陸の孤島
後半うんちくが入ります。苦手な方はご注意ください。
登場人物の読み仮名ここに書きます。
栗原美園 くりはらみその 深沢徹 ふかざわとおる 玲子 れいこ 綾菜 あやな 修吾 しゅうご
日差しがじりじりと肌を焼く。
アスファルトから立ち昇る熱気に足元から押し包まれる。
この感覚を覚えると、夏が来たんだなって思う。
そう、夏が来る。三年目の夏が。
大学前で電車を降りた私は、改札口を通り、長い階段を降りて駅の構内から出た。
外に出るのとほぼ同時に、盛大なセミの声に迎えられる。
ガラスの扉があっても開け放たれているから音は素通りだと思ったのに、けっこう防音になっているらしい。
急に大きくなったセミの声に一瞬たじろぎ身を引きかけた私は、大きめのトートバックを肩にかけなおし、再び歩き出した。
大学前という駅名の通り、駅から二、三分歩いただけで目的のキャンバスに到着する。
このキャンバスに、私の通う教室はない。一般教養だった一、二年の頃はここだったけど、三年になって専科に入った際、郊外のキャンバスに教室は移った。
キャンバス内のアスファルト敷きの外道は、照りつける太陽にじりじりと焼かれて、異様な熱気を足元から立ち昇らせる。太陽の日差しはそれだけでなく、白い薄手の上着を着た私の肌まで焼きそうなほど猛烈だった。
こんな日はクーラーの効いた涼しい部屋に閉じこもって、好きな音楽を聴いたりDVDを観たりしてのんびり過ごすに限る。
そう思うのに、何故自分の通う教室もないキャンバスに出向くのかというと、ここには大学内で一番大きい図書館があるからだ。
大学四年生になったからには、卒論を書かなくてはならない。担当の教授と相談してテーマは決まって、今はテーマに沿った書籍や論文を物色中だ。
それだったら今通っているキャンバスの図書館の方が、規模は小さくても専科に沿った資料は豊富だ。
なのにこの暑い中、わざわざ別キャンバスの図書館に通うには、理由がある。
「みーそのー!」
間延びした声で名前を呼ばれた私は、声質から誰なのか察してゆっくりと振り返った。
「玲子」
「ひっさしぶり! どこ行くの?」
隣まで走ってきた玲子は、息を弾ませながら訊いてきた。
「図書館」
「相変わらず本好きねー」
玲子は私の図書館通いを、単なる本好きだとしか思ってない。おかげで私はこの一年半、安心して通ってこられた。
「どうせ暇してるんでしょ? せっかくだから一緒に行こうよ」
「どこへ?」
「サークルの集まり。これから夏のキャンプの話し合いに行くんだ。ほら、もう四年生じゃん? 今まではキャンプの準備手伝ってって言われて手伝って、あとは参加費払って参加するだけでよかったんだけど、四年生にもなると企画側に回んなきゃならなくってさ。キャンプ地の手配や食材の買い出しとか、やることいっぱいなのよ。美園が手伝ってくれたらおしゃべりもできて楽しいんだけどな」
「私は……」
顔に出てたんだろう。玲子は先回りする。
「サークル辞めたからとか気にすることないって。ウチとこのサークルは参加費さえ払えばサークルに入ってなくても参加OKだしさ。手伝いが嫌だってことなら、キャンプに参加するだけでもいいよ。……美園、修吾と別れてから誰とも付き合ってないんでしょ? ずっと一人身で大学生活終えるなんて寂しいよ。ね、もう過去の恋は忘れて、大学最後の夏休みを楽しまない?」
心配してくれてるのはわかるんだけど……。
「私はいいや。誘ってくれたのに、ごめん」
玲子はがっかりした顔をした。
「気が変わったら連絡ちょうだい」
「わかった。ありがとね」
話が終わると、玲子はばたばたと駆けていく。
立ち止ったままその姿を見送り、すぐそこの建物の角を曲がって見えなくなったところで私は小さくため息をついた。
心配してくれてるのはわかるんだけど、次の彼氏を作る気分にはなれなかった。
多分、この先もずっとそんな気になれない。
私はふと思い立って、今来た道を引き返した。
図書館は別に今日でなくったっていい。
何だか無性に海が見たくなった。
私には玲子にも言えない秘密がある。
その秘密のせいで玲子に心配かけてるとわかってるのに、言えないでいる。
いいかげん忘れなきゃならないのに、未だに忘れることができない。
三年前の、あの夏の日のことを。
駅に戻った私は、券売機の前で困ってしまった。
海に行くにはどの駅まで行けばいいのかわからなかったのだ。
うろ覚えでも何とかなると思ったのが大間違いだった。路線地図にどれだけ目をこらしても、あの日降り立った駅の名前を思い出せない。
確か乗り継ぎがあったはず。電車代は思ったよりかからなかった。
記憶をたどってみても、思い出しそうなきっかけさえ出てこない。
三年前、ここから海に向かった時は、ただ言われた通りついていくだけだったから……。
何でちゃんと記憶しておかなかったのとがっくりきながら、私は駅員さんに訊ねてみるかあきらめることにするか悩んでいた。
その時だった。
「栗原、美園さん?」
後ろの方から声をかけられた。
こんなところで名前を呼ばれるとは思わず驚いてしまう。こっちのキャンバスには知り合いが少ないから。
