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雨上がりの空

作者: 鍵っ子なむ

疎ましい。

何度そう思ったことだろう。他人の決めた僕が、僕という存在を定義する。誰かに監視されているはという強迫的観念が常に僕の意識、はたまた無意識にまであった。それが僕を慢性的な緊張と疲れで蝕んでいた。あらゆる事に投げやりになり、気づくといつも長い溜息を吐いていた。それはタバコの煙をゆっくりと、気怠げに吐く、壮年の男のようであった。倦怠感に取り憑かれ、しかし他人の目にだけは敏感な日々を送るうちに僕はふと、疎ましい原因を考え始めた。僕は考え続けた。それが唯一僕の生きる糧となっていたからだ。そして気づいた。全ての原因は”つながり”にあるということに。



テレビからアナウンサーの機械的な声が流れる。新聞をめくる音、オーブンが回る音、外からは雀の鳴き声が聞こえる。僕は一つ長い溜息を吐き、廊下とリビングを仕切るドアを開けた。

「おはようございます。父さん、母さん」

「おはよう。功之助」すでに白と青のストライプ柄のYシャツを着ていた父が新聞から顔を上げる。父の髪はもう白髪が混じっていた。彼の目は僕とよく似ていて、淡麗な口元にコーヒーの黒い跡が残っていた。

「おはよう。功。朝ごはんはそこにあるからね。」母は黒く染めたセミロングの髪をかきあげて、僕の弁当を作っていた。少し小じわので始めた、しかし、美人の分類に入る端整な顔立ちだった。

「勉強の調子はどうだい。」と父が僕に尋ねる。

「順調だよ。この間の中間テストは総合二位だったんだ。」

母がダイニングキッチンから僕に笑顔を向ける。

「偉いわ、功。将来のためにも頑張りなさい。」

「こんなところで満足してはいけないよ。医者という仕事は厳しいものだからね。」と父が冷厳に、しかし期待した目で僕を見る。

「うん。肝に銘じておくよ。」

「功なら、きっと立派な先生になれるわ。」僕は用意された朝ごはんの前に座る。そこはちょうど父と向かい合う場所だった。父は昨日、遺体で発見された16歳の男の子についての記事を読んでいた。その子は僕と同い年だった。しばらく沈黙がリビングを覆う。相変わらずアナウンサーの機械的な声が流れる。食器を洗う音が聞こえ、リビングから見える外庭の塀には雀のつがいがピーコロコロと鳴いている。原付バイクが庭の前の道路を通り、驚いた雀が飛び立つ。二匹の雀は自由の象徴のように真っ青な青空を羽ばたいている。僕はその雀を見えなくなるまでずっと見ていた。

「8月27日金曜日朝8時になりました。天気予報の時間です。、、、」

父が新聞からもう一度目を離す。

「功ノ介、そろそろ出る時間じゃないのか。」

「うん。そろそろ行くよ。」

僕はコーヒーを一気に飲み干し、立ち上がった。母から弁当をもらって藍色のリュックサックを背負い玄関に行った。

「じゃあ行ってきます。」

「行ってらっしゃい。」母がダイニングキッチンから顔を出して言った。

僕は家から出て数歩進むとおもむろに後ろを振り返った。赤い屋根のついた、2階建ての一軒家があった。年収が1000万を超える家庭らしい裕福な佇まいだった。しかし僕はこの家が嫌いだった。僕の上にのしかかってくるようにさえ思えた。僕はしばらくのあいだ家を積年の恨みをたたえた目で眺めて、やっと学校に向かって歩き出した。



僕はぼんやりとした違和感を感じていた。校門をくぐり、昇降口を通る時、それはだんだんと強くなっていた。そしてその違和感は僕の下駄箱に違う誰かの靴が入っていた事で確信に変わった。誰かの靴はシミひとつない真っ白なスニーカーだった。僕はしばらくのあいだ靴を手に持ったままポツンと立っていた。誰かが間違えて入れてしまったのだろうか。しかしここは間違いなく僕の下駄箱だ。どうしようか迷っていると、急かすように始業のチャイムが鳴る。仕方がなく、誰の靴か分からないが、僕の靴も一緒に並べておいた。

決定的だったのは二年D組に入ったときだった。僕がクラスに入ると、一様に全員が僕を見る。いつもと何かが違うと気づいたが、それが何であるのかわからなかった。しかしそれもすぐにわかることになる。

