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十章『逆鱗』(1)
 幼い頃の記憶というものは、歳を重ねるにつれておぼろげになってゆくものだが、チャムは網膜に焼きついた一場面を、今でも閃光のように思い出すことがある。
(あれは、夢だったんじゃないか…)
 と、チャムは思うことがある。
 まっすぐに伸びた白髪に、整った目鼻立ち。やさしげに微笑む目元に小さく墨を落としたような黒子(ほくろ)
 その容姿を思い出すたびに、今でも甘酸っぱい何かが全身に広がってゆく。
 それは甘美であればあるほど、現象としては記憶から遠のいてゆくのに、逆に感覚だけが今でも彼女がこの手の中にあるようにチャム自身に錯覚させる。
 チャムは英雄ラームの子として生を受けたが、物心つくと同時に偉大な父はこの世の人ではないことを知った。
 母もいない。剣士団の誰に聞いても答えはあやふやで、やや知恵もついてくると、母のことは知らないほうがよいのだと思うようになった。乳母はいたし、チャムには彼女こそが母だからだ。
 チャムは十三歳を数える頃になっても、宿舎で剣士団の門下生たちが酒を飲んで大声で騒いでいるのを見ると、どうにもおっかなくて、近寄りがたかった。
(酔っていたら剣を振れないだろう)
 だから、あそこにいるのは本物の剣士ではないのだと思った。二代目団長のエリリスは酒を遠ざける性質の人だが、初代ラームはむしろ彼らに混ざって大騒ぎを楽しむような男だったと聞く。
 乱世に立つ英雄というものは倫理の点から見れば例外なく大悪人だが、時が経つにつれてその像が清らかに整えられる。ラームの死後十年の時点でそれが顕れ始めたのは、剣士団の威厳を増すためにエリリスが腐心したためであることを、チャムは二十歳を過ぎるまで気づくことはなかった。
 エリリスは初代団長の名を汚すような痴話などをあらゆる労力を惜しまずにつぶしてきたが、剣士団の門下生の何割かはかつてのラームの戦友であるから、酒の席ともなればつい口からこぼれてしまう者もいた。
 話をしていたのは暢気(のんき)そうな顔をした隻眼(せきがん)の男だった。
「ラームは、ああみえて女には見境なくてな…」
 というと、若い連中は大きく身を乗り出して耳を傾けた。この頃のクーン王国で最も巨大な人物像は王都を守りきった英雄ラームか、飛竜軍団相手に不敗を誇った西侯アクスの二人であるから、彼らの好む話というのもほとんどこれらに限られていた。
「…捕虜にした敵兵の女を(ねや)に連れ込むようなこともあった。奴は王都のあちこちにあばら家を借りていて、女を住まわせていた。もよおす(・・・・)と彼女らのところへよく行った。時には何件も梯子(はしご)することもあったかな」
 若者が大いに盛り上がると、横で静かに酒を楽しんでいた初老の男が「やめとけ、やめとけ。後で団長(エリリス)に大目玉を食らうぞ」と忠告するが、隻眼の男は「若者たちはこういった禁に触れるか触れないかの瀬戸際を楽しむものだ」といって、話を続けた。若者は話をせかすように隻眼の男に酒を注いだ。
「しばらくするとその女たちの中の一人が子を宿した。女は男児を生むと、戦いに明け暮れるラームの元に来てそのことを告げた。時に軍儀の直後だったから俺はよく憶えているよ。女も、他の連中にも聞こえるように高々と赤子を掲げて、『貴方の子です』ってな。ラームは最初、目をぱちくりさせていたが、赤子が泣き出すと我に帰ったのか、大きな声で笑った。『百の飛竜騎士に囲まれても物怖じしなかった俺だが、今ばかりは冷や汗をかいたぞ』といって、赤子に神を驚かすという意味のチャムという名を与えた」
 壁影で耳をすましていたチャムだったが、この話の続き――あるいは母が今、自分のそばにいない経緯――がどういったものだったか、今でも思い出せない。
 ただ憶えているのは、この後夜も昼もなく王都を放浪したという事実である。自分の出自を知って途方にくれていたのだろうが、あるいは母を捜していたのかも知れないと、後年思うようになった。
 剣士団の誰一人としてチャムの素性を疑う者はいなかった。彼の父が英雄ラームであることは紛れもない事実だからだ。自らを戦国の(はげ)しさが産み落とした風雲児であると思い込むようになるには、当の本人はまだ知性がおぼつかなかった。
