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いきたいと希う

作者: 志水了

 滅多に人など立ち寄らない雑木林の中。そこには不思議な湖があり、ふたりの少年が佇んでいた。


 足を止めれば、耳の中に蝉が鳴く音が聞こえてくる。

 吉松杏菜がその場所に足を踏み入れたのは、墓参りで父の実家に来たものの、あまりにも暇だったからであった。

 父からあまり立ち入るな、と言われていた、祖母の家の裏手にある、大きな雑木林の中。たまたま小さな小道を見つけて、どうしても好奇心を抑えられなくなっていたのだ。

 小道の向こうには何があるのだろう。でも誰も立ち入らないくらいだから、何もない可能性が高いかな、などと思いつつ歩いていく。

 すると、突然、目の前に澄んだ青色の湖が現れた。青の色は、まるで夏の空を水面に映したかのような濃い色だ。杏菜は思わず歓声を上げていた。

「わあ……」

 湖の水はどこの湖よりも透明だった。近くで覗き込むと、底が見える。

 あまりの美しさに息を呑んでいた時、がさり、と近くで音がした。さらに、少年が木の影から現れたのだ。

 少年がいる場所からは杏菜の姿は見えにくいのだろう、杏菜に気が付く様子もなく、少年は湖に近づき、しゃがみこんで、何かを洗っている。

 杏菜が一歩近づくと、音か何かで気が付いたのだろう、彼はゆっくりと顔を上げた。

 目つきが鋭い、ナイフのような少年。初めて見た彼の印象だった。少年の短く切った黒い髪が、風に揺れる。

「……見ない顔だね。どこから来たの?」

 杏菜は口ごもった。彼の問いかけからは、拒絶の意志を感じられたからだ。立ち入るな、と言われているところに立ち入ってしまったことによる後ろめたさもあった。

 杏菜の様子に気が付いたのか、少年の表情が少しだけやわらぐ。

「ここに誰かがくることなんて滅多にないからさ。来たとしても見たことある顔だし。田舎だしね」

 そういって首をすくめる彼は、ここに杏菜が来たことを咎めているようには見えない。そのことに安堵して、ようやく口を開いた。

「おばあちゃんちに来てるの……近くの」

「ああ。吉松さんちね」

 少年はすぐに理解したらしく、大きく頷いた。話を聞くだけですぐに分かってしまうのは、やはり田舎ならではのことだろう。

 二人が話していると、後ろからがさがさと音がして、少年がひとり顔を出した。

「伊織。何してるの、声が聞こえてきたけど……」

 出てきた少年は、杏菜と話していた少年、伊織とは正反対の雰囲気を持っていた。線の細い体に、色素の薄い髪。柔らかい表情。彼はふんわりと首を傾げる。

「ああ、大和。なんかお客さんがきたからね」

「珍しいね。こんにちは」

 もうひとりの少年、大和は、ふんわりと笑ってみせた。物腰が柔らかい彼の表情で、杏菜の警戒心も解けた。

「吉松さんちのお孫さんだってさ」

「へぇ。どこから来たの?」

「……東京から」

 杏菜の答えに、伊織と大和は顔を見合わせた。大和が顔を戻すと、すぐに嬉しそうな表情を浮かべる。

「そうなんだ! 僕たちも都内に住んでたんだよねぇ」

「へぇ……、じゃあ、あなた達もおばあちゃんちに来た、とか?」

「まあ、似たようなもん?」

 伊織はそっけなく答えながら、湖に沈めていたらしいスイカを引き上げている。

「東京から来たんじゃあ、この辺は何もなくて退屈だろうね。だからここまで来たの?」

「うん。何かないかと思って」

 ここに住んでいる人だったら遠慮する話にも、今度は素直に頷くことができる。大和が小さく笑った。

「まあ、面白くはないけど、この湖は珍しいでしょ。このあたりは夜になれば蛍も見えるんだ。あっちに沢があって、そこで見えるよ」

「へぇ……」

 耳を澄ませると、さらさらと水の流れる音が聞こえる。沢の音だろうか。