ちょっとだけびくついて振り返り、私は目を丸くした。
「久しぶり。俺の名前、また忘れちゃった?」
細面の顔が残念そうになるのを見て、私は慌てて首を横に振った。
忘れるなんてこと、あるわけがない。
深沢徹。
三年前の思い出に深く関わる人。
──・──・──
三年前の夏、私は海に来ていた。
高校からの友達である玲子と綾菜に誘われた、アウトドアサークルの日帰りキャンプに参加して。
最初のうちは主催の人たちが考えたスイカ割りとか広い砂浜を利用した巨大あみだくじとかで参加者全員が一緒になって楽しんだけど、昼食が過ぎると自由時間ということで、それぞれに遊び始める。
この浜は外海に面しているために遊泳禁止だ。
けれど波と遊んだり、砂山を作ったり、キャンプ場近くの木陰に座っておしゃべりをしたりして、皆それなりに楽しんでいるようだった。
私は玲子と綾菜に誘われて十数人のグループに加わった。
どうやら「まだ」カップルになれてない人たちが集まるグループのようだ。
ここのグループ以外はたいてい男女ひと組。
このアウトドアサークルは、別名合コンサークルという。アウトドアを楽しむことがサークルの目的のはずなんだけど、参加する人たちは彼氏・彼女を作ろうと頑張っている人が多い。
私も何人かの男子に声をかけられた。
「美園ちゃんさ、どんなタイプが好き?」
「あ……私、彼氏がいて……」
「へー……そうなんだ」
馬鹿正直に答えるものだから、私の周りには誰もいなくなった。
玲子と綾菜は男子に話しかけるのに夢中だ。
居心地が悪くなって、私はそのグループから離れた。
カップルを避けながら波打ち際を歩く。
海に来たのは小学生の頃の海水浴以来だ。
湾内の穏やかな波と違って、太平洋に面したここの波は大きい。
腰の高さまでありそうな波がドオォと音を立てて波打ち際に打ちつけられ、ザザーと押し寄せてきて浜を洗う。引いていく潮からは、シュワワワワーと炭酸がはじけるような音がした。
波から生まれた海の泡が消えていく音。
引いていく波を追いかけて、足の甲まで海の水につかってみた。ビーチサンダルの下がおぼつかなくなる。サンダルの下の砂が、波にさらわれていってる。
面白い感触。
ビーチサンダルを脱いでみた。ここなら木片も貝殻や小石もないから、足の裏を怪我することもない。
粒の細かい砂浜は、足の裏に気持ち良かった。
もう一度引いていく波に足をつけると、今度はずぶずぶと足が沈んでいく。
波が引いた直後の砂の上は、水分を含んでいるせいでふかふかだ。
押し寄せ引いていく波との追いかけっこと、それらの感触を楽しみながら、気付けば長い砂浜の端っこまできていた。ごつごつした岩場があって、その合間に砂浜がある。
その先に興味惹かれて、私はビーチサンダルをはいて先に進んだ。
波をよけながら、奥へ奥へと進む。
意外と先は長そうだった。高いコンクリートの壁が岩場に沿って続いてるんだけど、進んでも進んでも湾曲した壁の向こうから岩場の景色が現れて、終わりが見えてこない。
こうなってくると、岩場の終わりがどうなってるのか余計気になる。
どうせ一人暇だ。行けるところまで行ってみよう。
でこぼこが多く、途中大きな亀裂も入る岩場を気をつけて進んでいると、後ろから声がかかった。
「栗原さん!」
振り返ると、見覚えのある男子が岩場をぬって追いかけてくる。何やら慌てた様子に、私は戸惑い立ち止った。
もしかして単独行動はマズかった?
同じサークルに所属する彼は、息を切らせながら私の側まで来る。
「これ以上行くと危ないよ」
予想してなかった言葉に、私は首を傾げた。
「この先に何があるの?」
「そうじゃなくて」
彼は親指で自分の背後を指す。
「潮が満ちてきてるから戻れなくなる」
「──えぇ!?」
一拍置いて私は叫んだ。引き返し始めた彼についていく。
「それで追いかけてきてくれたの? ごめんなさい。……ええと」
名前何だっけ?
「深沢徹。急ごう、俺が通って来た時にはもう、ずいぶん潮が上がってたんだ」
深沢君に先導されて戻るけれど、行きに波をよけながら通った場所は、もう海の中に入りつつあった。ここだけ、背丈より高い岩が海の方にかなりせりだしている。私がさっき歩いていたところはここより奥まっていて少し高さもあったので、気付けなかったのだ。
大きな岩に打ちつける強い波。
私は尻込みしてしまった。砂浜が出ている時間がほとんどない。波が引いた隙に駆け抜けるなんて無理。足をとられて、もし転んでしまったら全身ずぶぬれだ。電車で来たし、濡れる予定なんてしてなかったから着替えも持ってきてない。
岩は高くて越えて行けるわけもなく、転ばなかったとしても、ひざ丈のキュロットは間違いなく濡れてしまう。
「恐い?」
胸中を言葉にすることができず、私はこくんとうなづいた。すると、何故か彼はきびすを返して私の隣を抜けていった。
「満潮をやり過ごそう。向こうの方に高くなってる岩があるから」
彼の機転の早さに頭が追い付かず、私は彼を追いかけながら訊こうとする。
「ええと……」
さっき名前何て言ったっけ?