 南区の繁華街に足を運んだのもこのときが初めてであった。どこかの店に入るでもなく、ただ歩いた。チャムは考えるために歩いた。成人してからもそれは消えず、考え事をするときには常にうろうろ歩き回るようになった。人の癖というものはこういうところから来るのかも知れない。
 王都の掃き溜めとも言うべき場所で、数人の男が路地裏に女を連れ込んで(なぶ)ろうとしている光景を見たとき、チャムはあるいは父もこの種の人間に近かったのではないかと思った。
 剣を抜いた。未だロセの訓練は受けておらず、彼の剣技は衆目を驚かすほどではなかったが、その片鱗は既にあった。
 男たちは突然刃物を抜いて闖入(ちんにゅう)してきた少年に面食らった。彼らが応戦する前に騒ぎを聞いて人が駆けつけたため、男たちは逃げた。チャムは生まれて初めて他人を守るという快感を覚えるべきであったが、彼の思念は別な方に向いていた。
(あるいは母も、犯されたんじゃないのか…)
 そんな母が父ラームの元に子をよこすはずがあるか――と、チャムは降って沸いたような邪推を引っ込めようとした。だが、会ったこともない母の像が不確かであるために、かえってこの疑念は拭い難かった。それでも父を尊敬すべきである自分が、時に虚しい。
 救った女の名はヤーニといった。二十代の半ばくらいに見えるが、少女のように線の細い女である。衣服からして、娼婦であるようだった。
 チャムはどうしてああいうことになったのか聞かなかった。先のような連中は退屈をつぶすためだけに他人に災難をふりまくだろうから、本人も分からないだろうと考えたからだ。
「あなたはこんなところにいてはダメよ。お父さんの後を継いで立派になりなさい」
 少年の素性を知ったヤーニはやさしく諭すように言うと、走っていった。誰かに犯されたとかいう風評が立つと、娼婦は生きてゆけなくなる。

 チャムはヤーニの元に通うようになった。勿論、少年らしい意味で。
 この女には機知がある。どこで読んだのか、古書の一句を(そら)んじて歴史の講義をしてくれることもあったし、南区繁華街のどこが危険でどこが大手をふって歩けるかも教えてくれた。今、あそこは某の親玉が死んだばかりで不安定だから行っちゃダメよ――といった風に。
 チャムは武人の子であるが、学問もしている。多種雑多な経歴を持つ者が多いクーン剣士団で育っただけに、元学者やら官人くずれなどには事欠かない。そんな一筋縄ではいかない連中と比べても、ヤーニの知識量は優れていた。チャムは学問で分からないことがあると、ヤーニに聞きに行く癖ができた。
 ヤーニはその度に「もう来ちゃダメと言ったでしょ」と眉をひそめるのだが、必ずチャムの質問には答えてくれた。ただ、店の中には一度も入れてくれなかった。
――剣士団のお坊ちゃんは、娼婦にご執心らしい。
 そんな風評はどうやら当の本人には回ってこないらしいく、チャム自身もヤーニに恋をしているわけではなかった。娼婦の衣装はどこかけばけばしく、この頃のチャムのような少年から見れば滑稽でしかなかった。
 ある日、考え事をしながら南区の一角を歩いていると、竜車に()かれそうになった。 泥をかけられて腹が立ったチャムが竜車を睨むと、(ほろ)を開けてこちらを覗き込んでいる女と目が合った。病的なほどに髪と皮膚の白い女だった。だが、竜車が止まったと錯覚するほどに、チャムの目はその姿を鮮明に捉えた。
 我に返ったとき、チャムは雑踏の中で一人尻持ちをついている自分に気づいた。
 竜車は、あるいはそのまま天に駆けて行ったのではないかと思うほどに、幻のような甘さだけがチャムの脳裏に残ったが、幻ではない証拠にチャムの足元に櫛が落ちていた。
 蒼穹(そうきゅう)のような途方もない色をした櫛である。
(貴人だったか…)
 チャムは櫛を拾い上げると懐にしまった。これだけで数十は鞭打たれる罪を犯したことになるが、チャムは自分で届けようと思った。それ以上に、幻をつかもうと思った。
「こういうものを拾ったんだけど…」
 そう言って、チャムは櫛をヤーニに見せた。南区の情報通であるヤーニを頼って、「心当たりはないか。あれば教えて欲しい」とも言った。
 ヤーニは櫛を見たまま、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「こういうことが役人に見つかると、あなたが罰を受けるばかりか、父の名も汚すことになるわ。悪いことは言わないから、河に捨ててきなさい。そして、もう二度と私のところに来ないように――」