「すごいでしょ。こんなの見ると、色んなことを忘れちゃうよね」

 大和がしゃがみこみ、膝を使って器用に頬杖をつきながら、ぼんやりとつぶやいた。

「嫌なことね……」

 蒼い色に吸い込まれそうになりながら、ぼんやりと、高校でのことを思い出す。思い出されるのは、嫌な思い出ばかりだ。

 鞄や教科書を隠されたなんてことはよくある光景だ。テストではカンニングの疑いをかけられたり、休みなのに、プールに突き落とされたりもした。一学期終了前は、クラスメイト皆で無視されたっけ。

 思い出した現実に、途端にげんなりしてしまう。このまま、本当に吸い込まれてしまえばいいのに、とぼんやり思った。

「……このまま、消えちゃいたいなー……」

 誰の記憶にも残らず、ひっそりと消えることができればいいのに。

「……今、なんて?」

「え?」

 大和に聞き返され、杏菜はようやく、自分の心の声が漏れていたことに気が付いた。慌ててなんでもない、と手を振ろうとするが、大和は思いの外真剣な表情だった。杏菜は作り笑いを引っ込める。

「ちょっとね、学校で色々あって」

 杏菜はぼんやりと学校での出来事を思いだしながら、ゆっくりと口を開いた。

 大和はうん、と律儀に頷いてくれる。だから、杏菜も、心の中に溜めこんでいることを話していた。

「何でか分からないけど、ある日から急に敵扱いされててね。最近は無視ばっかりされるようになって。疲れちゃった」

 ため息をはいた。疲れた。それは今の心の中を一番的確に示す言葉だと思った。何でもないフリをするのも、強がるのも、疲れてしまったのだ。

「そっか……」

 大和は、慰めることも怒ることもせずに、ただそこに一緒にいてくれた。ただ話を聞いてくれる相手が久しくいなかったことに気が付いて、ほっとすると同時に、とても寂しくなってしまう。

 湖の上をすいと笹船が進み、小さな波を作っていった。大和の隣にいた伊織が作ったらしい。彼は何を思っているのだろう。そっと伺うが、表情はよく分からない。

「ま、ここで良いなら好きなだけ涼みにおいでよ」

 大和はふんわりと笑う。彼の言葉に少しだけ居場所ができた気がして、心が軽くなった気がした。

「よし」

 杏菜は勢いをつけて立ち上がろうとした。だが草に足をとられて転びそうになってしまう。

 近くに大和の腕があったので、とっさに掴もうとしたのだが、掴んだはずの彼の腕はすっとすり抜けてしまった。

「え……?」

 腕の位置を間違えて掴んだ、などではない。今のは完全に、腕の中をすり抜けていったのだ。

 大和は少し驚いたような表情を浮かべて、それからいたずらが見つかった子供のように、困った笑みを浮かべた。

「えへっ。実は」

「おい」

「僕たち、もう死んでるんだ」

 何かを言い掛けたところで、慌てて伊織が止めたが、杏菜は大和の言葉を聞いてしまった。

「え……?」

「今はほら、お盆だから、ちょっと遊びにね」

 ぽかりと口を開いた杏菜の向こうでは、伊織が大きくため息をついている。

 彼の体が、わずかな間、ゆらりと半透明に揺らいでいた。


 *


 二人に見送られて祖母の家に戻った時、まるで長い間家を離れているような気分になっていた。青い湖を見たことも、そして伊織、大和が死んでいるということも、まるで違う世界にいるような出来事だった。

「ただいま」

 祖母の家に帰ってきて、祖母が出してくれたおやつを食べて畳に寝転がっても、強烈な体験の記憶は消えてくれない。どこか夢見心地の杏菜を現実に引き戻したのは、夜、祖母を手伝って食器を片づけているときだった。

「杏菜ちゃん」

「ん、何?」

 祖母は洗いものをしていた手を止め、じっと杏菜を見つめてきた。両親でさえ、今の杏菜にはどこかよそよそしいのに、祖母だけは優しかった。だからじっと、探るように杏菜の目を見てくるのが、珍しく思えたのだ。

