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アイドルクライシス2045

作者:上伊由毘男
 田舎の少女は、まだ雪があちこちに残る春の日に、幼い日より祖父と過ごした家を離れようとしていた。薄い灰色の雲が空を覆う日の夕方、小柄な少女が持つにしては大きすぎるキャリーバッグに、これまでの思い出とこれからの希望をつめた。一日に何本もない路線バスで最寄りのバスターミナルまで移動し、夜になるのを待つ。東京行きの夜行バスが出るまでにはまだ時間があるが、バスターミナル周辺には、かつてあったにぎわいを偲ばせるだけの商業施設が錆びついたシャッターを下ろしていた。あまりに人通りが少なすぎて、少女は自分の乗るバス停を何度も確認せずにはいられなかった。日もすっかり暮れて、夜行バス発車の数分前になると、ハイデッカーのバスがゆるゆると停留所に入ってきた。ドライバー兼車掌が乗客の確認をはじめる。キャリーバッグとともに少女は車掌の元へ行き、自分の座る座席を確認すると、キャリーバッグを車掌とともにハイデッカーバスの脇腹へしまった。何人もいない乗客が全て乗り込んだのち、車掌兼ドライバーは時計が発車時刻を示すのを待ってバスを走りださせた。この街ともお別れだ。少しは感傷にひたるかと思ったが、窓から見えるのはわずかなネオンや街灯だけで、景色らしい景色は見えなかったので少女は拍子抜けした。しばらくして車内アナウンスが消灯を案内するので、少女はカーテンを閉めて、これからのことを前向きに考えよう、前向きに考えようと意識しながら眠りについた。
 都会の少年は、電子が作る幻との遊びに夢中になっていた。都会の人ならだれでも持っている、ネカラーと呼ばれる首の後ろにひっかけるタイプの電子機器は、少年の視覚と聴覚に直接信号を与え、少年の傍らに少年が思う理想の少女を映し出していた。それは少年の日々の言動などから好みの女性を分析し、コンピュータによって合成されたものであり、まさしく少年が喜ぶような姿や声で、少年が喜ぶような反応を見せる。視聴覚に直接投影されるそれは実在の人物とは全く区別がつかないほど精巧で、ペルソナと呼ばれた。ペルソナが生身の人間と違うといえば直接触れることができないという点くらいである。だが少年は、学校の昼休みにクラスメイトの男女が談笑してるところや、駅で同級生の男女が戯れる姿や、通学路を自転車で二人乗りする同じ学校の男女らを遠くから見ては目をそらすというような生活を送っていた。現実の女子と直接触れる機会など無い少年にとっては、ペルソナと実在の女子に差異は無く、自分の存在を意味し続けてくれるペルソナのほうが、少年にとっては大切であった。
 少女がこれから向かう都会では、人々の活動や存在にまつわる情報全てが、ネカラーを提供するひとつの民間企業に集約されていた。少年のように、コンピュータがはじきだした自身の好みピタリと当てはまる情報を提供され依存し、また同時に情報によって消費は導かれていた。全人口の半数が集中する東京で、ほぼ全ての人が情報の網の中で生活する様は、いずれ食われるためとも知らず、与えられるエサを食べ続け泳ぐ養殖の魚かと思わせた。
 時に、西暦二〇四五年。


 春と言うには桜は散っており、初夏と言うには少し肌寒い風が吹く夜。街は星のない空に覆われ、急ぐ用事もないのにただ足早に過ぎ去る人々が交差し、猥雑な人混みとして流れ渦巻いていた。街頭の電子ビルボードは、多くの人々が首に付けている電子機器・ネカラーから発せられた情報を元に、群衆の構成に合わせた広告を表示している。例えば、朝の通勤時サラリーマンが多ければ栄養剤や英会話スクールなどの商材、夕方の学生が多い時間帯には若者向け商品のランキングを、そして夜となれば居酒屋やレストラン等のタイムサービスや空席情報を、といった具合に。人々は自分がそれらの情報によって間接的に消費が操られていることを自覚すること無く、毎日を過ごす。
 新宿駅前の大通りに面した歩道では、車道を背中にして、小柄な少女が夜空を見上げていた。チェック柄の入った原色ジャケットと、それに合わせたスカートという出で立ち。ハーフツインテールにした長い黒髪に、レースの水色リボンが付いている。足元にキャリーバッグ、時代遅れのノートパソコンと、古めかしい黄色くて小型のスピーカー一体型アンプ。そのアンプにケーブルで接続されたこれまた旧式のハンドマイクを手にして、少女は軽く深呼吸をすると、あらためて行き過ぎる人たちを見ながら自己紹介をはじめた。
「はじめまして、トオイハルカ、遠井晴香と言います!この春、上京してきました。十五歳です!歌って踊れるアイドルを目指しています。ちょっとでも気になった方、名前だけでも覚えてくださるとうれしいです!」
 服装やら身長やら顔立ちやらから小学生にも見えそうな晴香は自己紹介を終え、傍らのノートパソコンを操作して伴奏を流し、それに合わせて歌いだす。歌いながら手振りをしたり、間奏では踊ってみせたり。その表情は、何かから解き放たれたように晴れ晴れとしていて、時折夜の空を見上げる彼女の目には、青空が映っているのではないかとさえ思える。人混みに紛れながらも、迷いや戸惑いはまるで無いようであった。
 ほとんどの歩行者は彼女を気にすることもなく、灰色の行進を続ける。わずかながら立ち止まる人たちは、事故現場を眺めるように遠くから彼女の方を見て、そのまま立ち去っていった。耳を傾けてる人は実に数少ない。
 晴香は一曲歌い終えるごとにノートパソコンでバックトラックの音源を操作しながら、また自己紹介を繰り返す。旧型のノートパソコンは、小柄な彼女と比べるとよりいっそう大きく見えた。一曲歌っては、自己紹介。一曲歌っては、自己紹介。人混みに負けまいと、自己紹介がやや演説調になるが、それが嫌味にならないのは彼女の声質からだろうか。
 何曲か歌い終えるとマイクを置き、足を止めて歌を聴いていたわずかな人々に、よろしくお願いします、よろしくお願いします、とフライヤーを渡して歩く。紙のビラである。自分の簡単なプロフィールや、新宿で夜に路上で歌ってることなどが手書きで記されている。ネットに情報がなければ情報にあらずという時代に、紙のビラしかも手書き。見た目の幼さとは裏腹に、手法は古風であった。
 そうして晴香が路上で歌いはじめ数週間が経とうとしている頃になると、わずかずつではあるが、晴香の歌を気にする人も出始めていた。
 そのうちの一人は、晴香から見て同世代の高校生。彼は学生服姿でとぼとぼと街を歩きながら、首に掛けたネカラーを利用して、コンピュータが作り出したペルソナと呼ばれる仮想人格と他愛のないやりとりをしていた。その彼の耳に、偶然に彼女の歌声が入ってきて、彼は足を止めた。何か目がさめるようにハッとさせられた。歌声の主に目を向けると、見たことない衣装で聴いたことのない曲を路上で歌っている。その全てが奇異に見えた。同時に、その奇異な女の子がまるで存在しないかのように多くの人々が歩き続けているのも、とても不自然に感じられた。この女の子は誰だろう。どうして歩道で歌ってるんだろう。少年は手首や指を動かしながらネカラーを操作し、自分が見たものをネットで検索してみた。ネカラーは視神経と直接通信できるので少年の見たままを検索できる。だがそれらしい情報は全く無い。今の時代、少なくとも東京においては、情報という情報はネカラーで検索できるはずなのに、情報がなにもないとは?高校生の生活半径において、その現象は少年の興味をかきたてるに十分だった。晴香は、曲を歌い終えてありがとうございましたと言うやいなや、この路上でたった一人自分を見てくれていた少年に駆け寄ってきた。少年はあわててペルソナをオフにした。
「遠井晴香って言います。よろしくお願いします!」
 男子としては決して背の高いほうではない少年だったが、晴香はさらに小さく、少年を見上げるようにビラを差し出した。笑顔で下から見つめられ、少年は動揺した。
「え・・・と、あの・・・」
 何かを尋ねようとするもすぐに言葉が出なくて、少年は口ごもった。その様子を見て、晴香はクスリと笑い、ハーフツインテールが揺れた。
「なんで・・・歩道で歌ってるんですか?」
「えっ・・・と。たくさんの人に歌を聴いて欲しいんです」
 晴香の目は全く迷いがなかったので、少年は、訊いちゃいけないことを尋ねたかのように感じた。
「でも、ネットに情報、無いですよね」
 少年は、首のネカラーを指でトントンとしながら言った。
「あ、東京の人みんなそれ首につけてて、なんだろうって思ってたんですよ」
 少年は驚いた。今どきネカラーを知らない人がいるなんて。
「東京の人、って。どこかから来たんですか?」
 晴香は、東北の山間部にある田舎町の名を挙げた。高校進学に合わせ、つい最近上京してきたのだと言う。そして同時に、路上で歌いはじめたのだと。それにしても、ネットに一切の情報がないというのも不思議だと少年は感じていた。今は、本人が好むと好まざると自分に関する情報は事実上公開されるし、そうでなければ普段の生活に支障がでるのではないか、と。晴香の首元を見ると、確かにネカラーはない。
「デジタルフライヤーにすれば、宣伝も楽になるのに」
 少年は受け取った手書きのビラと晴香を交互に見ながら言う。
「ん〜。ネットとか、機械とか、よくわかんないんですよね」
 晴香が屈託なく笑うので、少年ははぐらかされたように感じた。
「でもノートパソコン使ってるじゃないですか。しかもだいぶ旧型の。今どきノートパソコン使ってるのなんてコンピュータ技術者くらいでしょ」
 市井の人にとって、コンピュータもネットも生活を便利にするだけ以上のものではなく、その存在を感じることすら少なくなっていた。飛行機や電車を利用するほとんどの人が、自分の乗る機械の原理を気にしないのと同じように。
「これ、おじいちゃんの形見なの。このノートパソコンじゃないと再生できない音楽や動画が多くて」
 そう言って、晴香は縁側の祖父を見つめるように、ノートパソコンへ視線をやった。その眼差しに、少年はやや困った。
「あ・・・ごめん」
「ううん」
 晴香は少年に向かって小さく首を横に振った。ハーフツインテールがまた揺れた。
「あの・・・!」
 少年が思い切ったように切りだすので、と晴香は少し驚いた。
「いつも、ここで歌ってるんですか?」
「だいたいこのへんで。ほぼ毎日歌ってます!」
 晴香は元気よく笑った。
 少年は、なぜそんなことを訊いたのか自分でもよくわかってなかった。だが彼女との偶然の出会いは、ネットに情報がないことも相まって、なにか特別なもののように思われた。高校生の生活半径的感覚で言えば、誰も知らない自分だけの宝物のような気がしたのだ。みんなが無視して足早に去る中、晴香の歌を感じることのできる自分は、学校のツマラナイ連中と違う特別な存在ではないのか、と。それが、ティーンエイジャーにありがちな自意識の肥大であっても、誰が責められようか。少なくとも、少年がいつも遊んでたペルソナのことを忘れるには十分なインパクトだった。
 アルバイト終わりのバンド青年もまた晴香の歌が耳に残った。青年は、ブラックジーンズにブラックレザージャケットという姿で電動バイクに乗り、夜の街を走っていた。ヘルメットをしたままネカラーを使ってバンド仲間と口論していた。ネカラーは聴覚と直結し音声通話も可能である。ヘルメットをして電動バイクで走っていても快適に通話できる。その口論は物別れに終わり、どうにも気持ちの持っていき場所がなかった。頭を二、三度横に振って気持ちを切り替えようとしてもうまく行かず、あてもなく走っていた。
 そんな時である。信号待ちで止まり、気の利かないシグナルをにらんでいた時、青年は突然流れてきた少女の歌声に足を止めた。バンドをやるくらいなので、年齢相応以上には音楽に興味も知識もある。といっても、この時代に流れている音楽は、過去の名作か、それらを高度に情報解析して作られた『新譜』ばかりだった。そうした音楽はひと通り耳にしている青年なのだが、路上の少女が歌う曲は、青年がこれまで耳にしたことがないタイプの歌に感じられた。青年は、何か大切なものを見つけたかのようにあわてて、バイクを路肩にとめ、遠巻きに路上で歌う少女を囲む人たちへ駆け寄り、彼女の歌声に耳を傾けた。
 少女は何曲か歌い終えると、自身を取り囲むビラ配りをはじめた。
「遠井晴香です!よろしくお願いしま〜す」
 晴香は笑顔で青年にビラを渡す。
「へえ」
 青年はわざと興味なさそうにビラを受け取り、目を通した。そして視線をビラに向けたまま話しはじめた。
「歌手を目指してる書いとるけど、キミ何者なん?」
「えっ」
 晴香はその質問の意図がわからず、言葉につまった。
「歌手になりたいて、どっかのミュージックスクールに所属してるとかなん?」
「ん〜、所属はしてないですね」
「じゃあ、趣味?」
 その問いかけに、晴香は一瞬答えを迷ったが、迷ったのは一瞬だけだった。
「いえ!私、歌手をめざしてるんです」
 青年は、禅問答みたいになってきたなあと思いながらも、ヤレヤレって言う感じで晴香を見て話しはじめた。
「だってや、今どき歌手になろういうたら、小さい頃からお金かけてスクールに通うか、芸能人の家族か、大きいスポンサーが付いてるとかじゃないとダメやん。そういうのあるん?」
「ん・・・ないですね〜」
 晴香は残念そうに言うも、笑顔は忘れなかった。
「じゃあ趣味やんか」
 ビラを捨てるそぶりを見せながらあきれるように青年が言う。
「ワイもバンドやってるがな。趣味で。大昔には、アマチュアで活動してて、芸能プロのスカウトマンの目に止まって、とかあったかもしれないけど、今そんなのヤラセでもあらへんよ。リアリティがなさ過ぎるやん。それともヤラセか?」
 晴香は、青年の言ってることの意味が半分くらいしかわからなかったが、それでも、自分の想いを言葉にしてみた。
「私のお母さんが、私の年齢くらいの時に歌手やってて、アイドルって呼ばれてたらしいんですけど、その頃の映像とか観て、私もお母さんみたいになりたいって思って、歌いはじめたんです」
 その時、青年のネカラーが電話の着信を知らせた。
「あ、電話入っちゃった。まあ、がんばって」
 青年は、また口論の続きかやれやれと思いながらビラを無造作にポケットにしまうと、通話しながら路肩の電動バイクに乗り、その場を走り去った。
 晴香に似たような事を言ってきた人はこれまでにもいて、そのたびに晴香は、自分に言いきかせるように、歌手になる、歌手になりたいと言ってきた。そしてその度に思う。多くの人に自分の歌を聴いて欲しい、自分の歌で少しでもたくさんの人に笑顔になってほしい、それがそんなに不自然なことなのだろうか、と。
 また別の日に晴香の歌で足を止めた中に、無地のポロシャツに安っぽいチノパンという姿の中年男がいた。彼は仕事帰りに偶然晴香の歌を耳にして、気が付くと曲の最後まで聴いていた。曲が終わり、晴香がビラを配り歩く。中年男はビラを受け取ると、ビラと晴香の顔を見比べるように何度も視線を行き来させる。
「よろしくお願いします!」
 笑顔で自分の顔を、眼を見つめる晴香に、中年男はやや戸惑った。ストリートミュージシャンなんてもう何十年も見たことはなかったからだ。
「ひとりでやってるの?」
 中年男が尋ねる。
「ハイ!この春上京してきたばかりなんですけど」
「ここでいつも歌ってるの?」
「ここというか、このへんというか、新宿で何ヶ所かぐるぐる、場所を変えながらやってます」
 中年男は、彼女の歌を聴き、気になったことを訊いてみた。
「あれ、違ってたらゴメンだけど、昔の歌でしょ。たしか題名は・・・『風のセントローレンスシーウェイ』」
 晴香は一段と元気よく答えた。
「ハイ!私のお母さんが若い頃歌ってたんです」
「だよねえ。最近の曲っぽくなかったから。その衣装も」
「そうなんです!お母さんの形見なんです」
 そこまで話すと、晴香はよろしくお願いしますとにこやかにお辞儀をし、また立ち止まってる人々にビラを配りにいった。
 中年男はビラを見ながら指や腕のゼスチャーでネカラーを操作し検索したが、遠井晴香に関する情報は無かった。ネット上で情報を発信することも無く、手書きのビラを配り、路上で、一人で昔の曲を歌ってる。何者なのだろう。彼女の歌う曲を中年男が知っていたのは、それこそ自分が晴香の歳くらいに流行ってた曲だったからだ。ジュブナイル感のある衣装とも相まって、まだ若いのになぜこんなに古風なんだろうと思った。それはかつてアイドルと呼ばれていた存在を思い起こさせた。