 自分を見るヤーニの目が驚くほどに冷めていたことが、チャムにとって意外だった。
(俺はこの人に迷惑をかけていたのか…)
 そう思うと、心が沈んだ。
 日を改めてヤーニの元へ行くと、出会い頭に水をかけられた。

 途方には暮れなかった。確かにヤーニに絶交を言い渡されたのは苦痛だったが、自分は英雄ラームの子である。薄汚い娼婦と付き合いがあって良いわけがない。
(ヤーニは俺のために言ってくれたんだ)
 少年にしては(さか)しい想像をしたチャムだったが、あながち間違いではなかった。
 チャムが去ったことを見届けたヤーニに声をかけた女がいる。女は二人のやりとりも見ていたのか、怪訝そうに聞いた。
「今の子。例のお坊ちゃん?」
 どこか鈍くて頭の悪そうな声である。彼女のような手合いが遊里に多いのではなく、彼女らを愛でる男が世間には多いのだろう。女は愚鈍ではないようで、仕草の端々に男であれば見逃してしまうような鋭さが見える。
「そうよ。ちょっと遊んでやったら馬鹿みたいに付きまとってくるんだから。嫌になっちゃうわ」
「ねぇ、彼が持ってた櫛。もしかしておぐし様(・・・)のじゃない?」
 魯鈍そうな女がそう言うと、ヤーニはあわてて否定した。
「違うわ。あの子、私に櫛を買ってきたのよ。あんな安物受け取れるわけないでしょう?」
 ふうん――といって女は引き下がった。ヤーニは小さくため息をついた。

 それからしばらく経った。
 ヤーニのことは時々思い出すくらいになったが、特に寂しいわけでもない。
――あれは私の姉のような人だ。
 と、やがて思うようになるが、確かにチャムは彼女に惚れているわけではなかった。
 チャムの中で、日に日にヤーニの像を食いつぶして大きくなった人がいる。
 その人に会いたい――と強烈に感じる時があり、そういう時は何に打ち込んでも集中できず、簡単に取り除けるような代物ではなかった。蒼穹のような櫛を常に胸元に潜ませているのも、その理由によるらしかった。
「あやつもそろそろ女を知る歳か…」
 酒席でエリリスがそうこぼし、遊里で上等な女をつけようとしたところ、テーベに(いさ)められた。
――戦士は三十まで女を知る必要はない。知れば必ず堕落する。
 とは彼の弁だったが、そのような思想は確かにクーンにはある。最高の戦士は童貞でなければならないという激烈な思想である。例え戦士でも、外征すれば国の妻子を想い、国内で戦えば家が蹂躙されることを恐れる。そのような軍隊でかつて強かったためしがないと、テーベは言うのだ。エリリスは政治的な意味でクーン剣士団を増強した男だが、テーベは本来の意味でそれを試みた。やがてカエーナの反乱によって二人の試みは半ば失敗していたことが明らかになる。
 二人のやりとりがどこからか耳に入った時、チャムはまた歩いた。
 この者は迷うと歩く。やがてシェラとの勝負に負け、自らの技量に疑問を持ち、王都の散歩ではなく大陸規模で放浪するようになる。これはひとつの性癖といってよい。
 東区沿いに流れる水路を呆けたように眺めていると、視界に小さな影が入ってきた。
(人かな?)
 もはや冬も半ばであり、水路は枯れ始めている。時々この時間に水路を眺めることはあったが、今のように人影を捉えることはなかったから、チャムは小さな興味を覚えた。
 水路の壁にあいた穴から二人が出てきた。服装からみて二人とも女であるらしかった。麻っぽい粗末な衣服だが、どこか嘘っぽいにおいがする。
 二人は向こう側に見える橋まで歩いてゆき、それを上った。片方が先導してもう片方を助けているようにも見えるが、どうやら主従のようにも見える。
 やがて、橋の上に竜車が現れると、二人を乗せてどこかへと消えていった。
 チャムははっとした。
 竜車に見覚えがある。
(どこかで見た。どこかで…)
 竜車が狭い道に吸い込まれるのと同時に、視界に白い御髪(おぐし)と小さな泣き黒子、そして蒼穹色の櫛が代わる代わる網膜によみがえった。チャムは確かめるように胸元に手をやると、走った。

 南区に走った理由はよくわからない。
 ここに来ればあの人と再会できると思ったし、会えなければあれは自分の勘違いであるのだと思うようにした。
 同じ時間を巻き戻すことが出来ないように、この世には同じ現象が繰り返されることは決してない。にもかかわらず、人が過去の現象を繰り返そうとつとめることに、愚かであると断ずるには超人的な精神力が要る。