「あいつ誰?」

誰かがボソッとつぶやいた。

「転校生かしら。」

話したことのないkが周りの女子にそう話す。Kは鼻が少し潰れていて、下顎が少し突き出た目つきの鋭い女子だった。kの言葉を皮切りに堰を切ったように教室内は騒然とし出した。友達だった筈のクラスメートたちは僕を奇怪な目で見て、僕について何か話し続けていた。何度か僕を見ては僕がそれに気づくとすぐに視線をそらした。そのうち、一人の男子生徒が僕に歩み寄ってきた。余裕綽々と、自分の方がお前より権力があるのだと誇示しているようにみえた。それは僕が最も信頼していた友人のSだった。髪が少し茶色がかり、端整な顔立ちをしていた。

「おはよう。佐藤。」僕は彼に友好的に話しかける。心のうちの動揺をなんとか悟られないように。

「佐藤の知り合い?」取り巻きの一人がsに聞く。

「いや、知らないけど。

...どこかで会ったことありましたっけ。」佐藤は薄ら笑いしながら僕をあたかも気狂いの未亡人のように眺めていた。僕は吐き気がした。大腸が急に冷めた気がした。

何が起きているのかわからなかった。

「おーい、HR始めるから座れー。おや。見ない顔だが、君はどこのクラスかな。もうHRが始まるぞ。」

T先生が背後でそんなことを言っている。僕は夢のなかにいるような感覚にとらわれてた。意識が身体と離れるあの独特の感覚だ。

「おい、君、大丈夫か?体調が悪いようなら保健室に行きなさい。とにかくこのクラスからでなさい。、、、、」

僕はこの先生の言っている事をぼんやり聞いていた。T先生は僕の事が心配だったのか、決まって毎朝、馴れなれしいほどはなしかけていた。しかし、僕はこの先生が嫌いではなかった。どことなく優しい目を持っていたからだ。そして今T先生は僕を厄介払いしたいかのような目をしていた。僕の体は素早く、

勝手に動いた。僕はクラスを飛び出し、階段を駆け下りた。そして、下駄箱から靴をひったくり、学校を飛び出した。まだ、少ししか走っていないのに、息が荒い。これは走ったためか、異質なことへの動揺からか、しかしそんなことを考える暇もなかった。僕は走り続けた。G大通りには、サラリーマンや小学生の団体が歩いていた。僕は彼らを避ける余裕もなく、何人かとぶつかったが、とにかく前へ走り続けた。トラックが僕を追い越し、タクシーが僕を追い越した。僕の赤い靴はキュッキッュと悲鳴をあげている。僕は僕自身どこに向かっているのか知らなかった。しかし僕の身体は明確な目的があるかのように動き続けた。僕はそれに身を任せた。見慣れたパン屋が後ろに流れ、工事途中のスーパーも後ろに流れた。汗が線となって後ろに流れる。そしてとうとう着いた。否、着いてしまった。これから確かめなければならないことがある。ちょうど木製の、伊藤と彫られているプラカードが揺れ、そして鉄製のドアが開く。そこから出てきたのは、やはり父だった。僕は彼の背中をじっと見つめていた。バイクの音や隣の家から聞こえる掃除機の音も僕の耳には聞こえなかった。

「じゃあ行ってくる。静子。」と父が母に言う。

「行ってらっしゃい。」母がそう返す。和やかな空気が二人の間を包む。

父が振り向く。なぜだか、父の動きが緩慢に見える。

「...ん?どうしたんだい?」

父は僕に向かってそう言った。父の少し白髪の混じった髪や、僕と似た目や、淡麗な口元を眺めた。僕は全身から、張り詰めていた緊張の糸がゆっくりと緩まるのを感じた。さっきの事は何かの間違いだったのだ。彼らは僕を驚かそうとしたのだと考えた。このような考えができるほど余裕が生まれていた。しかし、だから一層次の言葉は僕を傷つけた。

「誰だか知らないが、用があるならいいなさい。無いなら、早くどいてくれ。通れないだろう。」

そう父は言った。父が他人の、そこらにいる僕と全く関わりのない人に見えた。僕の体は自動的に動いた。僕をこれ以上辛い目に合わせないように。僕はとめどなく流れる涙を流して走った。走っている時、いや、逃げているときが一番落ち着き、心地よいと走りながら、そして泣きながらそんなことを考える自分がいた。



