――白――
あれを夢だと信じたい。
10年前
踏みしめられて固まりかけた雪が足元で鳴る。まだ二つ分の足跡が残るくらいには柔らかかった。
空からは未だ、白い粉雪が生産され続けている。
「兄さん、何で今日は迎えなんて。いつも一人で帰ってるのに」
二人とも周囲に見えるものは無視する。耳も、お互いの声以外は聞こえないのだ。
「え?今日って何かあるからじゃないの?」きゅっと、兄は眉を顰めた。兄の足が人通りの少ない道へと向く。自然、自分もその背を追った。
声が遠くなる。
「父さんと母さんが何かサプライズでも考えてるのかな」
「・・・・でも今日何の日でも無いですよ?」
彼は荷物を持った方の手で白い頭を掻いた。「う?ん・・・・・」
ついでとばかりに、もう片方の手で傍らの、自分の頭も混ぜた。
垂れた青い目が細くなる。
「母さんの気まぐれじゃない?じゃなかったら、何か父さんの出世祝い・・・・・とかは無い、か。うん」
「ははっ、そうですね」
「はは・・・・」
自分たち以外は誰もいない回り道。家はずっと遠くなるし、この季節はとても寒くて正直きつい。
でもへらりと兄さんは苦笑いして。「無いよねぇ」
(・・・・自分もあんなふうに笑ったほうがいいのだろうか)
その時だった。
兄の目が一点を見つめる。
(兄さん?)
驚いたのを覚えていた。
兄のそんな顔は一度だって見たことが無かった。何かがオカシイ、そう思った。
呼吸が止まりそうになる。背中に冷水が伝った。
「・・・・兄さん」
「ん?」
「早く帰りましょう、か」
一回り大きい手を握ると、頭を撫でられた。
「兄さん?」
「・・・・・ごめん」
「え?」
ぐるりと一回、かき回すように撫ぜる。「先、帰ってて」
一刻の時間も惜しいというように、
「鍵は持ってるね」
自分の分まで荷物だけ奪って、
「ごめん。すぐ帰るからって言っといて」
肩ほどの、白い髪の頭はすぐに道の向こうに消えた。
我に返り、その背を見送って走り出す。
世界がいびつに歪んで見えて、どうしようもなく、怖かった。
あれほど兄が泣いた日はあっただろうか。
兄の涙を、否、自分以外のあの母の青い目を、父の濃紫の目を見たのは、あれが最後である。
両親は、あの時の真っ白の雪の様な灰になった。
今思えば、あの時の兄は今の自分と同じ年だったのだが、まだ自分はあんな風には笑えないまま、文字通り時を凍らせて今ここに居るのである。
――黒――
これは夢じゃない。
7年前
(まただわ)
身にまとっているのはシャツと黒いローブだけだ。ひやりとした夜の空気は涼しいを一足とび越えたくらいで、我慢できないことは無いが寒くてたまらない。
ここは月明かりだけの世界なのだろうか。
人工的な明りで星は見えにくくなっているというのは本当らしかった。いままで生きてきて、天の川なんて見たことがない。まさに『ミルキーウェイ』だ。
(まるで黒い布にミルクぶちまけたみたい)
しかもそのままわすれられて、放置されているのだ。ミルクは布にしみ込んで、布の色を変えている。
星は散ったミルクの雫で。
(今日は新月ね)
地面は見えないほど真っ黒だ。
そろそろと手探りで地面を確かめながら腰をおろした。地面が乾いているのが幸いである。
「・・・・・どれくらいで迎えが来るかしら」
一度渡ってしまったら自力ではなかなか戻ることが出来ない。「迷子は動くな」はもはや合言葉。今頃捜索隊が組まれていることだろう。
(泣くな)
「・・・・『寂しい』程度で、女が泣くな」
誰も見ていやしないのに、涙を流すのはもったいない。母の言葉。(今の私は遭難者だもの。いつ救助が来るのかもわからないのよ)
今ここで泣くのは無駄だ。
(――――あいつは逃げやがったんだ!)
(私は逃げないわ)
(そっくりねぇ・・・・)
(ええそうよ。でも真似なんて絶対にしてやらないから)
(・・・・君はとても、似てるよ)
(知ってるわよ)
あの人のことで泣くのは癪に障る。
(―――強くなりたい)
(あれも分かりにくかったけど、とても強かったよ)
「・・・・・知ってるわ」
(でも、知ってるだけ)
ここに居るエリカ=東=クロックフォードは私だ。
「・・・・・そのご立派な糞親父をノックアウト出来るくらい、強くなってやるわよ」
――――ああでも、
(星なんて見えなくてもいいの)
少しばかりあの明るい濃紺と黄色い月がほしい。

エリカは母似。