 晴香の姿に、歌に、気を止める者は、新宿の雑踏の中ではまれであった。それでも、少しずつではあるが彼女の事が気になって、新宿駅周辺を探すようにして彼女の路上ライヴに通う者が現れつつあった。
 その日も、晴香は歌っていた。宝物を見つけた冒険家のように目を輝かせ晴香を見つめる学生服の少年、わざと晴香から顔を背けかつしっかりと歌声に体を揺らすバンド青年、自分の青春時代を思い出してるかのような穏やかな笑顔で見守る中年男、他にも、晴香の路上ライヴ目当てに新宿の街を探し歩いてた人たち数名が、遠巻きに晴香を囲み、その歌声に耳を傾けていた。その中には、晴香と同世代の高校生らしき制服姿の少女たちの姿も見えた。
 そうして、何十分かが過ぎただろうか。晴香はその日最後の曲を歌い終えた。
「ありがとうございます!今日はこれで終わりになりますが、また、明日とか、明日雨だったらその次の日とか、とにかく新宿らへんで歌ってますので、また聴きに来てくれたらうれしいです。遠井晴香でした。ありがとうございました!」
 晴香を囲み歌を聴いていた人々から、まばらな拍手が起こった。晴香はその人々に何度もお辞儀をし、ありがとうございました、ありがとうございましたと繰り返し言った。その人々が新宿の人波に紛れるようにして去ると、晴香は片付けをはじめた。
 去ったはずの人々の中に、三人だけまだ立ち去らない男たちがいた。それに気づくと晴香は片付けの手を止め、ありがとうございましたと小声で言いながら三人それぞれに会釈をした。
「あのさ」
 口火を切ったのは、学生服の少年だった。
「ボク、ネット上で、晴香ちゃんのサロン作ったんですよ」
 少年は意を決したように強く言うので晴香は何事かと思った。
「え、サロンってなんですか・・・?」
「あ、そうか。えっと、ネット上で、同じ話題や趣味を共有できる、なんつーか、集まる場所ってか・・・」
 学生服少年にとっては、ネットもネカラーもサロンも当たり前に存在しているものなので、いざ説明するとなると言葉に詰まり気味であった。
「晴香ちゃんに興味のある人達が情報交換できる仕組みだよ」
 そう説明したのは中年男だった。晴香と少年が、中年男を見る。
「晴香ちゃんが今日はどこで歌ってるとか、何を歌ったかとか、そういう情報が集めてある場所がネット上にあるんだ。今日集まってた人も、だいたいそれ見て来てたんじゃないかな」
 晴香はいつも以上の笑顔になった。
「そうなんですか!ありがとうございます」
 少し大きめの声で、中年男と少年に礼を言った。
「あ?何?あれお前やったん?」
 バンド青年は、謎が解けて軽く驚いたかのように多少荒々しい声で言った。
「ていうかじゃあお前ガクランか?」
「え、ええまあ・・・」
 ガクランとは、学生服少年がサロン上で名乗ってる名前である。少年が返事をすると、青年は笑顔を隠すようにあきれた表情をした。
「え・・・みなさん、お知り合いなんですか」
 晴香も軽く驚きながら言った。晴香にとっては、三人ともよく歌を聴きに来てくれるのは知っていたが、彼ら同士が知り合いかどうかはよくわからなかった。
「まあ・・・よくお見かけするなあって感じで」
 ガクランがバンド青年と中年男に目線をやる。
「お前に言われとぅないわ」
 バンド青年はわざとあさっての方を見た。
「じゃあ、あれか、君がロックさんか」
 中年男が反応した。ガクランはネット上でバンド青年のことをロックさんと書いていたことがある。
「お前、人のことまで書くなや!」
 怒っているフリをしてはいたが、青年の声は笑っていた。
「てか、おっさんはなんや」
「私は見てるだけなんで。えっと・・・毎川です。よろしく」
 軽くお辞儀をしつつ笑いながら中年男が言った。
 晴香は、三人を楽しそうに見渡した。
「え、今日知り合ったんですか?」
「実際話すのは、今日がはじめてかな。ネット上ではよく見かけるから、はじめてって感じでもないけど・・・。そうだ、今日は晴香ちゃんにこれを持ってきたんだ」
 毎川が落ちついた声で言いながら、タバコの箱ほどの大きさの機械をポケットから取り出した。
「ネカラーの保守用端末。これで、そのノートパソコンでもサロンが見れるはず。ちょっといいかな」
 毎川は晴香のノートパソコンに端末をつなげ、キーボードで手早く何かしらの操作をすると、ガクランやロックが見慣れた画面がノートパソコンに表示された。
「おっさん、なんでこないなことできんや」
「いちおう仕事なんでね」
 毎川はノートパソコンの画面を晴香の方へ向けた。
「へぇ・・・すごい」
 晴香は、自分の知らない所で自分の知らない人たちが自分のことがどのように語っているかをはじめて目にして、喜びで自然と顔がほころんだ。
「この機械、お借りできます?」
「本当はそうしたいんだけど、私はこいつの仕組みを知っちゃってるから、これを晴香ちゃんが、例えば家から接続すると、私は晴香ちゃんの家を調べられちゃうんだよ」
「え・・・でも、そんなことしないですよね」
「しないけど、やっぱできる立場になっちゃう人がいるとなると、いろいろ誤解もされちゃうからね。申し訳ないけど。ただ、我々がネット上でどんなふうになっているか、ひと目見せたかったんだ」
 ロックは、このおっさん使えねえなと内心思いながらも、無関心を装って地面を見た。自分がこのコに何もできてないというもどかしさを感じながら。
 晴香は「でも、みなさんがこうして話題にしてくれたり、観に来てくださるの、とってもうれしいです」と言いながら片付けを再開しつつ、ノートパソコンでサロンの様子を見ていた。最後にノートパソコンを片付けながら、端末を毎川に返した。
「いつも来てくださるから、ずっとお話したかったんです・・・。今日いろいろお話できてうれしかったです。ありがとうございました」
 そう言うと、晴香は荷物の入ったキャリーバッグをガラガラと動かしながら帰っていった。ガクランは晴香が人混みに消えるまで手を振り、ロックは自分の感情を隠すように大通りを行き交う車の群れに目をやり、その二人を毎川は微笑ましく見ていた。
 それからは、路上ライヴが終わったあとにそのまま路上で少しダベったりするようになった。高校生のガクランとアルバイトのロックと会社勤めの毎川なので、いつも三人揃うわけではないが、顔を揃えた時は、話も弾んだ。少しずつ身の上話のような会話もするようになった。共通の話題は、晴香のこと以外にないわけだが。
「なんか、ドキッとしちゃったんですよね。遠井さんの・・・笑顔って言うか、仕草っていうか、なんていうんだろ、存在?そのもの?って言うんですかね」
 修学旅行で寝る時の会話みたいな口調でもどかしそうにガクランが言う。ガクランは、ネカラーを使ってペルソナという仮想人格で遊ぶことに耽溺していた。視覚や聴覚と直接情報をやりとりできるネカラーは、コンピュータが生成した仮想人格とのコミュニケーションを可能にした。それは多くの情報が集積した自動応答システムのようなものだったが、ネカラーのユーザー、例えばガクランが好む人格を、ネカラー経由で収集するガクランの行動データから解析し、あたかも理想の相手・・・ガクランの場合であれば理想の女の子が自分のすぐ側にいるかのように錯覚させた。それはとても心地良かった。自分を理解してくれる、自分の思う通りの反応をしてくれる女の子が、自分の都合のいい時に自分の側にいるのだから。それが例えコンピュータの作り出した幻だと理屈ではわかっていても、ガクランにとっては、目の前に理想の女の子が確かに存在するのだ。触れることはできないが、学校でもさえないワンオブゼムなガクランにとって、それは現実の女の子との差異にはならなかった。そのペルソナ遊びで理想の女の子とのやりとりに浸ってたガクランにとって、遠井晴香との出会いは、あさっての方向から飛んできたゴルフボールが頭にぶつかったような衝撃を与えた。
「ペルソナが一番安心できるし気分いいって思ってたけど、なんていうか、それを超えちゃう何か的な何か、なんかうまく言えないけど」
 ネットワーク上にはない、どれほどの膨大なデータを解析しても生成できない、生きた人間の、女の子の笑顔。それはガクランにとって、はじめての感覚だった。
「あの笑顔見てると、歌を聴いていると、なんというか、幸せな気分になるんですよねえ〜」
 笑顔を抑えきれないという表情でそう語るガクランをロックはキモいなあと思いつつ、遠井晴香の件については負けじと語りたかった。
「たまたまなんや。バイク乗りながらバンドの連中としゃべってて、話し終わった時に信号が赤になって、そしたら歌が聞こえてきてよ。あれ信号が青だったらたぶん気づいてないし、こうして話すこともなかったんやって思うと、不思議な気分や」
 たいていの若者よりは音楽に関し知識も興味もあるロックがそれまで耳にしたことのない、過去の何にも似ていない歌声に、ロックはその歌声の主に駆け寄らずにはいられなかったのだ。
「そう言えば、ロックさんは関西の人なの?」
 にこやかに話を聞いていた毎川が尋ねた。関西弁っぽく聞こえるが、イントネーションに違和感があった。
「違うんや。ワイは東京の人間なんやけど、バイト先に関西から越してきた人が多くて、うつってもうたんや」
 政府は、増大し続ける社会保障費を抑制し社会資本や福祉関連の費用対効果を向上させるため、全国数十の大中都市に人口を集中するよう施策を行った。それに国民は過剰に反応し、自分が住む自治体の破綻や消滅を恐れた人々は、地方の大中都市ではなく東京への移住を選んだ。過疎地からの移転はもちろん、これまで大都市圏とされてきた大阪や福岡といった地方の大都市からも東京への移転が増加した。その結果、総人口の半数が首都圏に住むようになり、東京一極集中は一段と加速していた。東北の山間部に祖父と二人で暮らしていた遠井晴香が東京へ出てきた一因でもある。
「オッサン、そういやネカラーの会社で働いてるん?モリブデンで?すげえやん」
「いやいや。ネカラーの仕事はしてるけど、給料安いし」
 ネカラーを開発し情報網を運営しているモリブデンという会社が、毎川の勤め先である。と言っても、毎川が雇用されているのはモリブデンの子会社のそのまた下請けみたいな会社であり、さらに契約社員であった。一流企業と呼ばれるモリブデンで働いてるといえば聞こえはいいが、その実は時給いくらの契約社員で、安定は何一つ保証されていない。だから、ロックのような若者にすげえと言われると、毎川は恥ずかしさと情けなさの混じった複雑な気持ちになる。モリブデンが設立された十数年ほど前から働いていれば、そのぶん毎川も歳を食い、おいそれと転職できる状態ではなくなっていた。
「懐かしかったんだよね」
 ガクランは、自分の親と同世代であろう毎川の話を不思議な気持ちで聞いた。ロックはおっさんの昔話に興味はないといった態度を取りつつ耳を傾けていた。
「それこそ、私が君らくらいの年の頃だよ。ああいう、かわいらしい衣装着て、瑞々しく歌って踊る女の子が人気だったんだ。アイドルって呼ばれてた。歌手と呼べるほど歌が上手いわけでも、ダンサーと呼べるほど踊りが上手いわけじゃない、だけど、その存在に癒やされたり元気をもらってるって人がたくさんいたんだ。大ブームだったんだよ」
「ああ、なんか夜中のドキュメンタリーでやってたの見たかも」
 話に興味のないふりをしたロックが合いの手を入れた。
「ブームだったんですか?」
 軽く前のめりになりながらガクランが訊く。
「そうだねえ。みんなでアイドルの真似をして歌ったり踊ったりした動画をネットにアップしたり、アイドル志願者が多くてあちこちでオーディションが行われてたり、それこそ晴香ちゃんみたいに路上で歌ったりするコもいた。猫も杓子もってああいうの言うんだなって思ったよ」
 古き良き時代を思い出すように静かに語る毎川に、ガクランは一段と目を輝かせる。
「アーカイブとか残ってないんですか?共有して見せてくださいよ」
 ここでいうアーカイブとは、ネット上に個人が保存した画像や動画などのことである。そうした情報はモリブデンを介してネカラーで共有できる仕組みになっている。毎川の若いころのように、個人のデータをメモリーカードや光学ディスクに残しておくという習慣は無くなっていたし、そうした物理記憶媒体は個人消費者向けの生産を終了しており、手に入れるのは困難だった。
「持ってないんだよ、残念ながら」
 毎川はさびしそうに言い、ガクランはあからさまにしょげた。
「モリブデンが出来る前にアイドルブームが終わったから、ネット上にはないし、あるとすれば、晴香ちゃんが持ってたみたいに、昔のコンピュータと昔の記憶媒体ごとまるまる持ってるのしか無いだろうねえ。仮に今ネットにアップされていたとしても、そこに辿りつけないと思うし」
「そうなんですか?」
 ガクランの疑問に、ロックは視線をあさっての方向に向けたままうなづいた。そのロックに気づいた毎川は、体を軽くガクランの方に向けて説明をはじめた。
「アイドルブームの頃、晴香ちゃんみたいな高校生とか、中学生とか、あるいは小学生までもが、アイドル活動をしていたんだ。そういう小中学生のアイドル、と言うか、未成年のアイドルはマスコミでも活動していたし・・・昔はネットよりマスコミの影響力が強かったからね。華やかで、かわいらしくて。男の子も女の子もアイドルに憧れていた」
 説明が長いと思ったのか、ロックは二人に背を向け、夜空を見上げる仕草をした。
「だけど、ブームが終わるときってのはいつもそうだけど、アイドルが増えすぎちゃったんだろうね。みんながアイドルになれる時代は、素人がアイドルを名乗る時代でもあったんだ。だれでもなれるという存在に価値を見出す人はどんどん減っていくし、アイドルって存在自体が子供のお遊びみたいに思われて、人々からも企業からも忘れ去られていったんだよ。そういう存在、みんなが気にとめない存在、儲からないコンテンツは、今の社会では最初から無いものとして扱われてしまう」
「モリブデンやらかなあ。ワイらは、食べもんも旅行先も映画も音楽も、み〜んなモリブデンの手のひらの上や」
 ロックはくるりと体の向きを変え、視線をガクランに向けたまま毎川に言った。ガクランは、ロックが自分のほうを見て毎川に話すので軽く戸惑った。が、ロックのいう意味はだいたいわかった。
「・・・モリブデンですもんね」
 モリブデンは毎川の働く会社名であると同時に、その会社が提供するサービスやシステムの総称でもある。モリブデンは、利用者が首に装着するネカラーを介し情報を収集し解析して、利用者に最適な情報を提供する。ネカラーは利用者の視覚や聴覚はもちろん、脳波や心拍数、現在地や移動距離、行動パターンなど、個人にまつわるおよそすべての情報を集めている。ペルソナも、そのような個人の情報を元に、利用者が最も好むよう最適化された仮想人格を利用者の視覚と聴覚に送り込む。ガクランだってその原理は知っている。モリブデンは、ネカラーから得た情報を元に、例えば、利用者の食べたいものにもっとも近いメニューのあるレストランを知らせたり、人混みが嫌いな利用者であれば空いてる道を案内したり、もちろん映画や音楽のオススメ、利用者に必要だとモリブデンが判断したニュースも知らせる。ネカラーは利用者がネットで検索する手間すら省いたのだ。そしてそれは同時に、利用者に何を知らせないかをモリブデンに委ねることでもある。過去の行動パターンから利用者の好みや興味を解析しているため、それ以外、すなわち利用者が今まで出会ったことのない情報とは隔絶されていた。
 これはモリブデンの弱点としてサービス開始当初から指摘されていたが、それを超える利便性を感じる消費者が多かったため、また、電子マネー決済システムも兼ねていたためネカラーはあっという間に普及し、首都圏に住む人はほとんどネカラーを装着していた。その膨大な情報がモリブデンの提供する情報の精度をさらに上げ、利用者の満足度はどんどん上がっていった。
 そしてモリブデンもう一つの特徴は、膨大な過去のデータを解析することで、利用者にとって新鮮に感じられる情報を生み出すこともできるようになったということだ。映画や音楽など娯楽面においては特にそれが顕著で、過去の様々な娯楽とそれがどのように売れたかの膨大な情報を高度に分析することで、あたかも新作に感じられる映画や音楽を提供できるようになった。それらは確かに過去の要素からできたものであるが、利用者にとってそれは心地よいものでもあった。独自性や斬新さより、より大多数に支持され売れる娯楽が求められ、実際にモリブデンのデータからそれらは作成され、提供されていた。