人の名前って聞いてもすぐに忘れちゃう。
彼はちょっと振り返って苦笑した。
「徹。深沢徹。栗原さんと同じ大学一年生」
「ごめんなさい。その……深沢君はここに来たことあるの?」
「さっき探検したとこなんだ」
「それで私に気付いて追いかけてきてくれたの?」
「うん」
さっきより波が近づいてきているような気がする。
ちょっと恐くなってきた。歩きにくい岩場をコンパスの長さを利用してさくさく進む彼を、私はちょこちょこと足を動かし必死に追いかけた。
さっきたどり着いた地点より、さらに先へと進む。
岩場は次第に高く、細くなっていく。海面より一段高くなっている岩に波が当たり、しぶきが跳ね上がる。
本当に大丈夫なんだろうか。
不安を覚えるけど、今となっては彼についていくしかない。
岩場の終わりは唐突にきた。
一層高くなった岩の、その先が急になくなっている。
“高くなっている岩”は、その一歩手前にあった。
縦に割れて階段状になっている最後の難所を慎重に進む。
彼に手を差し出された。
「ここ、ちょっと幅が広いから」
五十㎝くらい幅がありそうな亀裂は、足場が悪いこともあってビーチサンダルで飛び越えるにはちょっと怖い。なので遠慮がちながらも、ありがたく手を借りた。
大きな手。
修吾──私の彼氏より大きいかも。そういえば、背丈も修吾より少し高いくらい。
って、彼氏と比べてどうするんだか。
私はよぎった思いを打ち消して、その手を支えに亀裂を飛び越えた。
亀裂を飛び越えてたどり着いたところは、畳一畳分くらいの広さのなだらかな岩の上だった
「潮が引くまでに時間かかるから、座らない?」
真ん中より少し右寄りに座った彼が、手のひらで左隣を叩く。
海を正面にして座ると、背後がコンクリートの壁になる。岩との間に大きな隙間があるからもたれられないその壁は、高く高くそびえたち、肩車してもらったとしてもきっと縁にも手が届かない。
ここを登れたら岩場を脱出できるのになぁと思いながら、こぶし二つか三つ分の距離を置いて、私は腰を降ろした。
「ええっと……」
しまった。また名前忘れた。
細面で、あまり男くさくない顔立ちをした彼が、苦笑しながら察してくれる。
「深沢徹だよ。栗原美園さん」
「何度もごめんね、深沢君。そういえば、どうして私の名前、知ってるの?」
「サークルの新歓コンパで自己紹介してたじゃない。日本人形みたいな髪だなって思って、印象に残ってたんだ」
飲み屋を貸し切った新入生歓迎コンパ。自己紹介の時間はあったけど、そこで覚えた名前は一つもない。
この人──深沢君は全員の名前を覚えたんだろうか。だとしたらすごい。
なのに私ときたら……。
恐縮して頭を下げた。
「名前なかなか覚えなくてごめんなさい」
「いいよ。人の名前なんて簡単に覚えられるもんじゃないデショ」
本当に気にした様子なく、さっぱりした感じに笑う。
やさしいなぁ。
やさしいといえば、こんなところまで追いかけてきてくれて。
「ごめんね、深沢君。付き合せちゃったりして。深沢君一人だったら戻れたんでしょ?」
「女の子をこんなところに一人で取り残しておくわけにはいかないからね。──ああ、気にしなくていいよ。かわいい子と二人きりなんて役得、役得♪」
口が上手いんだからと茶化すこともできず、私はうつむいてしまった。
社交辞令だってわかってるのに、何だか顔がにやけてしまう。かわいいなんてめったに言われる言葉じゃない。彼氏にだって言ってもらった覚えがないくらいだ。
恥ずかしさを紛らせるために、別の話を切り出した。
「それにしても、ここ危ないよね。子供とか知らずに入っちゃったら大変じゃない? 誰も安全管理してないのかな?」
「あったよ」
「え?」
「誰かがいたずらで外しちゃったんじゃないかな? コンクリートの土台付きの鉄の棒と、ロープが岩の隅の方に片してあったんだ」
「え!? やだ。気付かなかった」
じゃあ私ってば、立ち入り禁止の場所に気付かず入り込んでしまったってこと? 大学生にもなって恥ずかしい。
顔を真っ赤にしてうつむくと、深沢君はあははと声を立てて笑った。
「俺なんて、それに気付いてながら探検しちゃったもんね」
あんまり屈託ないものだから、私もおかしくなって一緒に笑ってしまった。
「ここまで来るのってホント探検だよね。私もこの先何があるのかなってわくわくしたもん」
「だよねー。俺、小学校のときの夏休み思いだしたよ。じいちゃんの家の裏が山でさぁ……」
小学校の時、どんな夏休みを過ごしたかを話しているうちに時間が過ぎていく。
波はどんどん高くなっていた。
私たちの座っている岩の上にもしぶきが上がるようになってきて、不安になる。
「ね……大丈夫かな? ここ」
ここまで波が押し寄せてきたりしないかな?
深沢君は左手首にはめた腕時計を見て言った。
「今午後四時二分だから大丈夫だよ。今日の満潮は四時十分だから、あと八分でここまで上がってくることはないって」
「え? そうなの?」
だからこんなにも落ち着いているのか。
「深沢君ってそういうのに詳しいの?」
「詳しいってほどのことはないよ。今日海に来るからと思って、新聞見てチェックしただけ」
「新聞に載ってるの?」
「そうだよ。毎日、日の出日の入りとか、月の満ち欠けとかも。それに今日は小潮で、そんなに潮は上がってこないんだ」
「やっぱり詳しいじゃない。小学生の時習ったような気がするけど、私全然覚えてない。小潮だとそんなに潮が上がってこないの?」
「うん。潮の満ち引きは太陽と月の重力で発生してることは覚えてる? でも太陽と月は同じ速度で回っているわけじゃない。
正確な話し方をすれば、地球は一日の間に一回自転するから、地球から見て太陽は一日の間に一回回っているように見える。月はというと、地球を回る公転周期が27日と8時間弱だから、日によって見える時間帯がばらばらだ。深夜になって東の空から昇ってくる日もあれば、真昼に東や西の空に見える日もあるよね。それは地球が自転してるからそう見えるんであって、実際にはそんなに早く月が動いているわけじゃない」
ええっと、太陽と月は同じ速度で回ってるわけじゃなくて、さらに正確に言えばそう見えてるだけ?