僕の体は見知らぬ公園にあった。涙は渇くこともなく流れ続けた。しかし滑り台が反射して見せる僕の泣き顔は全然汚くなかった。ただ、目から水が流れているようだった。うるさいほど蝉が泣く中で、けれどこれが、泣くという究極の形なのだと知った。


何時間が経っただろうか。夕暮れ時、誰からも忘れ去られたようなこの公園に、僕は一人、ベンチに座っていた。公園にはひとつの滑り台とベンチだけがあった。ぼくには夕暮れに染まるこの公園がひどく美しく見えた。あらゆる水は絞り出され、僕は今、考える余裕があることに気づいていた。クラスメート、T先生、父の言動を思い出し、考えた。公園の外の道路に茶色い猫が一匹横断している。公園の周りを覆うモミの木が風でざわめく。ふと、オレンジの世界に僕だけが取り残されている気がした。僕はとうに何が起きているのかわかっていた。世界から僕という存在が忘れられているのだ。世界の中で僕一人が存在していない。それは僕にとって悲しいことであるのと同時にしかし、喜びであった。この体中にこびりつく、つながりという苦しみから脱したいと願ったのはいつだっただろう。モミの木に張り付いているツクツクボウシが哀愁の音色を奏でている。どことなくベルリオーズの舞踏会に似ていた。あいつと僕は真逆な存在だと思った。僕はつながりから自由になりたいと願い、あいつはつながりを求めるが故に鳴き続けている。どちらが良いとか悪いとかはないけれど、僕は断じて泣くことはしない、そう思った。さっきの涙が別離の悲しみを拭ったのか、今はとてもすっきりした気分だった。しばらくして僕はやっと、ベンチから立ち上がることができた。


僕はベンチに座ってこれからの事を考え始めていた。すでに周りは真っ暗で、外の道路の街灯が規則正しく一列に並んでいる。それはとても優美だった。Gショックの黒い腕時計は9時14分を僕に教えている。道路に面した住宅街のひとつひとつの窓から明るい光が夜の暗闇に浮き上がっていた。

僕はそれを軽蔑した目で見ながら、今では父と母だけがいる家に忍び込む必要を感じた。金が無ければ何も始められない。その他にも僕の服や野外食、そして少しの本を僕の部屋から出さなければならない。父や母の記憶に僕はいないわけだから、僕の部屋を気味悪がって全てを捨ててしまう前に。幸い外庭から縦樋を登って僕の部屋の窓から中に侵入できる事をずいぶん前から知っていた。深夜の2時になるまで僕はベンチで待った。そして家に向かった。街はすでに眠っていた。途中、一目で不良だとわかる集団や、残業で残っていた40代の頭のはげかかったサラリーマン、建物と建物の間にあるわずか1メートルくらいの、ゴミ溜めの隙間に眠るホームレス、時々犬の遠吠えが聞こえて、なぜか笑いがこみ上げてきた。その衝動は僕の理性では止められないとても激しいものだった。僕は笑った。は行の二番目と三番目の間くらいの高笑いだった。犬の遠吠えと相まってそれはひとつの協奏曲となり、真夜中の誰もが寝静まる世界でそれだけが響き渡っていた。


僕は縦樋を手に取っていた。思い直してずっと背負っていた藍色のリュックサックを下ろし、庭の端っこにある柏の木の下に置いた。僕は一息に縦樋を登り、窓を開けた。そこから素早く侵入し、またすぐに窓を閉めた。僕は振り返り、僕の部屋を眺め回した。ずいぶん久しぶりなきがした。机が向かって左にあり、机の上の参考書やノートは整然と並んでいた。昔父と作ったニジイロクワガタの標本が机の端っこに立てかけられている。一編の詩が木製のフレームに僕の字で書かれている。