 そのため、一時期のブームが去り過去のものになったアイドルという文化は“売れないコンテンツ”とモリブデンに判断され、その情報が提供されることはない。モリブデンが提供しなければ、人々がその存在を知ることは無いだろうし、偶然知ったとしても、モリブデンとネカラーによりもたらされる他の膨大な情報に埋もれ、忘れられてしまう。
「あのコがネカラーしてないのは奇跡みたいなもんやで」
 ロックはそれだけ言うとその場を去り、電動バイクの高めの機械音とともに夜の街へ走りだしていった。
「ボクは・・・晴香ちゃんに出会って、生まれてはじめて受けるような感覚に心が響いたんです。ペルソナじゃない、本物に出会えたんだ、自分だけの感覚で見つけることができたんだって」
 ガクランがポツリ、ポツリと言った。
「そういう感じ方は、大事だと思うよ。大切にした方がいい」
 モリブデンで働く毎川は忸怩たる思いをしながら、そう言うのが精一杯だった。ガクランと別れ自分のアパートに向かう間、ガクランの言葉と、それに対する自分の言葉を反芻していた。ガクランのような気持ちを、はるか昔、自分も感じたことがあったような気がしたからだ。コンビニに入り缶コーヒーのブラックを買う。手のひらをレジにかざして会計を終える。これもまたネカラーそしてモリブデンの機能だ。今の世の中なんでもかんでもモリブデンだ。自分に至っては仕事までも、と毎川は思うに、うんざりした気分を紛らわそうと缶コーヒーを飲んだ。苦いだけであまり美味いとは思えなかった。


 遠井晴香は路上ライヴを続けた。見たことある人、繰り返し来てくれる人が少しずつではあるが増えていき、ファンと呼んでいいのかな、とうれしくなった。
「こないだビラもらったから気になって」
「知り合いが教えてくれて」
「サロン見て来ました!かわいいっすね」
 いろんな声をかけてもらえるようになった。とはいえ絶対数は少ないし、それぞれ各々が毎日新宿に来るわけではない。晴香から同時に見えるファンとしての数は数名といったところである。それでも、道行く人でも徐々に立ち止まってくれる人数が増えたりして、それが一人で歌う晴香の心の支えだった。
 祖父を亡くし上京した晴香は東京のアパートでひとり暮らしをしていた。
「いってきます」
 毎朝、誰もいない部屋に向かってそうつぶやき、学校へ向かう。自分で作った、自分のためだけの弁当を持って。学校では可もなく不可もなくという感じである。昼休みにはクラスメイトと一緒に昼食をとったり、屋上でバレーボールをしたり、たまには授業中に居眠りをしたり。その意味ではありふれた高校生活だが、決定的に違うのは、晴香がネカラーをしていないことだ。クラスメイトたちはみなネカラーで連絡を取り合ったり情報交換したりしている。授業中こそ使用を禁止されているものの、ネカラーを持ってない生徒は極めてまれであった。保護者のいない晴香はネカラーの契約ができなかったが、それは幸運だったかもしれない。仮にネカラーを使いネット上で陰口を叩かれるようなことがあったとしても、晴香には知りようがないからだ(無いと思うが)。クラスメイトたちは、モリブデンにない情報は存在しないと思っている。そのため、晴香が路上ライヴをやっていることを知られてなかった。晴香の心境は複雑だった。いずれは話したい。自分の夢を、仲の良い友達だけにでも話したい。しかし、そもそもアイドルが何かから話さなければならないし、ネット上でもマスメディアにもアイドルが存在しない今、言葉で伝えるのも難しい。ならば、自分が母のようなアイドルに、人々に夢と希望を与える存在になれれば、自分から話さなくてもいずれ見つけてくれるだろうし、そうなるように活動しなければ、と考えていた。
 学校が終わると、掃除当番でもなければ足早に学校を出て自分のアパートに戻り、普段着に着替え、用具一式を詰め込んだキャリーバッグとともに新宿へ向かう。それが晴香の日課だった。
「遠井晴香です!歌って踊れるアイドルを目指しています!よろしくお願いします!」
 自分で言ってて、アイドルってみんな知らないんだよなあ、とは思う。ならば、自分の有り様でアイドルが何かを示していけばいい。母に少しでも近づきたい。夕暮れの空を見ながら思うのである。歌う場所があること、認められることがうれしい。今は、それだけだ。
 とはいえ、路上ライヴという性格上、必ず同じ場所、同じ時間でできるわけもなく、時にはお巡りさんに注意され、中止せざるをえないこともある。晴香は、せっかく自分に興味をもった人も何度もライヴを観たりできず次第に忘れられるのではとの不安や、今自分の歌声がどのくらいの人に届いているのかという手応えの部分での戸惑いはあった。
 そんな時、ライヴハウスの人間にライヴに出演してみないかと声をかけられたのだ。声をかけてきたのは新宿歌舞伎町のライヴハウス「エンジン」を経営する松山ヒデコという女性であった。晴香の倍以上あろうかという体格の良い中年女性だ。人当たりが良く、晴香もライヴ出演に誘われてその場でオーケーしてしまった。
 後日、路上でライヴハウスに出演することを告知した時、ガクランは喜び、サロンを経由して情報を伝えた。ロックは無言でうなづくだけだった。晴香のことを松山ヒデコに知らせ、ライヴに出してくれるよう頼んだのはロックであったが、そのことは晴香に知らせないように頼んでおいた。恩着せがましくなってしまうのが嫌だったからである。
 路上でライヴハウス出演の発表がされた夜、毎川はその場にいなかった。その日は就業後に上司から呼び出されていたのだ。
 いつもどおり定時に仕事を終えて帰ろうとするところを上司に呼び止められた。
「毎川さん。そろそろ契約の更新時期なんで、少しお話いいかな。一番奥の会議室で待っててください。あ、ネカラーは外したままで」
 早く退社して晴香の路上ライヴ観に行きたいとは思うものの、契約の話となれば応じないわけにいかない。仕事中はネカラーを専用のロッカーに閉まっておく決まりになっているので、サロンの情報もチェックできない。毎川は早く帰りたい様子を隠すべく無表情を装って一番奥の会議室で座って待った。
 十五分くらいして、上司が特に急ぐ様子もなく現れ、毎川の正面に座った。会議室はそれなりに広く、一人で待つにも二人で話すにも不釣合いだった。
「えー、おまたせしました」
 上司は、持ってたいくつかの書類を机の上に広げ、おそらく契約書であろう書類を手に持ち、それを見ながら話し始めた。
「毎川さん。毎川喜助さん」
 あらためてフルネームで呼ばれると、嫌な予感しかしない。
「そろそろ契約の更新時期ということで、今こうしてお時間をもらってるわけですが、ご希望としてはいかがですか」
 上司が平坦なトーンで丁寧な敬語だったので、なにか脅迫されてるような気もしないではないと思いながら、毎川は継続して働きたい旨を伝えた。もはや転職できる歳でもなし、給料が安かろうと契約社員の身分であろうと、今の仕事を自分から辞めるわけにはいかない。
「なるほど。それでですね毎川さん、正社員で働いてみる気はありますか」
 毎川は耳を疑った。この歳で正社員になれるならこんなにありがたいことはない。
「カンパニーの部署で空きがありましてね。毎川さん、ご自分でコンピュータ技術者の資格を取得したり、日々の業務も非常に前向きに取り組んでおられますし、今回、仕事を覚えているベテランさんがいいということで毎川さんにお話を、ということでして」
 カンパニーとは、モリブデン本社のことである。社内では、サービスとしてのモリブデンと法人としてのモリブデンを分けるため、モリブデン本社のことはカンパニーと呼んでいた。そのカンパニーに、正社員として勤めることができるという。おっさんと呼ばれる年齢になり、少しでも生活を向上させようとコンピュータ技術者の資格を取ってみたりしたものの、結婚する相手がいるわけでなし、両親はすでに他界。一人で生きていけると思ってはいても将来に対する不安を常に抱えてきた毎川にしてみれば、断る理由はない。
「毎川さん、D案件を対応した経験がありますよね」
 モリブデンが立ち上げ当初でまだ従業員も少ない頃、毎川も何でも屋のようにいろいろな業務を担当した時期もあった。その中の一つがD案件だ。もっとも、端末上の操作を行っただけで、D案件がモリブデンにとってどのような事なのかは知らない。
「毎川さんに今回お話したのはD案件の経験者ってこともありまして」
 毎川が今担当してるのは、利用者がかけてくる苦情の電話対応だ。どんなに科学技術が発達してもこれだけは人間が対応しなければならない。そもそも今どき音声通話で苦情を言ってくるのは“苦情を言わないと気がすまない人たち”だ。そういう利用者に人工知能による合成音声で対応したら、機械にあやまらせるとは誠意が無い!と、さらなるクレームとなりかねない。そういう仕事だから、毎川は慣れたというかある意味負の感情がマヒしてしまっているものの、気分の良いものではない。その業務から開放され、そしてようやく正社員になれるのだ。毎川は応諾した。それ以外の選択肢など、なかった。
 毎川は退社してネカラーを首に装着しサロンの情報を調べると、今日の路上ライヴは終わったこととともに、ライヴハウス出演の話題も知った。今日は路上ライヴ見れなかったが、自分にも晴香ちゃんにもいい知らせの日だった、と毎川は勝手に納得した。
 そして、遠井晴香がライヴハウスに出演する当日となった。
 ライヴハウス「エンジン」は新宿歌舞伎町にある。かつて日本一の歓楽街と呼ばれた歌舞伎町も、現在は再開発にともなう“クリーン化”が進み、親子連れやカップルで賑わう街となっていた。だがそれは大通りに面した場所だけの姿で、路地を一本入ると、昔ながらの夜の街が顔を出す。モリブデンがネカラーで提供する情報には地図も含まれている。それは各店舗がスポンサーのような形で料金を払うことで店舗情報が掲載され、利用者に情報が提供される。誰が強制したわけでもないが、ネカラーが普及した時代においては、モリブデンのマップに載ってないということは店舗が存在しないも同義であった。だが、エンジンはモリブデンのマップに載ってない。ガクランはネカラーを操作しながら焦った。まさかモリブデンのマップに載ってないなんてことはなかろうと思い、事前に場所を調べてなかったのだ。梅雨明けした空からは容赦なく日差しが照りつけ、ガクランの額からは暑さと焦りでだらだら汗が流れていた。エンジンの場所は、晴香が配っていたビラに載っている手描きの地図だけが手がかりだった。しかし、ネカラーで場所を探すことにすっかり慣れてしまったガクランは、出口のない迷路をさまようようにエンジンを探して歌舞伎町をうろうろした。そうして、路地裏の、まさしく夜のお店の入口で、ガクランは毎川の姿を発見した。
「毎川さん!」
「おお、ガクラン」
 涼しい顔で返事をする毎川に、エンジンを探して迷い歩いた疲れからか、いらだちをぶつけてしまった。
「何やってんすか!こんなところで!」
「なんで怒ってるの。入らないの?」
 毎川は地下への入口となる階段へ入ろうとしていた。そこには確かに「ENGINE」という表記と、斜め下への矢印がひっそりと書かれていた。
「・・・ここすか?」
 ガクランは、毎川が特に労せずこの会場へたどり着いたことを理解し、気が抜けてしまった。
「だろうねえ」
「・・・なんでマップに載ってないんですか〜」
 ガクランはすっかりくたびれたという声を出した。
「歌舞伎町も歴史のある街だからね。表立って出している情報通りってわけにいかないところもあるんだろうさ」
 そう言って毎川が階段を降りていくので、ガクランもあわてて後に続いた。夜のお店の地下へ入るのは一瞬とまどったが、エンジンがここなら入るしかないのだから、ガクランは見なかったことにした。
 階段を二階分くらい降りると、開けっ放しになっているドアがあり、中からはロックと女性が会話する声が聞こえてきた。毎川とガクランがゆっくり中へ入ると、ロックとハンプティダンプティみたいな女性がなにやら話していた。ロックが先に入っていたことにも、中で談笑していたことにも驚いて「ロックさん何やってるんですか」と問うガクランであった。ロック曰く、このライヴハウスの主であるハンプティダンプティこと松山ヒデコと知り合いで、今日は手伝いで受付をやっているということだ。ロックの前にある机には、何枚かの紙とペン、そして最近ではめったに見かけない申し訳程度のカギが付いた持ち運び用の金庫。そこにはこれまた最近はめったに見ない釣り銭用の現金が入っていた。
「んじゃ、遠井晴香で二人ね」
 誰を観に来たかをチェックしているらしく、ロックは机の上にある紙に正の字で客の数を数えていた。
「現金持ってきた?」
 事前に精算は現金のみと告知されていたので、毎川もガクランも久々に現金を用意してきた。
「現金使うのとかすげー久しぶりなんですけど」
 ガクランは中学生になる頃ネカラーを買ってもらい、それ以来買い物は全てネカラーを介した電子マネーで行ってきた。毎川も、現金使うのいつ以来だろうなあと思いつつ支払った。
「ごめんね〜。ここ電波とどかないよの」
 松山ヒデコがおかめみたいな笑顔で言う。
「外せや。犬やないんやから」
 ロックは首から外したネカラーを人差し指にひっかけてクルクル回していた。確かに、二人の視界にはネカラーから圏外を知らせる文字情報が表示されていた。毎川は仕事柄仕組みも知っているし、ネカラーが無かった時代のことも知っているからこんなものかと思うが、ガクランは心底驚いた。ネカラーを使えない場所が新宿のど真ん中にあるなんて、と。二人はネカラーを首から外した。
 そういえば、と毎川は店内を見渡し、このライヴハウスとやらもだいぶ時代錯誤感があると感じた。申し訳程度の高さと広さしか無いステージ。電源が入るかどうかもあやしそうな年代物のカラオケセット。一般の喫茶店ほどの天井の高さには不釣り合いなほど大きなミラーボール。フロアには丸い椅子がいくつも並ぶ。ステージの向かいにはソファとガラステーブルがありその周りを観葉植物が囲んでいる。ライヴハウスと言うよりカラオケスナックだな、と思った毎川はこの光景やカラオケスナックという言葉を検索しようとしたが、ネカラーは使えないことにを思い出したので、ガクランとともに店の奥へ進み空いていたソファに二人で座った。店内には、路上ライヴで見たことのある人も含め、十人そこそこの客、二十人まではいないと見え、店の広さのせいかガラガラに感じられた。ガクランはもちろん、毎川にとってもこのような『ライヴハウス』ははじめてであった。ガクランが、やばいっすねえ、どうなるんすかねえ、などと言うのに相槌をうっていると、店内がふっと暗くなった。はじまるらしい。
 会場の中でただ一カ所明るく照らされたステージに、何の前触れもなく子供としか言いようのない年頃の女の子が登場した。小学生高学年であろうか。ストリートダンサーみたいなカッコをしてディスコサウンドをBGMに激しく踊ってるが、やはり子供である。たぶん上手いのだろうが「それがどうした」感が強く、毎川は内心困った。
 曲が終わり、ダンス子供が引っ込むと、今度は時代遅れのボディコン姿の中年女性がマイクスタンドを持って登場した。それこそライヴハウスと言うよりカラオケスナックが似合う風情で、何曲かを熱唱した。熱唱としか言い様がない、というか、暑苦しかった。そのうちの一曲「ワンダフル・ガイズ」は、昔の人気テレビドラマ「西部警察」のテーマに歌詞をつけたもので、毎川もメロディだけは知っていた。それを暑苦しく歌うので毎川は内心苦笑していたが、隣のガクランは何がなんだかわからないという表情だった。毎川と目が合うと、ヤバイものを見た、という表情をして、再びステージ上に視線を戻しつつ、意識は宙を舞っていた。
 ボディコン中年女性の出番が終わり、マイクスタンドを持ってステージを去ると、ようやく晴香の出番となった。晴香はいつもの衣装を着て、しっかりとした足取りでステージに立つと、緊張からかややこわばった顔をしてたが、イントロが流れだすとスイッチが切り替わったかのように晴れ晴れとした表情となり歌い出した。十数人の客は、静かすぎる場内をはばかってか、小さく手拍子したり、体を揺すってリズムをとったりしていた。ステージから離れたソファにいる毎川とガクランも、恐る恐る手拍子をしていた。手拍子の音がでかすぎると目立ってしまいそうだったからだ。