 チャムはもう一度あの現象が繰り返されることを祈った。ただ恐れるのは、櫛を拾うということで始まった二人の邂逅(かいこう)が、彼女――今追っている人が白髪の女であるかはチャムにはわからないしどうでもいい――に櫛を返すという現象として閉じられてしまうことである。だが、それでももう一度会いたかった。
 かつて竜車に轢かれそうになった場所まで、チャムは走った。大人でも舌を巻くほどの健脚であるから、あるいは竜車より速かった。
 竜車を視界に捉えた時、チャムは迷わずに御者台に飛び乗った。これが貴族の竜車であったならその場で首を刎ねられるところであるが、見たところ護衛の人間もおらず、何より竜車自体も粗末な造りだった。ただし、チャムはこの程度の確認を行うことすらしなかった。
 驚いた御者が声を張り上げると、道を歩く人々が振り向いた。
「中の貴人にお話があります。あるいは一年前にこの場所で櫛を落とされた方でなければ、このまま去ります。お話をさせていただけないのであれば、水路の奥から現れた理由を問うことになります。」
 恫喝(どうかつ)である。
 チャムが竜車の中に向かって言うと、幌の奥から女の声が聞こえた。
 脳を溶かすような密かな熱を帯びた、しかし清風のような声であった。
「このまま進みなさい。騒ぎを起こしてはなりません」
 御者は迷ったが、すぐに竜を走らせた。
 その間にチャムは蒼穹の櫛を胸元から取り出した。
「この櫛に見覚えがありますでしょうか?」
 櫛には糸を通してあり、チャムはそれを首からかけていた。それを車中の何者かに向かって見せた。
「えぇ、それは確かにわたくしのものです。そうでしたか、拾ってくれたのですね…」
 声はどこか嬉しそうであった。チャムはそれをたしなめるように言った。
「役人に突き出しますか?」
 貴人――チャムは既にそう見ている――の落し物を自分の物にしたとすれば、場合によっては斬罪に値する。
「いいえ、それは貴方に差し上げますわ。もともとそのつもりでしたから…」
「もともと?」
 小さな笑い声が聞こえた。それを聞いたとき、チャムは幌をめくって車内に乗り込みたい衝動に駆られた。踏みとどまったのは、後で思い返しても奇跡というしかなかった。それほどに魅力的な声だった。
「夜半、月が中天に昇る頃に、またあの場所にいらっしゃいな…」
 そういうと、車中の女は小さく手を叩いた。
 何の合図だろうとチャムが首をかしげていると、突然、体に衝撃を覚えた。
 御者に突き落とされたと知った時、チャムは去ってゆく竜車を睨みつつ、(うめ)いた。

 深夜、剣士団本部を抜け出したチャムは約束の場所に立った。
 何の変哲もない路地である。ただ、繁華街の一角であるだけに夜が更けても小さな喧騒があった。
 ヤーニが迎えに現れたとき、チャムは驚くとともに自分の中で何かが符合する音を聞いた。
 彼女が先導する道は複雑すぎてチャムには理解できなかった。
「南区はこんなに広かったかな。それにここは先ほども一度通っただろう?」
 チャムがそう話しかけても、ヤーニは黙って付いて来いといわんばかりの沈黙で返した。
 しばらく歩くと見慣れぬ場所に出た。暗い、蛇の腹の中のような悪路の中にその家があった。
(何やらまずいことに首を突っ込んだのかな。俺は…)
 ヤーニは戸を四度叩いた。それを四度繰り返すと、(さん)を外す音が聞こえた。
 戸を開けようとした手を止めて、ヤーニは言った。
「チャム。貴方、初めて?」
 質問の意味が分からないチャムは「何が?」と聞き返した。
「もういい。分かったわ」
 半ばあきれたようにしてヤーニが戸を開けた。
 外装の古びれた感とは裏腹に、よく整った清潔感のある屋敷だった。ヤーニとは入り口で別れた。
「あの人の言うことを本気にしちゃあ、ダメよ」
 と、屋敷の(かぐわ)しい空気に酔い始めていたチャムに向かって小さくこぼした。
 下女らしき女に案内されて、一室に入ったチャムは、その中に座る人影を見つけた時、心臓をわしづかみにされたような感覚がした。
(月が喜んでやがる)
 そう思うほどに、女の姿は月光を集めていた。淡い紫色の衣が、やかましいくらいに月に映えた。
「チャム様…とお呼びしてもよろしいでしょうか?」
 月が喋った様な気がした。彼女の声を聞いただけで、魔力にも似た何かにとらわれたような気分になる。しかもそれが心地よい。
「いえ、俺は一介の武士の子に過ぎず、様付けなんて滅相もないことです」