人間は恋と革命のために生まれてきたのだ。

太宰治の斜陽の一節だ。僕はそのかっこよさに心を打たれたのだった。この一文が極限まで洗練されている事を感じたからだ。

家族との写真が木製のフレームに入れられて壁にかかっている。しかしそこに僕の姿はなかった。父と母の間には違和感を感じる程度隙間があった。僕はそれを見ても冷静でいられた。僕はそれを嬉しく思った。完全に繋がりを断ち切れたからだ。僕は落ち着いて机の引き出しに入っている通帳を取り、戸棚から数冊の本、Tシャツ3枚とアウター1枚、インナー2枚と下着を5枚、パンツを3枚旅行バッグに詰め込んだ。僕は注意深く一階に降りて、母の部屋に入った。向かって右にある洋風なタンスの中段を一つずつ開けていく。服を掻き分けてそして通帳を見つける。母の名前が入っている通帳だけをぬきとった。母が僕の将来のために貯めていたものだった。それを僕はたまたま12歳の夏休みに発見し、母に教えてもらった。その通帳には愛情というものがあった。しかし愛情はいまや僕にとって重荷なのだ。僕は愛を受けられない身体で生まれてきたのだ。僕は全てを元どおりにして来た時より更に注意深く二階に戻る。最後に一通り確認して、僕は窓から縦樋を伝って庭に降りた。それから急いで藍色のリュックサックを背負い、旅行バッグを肩にかけて、あの公園に向かって歩き出した。



雀のさえずりが聞こえる。僕は目を開けてしばらく蒼天の空を見上げていた。ちょうど僕の真上に大きなカラスが二匹飛んでいた。彼らをから、らすと名付けることにした。僕はベンチから起き上がる。腕時計を見ると朝9時を指していた。僕は大きく伸びをすると、その場で屈伸と全後屈をした。思っていた以上に体の節々が痛いことに気がつく。僕はベンチに座りなおし、旅行バッグから二枚の通帳を取り出した。中身を確認すると、合わせて124万円だった。これから先いのちの次にこれを大事に保管しなければならない。通帳を元に戻す。僕はリュックサックと旅行バッグを持ち、公園からでた。僕はこのあたりを散策することにした。道路に面している規則正しく並んだ住宅街、大きな鉄塔、その周りを覆う緑色の柵とそれに絡みつく雑草、しばらく歩くと、2車線の通りにでた。近くにあった看板にはd通りと書いてあった。人通りが多くなり、ほど近いところにコンビニを見つけた。コンビニにはいると、急に腹が減った。昨日の朝食以来何も食べていなかった事を思い出す。僕はおにぎりと飲み物、履歴書を手に取りレジに並んだ。出る間際店長が30代の女性である事を確認する。僕はその後もしばらくおにぎり片手に歩き回った。d通りには、外環、s川、tスーパー、ファミレス、喫茶店、緑地地区、マンション、銭湯があった。僕はそれらの場所をあらかた記憶すると、もう一度公園に戻った。僕はベンチに座ると旅行バッグカラパイドンを取り出し読み始めた。霊魂不滅の証明の章から読み始めた。


太陽は気づくと真上にあった。13時34分だった。僕は本を閉じると、コンビニで買った履歴書を取り出し、シャープペンシル片手に名前、性別、年齢、生年月日、住所、高校名を書き込んだ。住所は元いた家のものを書いた。財布を取り出し、残り4枚となった証明写真と印鑑を取り出す。不思議なことに、僕がもともと持っていたものは何も変わっていなかった。僕は履歴書をリュックに入れてもう一度コンビニに出かけた。僕はさっき確認した20代の女性店員に話しかけた。