 そのような客側の雰囲気にもかかわらず晴香は歌いきった、ように見えた。が、晴香自身は、まさしく綱渡りのような心境であった。いつもの自分、というロープから落ちぬように、時にマイクを持たない右手をグッと握りしめたりしながら、バランスを取るように自我を保ち、危うい時は地下からは見えないはずの空を仰ぎ、自ら纏う母の衣装を心の支えに、ステージに立ち続けた。歌い終えた時の破顔一笑は、晴香自身がこれまで感じたことのないほど大きな達成感からのものだった。客から起こった小さな拍手は、やがて大きな拍手となっていった。
 何か最終回感のあった晴香のステージ後は暗転し、再びステージが明るくなると、そこにはさっきのハンプティダンプティがマイクを持って立っていた。文部省唱歌のような牧歌的なカラオケが流れだし、続いてハンプティダンプティがオペラ歌手気取りで歌い出した。たぶん歌は上手いのだろうが、それ以前に何がどうなってるのかわからず、毎川もガクランも言葉を失った。ハンプティダンプティこと松山ヒデコが数曲歌い終えると(晴香目当ての客にとっては罰ゲームのような時間だったことは言うまでもない)、ヒデコが晴香を含む他の出演者をステージに呼び寄せ、今日の感想なんかを一言ずつ求め、最後にありがとうございましたと全員で挨拶し、この日のライヴは終わった。
 ライヴ終了後は、出演者全員による握手でお見送りとなった。出口付近に、ダンス子供、西部警察、遠井晴香、ハンプティダンプティが一列に並び、客は順々に一人ずつ握手し、外へ出ることになった。晴香は、ガクランなど路上で見かけた客を見つけると、あ〜来てくれたんですねありがとうございます、とうれしそうにそして一段と強く手を握った。ガクランにとってはそれが何よりうれしかった。しかし握手したままでいると、ロックがその背後で「ありがとうございました〜」とダラダラ言いながら肩とか腰とかに手をポンポンとして進むよう促された。ガクランと毎川は握手列に並んだのが最後の方だったので、出口でロックと三人で軽く立ち話をした。
「あの・・・最後に歌った人なんなんすか?」
 ガクランが言いづらそうに小声でロックに訊く。
「あ、ここのオーナー。言わんかったかや。自分が歌いたくてライヴ開催してるようなもんやからなあ。あれでも昔は歌手だった言うてたで」
 絶句するガクランであったが、とにかくこうして晴香のライヴハウス初出演は終わった。ライヴハウスの主であるハンプティダンプティこと松山ヒデコもその歌声が気に入ったらしく、以後、レギュラーでライヴに出演することになった。
 毎週末エンジンで行われるライヴで晴香は歌い続けた。晴香の歌声は、少しずつ、着実に、聴く者の心を捉えつつあった。決して上手いわけではないが、印象に残る声質。これまた決して上手いわけではないが、心情を伝え歌の世界を表す表情や振り付け。さわやかな笑顔でありつつ、聴く人一人ひとりに訴えるような眼差し。晴香の決意がひたむきさとして全身から伝わるようであった。不思議なのは、聴いた人がその場では「ふ〜ん」程度に軽く思っていても、ライヴが終わり、家に帰って寝る前などふいに心が緩むとき、頭のなかに晴香の姿がもたげ、晴香の歌声が響く。そして気になって気になって、翌週のライヴにも行ってしまう。ネカラーにない存在との出会いは、自分だけの宝物のように感じられた。首都圏五千万人口のネカラーから得た莫大な情報をモリブデンが分析し出した答えではなく、計算の外にある、偶然だとか、運命だとか、そんなものを感じさせた。路上でビラをもらったり、人づてに評判を聴いたりして集まった人たち同士は、価値観を共有できる暗示的な仲間のようにも思えた。ネカラーでは見つけられない晴香を見つけたものだけが持ちうる、ゆるやかな連帯感が醸成されていくようであった。
 晴香が出演する週末のライヴを楽しみにする人は回を追うごとに増えていった。開演時間に来れば入れて後ろのソファでのんびり見れたのは最初の数回で、以後は客が増えるにつれ、後ろの席ではステージがよく見えなくなっていった。毎川は歌声が聴ければ良いと特に気にしなかったが、ガクランはやはり歌ってる姿が見たいと、開演時間よりずっと早めに来るようになった。そうしてなんとかステージに近い位置、晴香がよく見える位置を確保する。ライヴが始まり晴香の出番になると、ガクランの視界は晴香でいっぱいになる。ネカラーの電波が届かないこの会場では、自分の肉眼で見たものが全てだ。自分と晴香との間に何者も介在しない。モリブデンが分析し作り出したペルソナではない、今眼前にあるそれこそが真実であると、真実は不変であると、ガクランは信じた。
 晴香目当ての客がほとんどになってしまったので、松山ヒデコとロックは話し合い、いっそ晴香ワンマンライヴにしようということになった。むろん晴香は承諾した。会場内にもっと客が入るようにと、ロックはエンジンの改装に追われた。松山ヒデコと相談しながら、観葉植物を移動したり、ソファを片付けたり、飾り付けの照明を設置したりもした。ロックは、なんでいつの間にこんなことになってるんだろうと作業をしながら思うも、こういう形で自分が遠井晴香の役に立つなら、それはそれで悪くないと思った。バンド仲間とはすっかり疎遠になってしまったし、いつまでもというわけにはいかないだろうけど、今はこれでいいのだ、と。
 正社員となった毎川は、日々淡々と仕事をする日々を過ごしていた。音声電話のクレーム対応から開放され、データ調整の作業を担当するようになった。配属された部署の部屋には毎川を含め八名が同じ作業を行い、さらに一人、この部署のリーダー役で班長の野田がいた。野田班長は恰幅が良く、おそらく毎川と同世代であろうか。白髪交じりの髪をきっちり七三分けにし、夏場であってもネクタイをしっかり締めるような中年男で、一見人当たりがよさそうだが笑ってない笑顔が不気味だった。実際の業務では、セキュリティがこれまで以上に厳しかった。社内のネットワークに接続してるのは毎川の直属の上司となる野田班長のデスクだけで、他の者の机には、ネットワークとは切り離された旧式のデスクトップコンピュータがあるだけだ。朝、班長からカード型メモリで仕事を受け取り、自分の机のデスクトップコンピュータに差し込み、作業をする。仕事の指示もそのカード型メモリに入ってる。作業内容はメモリに記録される。退社時には作業内容の入ったカード型メモリを班長に返して退勤する、という日々だった。今までの仕事と比べ格段にストレスが少なく、これが正社員の仕事なのかと肩透かしをくらったようでもあったが、今はこの環境に満足している。週末には晴香のライヴにも行けるのだし、給料はあいかわらず安いけれど、それ以外はとりたてて不満もない。独り身の毎川にとっては、これ以上を望んでは何もかも無くしてしまいそうで、それが怖かった。
 いよいよ遠井晴香ワンマンライヴの日。彼岸を過ぎたというのに日なたでは汗が噴き出るほどの暑さだった。
 ガクランはやっぱり早めにエンジンの入口に付いた。店の準備があるロックが電動バイクに乗ってエンジンに着いたらもういたのだ。階段の入口でガクランは体育座りをして、精神集中するかのように一点を見つめていた。
「お前本当に早いな。お前しかおらんやん」
 バイクを駐輪スペースに止め、鍵をかけながらロックが言う。
「いや・・・やっぱワンマンだし、ちゃんと見たいじゃないですか」
 ガクランのその言い方がどこか子供っぽかったので、ロックは軽く笑った。
 日曜日。エンジンの周りは繁華街にしては静かだったが、二人の会話をかき消すかのように、白くて平べったいクルマがゆっくりと走ってきた。白いクルマは鋼鉄の獣がうめくような音をたてながら二人の前にすっと止まった。
「フェラーリや」
 ロックがそっとつぶやく。それが聞こえたのか聞こえなかったのか、ドアの窓が開いて男がこちらを向いた。ハンドルに手をかけたまま、もう一方の腕を窓枠にから出しつつ、だらしなく話しかけてきた。
「お兄さんさ、このへんでクルマ止められるところないかな。あたりの駐車場どこも満杯でさぁ」
 男の髪は肩まで伸びていて、長袖シャツをまくり上げた腕は毛むくじゃらだった。笑顔にもかかわらず、顔の深いシワから何か相手を恫喝するようなオーラを出しているようで、黒いサングラスと相まってガクランは怖かったが、怖かったからこそそれを悟られまいと、平気な顔を装った。一方、ロックは別の意味でビビった。この男は音楽プロデューサーのフェーン厚井ではないかと思ったのである。
「あ、そ、そうっすね。このへん言うか、ちょっと離れたところなら空きあるみたいっすけど」
 ロックは緊張しながら、ネカラーで周囲の駐車場情報を確認しながら話す。が、その答えにフェラーリの男は自分のネカラーを指で大げさに叩き不機嫌そうに言い返した。
「歩くのが嫌だから聞いてるんだけどさぁ。ていうか、君らエンジンの人?」
「あ、ワイはそうですが」
「ヒデコさんに言っといてよ。店用の駐車場くらい契約しとけって」
 そう言うと、白いフェラーリはグオオングオオンと男の不機嫌さを表すような音を立てて走り去っていった。その音がまた腹に響いて、ガクランは怯えた。
「自分でクルマを運転する人、本当にいるんですね。それにあのクルマ、ガソリン車ですよね。すごい音」
 ガクランは本物のガソリン車を見たのははじめてだったので、珍しかったと同時に、腹に響くようなクルマの音に恐怖を感じた。
「おまん、フェラーリも知らんのか」
 ロックは呆れたが、ガクランは自分がなぜ呆れられたかわからなかったので言葉を続けた。
「あの人、ヒデコさんの知り合いなんですか?」
「フェーン厚井やないか!音楽プロデューサーの!おまえ常識ないんなぁ」
 ロックにそう言われガクランはやや不服そうな顔をした。それを見たロックはケラケラと笑いながら店の準備のため階段を降りていった。
 エンジンでは、ガクランよりも早く来た晴香と松山ヒデコがリハーサルをしていた。ロックはそれを横目で見ながら、ステージの脇をパーティションと観葉植物で周囲から区切り即席の楽屋を作ったり、入口の受付に必要になる机やら書類やらを準備を行った。こんなカラオケスナックもどきの場所でリハでもなかろうとロックは思ったが、晴香の表情は真剣そのものだし、松山ヒデコもかつてはヴォーカリストだったらしく(本人は今でもそのつもりらしいが)指示は的確だろうと思わせた。実際、店がヒマな平日などは晴香が歌を習いにここへ来ているし。
 開場時間が近づきロックが階段を上がってくる頃には、客の列はガクランを先頭に終わりが見えないほど伸びていた。これは何事かとお巡りさんまで出てきていて、ロックは説明に追われた。なんとか開場し客を入れたら入れたで店内は満杯のキチキチになった。熱気で暑さがものすごく、冷房を最強にしても会場内は汗を拭く姿があちこちで見られる。ガクランは無事最前列を確保し開演を待った。開演直前に到着した毎川はなんとか入れたもののステージはほとんど見えない位置しか確保できず、この会場はほんのこないだまでガラガラだったのにと驚いた。その毎川とほぼ同時にサングラスの男が入場してきた。受付にいるロックに、だいぶ歩かされちゃったよ、などとこぼしながら、フェーン厚井と名乗ると、ロックが手元の紙をチェックし、どうぞ、と入場を促した。フェーン厚井。毎川世代にとっては有名なミュージシャンで、今は数々のアーティストをプロデュースしていることで知られている。そのフェーン厚井がなぜここにいるのだろう。などと考えながら、毎川はなんとか立つ場所を確保した。そこへフェーン厚井もするりと体を入れてきたので毎川はギョッとしたが、それ以上フェーン厚井を気にするまもなく、店内はフッと暗くなった。
 暗闇の中でステージが照らされると、晴香が静々とステージ上に現れた。それから、簡単な自己紹介やトークをはさんで、「風のセントローレンスシーウェイ」を含む昔のアイドルポップスから最近流行りのJPOPまで古今織り交ぜてカヴァーを十曲歌った。晴香はやはりここではじめて歌った時のように綱渡りをしている心持ちだった。ただその時と違うのは、自分はこの綱をしっかり最後まで渡り切ることができるという自信だった。それはどこからくるのか?今までこのステージで何度も歌ってきたからかもしれない。松山ヒデコによるレッスンの成果かもしれない。自分の歌を聴きにここへ来ている一人ひとりの力かもしれない。晴香がこれだけの人の前で歌うのははじめてであった。緊張してないと言えばウソになる。だが、一曲目には心臓が口から出そうなほどバクバクしていたが、二曲目、三曲目と歌っていくと、その緊張がある種の心地よさに変わっていった。硬直していた体も柔らかくしなやかになって、振り付けはよりエモーショナルになっていった。それを観た聴衆はまた心を惹かれ、手拍子や声援も大きくなっていった。それがまた晴香に力を与えて、と、あたかも元気のキャッチボールが行われているようでもあった。十曲歌い終えると、達成感からか安心感からか、晴香は急に疲れを感じた。客は拍手を惜しまず、最初パラパラだった拍手の音は徐々に大きくなり、いつまでも続くように晴香には感じられた。
「え、っと、ありがとうございます・・・」
 多少肩で息をしながらそう言い、マイクを持たない右手を胸にやり気持ちを落ち着けるような素振りを見せると、拍手はフッとおさまり、今度は晴香の言葉を一言たりとも聞き逃すまいという気持ちが店内にゆき渡り、汗の流れる音さえ聞こえそうなほど静かになった。
 その静けさへ慎重に足を踏み入れるかのように、晴香は話し始めた。
「今日は、あたしのワンマンライヴに、来ていただいて、聴いてくれて、ありがとうございます。あたしが・・・田舎から出てきたあたしが、東京へ出てきて、何にもなかったあたしが、今、こうしてステージに立って歌うことができるのは、今日こうして来てくださって、歌を聴いてくださるみなさんのおかげです」
 そこまで話すと一度深呼吸をして、また話し始めた。
「あたしは・・・」
 暗闇の中の聴衆一人ひとりに訴えるように見渡した。
「あたしは、幼い頃に両親を亡くし、たったひとりの肉親だったおじいちゃんも、上京する少し前に亡くなりました。母は、今のあたしぐらいの歳の時、アイドル、という存在だったそうです。シンガーほどに歌が上手いわけでも、ダンサーほどに踊りが上手いわけでもない、でも、アイドルの存在は、たくさんの人に笑顔と元気を与えるのだと、おじいちゃんは言ってました。父は、そんな母が好きで結婚したんだとも言ってました。おじいちゃん、母方のおじいちゃんなんですけど、母がメディアに出演した様子を保存してあって、母が無くなったあとは、お前のお母さんはこんなに素晴らしい存在だったんだよと、何度も記録したメディアを見せてくれました。そしていつか、あたしも母のような存在に、アイドルになりたいって思うようになったんです」
 一度視線を落とし、また深呼吸をすると、顔を上げた。
「だけど、あたしとか、みなさんの生きる今の時代に、母のようなアイドルはいません。それは、誰もそういう存在を望まないからだ、ということになってます。でも・・・あたしにとって母は素晴らしい存在だし、あたしも皆さんにとってそういう存在でありたいと思ってます。目指すべき背中が見えないというのは、やっぱり不安です。でも、あたしはあたしなりに、今の時代のアイドルっていうのを目指していきたいです」
 晴香が言葉を終えると、一瞬の静寂の後大きな拍手が起こった。やはり晴香には、その拍手は終わらないように思えた。
「ありがとうございます。ありがとうございます・・・。あたしは今まで持ち歌がないのでカヴァー曲を歌ってきましたが、今日は最後に、この日のために準備してきたあたしのオリジナル曲を歌います」
 聴衆からはウォオ!とかホゥ!とかカン高い声とともに、さっきよりもまた一段と大きな拍手が起こった。
「ありがとうございます・・・」
 晴香はこみ上げてくる涙をぐっとこらえる。
「母の作った詞に、父が曲をつけたものを、あたしに歌ってほしいとおじいちゃんが保存してました。おじいちゃんの話では、全くどこにも発表されてないそうです。これをあたしのはじめてのオリジナル曲として歌います。聴いてください。『青雲紀行』」
 バックトラックは晴香が持っていたデータを元にロックが作った。その厳かなイントロに晴香の澄んだ声が加わると、あたかも聴衆一人ひとりも曲に参加しているような感覚でエンジン全体が包まれた。明るさと儚さというやもすると相反する要素がひとつの曲になって、これまでのカヴァー曲とは明らかに違う空気で満たされていった。それをひしひしと感じつつ、かつ冷静に晴香を見つめていたのがフェーン厚井だった。すぐそばにいた毎川も気づいたが、手拍子するでもなくリズムをとるでもなく、会場の空気に呑まれずにステージの晴香をじっと見つめていた。
