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神様

作者:雲鳴遊乃実
 あなたが生まれ落ちたとき、あなたにそっくりな子がいたのです。あなたはその子と一緒に遊んだり、餌を取り合ったりしていましたが、しばらくするとその子はいなくなっていました。でもあなたはまだ若かったので、そのことに気にも留めず、ただただ一所懸命に、日々を過ごしていましたね。
 あなたには子どもの頃に出会い、今もお世話になっている人間がいます。毎朝住処の側に餌を置いてくれる人です。高齢なあなたの母が獲物を捕えるのに苦労するようになると、その人のくれる野菜の切れ端や細々とした肉が、あなたの貴重で大切な餌となりました。あなたはその人を意識して、その人が近づくと鳴き声をあげて、じっと眺めるようになりました。初めは塀の隙間から。それが次第に近づいて、草むらの中や苔生した石の上、やがてはその人の真隣にまで近づくようになりました。その人の腕が伸びてくると、初めのうちは飛び退っていましたが、繰り返しているうちにあらがう気持ちも薄れましたね。
 六月。明け方に雨が上がってひんやりとした水気があたりを湿らしていた朝に、その人の手があなたのおでこを撫でました。そのときの温かな感触をあなたはまだ覚えています。あなたたちの柔らかい肉球とは違って、ごわごわとした皺だらけの手のひらが、体毛の先を擦っていく。ただそれだけのことなのに、あなたの身体は痺れたように動かなくなりました。嗅ぎなれない匂いに耐えて、じっとその人のことを見つめていましたね。
 その人は、神様にお祈りをする人でした。
 あなたにはぴんとこないでしょうが、人間の中には、神様を拠り所にして毎日を生きる人もいるのです。その人が暑い日も寒い日も変わらずに、黒くて長いコートを羽織り、ときには十字架や聖書を携えていたのは、神様の前に敬虔な心を示すためだったのですよ。
 あなたはその人に気に入られました。あなたへの餌は葉っぱや細切れ肉から、チーズやドライフードへと変わりました。餌置き場に専用のお皿が置かれたのにはさすがに気づいたようですが、興味関心はすぐに餌そのものへ代わりました。やがてその人はあなたを手招きし、とことこついてきたあなたに、その人の暮らす家の敷地を跨がせました。低く切りそろえられた草むらの先に、半球形の白い建物があり、その頂上に大きな十字架が立っていたのを、あなたは目を輝かせて、立ち上がりそうなほど仰け反り見上げていましたね。
 そこは教会という場所でした。場所を覚えたあなたは、餌を食べると毎日その敷地へと通いました。
 教会にはたくさんの人たちが集まりました。あなたの世話になっているあの人と同じような黒いコートの人は毎日誰かしらやってきました。もっと風通しの良さそうな服装を纏った人々がくるときもありました。そんなときは、町全体がどこか浮かれた雰囲気を持っていましたね。例えば最もたくさんの人がやってきた、あの例の冬の日。見たことのない細く尖った葉をはやした木々があちこちの家の庭に急に生えるのに、あなたは心底驚いたことでしょう。私もとても不思議だなと思っています。
 あなたは人間を見るのが好きでした。その人間が会いたがる何かが、教会の中にあるというのもどことなく感じていました。なぜなら、その建物に入る人々が、たとえどんなに沈んだ表情を浮かべていても、出てくるときには明るい顔つきに変わっていたのですから。そこで、あなたは何度も無理矢理扉の隙間に潜り込もうとしました。
 いよいよその努力が報われ、人々の手を振り切って教会の奥地まで入り込み、正面を見たとき、あなたは呆然としました。多くの人々の目に輝きを宿らせた、それはなんと、どうみても、人間の銅像だったのです。あなたとは似ても似つかない。その事実にとてもがっかりして、固まっているうちに、あなたはあの人に捕まり、教会の外に押し出されました。扉が閉められてしまっても、あなたの脳裏には、いかんともしがたい煩悶が蔓延り続けておりました。
 時が経って、あなたは大きくなり、人間に頼らなくても自分で鼠を捕まえることが出来るようになりました。餌の集まるのを待っていなくても、自分から草むらや街角に飛び出して餌を捕まえ、その場でぐいぐい食べました。人間のもたらしてくれた餌は、確かにおいしかったし、楽だったのですが、自分で狩りをする快感は一度覚えたら病みつきになる類いのものでありました。
 あなたは新しい餌を求めて新しい場所をさまよい歩くようになりました。発見するものごとは際限なく増えていきました。知らない景色、知らない物、知らない餌、知らない町。知識に溢れたあなたは意気揚々と道を歩んでいきました。
 その一方で、悲劇も目にしました。特に酷かったのは、初めて轢死体を見たときです。
 道の中央に、あなたの見知った者の横たわっているのを見たときは辛かったでしょう。その子はお腹のあたりに大きな傷跡があり、タイヤに踏まれたらしい顔は酷い有様になっていました。まだ息はありました。しかし助からない、とあなたは思いました。はっきりと死を意識したのは、このときです。あなたはしばらくの間遠くから鳴き続け、倒れていた子が本当の意味で動かなくなると、粛々とその場を去りました。
 あなたは死が怖くなりました。わけのわからないほど唐突で、暴力的で、目の前に現れても何もさせてくれない存在感に、たちまち萎縮してしまいました。
 考え事をしていては、運動に支障が出るというもの。あなたの狩りは失敗を重ねていきました。鼠はおろか、虫でさえも捕まえることが出来なくなり、しかたなく元いた寝床を訪ねました。しかしそこにはすでに母の姿はありませんでした。母がどこへ行ったのか、あなたにはまるでわかりませんでした。どこかで轢死体になっているかもしれない、と思うと、これまた却って恐ろしく、あなたは教会の敷地に逃げ込みました。
 あなたは教会の軒下にいました。あなたに目をかけてくれていた人は、あなたを見つけて、チーズを何切れかくれました。あなたはその滑らかな口当たりに癒やされ、教会にずっといようと決めました。
 ところが、チーズは毎日出るわけではありませんでした。その人も忙しいらしく、教会の中をばたばたと走り回っている日もありました。そんな日はあなたの世話などしている暇もありません。
 あなたは軒下でじっとしていました。餌を捕まえる気にも、催促する気にもなりませんでした。死の恐怖に囚われていました。どうせ死ぬのなら何をしても無駄な気がしました。餌などとってもいずれ死ぬ。そんなことを考えると食欲が薄れていきました。飲み物はかろうじて流し込んでいたのですが、そのうちに、不意の雨で入り込む水以外は何も摂りたくなくなりました。
 丸まったあなたを冬の闇が包みました。視界が霞み、耳も遠くなり、自らの温もりも次第に薄れていくように感じていました。
 そのとき、あなたの耳に、か細い鳴き声が届きました。
 あなたは身体を起こし、軒下から這いでて草むらへと足を進めました。ぼんやりした目を凝らし続けて、敷地を囲む塀の上に黒い影を見つけました。さほど大きくはありません。あなたと同じくらいの背丈で、座り込んだ格好もよく似ていました。もっとも鏡なんてみたことがなかったあなたは、似ているというよりも先に、胸の奥からじんわりと込み上げるものを感じました。あなたは知りませんでした。それは人間たちが懐かしさと名付けた感情であり、過去から今まで自己が連綿と続く証だったのです。
 あなたは声の限りに鳴きました。弱り切った細い声が風に紛れて消えそうになって、慌てて喉に力を込めました。引き絞った苦しい声が夜闇の四方に散りました。
 黒い影は、いつの間にか消えていました。そのことに気づいても、あなたは鳴き止みませんでした。
 あなたの頭の中に景色が浮かびました。どこかの穴蔵の中で自分よりも遙かに大きい腹に吸い付いている記憶。赤みがかった乳頭の柔らかさ。そしていつも、あなたの横で同じようにそれに吸い付いていた誰か。
 あなたは、自分に弟がいたことを、そしてもう二度と彼が戻ってこないことを、今この瞬間に悟ったのです。
 声は震え、掠れ、やがて音とも呼べない代物となり、あなたの意識が遠のくとともに消えました。