「杏菜ちゃん、今あんまり学校に行ってないの?」

 真剣な顔つきでの突然の言葉に、杏菜は一瞬食器をしまう手を止めた。まさか祖母から話がでるとは思わなかった。

「……うん」

 嘘をついても仕方ないので、しぶしぶ頷く。いつもなら、仕方ないね、と笑って見逃してくれる。だが今日、祖母はそっと杏菜の手をつかんだ。

「杏菜ちゃん、学校に行きたくない気持ちはとても分かるわ。でもね、今逃げちゃだめなの。戦わないと」

 祖母なら、杏菜の気持ちを分かってくれる。そう思っていたのだが、気持ちが届くことはなかった。

 そんなこと分かっている。でもおばあちゃんだけは、信じてくれると思っていたのに。

 祖母の手は、ひどく冷たくて、杏菜は逃げるように祖母の手を振り払った。

「あ、杏菜ちゃん!」

 台所にもいたくなくて、部屋から飛び出す。でもどこにいけばいいのだろう。唯一の居場所だと思っていた、祖母の家さえも居場所がなくなったら、一体、どこにいけば。

 玄関から外に飛び出した杏菜の脳裏には、あの青い湖が浮かんでいた。

 外はとても暗かった。東京のように、眩しい灯りなんて無いのだ。一歩走れば、闇が杏菜を包んで、何も見えなくなってしまう。それでも走っているうちに、闇に目が慣れてくる。

 怒りなのか、悔しさなのか。よく分からないけど、とにかく体の奥からわき上がる衝動に任せて走った。

 気が付けば、雑木林の中を抜け、湖の近くまで走ってきていた。

 闇の中でも、湖は薄らと明るい。蛍が湖の周りを飛んでいるのだ。ちらちらと飛ぶ蛍火が、湖の青を照らし出す。夜の湖も、幻想的な儚さを持っていて、とても美しかった。

 大きく息を切らしながら、湖へと近づいた。ひとりになって、少しだけ気持ちが落ち着いた気がする。

「……何してるの?」

 ぼんやりとしていた時、後ろから声を掛けられて、杏菜は飛び上がらんばかりに驚いた。

「わっ、びっくりした」

「びっくりしたのはこっちだよ。誰かが湖に来るから覗いてみたら、あんたなんだもんな」

 振り返ると、立っていたのは伊織だった。知っている顔を見て、安堵の想いがこみ上げてくる。

 杏菜はしゃがみ込んで、静かに湖を見つめた。

「……どうしたの?」

 後ろから、伊織の声が聞こえてくる。杏菜は膝を抱えた。

「ねぇ、死んだ先の世界って、楽しい?」

 ぽつりと問いかける。伊織からはすぐに反応はなかった。すこし間を置いて、伊織が答える。

「さあ。どうだろう。楽しいだけじゃないだろうし」

「そう……。私もそっちの世界なら、居場所があるのかな」

 もう杏菜がいる現実には、どこにも居場所がない。死んでしまえば、新たな居場所ができるだろうか。

「死にたいの?」

「……もう、私の居場所はどこにもないし。誰だって、私を見てくれる人はいないし」

 死んだって、誰かが私を見てくれることはないだろう。それならば、私ひとりいなくなったってかまわないんじゃないか。

「じゃあ、死ぬ?」

 ぼんやりと考えていたら、不意に真剣な声が落ちてきて、杏菜は振り返った。杏菜のすぐ後ろに立っている伊織は、真剣な表情だった。

 伊織なら、杏菜を殺してくれるのだろうか。そんなことを考えながら、杏菜は頷く。

 伊織の手が、そっと杏菜に伸びてきた。すり抜けることなく首に触れてきた手は、ひどく冷たい。そのまま首に力を込められる。

 体温のない冷たい手に、なぜだかぞっとした。

 首にかかる力はどんどん強くなってくる。本当に、このまま死んでしまうのか。はっきり思うと、急に怖くなってきた。

 死にたくない。死にたくない!