 晴香は歌いきり、アウトロでも残心をとる。わずかな静寂の後、エンジンにギチギチにつめられた聴衆からは全員の総意であるかのように喝采が起こった。むろん毎川も手が痛くなるほど拍手をした。その毎川が気づかぬうちに、フェーン厚井はその場を抜けだしていた。
 終演後は、晴香が一人ひとりと握手して見送る。路上で晴香を知った者、エンジンでのライヴの評判を聞き今日のライヴに来た者、知り合いに勧められて今日はじめて晴香のライヴに来た者、様々であったが、誰も皆にこやかでさわやかであった。無論ガクランも例外ではなく。まあガクランは最前で観てたせいかだいぶ舞い上がっていたが。
「あざす!あざす!最高っす!」
「ありがとう!ガクランさん前で見ててくれると安心するんですよ〜」
 こうして、会場に詰めかけた一人ひとりと握手や言葉を交わすことや、オリジナル曲を歌いきったことが、晴香の自信につながった。何者でもない自分が、なんにもないところを手探りでやってきて、霧の中を道しるべも無く歩いていたのが、ぱぁあっと晴れて道が明確に見えた、晴香はそんな気がしていた。
 遠井晴香のライヴが終わった数日後、営業開始前のエンジンに晴香は来ていた。松山ヒデコに呼び出されたのだが、晴香がエンジンに入ると、そこにはフェーン厚井もいた。晴香の今後について話したいと松山ヒデコが呼んだのだ。
 晴香にとって初対面であったフェーン厚井は、すっと右手を差し伸べた。よろしく、と響く低音で言われたので、晴香は両手で握手に応じ、反射的に、よろしくお願いします、と少しうわずった声で言った。
 数々のミュージシャンやバンドをプロデュースしてきたフェーン厚井は、遠井晴香もぜひプロデュースしたい、自分の会社である音楽事務所ブラーゼンから売り出したい、と言うのだ。
「確かに技術は拙いし、踊りだってギクシャクしてる。でもそれは練習すればいいだけのこと。それより、彼女の歌を聴いた時ね、震えたんだよ。背筋が。こんな拙い歌唱なのに、なんでこんなに響くだろう、会場の隅っこで人にもまれながら見てたのに、なんで心の奥底までに声が届くんだろうって。いっちゃなんだがこんなスナックを改装したろくな音響も照明もないこの場所で、ものすごい熱で心に焼き付けられるように印象に残ったんだよ。懐メロばかりうたってたかと思えば、今まで聴いたこともないような、あの、最後の曲、『青雲紀行』だっけ、今までいろんなミュージシャンを見てきたけど、こんな、頭の上に隕石が落ちてきたような衝撃は、ちょっと今まで無かったかもしれない」
 路上で歌い始めてから数ヶ月、小さなスナック、いやライヴハウスとはいえ、ギュウギュウの満員にできたこと自体が、遠井晴香の才能を証明していた。
「アタシのこともちょっとはホメてよ〜。歌のイロハもわからなかった晴香ちゃんにヴォイストレーニングしたのはアタシなんだから」
 松山ヒデコが、アタシ、の部分を強調しながら笑う。フェーン厚井はあわててヒデコに愛想笑いをした。
「いやもちろんもちろん。ヒデコさんの実力わかってますって」
 リラックスして会話する二人に、晴香はどういう顔をしたらいいかわからなかった。
「晴香ちゃんは、自分の才能をどう思っているのかな。一生ここで歌っていくつもりなのかい?」
 晴香は、自分は決断を迫られていると感じた。両親が事故で亡くなった時は流れるように祖父にひきとってもらい、祖父がなくなった際も、事前に祖父が準備してくれたように上京した。これは晴香がはじめて自分で決断する人生の分岐点かもしれない。
「ウチに来れば歌やダンスのレッスンもきちんと受けられる。もちろん無料だ。今はモリブデンに情報が無いみたいだけど、それだってウチにはパイプもある。君の歌声を、今よりずっとたくさんの人に届けられる」
 フェーン厚井が、ブラーゼンが、どれだけ有名なミュージシャンを売り出してきたかは、田舎者の晴香でも知っている。テレビでもネットでも(晴香がつないでたネットにモリブデンは含まれてないが)様々なミュージシャンが代わる代わる登場し、見ない日はないというほどだった。だがモリブデンで人気のそれらの音楽は、晴香が目指すような、母のような、祖父のデータメディアでさんざん見たような方向性とは違いすぎていた。それゆえにフェーン厚井は衝撃を受けたのだが。
 重苦しい、とまでは言わないが、不安と戸惑いがないまぜになったような空気が、紫煙のようにゆっくりと三人の間を漂っていた。そして、タバコ一本を灰にするほどの時間が経った頃、フェーン厚井は、よし、と大きい声を出し、帰り支度をはじめた。
「すぐには無理だよね。うん。急がない・・・と言いたいけれど、できれば返事は早めに欲しい。やっぱ流れとか勢いってのはあると思うからね。あと、正直に言えば、他の事務所にも取られたくない」
 フェーン厚井の口調は穏やかではあったが、その顔の、日本海溝のように深いシワからは、野心とも感じられる気が発せられているようだった。
「じゃ、いい返事待ってるよ」
 そう言うとのっしのっしと大股でエンジンを出ていった。階段を上がる足音も力強く聞こえた。
 この三人の話の一部始終を、ロックは店の準備、すなわちテーブルを拭いたり、床を掃除したり、グラスを洗ったり、観葉植物の面倒をみたりしながら聞いていた。耳に入ってしまった。目と鼻の先で晴香にとって大切なことが起こっているのに、自分はそれについて何もできず、それどころか存在すら無視されている。ロックは苛立ちと無力さを感じ、心のなかで苦虫を噛み潰した。


 松山ヒデコは遠井晴香のワンマンライヴが超満員だったのに気を良くし、毎週ワンマンライヴをやろうということになった。ヒデコは、フェーン厚井の誘いの件は活動しながらでも考えればいい、むしろそのほうがいいだろうと晴香に声をかけた。晴香も、なにもしないで悩んでいるよりは、動いて、自分の体で感じて決断したいと思ったので、毎週のソロライヴを承諾した。
 遠井晴香のウィークリーライヴ。ガクランはやはり最前で見たいと、早め早めにエンジンに来るようになっていった。しかし当然ながら前で見たいのはガクランだけでなく、その人数はライヴを重ねるごとに増えていった。ガクランがエンジン前に着いた時十人以上並んでる日があった。これでは最前で見れても舞台の端とかでやや見難いかもしれない。だから次の週にはもっと早く来る。それでも数人はガクランより先に並んでる。考えることは皆同じなのだ。今度こそと意気込んで始発電車で向かってみても、やはり何人かはすでにエンジン前に立っている。だいたい朝早くから並ぶメンツは決まっていたから、そんなことが毎週続けば顔見知りにもなるし、そうなれば無駄ないざこざを起こさずスムーズに並ぶことができる。早朝などは冷え込みも厳しく、使い捨てカイロをシェイクしたり、百円玉で買えるぬくもり熱い缶コフィ握りしめたりし、寒さに耐えて開場を待つ。そうして、日が高くなる頃には松山ヒデコやロックそして晴香本人も店に入り、あ、ども、今日も早いね、などと軽く言葉をかわす。それからまたさらに開場を待つ。暗い朝のうちから寒さに負けず並び、目指すのはしょぼいステージの最前センター。ここで晴香の歌ってる姿を見るのは、ガクランにとって、そして朝早くから意気込んで来たファンにとって、至上の幸せなのだ。ただガクランの場合は、自分よりずっと遅く来てリハなどを観たり晴香と言葉を交わせたりするロックのことがうらやましかったり、最初は同じファンだったのになんで俺はこんな朝早くから寒さに震えながら待ってなきゃなんだ、などと考えることもある。だが、並び仲間の他のファンから、いつもサロン見てますよ、情報助かってます、といった声をかけてもらえるのがガクランはまたうれしくもあり、ロックと己を比較しての惨めさよりは今の自分の立ち位置で感じる喜びのほうが大きかった。だから、ガクランは今のスタイルでついていけるところまでついていこうと思っている。
 ロックはロックで、いつの間にか照明やら音響やら雑用やらとすっかりエンジンの従業員になってしまい、本番も気が抜けない。最前でただひたすら晴香に熱視線を送るガクランがうらやましくもあったりした。
 毎川はと言えば、週末に晴香のライヴに行っては(のんびり行くのでいつも後ろの隅で見ているが)いやしともときめきともつかない言葉にならない感動を、一週間仕事に向かう糧としていた。頭の中が余韻でいっぱいだったりもするが、ようやく正社員になれたのだからつまらない失敗でクビになりたくない、と、気持ちを切り替え、次回のライヴに行けることを励みに仕事をする毎日だった。
 その毎川の仕事はといえば、笑顔を絶やさないが目だけ笑ってない野田班長からカード型メモリを受け取り、その指示に従ってデスクトップコンピュータで作業を行う日々だ。仕事の内容は、モリブデンが出力するデータの“調整”と呼ばれている。ネカラーによって集められた利用者の膨大なデータからコンピュータで導き出した結果に、いわば手心を加えることだ。例えば、ある企業が新製品を流行させたいとカンパニーに話を持ち込むと、さも新製品が評判がよく人気があるかのようにモリブデンの情報に細工を施すのだ。企業からは相応の報酬が入る。カンパニーの主たる収入源の一つだ。やりすぎればデータ全体の整合性に関わるため、他の情報への影響を加味しながら人間の手で行われる。企業や団体から“協力”を得ていることは利用者に開示はされている。隠していると違法になるからだ。とはいえ、個別の情報についてどの企業や団体が“協力”しているかは公開されてないし、利用者がこれを気にすることもまずない。ニュース番組のスポンサー企業をいちいちチェックする人がほとんどいないように。
 そのような作業に気がとがめることが無いではないが、そうしたモリブデンの仕組み自体は公になっているわけだし、何より今までの音声通話による苦情受付に比べれば、新しい靴を買ってもらった子供のように気持ちは軽やかであった。
 家族もなく、夜一緒に遊び歩く友もなく、収入も歳を考えたらとうてい多いとは言えず、相変わらずの賃貸アパート暮らし。休みの日にすることといえば晴香のライヴを観に行くことくらいだが、それは毎川にとって今最高の喜びだ。昼休み、正社員専用の社員食堂に向かう廊下で、今週末の晴香ちゃんのライヴ楽しみだなあなどと考えるとつい口元がゆるむが、中年男が一人でニヤついているのはどう考えても気持ち悪いので、毎川はぐっと口元を引き締めた。
 社食への行き方にもだいぶ慣れてきて、中央ロビーを通る近道を使っていた。その中央ロビーには、スーツ姿ながらネクタイの代わりにタオルのようなマフラーを首からかけ、全体的にフランクな雰因気のある男がいた。どこかで見た気がする。あれはフェーン厚井だ。間違いない。にこやかな表情をしながら獲物を狙うケモノみたいな迫力を感じさせるフェーン厚井だ。彼がなぜここに?仮にモリブデンカンパニーに用事があったとしても、彼ほどの人間なら、部下を使わすか、あるいはカンパニーの営業の方から出向くはずだ。何かあったんだろうか。
 フェーン厚井の経営する音楽事務所ブラーゼンは、ここのところ継続的にカンパニーとある話し合いをしていた。しかし折り合いがつかず、使いの者では埒があかないため、フェーン厚井自らがカンパニー本社に乗り込んできたのだった。
 フェーン厚井が通された応接室では、毎川の上司である野田班長が笑顔で待っていた。もちろん目は笑ってない。立ち上がってこれはこれはご足労おかけし恐縮です本件担当の野田でございますと挨拶をするも、フェーン厚井は「前置きはいい」とだけ言い放ち、ソファーにどっかと座った。固まった笑顔の野田班長も、では、とあらためて座る。
「二階から目薬さし合うようなやりとりにうんざりしたから俺が直接来たんだ。そちらも社長をだしてもらおうか」
 フェーン厚井は自分の立腹をアピールするように脚を広げ大げさにのけぞってソファに座った。
「申し訳ございません。本件に関しましてはわたくしがお受けするようにと社長から申し付けられておりますので」
 背を屈め揉み手をしながら話す野田班長の姿は、フェーン厚井の怒りを増幅させこそすれ、おさめることはなかった。
「なぜだ!お前らは、どんなニーズだろうと、首都圏五千万人口から集めたデータと世界最速のコンピュータですぐ解決するんじゃないのか。なんだって俺たちの仕事を止めるんだ。こっちはスピードとタイミングが勝負なんだぞ」
 野田班長はさも真剣に聞いているかのようにうんうんとうなづいて見せたが、笑顔で細くなった目は明らかにピントが合ってなかった。そして、フェーン厚井が怒りにまかせて言いたいことを言いつくした後で、おもむろに、そしてもう一度ソファに座りなおして、口を開いた。
「今回のお話に関しては、厚井様、ブラーゼン様にご迷惑をおかけし、大変申し訳なく思っております。ですが本件に関しては、すでにお伝えしておりますように、承りかねるというのが正直なところでございまして」
「一度受けた仕事を投げ出すってのぁどういう了見だ!」
 さっきよりトーンを上げたフェーン厚井に対し、野田班長は体をすぼめて、さも秘密の会話をするように低い声を出した。
「実は・・・そのコンピュータのモリブデンが、本件に関してノーを出しまして」
 意表を突かれた答えに、フェーン厚井は喉まで出かかった怒りを飲みこんだ。
「当初は、一般的な案件ということでお引き受けしたのですが、モリブデンがノーを、つまり、今回いただいた計画が他の案件とコンフリクトすると判断いたしまして」
 二人が話し合ってるのは、遠井晴香の売り出し計画のことだ。フェーン厚井は、これまで彼がやってきたように、モリブデンに料金を払い、市中にまわるデータを操作してもらって、遠井晴香は大型新人である、人気急上昇中である、注目すべきである、と装わせ、垂直立ち上げで売り出すつもりだった。そしてカンパニーも一度はその計画を受けたのである。それが、なにかにつけてああだこうだと仕事ができない理由ばかりをブラーゼンに伝えてくるので、業を煮やしたフェーン厚井がカンパニーに乗り込んできたのだ。
「他の案件、とは」
 少し落ち着いたフェーン厚井が、あらためて問う。
「モリブデンが持つ、全てのデータでございます」
「全ての?」
「はい」
 野田班長の顔から笑みが消えていた。その彼のどんよりとした黒目は、少なくともウソを言っているのではない、とフェーン厚井は思った。
 二人は黙ったまま見つめ合った。ポーカーで心理戦でもしているかのように。どれくらいそうしてただろうか、音がしないはずのデジタル時計からカチカチと音が聞こえるような沈黙が続いた。
「わかった!」
 そう言ってフェーン厚井は勢い良く立ち上がった。
「ご理解いただけて、誠に恐れ入ります」
 野田班長も立ち上がり、丁寧に頭を下げた。
「もうお前らには頼まん」
 フェーン厚井のその言葉の意味を、野田班長は理解しかねた。野田班長はゆっくり頭を上げながら、それはどういう意味か、という表情でフェーン厚井を見た。
「モリブデン様がそうおっしゃるってんなら、こっちはこっちで勝手にやるだけだ。やり方は他にもある」
 フェーン厚井を見つめる野田班長の黒目が、さらにどんよりさを増した。
「他に、とおっしゃいますと」
 野田班長はとりわけゆっくり問うた。
「モリブデンが、ネカラーが使えないってんなら、直接アピールするまでだ。路上ライヴだろうとビラ配りだろうとアドトラックだろうと。人間には目も耳もついてるんだ」
 フェーン厚井はそれだけ言い放つと、大股で歩いて応接室を出た。地下駐車場から白いフェラーリを駆って、金属の野獣が放つ悲鳴のような音を響かせてカンパニーから走りだしていった。その、今どき珍しく轟音を鳴らして走る白いクルマを、野田班長は会社の窓から見下ろしていた。
 確かに、テレビなどのマスコミも、街頭のビルボードも、そしてなにより人々が頼りするネカラーに配信する情報も、全てモリブデンを介しており、それが使えないというのは、宣伝も営業も事実上不可能ということである。だがフェーン厚井もモリブデンやネカラーが無かった時代を知る世代であり、その頃からのギョーカイの横のつながりはまだ残っている。ほうぼうに声をかけ、いろんなライヴハウスへの出演を決めた。また、すでにモリブデンに情報のある自分の事務所のアーティストとコラボを計画するなどして、モリブデンに情報を無視させないことを狙った。
 フェーン厚井はそれらの話を、地下のエンジンで一気に晴香に話すので、晴香はどういう顔をしていいかわからなかった。
