアはそんな微笑みに酔っている暇などない。
幸運にもザガートの屋敷に上がり仕事をさせてもらってはいるが、リアの生まれは孤児で、どう転んでも王太子の相手が務まる様な身分ではない。
それに記憶に間違いがなければ、寝台のうえで密着した伽といえば…男女が肌を重ねるという事である。こんな接近した状態で『伽』が話し相手を意味していない事くらい…今更だが理解できた。
「むっ…無理ですっ!」
慌てたリアは必死で身を捩るが、自分よりも大きな男に圧し掛かられた状態では抜け出す事すら叶わない。
自分の腕の中で必死になって抵抗を見せるリアの様子を、フェルティオはどこまで出来るかと余裕綽々に見守っていた。
勿論、嫌がる娘を無理矢理抱いてやる趣味など持ち合わせてはいない。同意されればこのままリアを抱いただろうが、この娘は本気で自分の誘いを嫌がっていた。そもそも、フェルティオの誘いを断る女が過去に存在しただろうか?
何ともまぁ面白い娘である。
真っ赤になって抵抗するリアに新鮮さを覚え、もう少し意地悪をしてみたくなりそむけられた頬に触れようとした時―――
ぱん―――と乾いた音が部屋に響き、鈍い痛みがフェルティオの頬に走った。
「離して下さいっ―――!」
ぽろぽろと、リアの漆黒の瞳から大粒の涙が零れ落ちていた。
*****
殴られた―――?
この私が…ロウディーンの王太子が頬を殴られたというのか―――?!
フェルティオは初めての経験に呆気にとられ、ゆっくりと身を起こした。
あまりの驚きに、たいして痛みもしない頬に手をあてがい、組み敷くリアをぼんやりと見下ろす。
フェルティオは茫然としたまま、漆黒の瞳から止めどなく溢れて来るリアの涙に見惚れていると―――思わぬ殺気を感じて我に返りその場を飛び退いた。
次の瞬間―――今までフェルティオがいた位置に大ぶりの剣が突き刺さっていた。
「フェルティオ…貴様っ!」
地響きが起こるのではないかという程低音で怒りに満ちた唸り声を上げ、鬼神の如きザガートが怒りのオーラを発しながら一歩一歩近付いて来る。
突然降って来た剣に驚き涙を止めたリアの傍らまで歩み寄り見下ろすと、その形相は怒りで更に悪鬼の如く変貌した。
ザガートは寝台に突き刺さった剣を抜き取ると、切っ先をフェルティオへと向ける。
「別に本気で手を出すつもりはなかったのだから、何もそこまで怒ることもなかろう。」
飛んで来た剣を間一髪の所でかわしたとはいえ、ザガートの豹変にさすがのフェルティオも冷や汗を浮かべる。
「触れただけで万死に値する―――!」
王太子であるフェルティオに剣を向け、本気で殺そうとしているザガート。
その様子を何があったのか訳も分からずリアがぽかんと見ていると、緊迫した部屋にアルフォンスが慌てて飛び込んできた。
「早まるなザガート、相手はフェルティオ様だぞ!」
「関係あるか。」
「関係大有りだってっ、目を覚ませよザガート!」
今にもフェルティオに切りかかろうとするザガートの前に立ち塞がったアルフォンスの目に、寝台の上で頬に涙を伝わせ呆然とするリアが映った。
「リア、ザガートを止めて!」
アルフォンスに名を呼ばれてはっとしたリアは、ようやく目の前で何が起きようとしているかを把握した。
ザガートが王太子に剣を向けている?!
反逆罪ともとられかねない状況にリアは蒼白になる。
ザガートは自分に使えるリアを主として守ってくれようとしている―――!
しかしその相手はロウディーンの王太子、剣を向ける事などたとえ兄弟であっても許される筈がない。
慌てたリアは何の迷いもなくザガートが掲げる剣に飛び付き、フェルティオに訴えた。
「申し訳ございませんっ、これは全てわたしの罪です。命をもって償いますのでどうか…どうかザガート様を咎めないで下さい!」
「お前の罪などではなく、女に見境ないあの男の罪だ!」
ザガートは唸りながら剣をリアから遠ざける。
「女に見境ないとは心外な―――殆どは向こうから勝手に言い寄って来るのだ。」
剣を向けられながらも踏ん反り返って余裕を見せるフェルティオに、ザガートの目からは今にも炎が噴き出しそうだった。
「屋敷に忍び込んだうえに貴様の方から手を出しておいてぬけぬけと―――!」
「止めないか。お前がそんな顔をするからその子が怯えている。可哀想に―――」
フェルティオの言葉にはっとしたザガートが見下ろすと、自分の腰に手を回し必死にザガートを止めようとしているリアの健気な姿が映った。
止まっていた涙が再び込み上げて来ている。
「申し訳ありません、わたしのせいでザガート様にこの様な事をさせてしまって…本当にお詫びのしようもございませんっ…!」
ぽたぽたと涙を零すリアを前にしてザガートは、今までの怒りが一気に冷め、手にした剣を思わず取り落とした。
その剣を慌てて拾ったアルフォンスはほっと安堵の息を吐く。
娘一人にここまで逆上するとは―――恐るべし野獣の初恋。
アルフォンスは疲れ果てた表情でフェルティオに振り返る。
フェルティオに情報を与えた身として、アルフォンスも責任を感じていた。
「この様な行いをさせるためにお話した訳ではありません。」
「違うのか?」
「当然でしょう?!」
目くじらを立てるアルフォンスをフェルティオは笑い飛ばすと、そっと耳打ちした。
「あれに本気で思いを寄せる酔狂な娘がこの世に存在し、あれも娘に思いを寄せておる。今後が見ものだとは思わぬか?」
「―――巻き込まれる身としてはうんざりしますが…まぁ確かに殿下の申される通りですね。」
二人の視線の先には涙を流し謝り続けるリアと、それにどう対処していいか分からずオロオロするザガートの姿。
純粋でか弱い娘が近い将来、獰猛なザガートを操る猛獣使いになるのではないかと―――二人は声に出さずに同じ事を予想していた。
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