「伊織!」

 大和の叫ぶ声が聞こえた。首にかかっていた伊織の手がするりとほどける。狭まった喉が解放されて、何度も咳き込んだ。なまぬるい夏の風が吹き込んできて、生きている、と泣きそうに強く思った。

「伊織、何してるんだよ!」

 駆け寄ってきた大和は、伊織が何をしていたか分かったらしい。伊織に詰め寄ると、伊織はばつが悪そうに顔をそむけた。

「だって、こいつが死にたいって言うから。本当は死にたくないのに」

「だからって首絞める奴がいるか、馬鹿」

 伊織の言い訳に、大和は大きくため息をついた。しゃがみこんで杏菜と視線を合わせる。

「ごめん。僕も伊織も、あんまり良い死に方じゃなかったから……あなたには留まってほしかったんだよ」

 大和の言葉に、杏菜は首を何度も横に振った。伊織は悪くない。居場所が見つけられず、死ぬことさえ覚悟を決められない、中途半端な杏菜が悪いのだ。

 だが何もかも言葉にできず、ただ涙ばかりがあふれて、頬をつたっていった。

「……私が、中途半端だから」

「そんなことないよ。だって、俺達と違って、辛くてもあなたは生きてるんだから」

 大和はふんわりと笑う。優しくて、温かくて、そして寂しくて辛さを秘めた表情。彼の笑みは、死んだ者としての笑みなのだ。もう、生きて笑うことも、泣く事もないのだ。彼の表情にはっとさせられる。

 そのとき、突然に湖の青が濃くなり、明るさを増した。

「ああ、もう時間か……」

「時間?」

 大和が残念そうに、まわりを見回した。ちか、と蛍火が灯り、消える。

「そう、送り火の代わりとでも言えばいいのかな。そろそろ、時間なんだ」

 まわりにはいつのまにか、いくつもの蛍が集まってきていた。まるで、大和や伊織達を包むかのような量の蛍火だ。ちかちかと明滅する火に、大和と伊織がぼんやりと照らされて浮かび上がっている。

「そっか……お盆も終わりだよね」

「ごめんね、もっと話を聞いてあげたかったけど」

 大和の言葉に、杏菜は首を横に振った。ほんの少しの間だけだったけど、二人にはたくさんのものを貰ったと思う。

「僕は自殺したからさ、あなたの気持ちは分かるよ。こいつは病死だから、俺みたいなのを見るとイライラするんだ。気にしないでね」

「るせ」

 伊織はばつが悪そうにそれだけ言うと、ふいと横を向いた。伊織は乱暴だが、杏菜のためを思ってくれたのだ。そう思うと、くすりと笑みがこぼれる。

「気持ちは分かるけど、それでも、あなたは生きるべきだと思う。……あなたが死にたいと想う気持ちは、全て僕らが持っていくから」

 大和はふわりと笑った。蛍火に照らされて、彼の笑みはひどく儚く見える。

 風が強く吹いた。二人の周りに集まってきた蛍火が、風に乗って夜空へと舞い上がっていく。

 伊織がちらりと上を見た時、蛍火がますます強く輝いた。大和も伊織も、明るさを増す蛍火に囲まれて、姿が見えなくなってしまった。

 どれだけ経っただろうか。蛍が夜空へと吸い込まれていくと、周りは漆黒の闇に包まれていた。もう、そこには二人の姿がない。

 杏菜はそっと夜空を見上げた。夜空には星がちかちかと瞬いているだけだ。

 たくさんの蛍達はどこに行ったのだろう、あれも大和達のように、誰かの魂なのかもしれないと思った。

 帰ろう。目の前の光景に腰が抜けながらも、強く思う。

 何かが変わった訳ではないし、気は重いままだ。

 それでも、生きるべきだ、と言われた言葉だけで、しばらくは戦えると思ったのだ。

 頬に伝っていた涙を強く拭った杏菜の近くをふい、と蛍火が舞った。


                                 (了)

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