「ほら、晴香ちゃん驚いてるじゃないよ。アンタいっつもそうなんだから」
 松山ヒデコが軽くあきれて笑った。
 晴香は、自分が知らないところで話がどんどん決まっていくことに戸惑いながらも、フェーン厚井に対し答えを出さなければと思っていた。
「君の歌声を、今よりずっとたくさんの人に届けられる」
 床掃除をしているロックを気にしながら、かつて言われたことを思い出す。
「趣味?」
 そう言われ晴香は、母のような歌手をめざしてるんです、と言った。母に近づくための一歩を踏み出す時、それが今か。晴香はゆっくり立ち上がってフェーン厚井を見た。
「あの・・・なんて言うか・・・よ、よろしくお願いします」
 晴香はサッと頭を下げた。
 フェーン厚井は会心の笑みをしたので、顔のシワが更に増えて深まった。
「いやあ!よかったよかった!オーケーオーケー、大船に乗ったつもりでいてくれ」
 そう言ってフェーン厚井は晴香の方を二、三度叩いた。晴香の小さな体は大きく揺れて軽く傾きそうになった。
「そんなこと言って。モリブデンに断られたんでしょ。どうすんのよ」
 松山ヒデコは心配気な声を出したが、フェーン厚井は気にしなかった。
「なに、俺だってモリブデンとかが出来る前から仕事してるんだぜ。その頃のやり方をすればいいだけさ」
 曰く、都内ライヴハウスへの出演だけでなく、自治体が運営する公共の施設でのライヴも考えてるという。
「さすがのモリブデン様だって、公の施設を利用するのに口は出せないだろうよ」
 実際、フェーン厚井は渋谷の野外ステージを借りることができた。そこで遠井晴香正式デビューライヴを派手にやると言うのだ。仕事の早さに晴香は驚いた。
 それらのことを、晴香は週末のエンジンライヴで自分の口からファンに伝えた。
 セットリスト全ての曲を歌い終えて、あとはシメの挨拶をするだけ、というタイミングで切り出した。
「ここで・・・あたしから発表があります!」
 晴香は語気を強めた。聴衆の一人から「ヤメナイデー!」という声がかかったが、晴香は無視した。
「あたし、遠井晴香は・・・」
 聴衆は息を呑む。時間が止まったかのような静けさだ。
「・・・音楽事務所ブラーゼンに所属が決まりました!今後正式デビューに向けて活動していきます」
 一瞬沈黙の後、聴衆から拍手と歓声が上がった。オメデトウ!という声も飛び交った。最前に陣取るガクランも拍手を送った。毎川は最後列あたり人に埋もれてその発表を聞いた。
 晴香は、デビューライヴを渋谷の野外ステージで行うことも発表もした。
「これまで以上にがんばっていきますので、よろしくお願いします」
 晴香が頭を下げると、再び拍手が起こり、それはいつまでも終わらないように感じられた。終わるけど。
 客退場時のお見送り握手会では、ファンからおめでとうの嵐を浴びる晴香であった。実はガクランはブラーゼンについては何も知らないが、みんなが喜んでるからきっといいことなんだろうと思い、晴香に笑顔でおめでとうおめでとうと繰り返し行った。電波の入る地上へ出たらすぐ検索するつもりだ。一方毎川は複雑な心境だった。晴香にそれを悟られぬよう笑顔でおめでとうを言ったが、退場案内をするロックを見つけると、耳打ちするように話しかけた。
「ブラーゼンって、フェーン厚井の事務所だよね」
「なんや突然。そうやけど。どないしたん?」
 いや、なんでもない、とだけ返事をし、毎川はそそくさとエンジンを後にした。
 毎川は、カンパニーで見たフェーン厚井のことがずっと気になっていた。が、その後数日、あるいは数週間たっても何も起こらないので、いつの間にかあまり気にしないようになっていった。
 ある朝、いつものように野田班長からカード型メモリが毎川らに渡された。いつも使っているカード型メモリは黒とか灰色とかあるいは暗めの青とか、いかにも事務用品みたいな色をしているのだが、その日毎川に渡されたカード型メモリは赤かった。他の社員はやはりいつもどおり黒とか灰色なのに、毎川に渡されたカード型メモリだけ赤かったのだ。野田班長からは特に何も言われなかったので、他の皆と同じようにカード型メモリをデスクトップコンピュータにセットし、仕事を始めた。カード型メモリに入っているデータを見て、他の皆と色が違う理由がわかった。
 D案件だ。
 毎川が正社員になれたのは、かつてD案件の処理をした経験があるからであった。そして今、毎川が操作しているコンピュータには、D案件を示す情報が表示されている。あの頃は、モリブデンの仕事を契約社員としてはじめた頃は、何がなんだかわからずにただ作業をした。
 だが今ならわかる。このD案件の意味するところが。
 同じカード型メモリには指令書も入っているが、その内容通りに作業をすると、ある特定の交通事故が起こる。
 今やモリブデンはネカラーを介して都市生活者のありとあらゆる情報を集め、分析し、利用者に送り続けている。そこには交通情報も含まれる。渋滞や工事の情報はもちろん、どこの誰が乗ってるクルマがどこに向かってどういうルートで走っているかといった情報も全てモリブデンは知っている。現在首都圏を走るほとんどのクルマはコンピュータによる自動運転であり、そのコンピュータが走行時に参照するのはモリブデンだ。だから、データを“調整”し、間違った情報を走行中のクルマに送れば、交通事故を引き起こすことは可能ではある。手動運転であってもドライバーが参照するのはネカラーに送られるモリブデンの情報なのだから、原理は一緒だ。
 これがD案件だと言うのか。
 毎川は不安を隠せず、野田班長に確認しようと班長の席を見たが、いつの間にかいなくなっていた。昼休みになっても戻らず、夕方になってばたばたと席に戻ったかと思ったら、そそくさと終礼をして、各人のカード型メモリを回収するとまたどこかへ立ち去ってしまったため、毎川はD案件のことを聞きそびれてしまった。野田班長に返したカード型メモリの中では、D案件は手付かずのままである。
 あれは何かの間違いなのか。それとも本当にあれがD案件なのか。明日になればD案件に手を付けてないことをきっと問いただされるであろう。どうしたらいい。どうしたらいい。タイムリミットは明日の朝までだ。
 退勤後、毎川は備品室へ行き、いつか晴香の前で使ってみせたネカラーの保守用端末を持ちだした。そして会社を出て、コンビニATMで現金を用紙したのち、ネカラーの電源を切り、駅で切符を買い秋葉原へ向かった。
 かつて家電の街あるいはサブカルの街として有名だった秋葉原も大規模な再開発の結果、今はビジネス街とされている。しかし歌舞伎町がそうであったように、秋葉原もまた路地一本入れば、かつての電気街やらを彷彿とさせるパーツ屋やらジャンク屋やらが並ぶ。そこを様々な人種が行きかい、様々な言語が飛び交い、表通りの清潔さとは裏腹の無国籍で混沌とした表情を見せる。
 日の落ちるのが早い晩秋、すでに暗くなった秋葉原の裏通り。毎川は、コントラストのはっきりした原色で彩られ何カ国語かで書かれたいくつもの看板を横目に、中古のコンピュータを扱う店に入った。以前コンピュータ関係の資格を取るため勉強していた時、過去の規格などを参照するためこのへんの店に出入りしてたのだ。毎川はそれこそ晴香が持っていたような古いノートパソコンと、システム保守に使う業務用プログラムを現金で買った。安くはないが、もうどうしょうもない。
 箱のないノートパソコンを裸で持ちせわしなく店を出ると、見知った電源のあるカフェに入る。コーヒーを頼んで席につき、ノートパソコンを起動させはじめた。規格も古く性能も低いため起動には時間がかかる。冷えた体にコーヒーを流し込んで少しあたたまった頃、ノートパソコンの画面が落ち着いた。無事起動したことを確認すると、毎川はネカラーの保守用端末を接続し、一緒に買った業務用プログラムをセットした。この首都圏のありとあらゆる情報を集めたデータを解析するプログラムであるモリブデンにアクセスするためである。当然ながらモリブデンには高度なセキュリティが施されており、並の方法では一般的な部分にしかアクセスできない。だが、毎川とてただ何年もモリブデンで働いていたわけではない。保守部門で働いていた経験もある。しかもモリブデンは高度なセキュリティが施されているものの、調整という名の改竄が行われることが前提のシステムだ。自分の知識と、今日見たD案件に関わる情報でモリブデンの奥に探りを入れる。さすがに簡単には入れない。だが手間取れば逆探知される恐れもある。だからこそ毎川はネカラーの電源を切り、自分の消息をモリブデン上から消し、モリブデンが認識できないような古いパソコンを使い、アノニマスなユーザーとして接続しているのだ。とはいえこの保守用端末がモリブデンに紐付いていることには変わりはない。モリブデンにアクセスするということは、こちらもアクセスされるということなのだから。
 急がねば。D案件の正体とは、なんだ。
 試行錯誤を繰り返し、ようやくモリブデン内部へのアクセスに成功する。毎川は、今日まさに自分が職場で見たD案件のファイルを発見した。そこから辿るようにモリブデン深くのデータまで照合し、その結論を導いた。
 それは、フェーン厚井の死を示していた。
 つまり、モリブデンは、交通情報を操作し、自動運転するクルマやフェーン厚井を含む自分で運転するドライバーのネカラーに間違った情報を送り、意図的に交通事故を起こし、フェーン厚井を殺そうとしている、ということだ。公道を走る車両に搭載を義務付けられたドライブレコーダには、それとわからぬようニセの情報が上書きされることになる。
 D案件のDはDEATHのD!
 ここで毎川が調べるのをやめれば、カンパニーを責めるだけで終われたかもしれない。しかし、毎川は吸い込まれるように情報探索を続けた。なぜフェーン厚井が死ななければならないのか。それを示す部分には“イレギュラー”と記されていた。その、イレギュラーを意味を調べるためさらに探索をすると、なんとそれは遠井晴香のことだというではないか。晴香はネカラーをしていないため、モリブデン上ではユーザーではなく情報の塊として扱われていた。その塊は、フェーン厚井や彼の会社であるブラーゼンが晴香に関わってることなどを示していた。さらに晴香には別のD案件が関連付けされていた。それは、晴香の両親の死である。晴香の両親も交通事故に見せかけてD案件で殺されていたのだ。そして当時その処理をしたのは、モリブデンの仕事をはじめたばかりの毎川喜助だと言うではないか!
 嗚呼!嗚呼!調べなければ良かった。調べなければ良かった!毎川はキーボードを操作する指を止め、何をするでもなく画面に目をやっていたが、表示されている内容はさっぱり見えなかった。大きく深呼吸をし(その呼吸も震えていたが)、コーヒーを一口すすり、自分を、落ち着け、落ち着け、となだめた。
 遠井晴香の両親を殺したのは、私だったというのか!
 わけがわからなかった。友も妻もなくおよそ一般的な幸せからは程遠い人生ではあったが、若いころを含め警察の世話になるようなことだけはせずに生きてきた。それは毎川にとって小さな小さなほんの小さな誇りだった。そして遠井晴香に出会えて、その歌声に、その笑顔に出会えて、ようやく生きてきて良かったと実感できたというのに、その両方をいっぺんに失ってしまった。しかも自らの行動で。知らなければ良かったものを!
 だが、知らなかったとしても、自分が晴香の両親を殺してしまったという事実はかわりない。毎川はノートパソコンを閉じて荷物一式を持つと、現金で会計をしてカフェを出た。外は冷たい小雨だ。濡れるがままに歩き、アパートに着く頃にはびしょ濡れになっていた。荷物を放り出し、シャワーを浴び、暖房をつけて、と、ここまでは自分でも驚くほど冷静であったが、ふっと気がつくと涙があふれていた。どうしろと・・・どうしろと!灯りを消して床についてもまるで寝ることはできず、結局朝になってしまった。
 また会社に行かなければならない。
 毎川は極力平静を装い、日常的な顔をして出勤し、いつもどおり自分の席に座り、朝礼を待った。野田班長がやってきて朝礼が行われ、これまたいつもどおりカード型メモリが各員に渡されたが、野田班長は表情一つ変えること無く毎川にグレーのカード型メモリを渡した。朝礼が終わり他の皆が席について作業を開始する中、毎川はどうしても訊かずにはいられなくて口を開いた。
「あの・・・私、昨日の作業が途中だったのですが」
 野田班長は、やはり表情一つ変えずに、ジッと毎川の顔を見て言った。
「ああ、あれ。もう済んだよ」
 もう済んだ。もう済んだ?するとなにか、あのデータどおり、フェーン厚井は死ぬ、いや殺されるということなのか?毎川が動揺を隠し切れないのを確認したかのように野田班長はうなずき、もったいぶりながら言った。
「ちょっと、外で話をしようか」
 野田班長は毎川を連れて社屋の屋上へ出た。港と、海と、陸側に都心の摩天楼が一望できる屋上は緑化されており、ちょっとした公園のようでもあった。晴れた日の昼休みにでもなればきっと社員がのんびり弁当を食べたり昼寝したりしているのだろう。この日は曇りであったが。
「毎川さんは屋上へ出るの、はじめてかな」
「あ、はい」
「そうだよねえ。ここ、正社員じゃないと来れないからねえ」
 野田班長はわざと説明的なトーンで毎川に言った。
 屋上には二人の他には誰もいない。ピュウと風が吹く。この季節、午前中早い時間の風は、冷たかった。
「D案件」
 野田班長はそれだけ語気を強めて言うと、毎川はギョッとした。
「君は経験者だというから任せてみたのだが、なぜ手を付けなかったのかなあ」
 この人は何をとぼけているのだ?それとも本当に何も知らずに単純作業だと思っているのか?毎川は図りかねた。
「あれでは、人が死にます」
 風の音だけが二人の間を流れた。
「そうだよ。D案件だからねえ」
 野田班長のその答えは、毎川にとって想定内であり、そして絶望的でもあった。
「なぜです」
「なぜって?仕事だからさ」
 野田班長は、心底その答えに疑いを持ってないようだった。リンゴは木から落ちるのが当たり前であるかのように。
「我々の仕事は、利用者一人ひとりに適切な情報を提供するのみならず、利用者そして社会全体を幸せにすることだ。そのために必要とあらば、誰かに死んでもらうこともやぶさかではない」
 毎川は驚きを隠せない。いやもう隠す必要もない。毎川はボリュームを抑えたまま声を荒らげた。
「本気で言ってるんですか!」
「ああ本気さ。人が人を殺すことは絶対悪ではないからね。社会の要求とあらば、そうもなろう」
 人を殺すことが悪でないという野田班長の言葉に、毎川はもう何がなんだかわからなくなりつつあった。
「何が悪で何が悪でないか。そんなものに絶対的な答えはない。だから、社会がそう望めば人が人を殺すことだってあるさ。戦争然り。死刑然り」
「そんな、極端な!」
「そうでもないよ。かつてこの国では交通事故で毎年何千人何万人も死者が出た。だがクルマにモリブデンが情報を提供することで安全な自動運転が可能になった。つまりモリブデンがたくさんの人の命を救ったのだよ。だから、そのモリブデンをこれからも維持するために邪魔な存在には消えてもらわなくてはならん」
「フェーン厚井が、モリブデンに何をしたって言うんですか」
 野田班長は大げさに驚いた表情をして、まじまじと毎川の顔を見た。
「おや。そこまで知っているのかい」
 毎川は言ってはいけないことを言ったんだと思ったが、もう引き下がれないと感じていた。
「正確には彼ではない。彼の手がけた仕事こそ、モリブデンの信用を脅かしかねない内容だったんだよ」
 晴香ちゃんのことか、と毎川の頭をよぎったが、それはすぐ確信に変わった。
「イレギュラーだよ」
 彼女が何をしたというのだ。
「この屋上からはね、海と街が見渡せる。このずっとずっと地の先までモリブデンがコントロールしているんだよ。利便性と、わずかなポイントバックとかに釣られて自らの行動を我々に差し出す人々をね。そうした人々の消費行動は我々の送る情報により誘導されている。だから企業はリスクの少ない経済活動ができるし、消費者はハズレを引く心配なく安心してモノやサービスに金を使える。趣味が他の人々と違うからと疎外感を味わうこともなく同好の士と出会うこともできる。健康と財布に気を使った食事だってモリブデンが教えてくれるし、電車や道路の混雑は事前に把握することで個人のダメージは最低限で済む。男女の出会いだって偶然に任せてなんてことをせずに、趣味や特徴に合わせた行動をとらせることができる。まあ当の利用者は自分がモリブデンの情報に誘引されているとは自覚してないだろうがね」