「すいません。ここでアルバイトをしたいのですが」

「履歴書と身元を証明できるものはお持ちですか?」

僕は財布から学生証を取り出し渡した。

「はい。では、面接がございますのでこちらへどうぞ。」

僕とその女性店員はレジの裏にあるスタッフオンリーのドアを開けて、面接室に入った。

そこで僕は無事合格し、晴れてアルバイトとなった。月曜日から土曜日にシフトを入れた。

「仕事は明日からだから、今日は帰って。明日は8時に来てね。レジ打ちとか教えるから。」

sさんはにこやかに僕に言った。

「すいません。sさんがおしえてくれるんですか?」

「そうね。基本店長が教えることになってるから。」

「ありがとうございます。」

「じゃまた明日ね。」

僕は彼女に挨拶してコンビニを出て、銭湯に向かった。


翌日僕は朝8時ぴったりにコンビニに着いた。

「じゃあこれに着替えてね。」

僕は彼女から一式のスタッフシャツを受け取る。それに着替えると、レジ打ち、納品、清掃、接客の全てを教わった。すでにと店内の時計は13時を指していた。

「昼ごはんにしよっか」と彼女はにこやかに言う。

「店内の物って買っていいんですか?」と尋ねる。

「いいけど、ちゃんとお金払ってね。もしお金払わずに食べたら首だからね」と彼女はにこやかに言う。

僕はのり弁当を一つ買って面接室に入った。

「すいません。僕とsさん以外に誰がいるんですか。」と尋ねる。

「えっとね、私と君とtさんとmさんの4人だね。tさんは夜中にしかこないから多分合わないだろうけど。」

僕は本題に入る。

「あの、一つ相談したいことがあるのですが」

「ん?なに?」

「とてもきいていていやなはなしになるのですがいいですか、」

「なに?」

「実は僕、家に帰ると父が殴りつけてくるので、家に帰りたくないんです。母は僕が小さい頃になくなりました。多分そのせいで父は気が狂ってしまったんだと思います。」

「警察に連絡したほうがいいんじゃない。それか児童相談所とか」

「いや、僕がいない時は普通な人なんです。多分僕のことを見ると死んだ母のことを思い出して苦しいんだと思います。僕がここに来た時、大きな旅行バッグをもってましたよね。実は家出して来たんです。そのほうがどちらにとっても幸せだから。」

「住むところあるの。」

「だから、ここで寝泊まりしてはいけないでしょうか。迷惑はかけません。」

「わかった。」

「ありがとうございます」

「仕事に戻ろうか」


僕が消えて一ヶ月が過ぎた。月曜から金曜日まで働き、土日は基本的に本を読んだり、映画を見たりした。時々、彼女と一緒に山登りもした。彼女は独身らしい。年齢を聞いたがはぶらかされてしまったが、たまたま彼女のスイカを拾って彼女が27歳だということを知った。出費は食費だけだったため、124万円を使わないばかりか少しずつ溜まっていった。僕が寝泊まりしていることはtさんとmさんにも、彼女が巧妙に話を捻じ曲げて伝えられた。tさんは大学3年生の男性だった。髪は短く刈り上げられ、眉毛が太く、まっすぐな目が特徴的な人だった。彼はすぐに僕と仲良くなった。コンビニ内で唯一の男で、よく本を読むらしく、僕とは話があった。mさんは40代のふくよかな女性だった。12になる反抗期の子供が一人いるらしく、よくその子について僕の意見を求めた。僕はこのようにしてコンビニという家族が出来た。僕はひどく心地よい気分だった。

「今君笑ったでしょ。」

「笑ってませんよ」

「笑ってたよー。何を考えてたんだか」

「思い出し笑いですよ」

「見間違いか何かじゃないんですか。それよりほら、シフト入ってますよね」

「そういえばsさん。今度僕シフト変更してもいいですか。」

「そうね,あとr弁当品薄状態だからやっといて。」

「わかりました。あ。sさん。レジ頼みます。」

「え?」

やっと僕はそこで何か違和感らしきものを感じた。

「あの、tさん?多分僕が頼まれたの思うので、tさんは納品お願いできますか」

「はぁ。これ消費期限切れてんじゃん。

「あの、tさん」

tさんは立ち上がる。その時、たまたま僕の肩に彼の頭が当たる。

彼はビクッと体を揺らし、見開いた目で僕の方を見た。

「申し訳ございません。何かお探しでしょうか」

「…は?」

「いえ。すいません。何かご用がありましたらお声掛けください。」

僕は激しい動揺と胸の奥が引きちぎれた音を聞いた。

「t君。レジお願い」

「はい。」

「僕の事。知ってますか?」

行きが震える。

「いえ。何処かでお会いしたことがありますか」

ゆっくりと震える手を下ろす。歯を食いしばらないと立っていられなかった。心臓が飛び出る。

「すいません。なんでもありません」

僕は自分の服が制服に変わっていることに気がつく。足元には旅行バッグとリュックサックが置いてある。

僕は公園にいた。

ベンチに座り込む。

(何が起きたんだ)

僕は自分の握りしめた手を見つめる。

息が荒い。心臓が握りつぶされる。腹に空洞が空いてるみたいに冷たい。僕は、、、辛いんだ。親とも、友達とも、一度は世界とも繋がりを切ったのに。、そん時はつらくなんかなかったのに。嬉しかったのに。今とてつもなく辛い。

僕は公園を出た。歩く。牛のようにゆっくりと。僕はどこか人がいるところにいたかった。なぜか一度も人とすれ違わなかった。無意識に僕は歩き続け、J駅についた。ここにも人は一人もいなかった。僕は今この世界に何が起きているのかわからなかった。