理解しようとしてしかめっ面をしていると、深沢君は遠慮がちに言ってきた。
「こういう話は、やっぱりつまんないかな?」
私はふるふると首を横に振る。
「ううん。ちょっと難しいけど、面白い。よかったら続けて」
苦手な理科の授業も、退屈しのぎにはちょうどいい。
深沢君はくぼみにたまったわずかな砂をかき集めて、小さな砂地を作った。その端っこに人差し指をぽんと置いてくぼみをつける。
「これが太陽だとすると」
反対側の端っこにぽんぽんと二つ点を置く。
「これが地球でこっちが月。これがある日の太陽と月と地球の位置関係だったとして、この位置関係は一日の間に大きく変動することはなくて」
“地球”を指差しながら。
「地球がここで自転するから、その地球に乗っている俺らは太陽と月がぐるっと回ってるように見える」
図にしてもらって、私がようやく理解した。
「太陽が同じ位置にあることは知ってたけど、月もそんなに動かないものなのね」
理解できたことが嬉しくて少し興奮気味に言うと、深沢君は照れたような笑みを浮かべる。
「学校の授業ってけっこう駆け足だから。勉強することがいっぱいあって、こういう説明っておざなりになりやすいよね。俺も高校ン時にふとしたことで興味持って、勉強しなおして初めて知ったんだ。
で。話の続きなんだけど、そんなに動かないといっても、27日と8時間弱で地球を一周してるから、月は地球から見て毎日13度とちょっとずつ移動してるんだ。だからこの翌日にはこのくらい移動してることになる」
さっき月と言ってつけたくぼみのすぐ隣に、もう一つくぼみをつける。
「こうやって毎日月の位置が変わっていって、地球から見た太陽との角度がずれると、月と太陽が地球に及ぼす重力の影響が変化するんだ。
たとえば月がここと、ここの位置にあるとき」
地球と太陽の間と、その反対側に月を置く。
「月と太陽が同じ方向や真逆の方向に引っ張るから、地球にかかる重力は最大になるんだ。逆にこことここの位置、太陽と月が垂直の位置関係にあるときは、重力の分散が一番大きくて、地球への影響力が最小になる。
つまり、地球が太陽と月から受ける重力が最大になる頃が大潮、最小になる頃が小潮ってワケ」
「だからこの時間に満潮になる今日は小潮なのね」
深沢君は目をしばたかせた。
あれ? 間違ったこと言ったかな?
「えと……重力が最大になるときが満潮になるのよね? ということは、満月や朔月の日は、正午や深夜頃に満潮になるんじゃない? だったら逆に正午や深夜から時間がずれるほど、満潮の時の潮位が低くなるんじゃないかなぁって。でも、あれ? それで言ったら小潮の時の満潮って6時くらいにならないとおかしいわね。私、変なこと言ったみたい。ごめんなさい」
「いや、だいたい合ってるよ。重力場の方向や海水の慣性とかあるから全くその通りとは言わないけど、大潮の日はだいたい正午と深夜が満潮になるんだ。──そうか。この時間に満潮ってことは小潮……そういう言い方も有りだな。栗原さんって面白い発想の仕方するね」
これってほめられてるのかな? 思い付きで言っただけなんだけど、照れてしまう。
照れ隠しにうつむいたその時、足元に水しぶきがかかった。
「ひゃっ!」
横座りみたいな恰好から慌てて足を引っ込めたものだから、体が傾いて隣の深沢君にぶつかってしまう。
「ご、ごめんなさい」
「平気平気。それよりもっとこっちに寄らない? そっちからくる波しぶき、ちょっと大きいみたいだ」
海の方を向いて座ってるんだけど、座っている岩の横に入り込んでくる波がしぶきを上げて、時折岩の上に水滴を降らせる。
近寄らせてもらった方があまり濡れなくていいかもしれない。
「じゃあちょっと……失礼シマス」
岩の上に手のひらを突いてちょこっとだけお尻の位置をずらした。
さっきの距離はこぶし三つくらい。
でも今はこぶし一つ弱。
体温も感じられそうな距離にどきどきした。こんなに男子と接近したの、彼氏以来だ。
「わ、私たちがいないってこと、誰も気付いてないのかな?」
緊張をごまかすために別の話題を振った声は、自分でもよくわかるくらいに裏返っていた。は、恥ずかしい……。
きっと気付かないフリをしてくれたんだろう。深沢君はのんびりした口調で言う。
「気付いてるかもしれないけど、きっとここにいるってことはわからないんじゃないかな? 栗原さん、波打ち際歩いてたでしょ? 栗原さんの足跡はもう消えちゃってるよ。俺もけっこう波打ち際通ってきちゃったし、誰にも言ってこなかったから」
「ご、ごめん。私のせいで深沢君も行方不明にしちゃった」
「いいっていいって。俺も誰かに伝言しておけばよかったのに気が回らなかったし」
「……ねぇ、このまま私たち、おいてきぼりにされちゃうってこと、ないよね?」
「それは大丈夫だよ。日が暮れる前にキャンプ場でバーベキューして、暗くなったら花火することになってるから、その頃までには潮も引いてちゃんと戻れるよ」
波はつねに一定の高さってわけじゃない。弱くなったり、ときに大きくなったりする。
頭の上にまで落ちてきた波しぶきにびっくりして、私はうっかり深沢君の青色のパーカーのすそにつかまってしまった。
「ご、ごめん」
離そうとは思うんだけど、離せない。
そのうち波に飲み込まれるんじゃないかという恐怖と、それだけではない“何か”。
指先が言うこときかなくて、震える。
心の中で葛藤していたその時、深沢君の腕がふわっと背中にかかった。
「こんなに波が高くちゃ恐いよね。──やっぱりあの時、栗原さんを背負ってでも浜に戻ればよかったよ。ごめん」
肩に乗せられた手のひらに、軽い力がこもる。
引き寄せられて、私の頬と肩が深沢君の肩口と脇に密着する。
握りしめてるのはパーカーの裾だけなのに、まるで深沢君にしがみついているような気分だった。
そんな状況に、心ときめく。
いけない。私には彼氏がいるのに。
それに深沢君にだって。
名前は覚えられなかったけど、顔だけはよく覚えてた。
サークルの集まりに顔を出す彼の側には、いつも同じ女の子がいた。かわいらしい形のショート髪をちょっとだけ茶色に染めた。
彼女は今日、どうしたの?