「それと人殺しと、なんの関係があるっていうんですか」
「だからだよ。今後もモリブデンが人々の信頼を裏切らず、社会と経済を回していくためには、モリブデンに予想できない消費行動は潰さなければならないのだ。モリブデンの外で動き回り人々を惑わすイレギュラーは、排除せねばならん」
 毎川は声を震わせた。
「そんな・・・ことのために」
 野田班長はわざと大声で反応した。
「そんなこと?そんなことって言えるかい?今モリブデンが無くなったら社会はどうなる?人々は行動規範を失い、晩飯に何を食ったらいいかすらわからなくなる生活になるだろうよ。仕事だって、恋人だって、子供の教育方針だって、今やモリブデン無しで自分で決断できる人間がどれほどいると?私や君のような、モリブデンが無い時代を知ってる世代でさえそうだ。若い頃からモリブデンに頼ってきた世代はどんどん社会に出てきている。企業だってモリブデンのデータを前提に事業計画を立てている。もはやモリブデン無しでこの社会は成り立たんのだよ」
「だからって、人を殺していいことなんて・・・」
 戸惑い気味に言葉を絞り出す毎川に対し、野田班長は即座に言葉をかぶせた。
「あるね。ちょっとした借金のために人を殺すよりよほど理性的だ。モリブデンがあるからこそ、交通死亡事故が減りたくさんの命が救われた。食生活は改善し健康増進により病気を未然に防ぐ。就職や転職に必要な情報を与え誘引することで人々はよけいなストレスやプレッシャーから開放され、精神疾患だって減っている。その礎となるモリブデンを維持するためなら、人の一人や二人殺すさ。ああ殺すね。私には迷いはないよ。そのおかげで私だってこの会社で働いていられる。モリブデンは完璧すぎてはいけない。重箱の隅はつつくために残しておくべきなのだ」
 野田班長はそこまで一気に言い切ると小さく深呼吸し、そして優しげに毎川に語りかけた。
「私と一緒に、これからも重箱の隅をつつく仕事をしてくれんかね、毎川君」
 その言葉には反応せず、毎川はあらためて訊いた。
「私が最初に手がけたD案件・・・あの夫婦はなぜ死ななければならなかったんです」
 野田班長は大きなため息をついた。
「そうか。そこまで調べちゃってるのか。しょうがないね。あの夫妻、というか奥さんは巻き添えだけど、遠井道則という男は、カンパニーの創業メンバーでありモリブデンを作り上げた中枢メンバーの一人だよ。彼はモリブデンを、この社会を司るような、人間を超越した人工知能にしようとしていた。感情に流されず、明確なロジックで動き、公正で平等なシステムを目指した。だがそんなものができあがったら困る人達がこの国にはたくさんいるんだ。モリブデンは手心を加えられるシステムでなければならない。そうでなければ新興ベンチャーだったカンパニーはこの国の権力者様に潰されてただろうし、ビジネスとして成功することもなかったろう。我が国は戦後百年、ずぅっとそうして動いてきたんだ。真実より現実。正義よりビジネス。臭いものにはフタをして結論は先送り。それが我がニッポンさ。かつて、進化しすぎた技術が人々の能力を超える時代が来るなんて言われていたこともあったが、人が作るものである以上、そんなことは起きないし、また起こしてはいけない。白河の清きに魚も住みかねてって言うだろ。なんでもかんでも理路整然とやればいいってものじゃない。重箱の隅は必要なんだ」
「それが・・・あの夫婦を殺した理由ですか」
 自分の弁舌を一言で返されて、野田班長の顔から表情が消えた。
「不満かい。そんなに納得出来ないなら、もうこの仕事は・・・正社員は続けれられないねえ。それどころかもうウチで働くことはできない。その歳で無職はつらかろう。さすがのモリブデンも、君にピッタリの仕事は探せるかどうか」
 その言葉にわずかに萎縮した毎川を見透かしたように、野田班長は毎川の両肩に手をかけ、さも優しげに語りかける。
「君さえ納得してくれれば、私は君に引き続き仕事を続けて欲しいと思ってるんだ。その歳にしてようやく手にいれた正社員の座じゃないか。社員食堂のご飯おいしいだろ。無料で毎日食べられるんだよ。これからはもっとうまいものだって食べられるし、ボーナスだって出る。君の経歴調べたけどボーナスもらったことないみたいだね。ボーナスはいいぞ。貯金だってできるし、そしたらもっといい所へ住めるかもしれない。経済的にも精神的にも安定した生活をしたいと思わんかね」
 この時、毎川の頭には晴香の笑顔がよぎった。そしてうつむき、目を閉じて、首を左右に振った。それを見た野田班長は毎川の両肩から手を離し、大きくため息をついた。
「そうかい。それは残念だね」
 野田班長は毎川を一瞥もせず、独白のように言葉を続けた。
「踏み絵だったんだよ。D案件についてその内容を気にせず、淡々と仕事としてこなせるかどうか。君がそうできていれば、我々の仲間として迎え入れることができたろう」
 そして今度は、表情を変えず、目だけで毎川を睨みつけた。
「だが君はそうではなかった。ならば、たった今ここで解雇だ。解雇予告手当は最後の給料と一緒に振り込んでおこう。せっかくの正社員の座を棒に振るとは、おろかしいよまったく」
 野田班長は心底蔑むように言うと屋上を後にし、毎川は一人取り残された。寒い風がピュウと吹く中、毎川は立ち尽くし大粒の涙が次々と頬をつたった。曇り空は、今にも雨が振りそうなほど黒々としていた。
 それからどこをどうしてたのか。毎川はネカラーを手に持って、すなわち外したまま、寒いかぜの吹く街をどこへ行くでもなくほっつき歩いて、結局自分のアパートへ帰ってきた。部屋には、昨日使ったノートパソコンと保守用端末が出しっぱなしになっていた。これを使わなければ、調べなければ、ずっと晴香ちゃんを見つめ続けることが出来たのに。正社員になんかならなければ。あるいは遠井晴香のことを知らなければ、何もなければ、何も起こらなかったかもしれない。しかし今は知ってしまった。彼女の両親を死に至らしめたのが自分だということを。これからどうすればいい。自分に何ができる。頭が混乱してるし、昨日から寝てもいないし、わけわかんなくなってきて、つい習慣でネカラーを首に装着すると、フェーン厚井が事故死したというニュースが飛び込んできた。
 一方の野田班長は自分の席に戻り、電話でなにやら釈明をしていた。相手は、カンパニーの総帥であり創業メンバーの谷川秀一である。谷川は遠井道則らとともにモリブデンのシステムを作り、またカンパニーを立ち上げて会社を大きくしていった。ビジネスに邪魔な遠井道則を殺すという決断をしたのは谷川であった。
「ええ、はい、すでに行っております。はい。次の手もうっておりますし、万事つつがなく進行しております。はい」
 毎川と話してた時の口調とはうってかわり受話器を持ちながら平身低頭し、ハンカチで汗を拭きながら話していた。イレギュラーの件を谷川に問われ、その進捗を説明していたのだ。野田班長は通話を終えると、あらためて汗をふき、イレギュラーを根本から排除する決意を強くした。


 フェーン厚井は交通事故で死亡したと報道された。白いフェラーリは大型ダンプと長距離トラックといういずれも手動運転タイプのクルマに前後を挟まれ、所々にブラッドレッドが彩られていた。フェーン厚井も含め関係者が皆手動運転だったため、人間の運転に起因する事故として処理されるだろう。ダンプとトラックの運転手はいずれもネカラーの情報に従っただけだと証言している。白いフェラーリを運転してたフェーン厚井は即死。彼のネカラーについて調べても、事故のショックでデータが消えている、とモリブデンが公式発表を行った。その場に居合わせた人々が撮影してネット上に流通していた事故の画像は残虐性が高いとしてすぐさまモリブデン上から消され、また人々の関心も日々次々に入るニュースへ移っていき、フェーン厚井事故死の話題は一週間とたたず昔話になった。
 そして、フェーン厚井プロデュースでデビューするはずだった晴香の周囲も一変した。ブラーゼンへの所属は無かったことになり、フェーン厚井により企画されていたライヴハウス出演やブラーゼン所属アーティストとのコラボは、公に発表される前に全てキャンセルとなった。ただひとつ、渋谷の野外ステージで行われるはずの晴香のライヴを除いて。これはフェーン厚井が独断で進めていたため、ブラーゼンのスタッフも詳細を知らず、中止か決行かを判断する立場に無い、ということであった。だが晴香のブラーゼン所属が白紙となった以上、実施されるわけがない。
 晴香は松山ヒデコの勧めもあり、これまでどおりヴォイストレーニングを受けるため新宿エンジンに通ってはいたが、そのショックは見るからに激しく、ヒデコもヴォイストレーニングというよりは、晴香を元気づけるために、精神的に安定させるために、店に通わせていた。それもあって晴香はかろうじて高校に通ったり、新宿エンジンに来たりと、日常的な生活を維持できていた。
 その日も、新宿エンジンでは晴香が松山ヒデコのヴォイストレーニングを受けていた。雑用係のロックは掃除やらなんやらをしていた。そこへ店の固定電話が鳴り、ロックがめんどくさそうに電話に出る。エンジンのように電波が入らない店に固定電話は必須であった。
 電話の主は、毎川であった。
「どしたんおっさん?」
「今、ロック一人か」
「いんにゃ。ヒデコさんも晴香ちゃんもいるよ」
「そうか。今エンジンの前っていうか上にいるんだけど、ちょっと話したいことがあるんだ。できれば晴香ちゃんのいないところで」
 ロックは地上に出てきた。入口では毎川が沈痛な面持ちで待っていた。その表情は寒さのせいだけではなさそうであった。
「おっさんどしたん?」
「まず、ネカラーを切ってくれないか」
 もう切ってるよと、電源オフのネカラーをポケットから出して指にひっかけクルクル回してみせた。毎川も電源を切ったネカラーを手に握りながら、これまでのことを話しだした。モリブデンは情報を操作して特定の人間を殺すことが可能であり、フェーン厚井の死もモリブデンによって事故に見せかけ引き起こされたこと。それを指摘した自分がクビになったこと。次にモリブデンが狙うのは晴香ちゃんである可能性が高いこと、など。自分が晴香の両親を死に追いやったことはさすがに言えなかったが。
「おっさん、疲れてるんやない?」
 話を聞いたロックの返事だった。一般常識レベルでモリブデンの仕組みは知ってるロックであったが、毎川の話はあまりに突飛すぎた。
「確かにモリブデンは情報をなんでもかんでも扱ってるけど、それでもそないなこといくらなんでも無理ちゃうか。それがホンマなら、今頃大ニュースになってるやろ」
「ニュースだって、モリブデンが選別して人々に流してるんだぞ」
「そやけどなあ・・・」
 ロックの態度が、この困ったおっさんどうしようかという考えを表していた。そう思われては、得られる協力も得られなくなる。毎川は焦った。そして思い切って、ロックの両肩をガッシとつかみ、頭を下げた。
「私のことはいい!頭のおかしいおっさんだろうとなんだろうと好きなように思ってくれ。だが、晴香ちゃんは守ってほしい。あのコに危険が迫っているのは間違いないんだ、信じてくれ!」
 その鬼気迫る口ぶりに只事でなさを感じたロックは、ひとまず晴香ちゃんの身の安全という点にのみ話を絞って松山ヒデコとも相談してみる、と答えた。
 そこへ半べそをかきながらガクランがやってきた。ライヴも無い日にロックと毎川が一緒にいることに多少驚きながら、二人ともネカラーの通信に出ないから、ロックさんだけでもいるかと思ってエンジンに来てみた、と力無く言うガクラン。
「サロンいきなり削除されたんすよ〜」
 ガクランが運営していた遠井晴香に関するコミュニティのサロンがいきなり削除されたのだ。ガクランの元には、利用規約違反のため、という判で押したような内容の連絡がモリブデンの運営から届いてたが、何のどこが違反したのかという点には全く触れられていない。利用規約は膨大なため、弁護士でもないただの高校生であるガクランが独力で読み解くのは事実上不可能であった。異議申立てをする手立てもあるにはあるが、それは裁判を意味しており、ガクランにとっては登山未経験者がエベレストに登るような無理さだ。自分がたったひとつ晴香を応援している証だったサロンの削除を、ただ悔しがることしかできなかった。毎川はますます事態が切迫していると感じ、ロックも毎川の言うことがあながち大げさでもないような気がしてきた。
 ロックは、モリブデンが人を殺すなんて話は松山ヒデコにとても信じてもらえないだろうと、フェーン厚井死亡の件で変なマスコミが寄ってくるかもしれないからしばらくヒデコさんが晴香ちゃんの送り迎えをしてほしい、その間の仕事は自分がやると言ってヒデコに頼んだ。ヒデコは、マスコミがどうこうなんて話よりは、ただ晴香が心配であったので承諾した。ヒデコはネカラーを持ってるものの、店に電波が届かないこともあって日常的にはほとんど利用してないのが幸いであった。
 こうして晴香はヒデコに送り迎えされるようになった。正確には、晴香の学校が終わった後、新宿駅で待ち合わせをして、一緒にエンジンまで来て、ヴォイトレのあと晴香のアパートまで送っていく、ということになった。道すがら、ヒデコが歌手だった頃の話なんかもした。若い頃から歌ってたもののパッとしなかったから自分には才能と呼べるものはなかったんだろうけど、晴香ちゃんの歌を聴きたいって人はたくさんいる、ネカラーに頼らず、みんな自分の意志で晴香ちゃんの歌を聴きに来る、そういう人たちがいてくれるんだから、と、ヒデコなりに励まそうとしていた。人生こういうこともあるって言えるようになるまでにはまだ時間がかかるかもだけど晴香ちゃんの人生はまだはじまったばかりなのだから、つらかったら今は休むのも大切なことだよ、と。
 ヒデコの気づかいが晴香にはうれしかった。晴香は人の死をはじめて経験するわけではない。だが幼いころ両親を亡くした時はよく意味をわかってなかった。昨年祖父を亡くした時はもう長くないと主治医からも祖父本人からも聞かされており心の準備をする期間があったため、もちろん悲しかったが覚悟はできていた。田舎の山間部から出てきて一年足らずの晴香にはいろんなことがありすぎて、そしてその前途にかかる橋がいきなり流されたようで、これが不安でないわけはない。
 ヒデコさんはああ言ってくれたけど、これから自分は歌っていけるのだろうか、歌ってよいのだろうか。晴香はそうも考えるようになった。
 夜、自分を送ってくれたヒデコと別れ、部屋に一人きりになると、どうしようもなく孤独感が襲ってくる。もう一人暮らしも慣れてきたはずなのに。窓を開けて外を見る。今日は晴れてたはずなのに、星がほとんど見えない。ぼんやりとした月だけが、空であることを示している。この空はふるさとにつながってるのだろうか。上京してまだ一年も経ってないのに、ずいぶんと遠い昔の事のように思える。もう生家には戻れないだろう。ホームシックになるホームが、無い。涙が出てきた。これではいかんと頭を振り、さっさと風呂入って寝た。
 そのような日々が続くうち、晴香が満員のファンの前で自ら発表した、渋谷野外ステージで行うライヴ当日がやってきた。この日は朝から雪が降っていた。積もったのは十センチあるかないかぐらいだったが首都圏にしては大雪だ。ネカラーには道路情報や駅などの混雑状況も配信されているため、人々は落ち着いて対応していた。それでも、電車は止まり、クルマはノロノロ運転で渋滞になっていた。
 東北の山間部で育った晴香にとっては雪など珍しくなかったため、いつものように学校へ行ったら休校だった。ネカラーを持ってない晴香には休校の連絡が届いてなかったのだ。晴香は雪のせいで静かになっている街を歩き、そのまま新宿エンジンに向かった。
 無職となった毎川も外出していた。何をどうということではないが、今日晴香が立つはずだった渋谷の野外ステージがどうなっているのか気になり歩いて向かっていた。雪は相変わらず降っていたが、車道はいつもより少ないとはいえある程度のクルマがノロノロ走り、シャーベット状になった灰色の雪が残りつつも、概ね路面は見えていた。だが毎川の歩く歩道はそのシャーベット状の雪ばかりが残って滑りやすくなっていたので、急ぐわけでもない毎川は一歩一歩慎重に歩いた。