「いつまで歩いているつもりだい」

電車が通らないのにけたたましく鳴り続けたじている踏切の向こう側で僕がいた。

「こっちにおいでよそこの喫茶店で話そう」

「君は誰」

「誰も何もないよ。単なる、事態さ。」

「よくわからない。

「いいからおいでよ。あぁ、それと、もうそのバッグたちは置いていきなよ。必要ないからさ。」

僕はその場に旅行ばっくとリュックサックを下ろした。

僕は踏切をくぐって僕のもとに行った。

「じゃあ行こうか」

「喫茶店はどこにあるの

「何を行ってるんだ。ここが喫茶店だよ

僕らは喫茶店にいた。彼は悪い笑顔を浮かべていた。

「席に座ろう。もうコーヒーは用意されているようだ。アメリカンとブレンドどちらがいい?

「ブレンド

君はアメリカンのどこが嫌なんだい?

「いやというわけではないよ。ただ、ブレンドの方が好きなだけ

「好きがあるから嫌いがある。表があるから裏がある。大があるから小がある。

そして生があるから死がある。そしてこれらは逆も言える。

「だから輪廻は存在し、魂は証明される。」

「うん。そうだね。魂は存在するよ。

「おや、これはチャイコフスキーの秋の歌だね。この独奏曲について何か知ってるかい。

「いや。僕はそこらへんは疎いんだ。



「君はこの世界をどう思う。全ての可能性があるんだ。ものは存在せず、事象だけがある。これは当然のことだと思わないか?









はじめのうちはそのような生活に満足していた。自分というものを省みて、生まれてからやっと、自分で自分というものをはっきりと知ることができた気がした。しかし、或る日突然、こんな生活にうんざりとしたものを感じた。あれほど喜びや満足を感じた僕が、この生活に幸せを見つけ出すことができなかった。なら、どうすれば僕は幸せに生きることができるのか、幸せの本質とは何かということを知りたかった。

しかし、それが何なのか、よくわからなかった。


半年が過ぎた。

僕は一日ずっとあの公園にいた。ベンチに座ってぼんやりする毎日だった。ふと、赤い夕暮れのなか、一人の女の子と、そのお母さんであろう女性が手をつないで、公園の前を通っていた。僕は気づくとずっと彼女たちの姿を見つめていた。彼女たちの表情から今まで見たことのない、なんとも言い知れない不思議な力があるように思えた。僕は直感的にその力こそが幸せの本質ではないだろうかと考えるようになった。その日から、毎日、いろいろなことを考えた。幸せの本質。人の生きる意味。僕という存在。それらを生み出す社会の存在。そんなことを毎日、一昼夜考え続けた。そうした日々の中でふと、学校に行きたい、そう思った。僕が今考えていること、その答えがきっと学校にあると思った。僕の体は学校に向かっていた。通りを歩く人々は僕がいることに気づかないために度々ぶつかった。

彼らはやっと気づいたかのように、驚きの顔を呈し、そして僕に謝った。それが僕にはなんとも悲しかった。



学校に着くと、少し迷ったが、しかし校門をくぐった息が荒い。走っていないわけだから、言い訳の仕様がない。緊張しているのだ。昇降口を通り、階段を上った。そして2Dの前で立ち止まった。今の時期だと、おそらく自分の進路も決めて受験勉強に邁進している頃だろう。僕は一つ、大きく息を吐くと、後ろから静かに教室に入った。



教室に入ると、僕が思っていた光景とは少し違うことに気づいた。その相違の原因は授業を見学している人たちがいることだった。おそらく今日は授業参観日なのだろう。しかし、それなら都合が良い。誰かとぶつかって気づかれたとしても怪しまれないだろう。僕は下を向きながら、彼らの視界の邪魔にならないように教室の奥に進んだ。ちょうど一人分のスペースがあったので、そこで参観しようと、顔を上げた。思わず、ほっと安堵していた。そして安堵している自分に驚いた。この半年、誰ともかかわらず生きてきた。一種の幸せを感じていたはずだった。しかしその幸せが今になって、色あせ始めていたことに気づく。先生が佐藤に質問をする。阿呆な佐藤はトンチンカンな答えを自信ありげに大声で言う。ただそれだけのことでクラスは笑いに包まれていた。その光景が、柔らかい黄色をしているように見えた。僕はしかしこれ以上この光景をみることができなかった。僕がこの光景の一部になることは永遠にできないんだそう唐突に思った時、これ以上この教室にいることは僕にとって毒だったからだ。ここにいたいという気持ちを胸に押し込め、僕は教室から出て行こうとした。ちょうどそのときにポケットからケータイが落ちた。それを拾おうと腰をかがめ、手を伸ばしたが、先に拾いあげる誰かの手があった。