何のつもりでこんなことしてるの?
知りたいのに、訊けなかった。
訊けば“今”が壊れてしまう。壊さなきゃいけないと思うのに、壊せない。
私を抱き寄せたまま、深沢君はぽつんとつぶやいた。
「まさに“陸の孤島”だな」
「え?」
「“陸の孤島”って、交通の便が悪かったり、行き来が難しかったり大変だったりする場所のことを言うけど、ここも今は“陸の孤島”って言えるよね。この上には登れないし、海が道をふさいで浜にも戻れない。……ここも陸の一部なのにね」
この上と言って深沢君が見上げたのは、背後のコンクリートの壁。
私の側に体をねじって見上げたその動きが、私をさらに抱き込む形となった。
私の方を向く深沢君と、その胸に抱きこまれる私。
抱き合うようなその体勢にのぼせて、めまいを起こしてしまいそう。
どうしよう……。
彼氏がいるのに、嫌じゃない。それどころか、もっと強く抱きしめて欲しいなんて思ってる。
深沢君は? この体勢がただのサークル仲間の距離じゃないってわかってる? あの茶髪の女の子のことは?
その時、深沢君の手がぱっと離れた。
「ごめん。慣れ慣れしかったね。──嫌じゃなかった?」
その声は、何だかかすれていたように聞こえた。
でもそう聞こえたのは、私がそう聞きたかったからだけかもしれない。
どっちなのか確かめようがなかった。
その時の私はいっぱいいっぱいだったから。
抑えきれない衝動を、私は勇気を振り絞って口にしていた。
「怖いから、さっきみたいに、しててくれる……?」
見え透いた嘘に、かぁっと頬が火照るのを感じた。
深沢君はすぐには動かなかった。そのことが私をいたたまれなくする。
どんな女だって思われただろう。
逃げられる場所があるのなら、今すぐにでも立ち上がってすっとんで行きたかった。
無反応の緊張に神経が焼き切れそうになったその時、深沢君の手がもう一度肩に触れた。
「怖くなくなったら、言って」
この時、深沢君が何を思いどんな表情をしていたか、私は知らない。
ただ、望んでいたぬくもりに包まれて、何もかもがどうでもよくなっていた。
太陽が傾いてきて日蔭が出来つつある岩場。
けれどもまだまだ汗ばむような暑さの残る陸の孤島で私たちは抱き合い、無言で海を見つめ続けていた。
波しぶきはもう上がってこない。視界の端に、さっきまで海に沈んでいた岩が見える。
それでも私は、握りしめたパーカーから手を離すことができなかった。
いつまでもこんなことしてるわけにはいかないのに。
「今、何時だろ……」
つぶやくと、深沢君がみじろぎした。肩にかけていた手を外し、首に腕を巻きつけるようにして、私の目の前に手首をもってくる。
怠惰そうなその動きに、私の胸はふたたび騒ぎだした。
私の目の前で手の甲をこっちに向ける。
大きな時計盤がよく見えるようになった。黒くてごつい、デジタル時計。
時刻は17時16分。
「帰れなくなったのが満潮の一時間前くらいだから、もう大丈夫かな」
深沢君の独り言めいた言葉に、私はこの時間の終焉を悟った。
青いパーカーから手を離し、深沢君の肩口にもたせかけていた頭を起こす。
「……ごめんね。いろいろ迷惑かけちゃって」
私が離れていくのと同時に、深沢君の腕も離れていく。
「気にしなくていいよ。俺は女の子守れて役得だったんだからさ」
おどけたように言うので、私は声を立てて笑った。──笑うしかなかった。こうしてさっきまでのことを笑い飛ばして、なかったことにしていかなくちゃ。
立ち上がってお尻のあたりをぱたぱたはたいていると、先に立ち上がって岩の上から降りはじめた深沢君が、振り返って手を差し出してきた。
その手に私は躊躇する。
怖かった。
そのぬくもりにもう一度触れてしまったら、離れたくないと泣き叫んでしまいそうで。
なかなか手を取ろうとしない私に、深沢君は困ったように目じりを下げた。
「やっぱり、彼氏のことが気になる?」
何がやっぱりなのかわからないけど──知ってたんだ。そりゃそうよね。私、午前中からいろんな人に言ってきたもん。
ためらいの理由は違うけど、ごまかすなら今しかない。
私はぎこちなくも、しっかりとうなづいた。
「でも、ここには彼氏いないからさ」
どきんと胸が高鳴った。それって、どういう意味?