 あなたは今、石塀の上で寝ています。
 両足の乗せきるのもやっとの幅に器用に丸くなり、か弱い冬の陽射しの下でまどろんでいます。
 あなたはもう食事を済ませていました。今日の餌は、草むらを駆け回っていたトカゲのしっぽ。動いている方は上手く捕まえられませんでした。それでも、食べる気になっただけでも大したものです。一休みしたら、また次の餌を捕まえに行くことでしょう。
 あなたは夢を見ています。あの日見た黒い影と良く似た姿を見ています。もういないことはわかっていても、会いたくなるものなのでしょう。あなたは夢の中でも鳴いています。もうか細くはありません。堂々と、あなたの声で鳴いています。その声が、寝言になって、塀の上のあなたの口からぽろりと零れたりもしています。
 あなたはいろんなことを知りました。生まれてから数年。私から見たらとても短い。でもあなたは確かに、生まれたてとは違います。今のあなたは悲しみを知っています。それを呼ぶ言葉が無くても、知ることはしっかり出来ています。その気持ちを抱えたまま、どうぞ毎日を生きてください。
 私がここで語った言葉は、きっとあなたには届いていないでしょう。でもそれでいいのです。言葉というのもやはり人間たちだけに通ずる暗号のようなものなのです。心配しなくとも、あなたはまだまだ、いろんな物事を理解することができるでしょう。
 いつか相見えたときのために、私も日々精進するとします。あなたをがっかりさせたままでは、よろしくないなと思うから。

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