「すいません、拾っていただきありがとうございます。」

僕は顔を持ち上げ、拾ってくれただれかからそれをもらおうと、手を伸ばす。しかし僕の体は、途中で止まった。僕の目から一筋の涙がこぼれる。

「いえ、ちょうど足元に落ちていたものですから。もう帰られるのですか。」

僕は彼、いや父に、喉が詰まっていたせいで答えることができなかった。

「えっどうかされましたか!?。静子、ティッシュだ。ティッシュ。」

父は人当たりの良さそうな顔から一変、焦り顔になる。それが僕にはどうもおかしく、ついに、泣きながら笑ってしまった。

「すいません。僕が何か変なことを...」

「いえ、違うんです。少し、昔のことを思い出してしまったものですから。」

父は、僕が何か辛い思いをしたのだろうと思ったみたいだった。

「ポケットティッシュです。どうぞお使いください。」と母が手渡す。

「すいません。使わせていただきます。」

僕は目頭を拭いて、ついでに鼻もかむ。

「しかし、そんなにお若いのに、誰かのお兄さんか何かですか。」と父が話しかける。

「いえ。」

「え?。では、どうして今日は授業参観にいらしたのですか。」

僕は少し沈黙する。

「なんて言ったらいいのか、わからないんですけど...何かなくしたものを取りに来たというか。まぁ何をなくしたのか僕にもわからないのですけど。ただ、この光景が急に見たくなったのです。」

「それは...不思議な理由ですね。」

さすがの父も反応に困っているのかもしれない。

「......でも、なんだか分かる気がします。私たちもそんな理由で来たのかもしれません。驚くでしょうが、実は私達には息子も娘もいません。なのに、急に妻が高校に行きたいなんて言い出すんです。はじめは僕も反対してたんです。通常授業日の、さらに平日に、子のいない親が参観するかってね。」

父は口元に笑みをたたえて、優しい目で授業を見ていた。

「でもね、なんだか僕も急に行きたくなったんですよ。妻に隠れて近くの高校に片っ端から連絡したらたまたまこの高校だけ授業参観していたんです。急いで会社に休みの連絡を入れて、妻ときたんです。」

「会社を休んでまで来られたんですか...。」

「おかしいと思われるでしょう?でも、仕事なんかどうでもいい、って思えてしまったんですよね。今日、僕の昇進を決める会議だったんですよ。明日になったら社長にこっぴどく怒られますよ。」

「仕事以上の価値がここにはあると」

「いや多分ここにはないんです。ここにあったと言えばいいのか...静子、どう言えばいいんだろうな」

「そうですねぇ。”つながりの痕跡を探しに来た、と言えば良いでしょうか、私にもわかりませんねえ。」

僕はもうこれ以上ここにいることができなかった。あれほど疎ましかったつながりがどれほど価値あるものだったか僕はすでに気づいていたのかもしれない。

「すいません。もう行かなくては。」

「そうですか。楽しかったです。どうもありがとう。」

父はそういった。

「最後にお名前だけでも教えていただけませんか。」と母が僕をじっと見つめる。初めて母がこんなにも小さかったのだと気付いた。

「...僕の名前は、伊藤功ノ助です。...それでは。」

僕はそう告げると何かから逃げるように教室を後にした。



僕は一気に学校を飛び出した。それでは飽き足らずひたすらに走った。しかし常々思う。こうして逃げている時が一番落ち着く。だから僕はこんなにも走っているのだ。気づくといつもの公園にいた。木が一本だけある。そして滑り台が一つあるだけのとても小さな公園だ。たまたま土地が余ったために仕方なしに作られたであろう公園。しかしそこが今の僕の唯一の場所だった。僕はベンチに腰掛ける。ちょうど滑り台が僕の顔を映す。なんの表情もそこにはなかった。そのままでいい。そのままの顔を作り続けろ。ひたすらそう念じた。

