坂東蛍子、しゃっくりを止める
振り返った坂東蛍子は凡そ通常で無い顔をしていた。クラスの面々には決して見せることがなく、藤谷ましろも過去に二度しか見た事がない顔をしていた。端的に言うならば、悪い顔である。ましろは横溢する嫌な予感を咄嗟に胸の奥にしまい込んだが、口元からしゃっくりが「ひっく」と漏れる度、その予感が形を持って漏れ出ていくような錯覚に陥った。
「ひっく」
藤谷ましろはしゃっくりが止まらなくなっていた。放課後の掃除の時間から始まったこの異変は、初めの内こそ何てことはない通り雨のように思われたが、時計の針が幾ら動いても収まる気配がなく、それどころか次第に強まっていく雨脚に、危機意識の低い善良な図書委員、藤谷ましろも流石に目を逸らせなくなっていった。彼女の気管は千年の眠りから覚めた活火山のように、一人でゴミ捨てに向かう間も、図書委員として受付で応対する間も、担当教諭に図書室の鍵を受け取りに行く間も、休むことなくましろの胸の奥をつき上げ、親しい友のように背中を押し、内気な彼女の口から短い文句を語らせ続けた。
「ひっく」
もしかしたらこのしゃっくりは私を懲らしめるために齎された神の罰なのかもしれない。私が本ばかり読んでいることに、運動の神あたりが腹を立てたのかも。ましろが蛍子と遭遇したのは、そんな妄想を膨らませ始めていた折であった。陸上部の助っ人として部活動に参加していた陸上の神、坂東蛍子は、深刻そうな顔で途切れ途切れに懇願するましろの頼みを快く承諾し、放課後の静かになった教室にて、彼女のしゃっくりを止める方法を二人で模索することにした。
余裕綽々たる気概で臨んだ蛍子だったが、しかし彼女の思惑に反してましろのしゃっくりは一向に止まらない。そうこうしている内に、蛍子はましろのしゃっくりが段々と恐ろしくなっていった。蛍子の中で、しゃっくりと言うものは「すぐに止まる」概念だった。にも関わらず、驚かせても、笑わせても、宥めすかしても抱きしめても鎮まらず、伝統的な迷信や先人達の知恵を使っても効果が無い“藤谷ましろのしゃっくり”という相手は、坂東蛍子にとってはもはや未知の怪物に相違ない代物なのだった。笑顔を繕いながらも、蛍子の心は徐々に萎縮していった。私はなんて恐ろしい相手と向き合ってしまったのだろう、と蛍子は思った。ひっく、ひっく、という声が、まるで幽霊の嗚咽のように聞こえ始めた所で、ようやく少女の脳は自身に閃きという慈悲を与えた。
「フジヤマちゃん・・・この前の幽霊のこと、覚えてる?」
蛍子は悪い顔のままゆっくりと語り始めた。ましろは頷く代わりにひっく、と音を出した。
「そのしゃっくり止めるために色々試してきたけどさ、まだ“恐怖”を試してなかったよね・・・」
先日二人は、今と同じぐらいの時間帯にとある事情で誰もいない学校に舞い戻り、暗闇の中の図書室にて着物姿の幽霊と遭遇したのであった。蛍子はその時の幽霊の苦しみ悶える恐ろしい表情と、すぐに気絶したましろのことをしっかりと覚えていた。坂東蛍子は結構根に持つタイプの高校二年生であった。
「あれ、ちょうど今ぐらいの時間だったよね・・・ねぇ、また行ってみようよ、図書室」
藤谷ましろは全力で首を横に振ろうとしたが、彼女の挙動よりも早く喉を突いたしゃっくりが、意思に反して首を勢いよく縦に曲げた。坂東蛍子はましろの快い返事に満足そうに頷き、日の陰り始めた太陽を背に教室のドアから暗がりへと足を踏み出した。
マツは幽霊である。長い間浮遊霊をしていたが、今は坂東蛍子の背後霊を生業としている。先日、年若いながら思いやりが深く気立ての良い坂東蛍子を気に入ったマツは、以降彼女と共に穏やかな学校生活を過ごしていた。元々この地域の浮遊霊であったマツは蛍子の学校にも以前から足しげく(失礼、足は無い)通っていたため、図書室にも頻繁に出入りして読書を嗜んでいた。蛍子とましろの話を聞きながら、そういえば私も図書室で幽霊に会ったのよね、などと上の空で考えた後で、気を取り直してマツは主人の発言に傾聴した。蛍子の話を総合すると、どうやら彼女は幽霊と友人をつき合わせて、彼女を驚かせ、或いは怯えさせることでしゃっくりを取り去ろうとしているようだった。お安い御用よ、とマツは思った。いつか蛍子さんには気遣いの恩を返さねばと思っていたけれど、こんな形で訪れるとはねぇ。
図書室へ向かう道中、マツは時折繰り出される蛍子の指示に従って粛々と行動した。蛍子が消化器の裏に何かいるかも、と言ったら非力な腕で一生懸命(失礼、死んでいる)消化器を倒したし、暗い教室の向こうで音がした、と言ったら教室に入り込んでトントンと机を小突いてみせた。まるで自分の存在に気付いているかのような蛍子の的確な言動に驚きつつも、マツは段々と愉快な気持ちが胸の奥からこみ上げてくるのを感じ、廊下の短い旅路を盛り上げるべく各所へと奔走していった。
二人の女子高生はとうとう図書室の前に来た。その頃には二人の顔はすっかり蒼白になっていたが、夢中で下準備をしていたマツはそんな少女達の変わりように気付くことも無く、主人に満足してもらえるような劇的な終幕を飾るべく気合を入れて図書室のドアの裏にぶら下がり、木の扉がスルスルと開くのを待った。扉は中々開かず、向こうからしゃっくりの混じった二人の押し問答が僅かに漏れ聞こえていたが、蛍子の「幽霊なんているわけないでしょ!」という何かと決別するかのような威勢の良い声を合図に、ようやくドアの鍵が回り始めた。流石蛍子さん、とマツは思った。実に良いフリね。
扉の向こうで髪を乱し、白目を剥いているマツを見た二人は、特に何も感想を言わなかった。藤谷ましろは無事しゃっくりを止め、廊下の上にバタリと崩れ落ちて動かなくなった。良かった、とマツは笑った。私、ようやく蛍子さんの力になれましたね。
「・・・えっく・・・う、く・・・・うぇっ・・・」
「あら、蛍子さん、今度は貴方がしゃっくりですか?」
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