坂東蛍子、学校へ行く
坂東蛍子、高校一年、春の十日間。
「おはよう、坂東」
「おはようございます、松任谷君」
坂東蛍子が学校へ行く理由はたった一つだ。それが学生の本分だからである。
才能、努力、好奇心、環境、容姿――人間の成長を促す要素というのはそれなりの数を列挙出来るが、蛍子はそういった要素全てを幼少期の時点で既に獲得し尽くしていた。好奇心が才能と努力を開花させ、開いた花と容姿の華が環境を整え、自我などというものが大凡身の内に整う前から、その小さな身体で周囲の小市民たちを圧倒し続けてきたのである。しかし、中学校生活も終わりに近づき、皿洗いから自動車修理まで大抵の物事を難なくこなせる技量を得ると、彼女は身の内に溢れる高揚感に少しずつ翳りを感じるようになった。蛍子の邁進を促した原初の要素は好奇心であった。しかし何でも出来てしまうということは、何もやることがなくなるということでもあるのだ。いくら他人から称賛され愛されていようが、未知や余地がなければ好奇心は満たせないのである。少女は日々を繰り返す内、次第に知らないもののない日常に飽き飽きしていった。そんな無聊な生活を変えてくれるのでは、と高校に対して僅かな期待を抱いていた蛍子だったが、入学して早一ヶ月、顔ぶれが違うだけで何も変わらない学校生活にその望みもすっかり潰えてしまっていた。
「ありがとうございます。でも大丈夫。一人で出来ますから」
そう言って蛍子は、資料の山を運ぶのを手伝おうと差し伸べられた松任谷理一の手を振りきった。顔は平生通りの涼やかな笑顔だったが、内心では少々癪に障っていた。坂東蛍子は誰からも手を差し伸べられることがない。蛍子のことを助けたいと考える人は幾らでもいるが、しかし万能の少女に真に助けが必要だと考える人は一人もいないので、たとえば仮に彼女が公然で転びでもした場合、有象無象が心配そうに近寄りはしても彼女を抱いて起こそうと考える人間など居はしないのだ。求められない限りは蛍子が自力で立ち上がるのを見守るに違いないのである。蛍子は誰からも手を差し伸べられることがない。少女はこの状況をとても気に入っていた。自分が誰からも“弱い人間”だと思われていないことを確信出来るからだ。蛍子は才能も莫大だったが、自尊心や虚栄心もそれに呼応するように大きい少女だった。だから蛍子は理一の一線を越えた親切に腹が立ったのである。
「私、やれば出来る子なんです」と蛍子が間を埋めるように理一に微笑み、廊下を歩いていた人間を幸福な気分にさせた。「やるし、出来る子じゃん」と通りすがりのクラスメイトが声をかけ、蛍子が照れるような仕草をする。そう、その褒め言葉が欲しかったのだ、と蛍子は内心でほくそ笑んだ。これでこそ坂東蛍子よ。
クラス委員の仕事と、新入生歓迎会の橋渡し役と、生徒会と人事委員会に顔を出し終わり、蛍子は職員室に向かいながら最近会う機会の少なくなった親友のことを思った。高校が別々になってから、どうも満に避けられているような印象を蛍子は覚えていたが、しかし不安を抱く度、それは生活環境の変化からくる寂寥感だと疑念を振り切っていた。蛍子は自分が結城満と一生離れることがないという確信を持っていたし、相手もそう思っていると確信が持てるぐらいには満のことを信頼していた。
部活帰りの生徒たちに手を振られ、行儀の良い挨拶を返しながら、蛍子は教室の手前で夕日に見惚れ、室内から出てきた人間と鉢合わせた。男は蛍子の腕に抱かれた山のような未整理資料と部活動紹介レポートと企画展示案の走り書きを見て、彼女に再度声をかけた。
「・・・大丈夫。出来ますよ」
またも松任谷理一である。男子としては比較的接触の回数が多い理一だったが、ここ最近は連日のように自分に干渉しようとしてくる。いったい何なのよ、と蛍子は整った眉を歪めた。いよいよ告白をしようと機会を窺ってるのかしら。蛍子は乱れる心を正すために頭を振り、日の落ちた教室の隅で一人自分のためのサービス残業を再開する。
体育は蛍子の好きな授業の一つである。彼女の運動神経を男女平等の場で誇示できる数少ない機会だったからだ。本当は体を動かすのが大好きなのに、令嬢として振る舞っているが故に走り回れずにいる少女が、日々の鬱憤を存分に発散出来る場であったからという理由もある。
その日は体育館での授業だった。館内をネットで二分し、男子はバスケットボール、女子はバレーボールをすることになっていたが、生憎どういうわけか中央を仕切るはずのネットが失われており、互いの境界が曖昧になってしまっていた。女子たちはまるで予言者のように自分たちにバスケットボールがぶつかることを信じ、その時を恐れ、ボールも予言に促されるように度々境界を跨いでバレーコートを跋扈し、とうとうその内の一つが女子生徒の顔面目掛けて突進してくる運命を背負うことになった。背負わせたのは板東蛍子である。彼女は他の女子と同様、自分目掛けてボールが飛んでくることを胸の内で連呼していた。