「...うっ...」

僕は歯をくいしばる。絶対に泣いてはいけない。二ヶ月まえ、ここでそういったのは誰だ。自分自身だろう。

空を見上げる。曇天の空だ。僕は思わず舌打ちをする。あたかも僕の気持ちを表しているようではないかと思ったからである。つながりがあんなに辛いものだったとは知らなかった。こんなことになるのなら、行かなければよかった。

頭を掻き毟る。

「うぜーんだよ」

僕はポツリ、そう言った。

曇天の空がさらに厚みを帯びる。そしてじっと耐えてきた雲がとうとう水を落とす。雨はすぐに豪雨に変わった。僕の体はすぐに水浸しになった。

僕はずっと不思議だった。なぜ父さんも母さんも、僕を見てくれないのか、僕はここにいるのに、何故僕の未来のことばかり、わかったような顔で話すのか。それが本当に嫌だった。今の僕は未来の僕の土台に過ぎないと思われていることが嫌で仕方がなかった。ぼくよりも、ぼくの未来を愛しているようで嫌だった。僕のためと言いながら、本当は彼らのためなんじゃないかという気がした。だからこの世界から切り離されたとき、やっと、父さんと母さんが期待する”未来”から自由になれたと思ったのだ。この新たな生活で幸せを見つけようと思えた。だが、自由の中に僕の求めた幸せはなかった。僕が欲しかった幸せは”つながり”だった。

「自由を求めれば、本当の自分で生きられる。でもそこに幸せはない。」

そう僕はつぶやいた。自由とつながりは相反するもの。もとから僕が幸せを求めることは間違いだったのだ。僕は俯向く。

「このまま...消えたい。」

「功ノ助」

僕は今、信じられないものを見ていた。

「どうしてここに...」

「功ノ助。父さんと母さんはお前に謝らなきゃならないことがある。今までお前自身を見ていなかった。お前にいつからか愛ではなく自分たちの欲望をなすりつけていたんだ。お前を失って初めて気がついた。」

父さんは僕に頭をさげる。母さんはずっと泣いている。

「本当にすまなかった。だからそんな悲しいこと言わないでくれ。」

僕はこのことばをずっと聞きたかったのかもしれない。

曇天だった空が晴れ上がっていく。

僕は今、何かに満たされていた。不思議な感じだ。公園の真ん中に、白い光が集まる。その光がなんなのか、僕には全てがわかっていた。ふと、空を見上げる。

雨上がりの、あの特有の明るさが空一面に広がっていた。僕はこの明るさがとても好きだ。好きな世界で、好きな人たちと共にいる、このなんたる幸せなことか。

「愛してるわ。功。」泣きながら、母さんはそう言う。

「うん。わかってる。母さん。父さん。」

僕は笑って、そして泣いた。

「頑張ってこい。功ノ助。」

「うん。それもわかってる。父さん、母さん。たぶん、僕も悪かったんだ。僕はここにいるんだって、伝えることが怖くて、臆病だったんだ。...だから、だからこそさ、もう行くよ。」

「功、自分に打ち勝ちなさい。ずっと見てるから。愛してる。」

母はもう泣いていなかった。

僕は母を抱く。母と僕を父が抱く。

「お前がこの世界の、私たちの息子であったなら、どれほど幸せだったことか。」

父は僕をじっと見つめる。そして大きく笑った。初めて父さんの笑顔を見た気がした。

「ありがとう。あなたのおかげで見つけることができた。」

父さんにそう言った。

世界が白く塗りつぶされる。

「さよなら」



気づくと僕は黒板の前に立っていた。

「どうしたん。功。いつまでそこに立ってんの。」

佐藤が不思議そうに話しかける。

「佐藤、ありがとう」

「はっ?意味わかんねーこと言うなよ。俺はバカなんだぜ?」

「佐藤。そのバカが俺を救ってくれたんだ。ありがとう。」

「えっ?どゆいみ?傷つくんだけど。」

佐藤はそれでも、何かを知っているように笑顔で僕と接してくれた。

「おーい、HR始めるぞ。席につけー。」

「また後でな。」


こんな風にまた新しい1日が始まる。始まりは不安なことばかりだ。でもそこには自由があって、そしてつながりがある。ふと、手に握られているものを見ると、そこにはポケットティッシュが握られていた。

僕は、ゆっくりと、窓辺に歩み寄る。

そこから見える空は雨上がりの、あの清々しい明るさが世界をそっと包み込んでいた。

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