「代われないから、俺で我慢して?」
続く言葉に、少なからずがっかりした。
……彼氏は見てないから今だけはっていう意味かと思った。
そんなわけないよね。深沢君には彼女がいるんだし。
何を期待してたんだか。
これ以上深沢君を困らせてもいけないと思い、彼の掌に手を重ねた。大きな彼の手に、そんなに小さいわけでもない私の手がすっぽりとおさまる。
タイミングを合わせて手を引かれて、私は一つ目の岩の上に飛び移る。
「潮が引いたばかりで、岩の上まだ濡れてるから」
そう言われて、岩を飛び移るごとに手を借りた。
そのたびに深沢君の手に触れて、離した。
思ったよりダメージは少なかった。
期待できないことが、もうわかったから。
最後の岩から危なげなく砂地に降りて、最後の手が離れていった。
「もうバーベキュー始まってるかもしれない。急ごうか」
「うん」
深沢君のあとに続いて、私は歩を早める。
「そういえば深沢君にも彼女いるでしょ? 今日は来てないの?」
深沢君は振り返らずに答えた。
「彼女、今日は夏期講習だったんだ。だから不参加。でも知ってる奴らはいるから、こういうこと知られたらマズいか。……栗原さんも、彼氏同じ大学じゃなくても噂されると困るよね」
「……うん。同じ高校から進学した人、何人かいるから」
「彼氏はどこの大学?」
「東京の方。今年の夏は帰ってこないんだって」
本当はキャンプに参加しないで彼氏を待ってるつもりだった。けど、帰らないからって電話口できっぱり言われてしまっては、待っていてもしょうがない。何だか忙しそうだし、帰省するにも電車代かかるし、帰ってきてとは言えなかった。
言えてたら、今こんな思いをしなくても済んだだろうか。
さっき道を阻まれたところまで、すぐにたどり着いた。
潮はすっかり引いて、波が来た時に通っても濡れそうにない。
海側を歩いていた深沢君が、急に立ち止った。
「先に行って。時間ずらして戻るから。俺の方が言い訳考えておくから、栗原さんは嘘つかなくてもいいからね」
嘘つかないわけにはいかないじゃない。二人きりでいたことを内緒にするのなら。
そうは思ったけど、私は振り返ってにこっと笑った。
「ん、わかった。……本当にありがとう」
これでおしまい。
じゃあね、と言って先刻道を阻んでいた岩を回ろうとする。
「栗原さん」
話は終わったはずなのに、何故か呼び止められた。
振り返って見た深沢君は、さっきまでのやさしげな視線をなくし、挑むような力を瞳に込めて私をまっすぐ見据えていた。
その力強さに、魅入られてしまいそうになる。
深沢君の口が、ゆっくりと開いた。
「栗原さん。──もし俺が、ここが通れなくなるタイミングを見計らって声をかけたんだとしたら、どうする? 」
それってどういうこと?
私は混乱する。
二人っきりになりたかったっていうこと? でも彼女は? 私に彼氏がいること知ってるのに、どうして?
声を出せず反応もできず、その場で固まってしまう。
張り詰めた緊張の糸を切ったのは、深沢君の方だった。
ふっとやわらかい笑みを見せる。
「冗談だよ。ほら、行きなよ。友達心配してるよ?」
その声と、ひらひら振られる手にうながされて、私は前を向き歩き出した。
浜の方に出ると、夕暮れに染まったそこには家族連れやアベックがぽつぽつといるだけだった。
サークルのみんなは、きっとキャンプ場の方に行ってるんだろう。
砂浜を上がって松林を抜けると、屋根付きの水場に裸電球が灯され、その下でサークルのみんながわいわいとバーベキューの準備をしていた。
車から運ばれ、積み上げられたクーラーボックス。
その中を確かめては手の空いている人に指示をする先輩。
プラスチックのお皿も運ばれ、近くのテーブルに積み上げられる。
炭火の上で焼かれる肉や野菜のいいにおい。
勝手に食べ始めて怒られてる人もいる。
何だか夢を見ているようだった。
その光景はさっきまでとのギャップが大きすぎて、現実なのに現実に感じられなくて。
唐突に声をかけられた。
「あー! 美園!」
私は夢見心地から目を覚ました。
夢と現実が逆転する。
岩場での出来事が夢に、現実はここに。
大声を上げた玲子は、大きく手を上げて私を呼んだ。
私は少し足を速める。
「どこ行ってたのよぅ」
綾菜が口をとがらせる。
「ごめーん。ちょっと岩場の向こうに探検しに行ったら、潮が満ちてきちゃって戻れなくなってさ」
近くの水道で手を洗ってから、二人の隣に行った。
おにぎりやサンドイッチをクーラーボックスからプラスチック皿に移し替えていた玲子と綾菜に混じる。
手近なタオルで手を拭いて、足元のクーラーボックスからおにぎりとかが入った保存パックを取り出し始めた私に、玲子が疑わしげな声をかけてきた。
「一人で?」
「そうだけど……?」
自然に言えただろうか。
玲子は少し上を向いて、がっかりしたようにため息をついた。
「てっきり誰かと一緒かと思った」
「そんなわけないじゃん」
「そうだよね。美園には修吾君いるし」
ちょっとほっとしたように綾菜に言われて、私も内心安堵する。
玲子が不満げに言った。
「でもさ、あいつこの夏帰ってこないって言ったんだって? 彼女を地元に残してそれってどうよ? あんな薄情な奴放っておいてさ、美園は美園でちゃんと青春楽しみなよ」
「う、うん……」
私は空返事をしてしまう。
聞こえてきた声に耳をそばだててしまって。
「あ! 深沢! てめ、一体どこ行ってたんだよ!」
「悪ぃ。コンビニ探して道沿い歩いててさ、見つかんねーって意地になってたら引き返すの遅れた」
「時間考えて行動しろよ」
視線を向けたい先を悟られないようにゆっくりと首を回すと、ちょうど、やっぱりさりげなく視線を遠くに移した深沢君と目が合った。
お互い目配せをし、
それを最後にあの夏は終わった。
──・──・──
思わぬ出会いが、三年前の出来事をよみがえらせる。
「何か困ってるみたいだけど、どうかしたの?」
近寄ってくる深沢君から目をそらしたくて、私はうつむいてしまう。
「あ、あの、海に行きたくて……その」
「どこ行きの切符買えばいいかわからなかったってこと?」
空いている隣の券売機の前に立って、深沢君はジーンズのポケットに入れていた財布から札を出して切符を買う。
そして一枚を渡された。
「じゃあ行こうか」
私は一瞬ぽかんとし、それから慌てて改札口に向かう深沢君を追いかけた。
何で深沢君も切符を?
混乱に訊ねる言葉を見つけられないでいる私に、先回りして深沢君は言った。
「その調子だと、乗り換えもどうしたらいいかわからないんでしょ? 俺暇だし、海見たいなって思ってたところだったし、一緒に行こ」
深沢君は自動改札機に切符を通してどんどん先に行く。
私は信じられない気持で後を追った。
そんな偶然ってあるの?