勿論彼女はボールにぶつかって痛い目を見たかったわけではない。ボールを文字通り手玉にとって、歓声を浴びようと画策していたのである。
蛍子が軽やかに受け流そうと身体を傾けたその時、彼女とボールの仲を引き裂くように黒い影が間に割って入った。影は片腕を伸ばすとその掌でボールを押さえ込み、体育館の中に見事な衝突音を響かせた。歓声を浴びたのは蛍子ではなく、松任谷理一だった。「大丈夫か?」と理一がボールをコートに投げ返し、蛍子の方に振り返る。蛍子は鳩尾に蹴りを入れたい衝動を抑えながら「ありがとう」と言った。何なのよ。今のはどう考えても私が活躍する場面だったじゃない。何格好つけてくれてんのよこの男は。
男子の領域に帰っていく理一に幾つかの黄色い声援が送られた。他の女子たちもヒーローみたい、と妙に色めきだっている。その時蛍子は初めて理一の人気に気がついた。確かに顔も良いし運動も出来るけど、こんなにファンがいるような奴だったのね、と蛍子は驚き、すぐにその驚きを憎しみに転換する。いったいあの男は、誰の許可で私の不動の人気に横やりを入れているのかしら。蛍子の頭の中は理一に対する不満で埋まり始め、終いには近頃理一が絡んでくるのも自分への挑発行為のように思えてきた。蛍子を挑発した人間がその後も健康に生活を送り続けた事例は滅多になかったし、今回も少女は例外を作らぬよう努めるつもりであった。
彼女は松任谷理一へささやかな復讐を企てることにした。
翌日、蛍子は理一を放課後の教室に呼び留めた。暫く余所で時間を潰した後、教室へと向かう坂東蛍子の足取りは、とても軽やかだった。いったいどんな顔をして待っているのだろう、と少女は思った。きっと動揺が全身から染み出しているに違いない。何せこの坂東蛍子に呼び出されたんだもの。校内の憧れの的に、あらぬ期待をしてしまうのも無理はないわ。蛍子はにやけそうになる顔を必死に隠しながら、清楚な立ち振る舞いで教室のドアを開いた。理一は外を眺めていた。
「あぁ、坂東」
振り返った理一はいつも通りの顔をしていた。至って普通の何処にでも転がっている好青年の顔だ。蛍子は拍子抜けしつつ、一押しするべく接近して声をかける。
「ごめんなさい。待たせちゃったかしら」
「問題ないよ。で、用って何だ?」
坂東蛍子は机の中からぎゅうぎゅうに詰まったプリントの束を取り出し、理一の前に差し出した。
「集めた提出物を職員室に届けるのを手伝って欲しいの」
蛍子は残酷な真実を告げるようにほんの少しだけ語気を固くした。
「ほら、以前手伝ってくれると言っていたでしょう?あの時は大丈夫だったけれど、今回は委員会と生徒会の手伝いも重なって手が回らなくなっちゃったから」
蛍子はにっこり笑った。理一も笑った。
「わかった」
「・・・もしかして告白されるかもって思ったりしました?」
少女はふと思いついたように言って微笑んだ。常に完璧な彼女の笑みが、今回はどこかぎこちなかった。
「どうしてだ?」
「だって、放課後の教室に呼び出しなんて、如何にもありがちじゃないですか」
「そうか。なるほど」
理一は幽霊を見たような顔をして言った。
「考えもしなかった」
それこそ考えもしなかった返答に、蛍子は豆鉄砲を食らった鳩になった。豆一粒にさらに幽霊も見て、地底から現れたナチス軍も目撃したような顔の鳩だ。少女は気を取り直すように息を吐くと、髪で蔭を作り、クラスメイトの前に資料を展開し始めた。
「ふふ、ねぇ、もし私に告白されてたらどうするつもりだった?」
蛍子は唇に指をあてて悪戯っぽく言った。この仕草で過去に三人の男が心肺停止状態になり病院へ搬送された。
「そうだなぁ・・・さすがに、ちゃんと謝れる自信がなかったかもなぁ」
「謝る?」
「綺麗に断るなんて、不意を突かれたら俺には無理だ。坂東は美人だから、尚更な」
断る?と蛍子は思った。今この男は断ると言ったか?坂東蛍子は生まれて初めて耳にした不思議な言葉を身体に馴染ませるように何度も反芻しながら、必死に理性を保つと、書類を持ち上げようとする理一の手を振り払った。首を傾げる理一にもう手は必要ないと宣言する。
「一人で出来ると、以前も言ったでしょう」
「ええ・・・!?」
蛍子は家に帰ると、自分に惚れない男がいる可能性について淡々と五万字の論文を書き上げた。最後の行は「スペインの侵攻を受けたインカ帝国の気持ちが分かった」であった。彼女はアタワルパの心境は理解出来たが、松任谷理一という男の心は五万字をかけても何一つ見透かすことが出来なかった。