 野外ステージは当然ながら人気はなかった。ステージには屋根が付いているため雪はほとんど積もってないが、オールスタンディングになるはずのフロアに該当する部分は真っ白だった。だがその真っ白い雪に足跡があり、それを辿っていくとちょうどステージ最前センターあたりに誰かが立っている。毎川は足跡をつたうように歩いた。
「ガクランじゃないか」
「あ。毎川さん」
 学ランの上からコートを羽織ったガクランは、寒さをごまかすためか小刻みに足踏みするような動きをしていた。
「学校は?」
「今日、休みっすよ。この雪じゃ」
 ガクランも毎川と同じく、なんのあてがあるでもなくこのステージに来ていた。
 今日のライヴについてブラーゼンからは何の発表もない。なにせ決定権者が急にいなくなったのだから。
 だが、フェーン厚井の死が報道され、ファン同士が情報交換する唯一の場所だったサロンも削除された今、晴香の歌声に耳を傾けてた人々が、毎日の情報の洪水に流されて、晴香のことを失念しても、それは普通の人の普通の生活というほかない。
「晴香ちゃんに出会ってから、まだ一年も経ってないんですよね。なんかすげえ昔から知ってるような気がしてるんすよ」
 高校生が昔からと言うのが毎川にはおかしかったが、軽く微笑む程度にとどめた。確かに、晴香に出会ってから、晴香の歌を知ってから、いろんなことがあったような気はする。二人で思い出しながら、あんなこともあった、こんなこともあった、と話し合いあっているうちに雪も止み、空には雲の隙間から日差しも見えるようになっていた。
「あ、ガクランさんだ。ガクランさーん」
 三人の若い男がガクランに声をかけながら近づいてきた。毎川は顔を知らなかったが、彼らも晴香のファンである。新宿エンジンの並びなどでガクランとは顔見知りになっていた。
「ガクランさん。サロンどうしたんすか」
「ブラーゼンからは何の発表もないし」
「ガクランさん死んだかと思いましたよ」
 若いといってもガクランよりは明らかに年上の三人は、ガクランの心配をしてるのを隠すように、わざと冗談めかした口調で話した。ライヴは無いだろうけど、諦めきれなくて記念にとここまで来たらしい。
 まいりましたよ、マジ死にたいっすよ、などとガクランも混ざって雑談をはじめたので、毎川はその場を離れようとした。実際問題、仕事も探さなくてはだし、ハローワークにでも行こうかと思った。
 そこにさらに、二人の若い女性が近づいてきた。
「あっほら、ガクランさんいるよ〜」
「ビンゴビンゴ。やっぱ間違いない」
 ガクランとも、先の三人の若者とも顔見知りらしい二人も、雑談に加わった。ライヴは無くてもここへくれば誰かに会えると思った、ガクランに会えて安心したというようなことを口々に話している。
 そうこうしているうちに、また二人、三人、四人と、やはり同じように、記念にとか、ガクランに会いに来たとか、なんか悔しいからとか、様々な理由で続々と人々が集まり、夕方には何百人という規模になっていた。お巡りさんに職務質問された者もいたが、誰が呼びかけたわけでもない、何の目的があるでもない、公園の中にある野外ステージにただ集まってるだけなので、お巡りさんもそれ以上何かする口実は得られなかった。
 毎川は、もしかしたら、という思いで、ステージから少し離れた場所にある売店の公衆電話から、新宿エンジンに電話をかけた。出たのはロックだった。毎川は野外ステージ前の状況をロックに伝え、今、晴香ちゃんはどうしてる、と問うた。
 晴香は、自分の不安な心情をヒデコに聴いてもらっていた。話している間だけは、平静さを取り戻せるからだ。ロックは、ヒデコに状況をかいつまんで説明し、ヒデコから晴香に今起こっていることを伝えた。
「晴香ちゃん、あなたを待っている人がいるのよ。きっとみんなも晴香ちゃんのことが心配なんだと思う。まやかしでもなんでもない、誰にあやつられているでもない、自分の心で決めて足を運んだ人たちが、本当の晴香ちゃんの姿を、晴香ちゃんの歌声を、待ってるのよ」
 ヒデコはゆっくりと、優しく、慎重に語りかけた。
 晴香は、もうずっとエンジンに置きっぱなしになっていた自分のキャリーバッグを開き、母ゆずりの衣装を手にとってみた。晴香は、ずっと母みたいな、アイドルという存在になりたいと願っていた。祖父が見せてくれた映像では、母は大勢の観客から声援を浴び、まさしくこの衣装を着て、ステージに立っていた。笑顔と元気をたくさんの人に届けていた。自分にそれができるか?その資格があるか?やはり今はまだそうだと断言することはできそうにない。だけれど、一度流されたと思った橋がたくさんの人々の手で渡ることができるのなら、前に進もう。一歩ずつでも前に進もう。
「ヒデコさん、あたし、歌います。歌いたいです」
 晴香はゆっくりと、そして力強く言った。ロックは会心の笑みを浮かべ指を鳴らすと、受話器の向こうの毎川に伝えた。
「おっさん聞こえたか?これから晴香ちゃん連れてそっち行くから」
 ヒデコが、えっ?と声を出した。
「ライヴの開演時刻ももうすぐやないですか。電車止まってるわ、クルマはノロノロ運転の渋滞だわ、ワイがバイクで連れてくのが一番確実や。それにあの会場には備え付けのPAと照明があるさかい、ワイ一人がいけばなんとかなる」
 ロックは、クルマだとモリブデンに狙われる、という言葉を言いかけて止めた。それをわかってる毎川であったが、さらに念を押した。
「バイクで来るのはいいが、ネカラーとかナビは使うなよ」
「わーっとるちゅーねん。バイク乗り魂見せたるわ」
 ロックは電話を切ると、バイクの準備に地上へ上がっていった。時間も無いし、キャリーバッグごとバイクに載せるのは危険すぎるということで、晴香はここで母の衣装に着替え、ヒデコはキャリーバッグの中から最低限のものだけを自分のバッグに入れて晴香に手渡した。晴香が地上に出ると、ヘルメットをかぶり電動バイクにまたがったロックが晴香の分のヘルメットを持って待っていた。
「荷物減らしたな。さ、乗って!」
 晴香はロックの後ろにまたがり、両腕でしっかとロックにしがみついた。その結果晴香の胸がロックの背中にあたり、晴香の両手がロックの腰にある状態になった。ロックは、晴香が見た目とは違い豊満な胸であることに気づき、自分の腰のさらに下の部分が反応しないように意識して精神を集中させた。
「お願いします!」
「お、おう、しっかりつかまっとってえな!」
 巨体を揺らせて地上に上がってきたヒデコが見送った。
「気をつけてね!」
 ロックと晴香を乗せた電動バイクは軽い金属音を鳴らして走りだした。
 一方渋谷の野外ステージは、毎川が電話をしている間も、その後も、人がどんどん増え続けていた。すでに千は超えているだろう。毎川は心配になってきた。毎川自身はネカラーの電源を切っているが、ここにいる人たちはまず例外なくネカラーを着けている。となれば、ここの混雑状況もモリブデンに把握されているはずだ。これがそれこそ電車の運休によるものだとか、デパートのバーゲンだとか、理由がはっきりしているものであれば何の問題もないが、遠井晴香という存在自体がモリブデン上に無いなら、この混雑をモリブデンはどう理解する?まさしくイレギュラーなのか?
「モリブデンの外で動き回り人々を惑わすイレギュラーは、排除せねばならん」
 野田班長の言葉を思い出した。毎川は最悪の事態も想定し、とにかく晴香たちがここに無事到着することを願った。
 野外ステージのあるこの渋谷の公園は、東西を横切る大通りで南北に分かれている。野外ステージは南側の大通りに面した場所にあり、新宿からここへ来るならこの通りを使うはずだ。毎川は大通りに出て晴香たちの到着を今か今かとまっていた。
 晴香をバイクの後ろに乗せたロックは、急ぎつつも慎重に運転をしていた。バイク乗り魂などと言ってはみたものの、コケたら元も子もない。濡れた路面かつ雪とノロノロ運転のクルマを避けて走るのは確かに神経を使う。いつもなら交通情報や道路状態を知らせてくれるネカラーは使えない。信号の確認も、他の車輌との距離も、歩行者への注意も、全部自分でやらなければならない。もはや晴香の豊満な胸の感触を気にしているどころではなかった。
 晴香を乗せたバイクは公園を東西に横切る大通りに出た。ロックが慎重に走らせていると、歩道から手を振る男がいた。
「おおい、おおい」
「おお!おっさんか!」
 ロックはバイクを路肩に止めた。
「ここからなら、すぐステージの裏に行ける」
 晴香はバイクを下りた。脱いだヘルメットは毎川が受け取った。
 ロックもバイクを降りてヘルメットを脱いだ。
「おっさん、ワイ、PA室行かななんやけど」
「わかってる。バイクは私が片付けておくから、二人とも早く」
 毎川はバイクにカギが付いているのを確認するとバイクを移動させた。
「頼むわ。晴香ちゃん、行くで」
「はい!」
「そうはいかん」
 毎川でもロックでも晴香でもない、粘着するような低くて大きな声がした。声の主は、いかにもそういう声を出しそうな顔をしたスーツ姿の中年男だった。
「(・・・野田班長!)」
 声の主を見て、毎川は重苦しい自責の念と無力である自分への憤りにかられた。
「君と再開するとはねえ」
 言葉は毎川に向けられていたが、目線は晴香に向いていた。
「なんやおまん。おっさん、このおっさんおっさんの知り合いか?」
「これは私の問題だ。二人は早く!」
 その毎川の声にこれまで聞いたことのないような緊張感があったので、ロックは「頼むわ!」とだけ言って、晴香とともにステージ裏に向かった。
「待て!」
「行かせん!」
 晴香を捕えに行こうとした野田班長を、毎川が捕まえた。晴香たちが二人の視界から消えると、野田班長はまるで魔物が正体を表すがごとく怒りに満ちた表情になり、毎川は一瞬怯んだ。そこを野田班長に突き飛ばされた。
「ったくこれだから低能無職は使えねえんだよなぁあー!」
 カンパニーの正社員とは思えないほど、ガラの悪い大声を出した。毎川は怯えながらも、今は引き下がってはいけないと感じ、野田班長の前に立ちふさがった。
「あのコをどうするつもりですか!」
「おめぇーにゃ関係ねぇんだよ!」
 野田班長はポケットからジャックナイフを取り出した。
「どけよ低能無職!」
 ジャックナイフは野田班長の殺意のようにギラついていた。
「関係ないわけあるか!あのコは・・・」
 毎川が言い淀んだスキに野田班長がジャックナイフを振り回し襲ってきた。
 ヒュン!ヒュン!ジャックナイフの空を切る音が毎川の耳をかすめる。だが毎川は逃げたり引き下がったりするわけにはいかない。ジャックナイフを持つ右の腕をなんとかつかんで、野田班長と押し合いになった。
「ネカラーが使えないから直接殺しに来たってのか!」
「そんなこともわからんからお前は低能無職なんだろうが!」
 野田班長は毎川など眼中にない。一方の毎川はなんとか野田班長が右手に持つジャックナイフをどうにかしたかった。その意識の差だろうか、お互いに力の入れ場所がすれ違い二人とも体制を崩した時だった。
「どけ!」
 毎川を突破しようと野田班長が振り回したジャックナイフは、野田班長を体ごとでも抑えつけようとする毎川の体に突き刺さった。毎川の着衣は赤い部分がどんどん広がり、野田班長の右手と右の袖もまた血で染まっていった。
「ぬ!抜けん!抜けん!」
 ジャックナイフを抜こうとした野田班長であったが、その右腕を毎川が激痛をこらえながら抱え込んでいた。鬼気迫る表情は、野田班長から毎川に移っていた。
「ふぬぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぶぅうぅうぅうぅうぅぅうぅうぅうぅうぅ」
 毎川は言葉にならないうめき声をあげながら、さらに野田班長を抱きかかえ、いや、捉えようとし、文字通り首根っこをつかんだ。
「死後硬直って知ってるか・・・」
 毎川は地獄の底から湧き出てくるような声を出し、野田班長の耳元でつぶやいた。
「な、なに?」
「あのコの両親を奪った罪、この命であがなえるとは思わん・・・だがあのコの邪魔は誰にもさせん、誰にも!」
 目玉が飛び出るかというくらい目を見開き、体を震わせ、野田班長の動きを封じた。
 そのとき、野外ステージの方から大きな歓声と拍手が起こった。トレードマークであるハーフツインテールの髪をなびかせ、晴香がステージに登場したのだ。
 それを聞いた毎川は、安心したのか、痛みで気を失ったのか、あるいは息絶えたのか、毎川の重心はまるまる野田班長にのしかかり、その場に二人とも倒れこんだ。野田班長はまさしく自分に絡みついた毎川の体を引きはがそうとするも、体制を崩しているせいもあってままならない。
 その時、ロックのバイクが倒されたままになっている大通りの路肩に、黒いセンチュリーが止まった。後部座席からは金髪で白いスーツの男がさっそうと降りてきた。歳は野田班長や毎川らより上でありながら、青年のような涼しげな風采であった。
 毎川に絡みつかれて動きがとれない野田班長は、地面に押し倒された状態になりながら白スーツの男を見て色を失った。
「そ、総帥?」
 総帥、すなわちモリブデン創始者の一人である谷川秀一は、毎川にからみつかれ倒れている野田班長を一瞥すると、わざと無視するかのように野外ステージの方角を向いた。
「予定通りの行動ではなかったな」
 誰に言うでもなくそうつぶやき、拍手と歓声が起きている群衆を見つめた。
 晴香が登場したステージは備え付けの照明でまばゆい光を放ち、とっぷりと暮れた夜の公園はビッグバンかと思わせる輝きと轟音につつまれた。
「遠井晴香、トーイハルカです!皆さん、皆さん、ありがとうございます!」
 晴香は正面、上手、下手と丁寧におじぎをすると、これまで以上に盛大な拍手が巻き起こり、それはいつ終わるとも知れず続いた。終わるけど。
「あたしは・・・あたしは、何も無かった、何者でもなかったあたしは、ただ、母のようなアイドルになりたい、父が愛し、おじいちゃんが大切にしていた母のようなアイドルという存在になりたい、ずっと願って、歌ってきました。でもそれはかなわないんじゃないか、あたしには不似合いじゃないか、そんな才能はないんじゃないかって考えたりもしました」
 何千人と膨れ上がった観衆は一人残らず晴香の言葉に耳を傾けて、その静けさは無限の広大さを思わせた。
「だけど、何もなかったあたしだけど、今はこんなにもたくさんの人に囲まれて、本当にうれしいです・・・あたしは、皆さんが待っていてくれるなら、歌い続けます。皆さんと一緒に歩いていけるならもう迷いません、これからもずっと歌っていきます!」
 その言葉に、宇宙の誕生を祝福するかのような大拍手が巻き起こった。
「それでは、聴いてください。父と母が作ってくれて、おじいちゃんが私に託してくれた歌です。『青雲紀行』」
 イントロに続き、晴香の歌声が谷川秀一の耳にも届いた。毎川の耳にも届いたのか、軽く微笑んだようにも見えた。
 谷川秀一はしばらく静かに耳を傾け、少し目を閉じると諦めるように言った。
「手遅れかな。これではもうイレギュラーとは呼べんよ」
 毎川に押さえつけられたままの野田班長は、耳を疑った。
「モリブデンも使わずに、これだけの人の心をつかむ。観衆はネカラーを首にしているかもしれんが、その情報は今の彼らには届かんだろう。確かに、あれは新時代のアイドルと呼べる存在かもしれん」
 谷川秀一が立ち去ろうとするので、毎川に文字通り絡まれたままの野田班長は悲鳴にも似た声で呼び止めた。
「あ、あの・・・私は?」
 谷川秀一は野田班長に背中を向けたまま言葉をかけた。
「ああ、野田班長、いや野田クン。データをロールバックして君は昨日付で退職にするから。元社員同士が殺し殺されようと、私の知ったことではない。退職金は最後の給料と一緒に振り込んでおこう」
 野田は、その言葉で自分が毎川と同じ扱いを受けている事態に気づき、頭の中が真っ白になった。谷川秀一が乗り込んだ黒いセンチュリーは走り去り、野田は毎川に絡みつかれたまま、体を動かす気力を失った。
 遠井晴香のステージは続いていた。ロックは備え付けの貧弱な音響や照明を駆使して晴香のステージを盛り上げようとしたが、彼女自身が輝いてるなら余分な演出は要らないのだと気づきはじめた。ガクランは観衆の最前センターで精魂を差し出すように恍惚と晴香を見上げていた。あたかも神の采配を受けるように。
「あたしは、歌い続けます。これからは皆さんと一緒に歩いていきたいです。ついてきてくれますか?」
 観衆は今日一番の拍手と雄叫びで応え、それは渋谷の夜に響き渡った。

【了】

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