学部が違うから、二年までの一般教養ではすれ違うことはあっても、三年になってキャンバスも分かれてしまうと、そんな機会さえ失われてしまった。
こっちのキャンバスにまで本を借りに来るのは、蔵書量が多いからだけじゃない。もしかしたら姿を見られるかなと期待してのこと。
けど広いキャンバスの中、図書館に用がある程度のことでは、そんな偶然に巡り合うことはなかった。
なのに図書館にも行かなかった今日、偶然会って、声までかけられて、一緒に海に行こうとまで誘われて。
夢だ。そうに違いない。
唐突に動かなくなった私を、深沢君も立ち止って振り返った。困ったように目じりを下げる。
「俺と一緒は、やっぱり嫌かな?」
やっぱりって何だろう。
以前も浮かんだ疑問。けど返事をするので精一杯で、すぐにかき消える。
私は、勇気を振り絞って、首を横に振った。
どうして声をかけてくれたんだろう。
どうして一緒に海に行ってくれるんだろう。
知りたい。聞きたい。
でもついていくと決めるために勇気を使い果たしてしまったようで、問いかけの言葉は喉の奥から出てきてくれなかった。
ありがたいことに電車はすぐに来てくれて、深沢君に続いて私は乗り込む。
昼下がりの電車内は人がまばらで、窓に沿ってしつらえられた長椅子の真ん中に深沢君はどっかり腰を降ろす。
「はー、涼しい」
冷房にあたって気持ちよさそうにしている深沢君の隣、一人分の座席を空けて私は座った。
電車はがたんと揺れてゆっくりと速度を上げ始める。電車が速度に乗ってしまうと、会話がないことに居心地の悪さを覚えた。
話すこと、話すこと……。
電車代は返したし、他には……。
うつむき加減にうんうん考え込んでいると、つぶやくように深沢君は言った。
「こうして話すの、三年前の日帰りキャンプ以来だよね。あのあとサークルに参加しなくなっちゃったけど、やめちゃったんだって?」
軽い口調で話しかけてくる深沢君に、私はちらっと目を向けた。屈託のない深沢君の表情に、緊張がほどけてくる。少しぎこちなくなりながらも、私は笑みを返した。
「うん……バイト始めたら忙しくなっちゃって」
「へー。何か欲しいものでもあったの?」
馬鹿正直な私はうっかり口を滑らせてしまう。
「彼氏に会いにいく旅費をためたくて」
「そうなんだ。それで、彼氏には会いに行ったの?」
私は首を横に振る。
「ううん。その前に別れちゃった」
──・──・──
バイトを始めたのは、サークルを辞める理由が欲しかったからだ。
あの時は深沢君と離れなくてはと思ってた。
深沢君に感じたあの気持ちは、特殊な状況だったからうっかり芽生えてしまったもの。
吊り橋効果。
危険を感じたときのどきどきを恋のどきどきと勘違いする、一過性の恋愛感情。
だから時が過ぎれば、この気持ちは消えるはず。
私には彼氏がいるし、深沢君には彼女がいる。だからこんな気持ち、勘違いでなくちゃいけない。
長いこと彼氏に会ってないからいけないんだ。
サークルを辞める理由としてだけでなく、忙しさに気持ちを紛らせるのにも、彼氏に会いに行く資金をためるためにも、始めたアルバイトは都合良かった。
けれど、どんなに忙しくしてもあのときの気持ちは消えてくれない。
消えない想いに時折苦しむ。
苦しむ度に、私はあの時のことを反芻していた。
話してて楽しいと思ったのは嘘だったの?
力強く守ってくれたあの腕に安心した気持は偽りだったの?
違う。全部本当のことだ。
わざわざ追いかけてきてくれて、波を怖がった私に付き合ってくれた。話しかけてくれて楽しませてくれた。ちょっとうんちく入ってるかなって思ったけど、嫌味がなくて興味深かった。波に飲まれるのではと怖がった私を、肩に手を回して安心させてくれた。
二時間ちょっとの短い間に、私は深沢君に恋をしていた。
そう気付いた冬休み前、連絡の滞りがちになっていた彼氏に電話した。
別れを告げたら、あっさり承諾された。
なんてあっけない。
こんなことなら、もっと早くに別れを告げていればよかった。そうすれば罪悪感の一つは消えて、こんなに苦しむことはなかったのに。
そう、彼氏と別れたからって、深沢君と付き合えるようになるわけじゃない。
だって、深沢君には彼女がいるんだもの。
それを知ってる私は、深沢君に告白することもできなかった。
──・──・──
私はわざと明るく言った。
「そういう深沢君はどうなの? ショートカットの女の子と付き合ってたでしょ?」
「別れたよ」
あっさりと返ってきた言葉に、私は息を飲んだ。
深沢君は自嘲気味な笑みをこぼす。
「もともとさ、告白されたからちょっと付き合ってみようかっていう軽いノリだったんだよね。彼女の方は真剣に付き合ってくれようとしてたのに俺がそんなだったからさ、付き合ってくうちにすれ違うことが多くなって、秋には別れることになった。安易に付き合うもんじゃないね。彼女には悪いことしたよ」
「そ……うだったんだ」
私はうつむいた。悪いこと聞いちゃったという罪悪感と、もう付き合ってないんだという喜びとがないまぜになって、顔を見せられない。
深沢君が急に立ち上がって、私は慌てた。
見上げると、深沢君は首をすくめて苦笑している。
「気にしなくっていいよ。悪いのは俺なんだからさ。──乗り換えだよ」
そういえば、ついさっき次の駅に着くとアナウンスが入ったんだった。そっか。乗り換えか。
電車を降り、ホームを移動する。
電車を待つ間に、思い切って聞いてみた。
「今は誰かと付き合ってるの?」
「あれ以来、誰とも付き合ってないな。そういう栗原さんは?」
「私も……付き合う気になれなくて」
誰かと付き合えるわけなかった。
私の心は深沢君にしかなかったから。
ずっとあの場所にいるような気分だった。他の人に混じって普通に生活しているのに、何かのきっかけがあるたび取り残されたような気分になる。私一人が、あの岩の上に取り残されたような……。
三年前のあの夏の日から、私は身動きとれずにいる。
あの、陸の孤島から。
ずっとあきらめてた。深沢君には彼女がいるからって。
私はこの想いをずっと抱いたまま、一生を過ごすんだって思ったことさえある。
でも。
どきどきと胸が高鳴ってくる。
私、あきらめなくてもいいの?