翌日から蛍子は密かに理一の生態を観察し始めた。調べれば調べるほど、蛍子は理一という男が本物のヒーローであることを体感させられた。理一は困った人間がいると必ず駆けつけ、手を差し伸べる。女子に限った気障男というわけでもなく、男子からも頼りにされ人望があり、学年でも彼の名前を聞いたことのない人間はいないぐらいだった。そこまで校内を駆け回っている正義漢が何故表立って話題にならないかというと、本人が陰から人を支えることを信条としていることが見て取れるからだった。よく確かめてみると何でもやっている理一だったが、目立ちたがりの蛍子と違って、決して人前に出るようなことはしない。あくまで力が必要な時に力を貸すことに徹していた。蛍子の視界に今まで特筆した印象を何も残さなかったのも、至って道理なのである。
坂東蛍子のように通行人に道を開けられることはなくとも、すれ違えば殆どの人間が心の中で敬意を抱く松任谷理一。そんな男の心をものに出来たらどんなに自尊心が満たされるだろうと蛍子は考え、その後すぐに、そんな男に間接的にフられたという事実に腹を立てた。自分をそこらの人間と一絡げに考えている人間がいるなんて、蛍子には屈辱の極みであった。数年ぶりに感じる本物の敗北感だった。
何より蛍子を苛立たせたのが、彼の振る舞いである。理一の観察を始めてからも、理一は蛍子が級友や教師から大役を任され、一人で難渋している度に現れては必ず声をかけてきた。この頃には蛍子は理一の行動指針が弱者の救済だということを理解していた。つまりあの男は、私のことを弱い人間だと思っているんだ、と蛍子は唇を噛む。私を助けられなくちゃ生きてはいけない、そこらの人間と同じだと考えている。自分が救ってやらねばなどと考えているんだ。こんな侮辱は生まれて初めてだ。何としてでもアイツの鼻を明かしてやらないといけない、と蛍子は陸上部の助っ人をこなしながら決意を新たにした。タイムを測っていた陸上部部長は、ストップウォッチに表示された数字を見てその日引退を決めた。
授業の準備をするために他の級友たちより早く体育館に足を踏み入れた蛍子は、体育倉庫の闇に足を引っかけて倒れ込み、トカゲのように床に張り付いていた。冷たい床板に頬をつけながら、周りに誰もいない状況についボウッとしてしまう。今なら気兼ねせずに床の感触を確かめられる、と蛍子は目を閉じ、冷えた暗闇の底を撫でる。誰かに手を差し伸べられる警戒をする必要もない。だって松任谷理一はここにはいないのだから。
(・・・本当にいないんでしょうね・・・・・・)
蛍子は心配になって慌てて身体を起こした。壁のスイッチを探っていると、倉庫の外から物音がしていることに気がつき、彼女は自分が予想以上に長いこと床に寝そべっていたことを理解した。仕方ない。今日の点数稼ぎは諦めて、皆と力を合わせて体育の準備をすることにしよう。コミュニケーションも一つの大事な仕事だ。そう考えた蛍子は、明るくなった倉庫の扉を開け、体育館にいる生徒たちと合流した。蛍子が手近な女子にバスケットボールの詰まったカートを運び出すのを手伝ってくれないか、と申し訳なさそうに頼むと、快諾したクラスメイトが力のある男子を求めて体育館を見渡した。
「あ、松任谷くん!ちょっと来て!」
女子生徒は館内にいた男子の中から一番格好良いと思う生徒を呼んだ。うんざり顔の蛍子の下に松任谷理一が駆け寄ってくる。「私裏からネット持ってくるね!」と女子は笑顔で手を振り、蛍子も急いで笑顔を作った。残された蛍子は、何をすれば良いか問うてくる理一の言葉を無視し、一人倉庫の奥へ勇むと、鉄のカートを引きずって戻ってくる。
「なるほど。確かに男手がいるな」と理一が言った。
「いいえ。まったくいりません」と蛍子が言った。何言ってるんだ、と理一が半ば呆れながらカートに手を伸ばし、蛍子にその手を払われる。
「おい、坂東、お前少しは人を頼」
「だから、出来るって言ってんじゃん!」
「いや、この段差を越えるのはさすがに無理だろう」
坂東蛍子の中で大事な糸が一本プツンと切れた。彼女は徐に腰を落とすと、バスケットカートの両端を腕で囲い全力を込めた。少女に潜在する人類進化の可能性に満ちた筋繊維やちょっとの科学原理に後押しされ、ボールが詰まったカートがゆっくりと宙に浮き上がる。どうだ、と蛍子は歯を食いしばりながら理一を見た。誰かの手なんか借りなくても、私なら余裕で運べるのよ。
「・・・はは、さすが、やれば出来る子」と理一が爽やかに笑った。
「ぐぎぎ・・・」
非現実的光景に体育館は静まりかえっていた。入学してから一人で話題をさらっている蛍子が気に食わず、線の細い淑女に対し暴力で対抗しようとしていた一部の勢力はこの時心を入れ替え、自分の命を大事にすることに決めた。
その夜、蛍子は恨み言を呟きながら腰に湿布を貼った。
「おはよう」
「おはようございます・・・松任谷君・・・!」
坂東蛍子が学校へ行く理由はたった一つだ。むかつく男を倒すためである。