わからない。深沢君の態度は以前と変わらなくて。
親切なだけかもしれない。
海に行きたいっていうのは本当のことで、その場に偶然私が通りかかったから声をかけただけかもしれない。
わからない。三年前も今も、どういうつもりがあって私に付き合ってくれるの?
海に向かってるんだろうけど、どの海に向かってるの?
やっぱり、三年前のあの海岸?
深沢君は話しかけてこなくなった。私も口を開かなかった。
三年前とは違う沈黙の時が、淡々と流れていく。
乗り換えた電車の中で、アナウンスの声が響き始める。深沢君が立ち上がってドアの前に行くので、私も立ち上がり後に続いた。
停車速度が少し速くて、よろけた私を深沢君は無言のまま肩を抱いて支えてくれた。
その力強さは、三年前と変わらない。
電車が止まるのと同時に、深沢君の手は離れていった。
開いた扉から、深沢君は熱気のこもる外へと歩き出す。私はそれについていく。
見覚えのある、ホームに木造の小さな駅舎がついただけの、簡素な駅。
改札で駅員に切符を手渡し、駅から出る。
駅から出てすぐ車道になっていて、信号のない横断歩道を車が来ないことを見計らって渡る。車道の向こうは雑木林。雑木林の途中に車一台が通れるほどの砂利道があって、その横に古ぼけたキャンプ場の看板が立っていた。
間違いない。ここは三年前の。
「行こう」
景色を見渡していつまでも立ち止っている私に、深沢君は声をかける。
距離を縮めると、深沢君は再び歩き始めた。
ところどころに草の生える砂利道を通り抜け、屋根付きの炊事場にテントの張れる空き地だけの簡単なキャンプ場を通り抜ける。
松林も抜ければ、そこは広々とした海岸だった。
一度しか来たことがないのに、その景色のなつかしさに胸がつまる。
深沢君を追い越して海に向かった私の視線は、自然と海岸の端に向いた。
そこに、三年前にはなかった緑色の何かを見て、私はぎくっとした。
もしかして……。
歩きにくい砂地をそちらに向かってざくざくと歩く。
「波打ち際の方が歩きやすいから」
深沢君に言われて、私は一旦海を目指した。
波に引き締められ平らに固くなった浜にたどり着くと、砂だらけになったミュールで私は境界線をたどる。その足は次第に早まり、いつの間にか走り出していた。
近付いてくる緑色の何か。それは網目状になっていて、近付くにつれその高さ幅がどんどん大きくなる。
それが何なのかはっきりわかると、私の足の動きは緩慢になった。
岩場への立ち入り禁止を示す緑色のフェンス。海の中でとぎれていて、見上げるほどの高さのさらに上には有刺鉄線が張られている。扉があって、そこにはプラスチックの札がぶら下がっていた。
『関係者以外 立ち入り禁止』
大きな南京錠に、私は呆然とする。
入れない。戻れない。
よろよろと足を動かし、コンクリートの土台でしっかり固定された、まだ新しいフェンスにしがみついた。波打ち際に近付いても、大きな岩に阻まれてその先が見えない。
あそこにいる私は、もう救い出されることはないのだという、奇妙な虚無感に襲われる。
馬鹿だ。何考えてるんだろ。私はここに、フェンスのこちら側にいるのに。
自分に呆れて笑いだしそうになったとき、後ろで声がした。
「この海岸は子供も来るから、何か起こる前にって思ったんだろうね。二年前から工事が始まって、今年の春に完成したんだ」
私はその言葉に衝撃を覚えて、ぎくしゃくと振り返った。
「知っ……てたの?」
どうして知ってたの? もしかしてこの海岸に何度も足を運んでたの? だから迷うことなくここにたどり着けたの? もしかして──。
あふれかえり言葉にできなくなった疑問を察したように、深沢君はぽつぽつと話し出す。
「ちょくちょく来てたからね。──最初の頃は岩場の方まで行ってたけど、工事が始まってこの辺り立ち入り禁止になって、もうあの岩の上には行けなくなるんだって思いながら、工事が進むのを見守ってた」
あの岩──。
胸が高鳴る。
もしかして、深沢君もあの夏のことを忘れられなかったの?
少し離れたところで立ち止った深沢君を私は少し顔を上げて見つめた。私の視線は、深沢君の視線とぶつかり、からみあう。
まばたき一つしない彼の熱い視線に、息が止まる。
彼の口元が、ふっとゆるんだ。
「栗原さんがあのキャンバスの図書館をよく利用するのは知ってたんだ。……あのあと、栗原さんがサークルをやめたって聞いて、避けられてるんだと思った。だから見つからないようにこっそり見てた。
──今日も栗原さんの姿を見つけて、でも急に戻って行くからついあとをつけたんだって言ったら、栗原さんはどう思う?」
おしまい
***あとがき***
うんちくはうろ覚えを元にウィキペディア様で内容を補足しつつ書きました。参考にした項目は、「月」「潮汐 ちょうせき」「小潮 こしお」「吊り橋理論」です。
警告 : もし主人公たちと同じ状況に陥ってしまった場合、主人公たちのように岩場の奥で満潮をやりすごすのは 大変危険 です。波にはごくたまに、周期的なものを無視したとてつもなく大きなものが混じることがあり、そのたった一波に飲まれて亡くなられている方も多くいらっしゃいます。
ですので、衣服が濡れても必ず浜に戻ってください。