 チャムは思わず平伏した。そうせずにはいられなかった。
(この女をまともに見たら、男の方が死ぬ)
 本気でそう思った。
「では、チャムにしますね。ああ、なんて可愛らしい。さあ、こちらにいらっしゃいな」
 そういって、席に誘われても、チャムは動かなかった。いや、動けなかった。
 チャムは思い出したように首にかけた蒼穹の櫛を取り出すと、両手にとって白髪の美女に向かって差し出した。
「俺は、これを返しに来ただけです」
 手が、震えていた。初めてテーベと立ち会ったときも震えたが、この時のそれは恐怖でなかった。
「あら、わたくしに会いに来たのではなくて?」
 女がそう言った時、チャムは思わず顔を上げた。この期に及んで自らを偽って何になろう。心のどこかでそう思い始めたところを、女が誘うようにして言ったのである。
「確かに、貴方に会いたいと思いました。しかし俺は貴方の名も知りません」
 チャムがそういうと、女は心から残念そうに言った。演技ではなく本当にそうであるらしかった。
「皆からはおぐし様と呼ばれています。でも、そうね。呼び名くらいは確かに欲しいわ」
 小さく首をかしげている女は、少女のように見える。細い手首はつかめば折れてしまいそうであり、首筋はもっとそうであった。
 ただ、彼女の白い御髪を見ていると、ヤーニが教えてくれた天使の名を思い出した。
「かつて北方に雪原の神が祭られていました。その地の司祭の娘は美しい舞子で、神に気に入られてついに天に昇り、冬を司るようになりました。彼女の名をとって、『北鎖す白天(ホヌ)』というのはどうでしょうか」
 女は小さく笑った。「ではそうしましょう。今からわたくしはホヌです」とも言った。
 女――ホヌは静かにチャムに向かって擦り寄ると、少年の頭を胸元に寄せた。
「チャム、チャム。嗚呼、可愛い子…」
 全身が小刻みに震えだした。
 次第に五感が痺れ始め、ホヌが衣に手をかけたことすら気づかなかった。
 少年の胸板に吸い付いていた白い御髪が徐々に下がり、熱っぽい何かと当たったとき、チャムは意識が飛びそうになった。
 それからチャムは気が狂ったように何度も果てた。二人は三日三晩互いを愛撫し続けた。
 チャムは生気を搾り取られてもまだ力があふれてくる自分を感じた。ホヌもまたそうであるらしかった。
(正気ではない)
 げっそりと痩せ細ったチャムを見たヤーニは、絶句した。

 二人の邂逅はこの三晩で終わった。
 やがて時が経つにつれて分かってきたことは、自分が途方もない女を抱いたということと、ヤーニもまたそういった連中に雇われて別の仕事を請けているという二点だったが、チャムにはどうでもよかった。
 しばらくするとチャムのほうにも()が回ってきた。いかにもといった風に調理はされていたが。

――宮廷の貴族に女を持て余している者がいて、その女は夜毎に下町に出かけては娼婦を装って下賎な男たちに抱かれることを楽しみとした。女は男を選び、気に入った男には蒼い櫛を渡して密かに別邸に呼んだ。女は出かけるにあたって髪を白く染めており、その容貌から「おぐし様」と影で呼ばれた。

 この噂は、影でおぐし様のことを漏らす者がいれば、必ず殺された――ともいう。
 となると噂の出所を疑ってみたくなるものだが、それを無視するのが噂の醍醐味というべきだろう。
 チャムには、ホヌが果たして女を持て余していたようには思えない。確かにあの日の夜はほとんど会話もなしに互いを愛撫するに至ったが、ホヌのそれは自分を投げ捨てるように投げやりであったようにも感じた。後でヤーニに聞いたところ、彼女に三日も束縛されたのは後にも先にもチャムだけだという。
(全身で自分を受け止めてくれる人を探していたのか…)
 自ら母を捜して放浪したことがあるだけに、チャムはこの種の感が鋭かった。
 やがて、この予想はチャムにひとつの誇りを生んだ。
(ホヌの全てを受け止められるのは、この世で俺だけだ)
 彼女がどこに嫁いでいようとも、あれは俺の妻だ――と強く思うようになった。
(ということは、彼女の亭主は飛んだ能無しだ)
 今でも時々、ホヌに会いたいと思うことがある。だが、彼女はそれを望まないだろう。少年の頃のチャムに自分の全てを投げつけたという事実が、今の彼女を生かしているのだとしたら、いたずらに彼女の前に姿を現すべきではない。
 ふと、父と母の関係もそうであったのかと思うようになった。となると先に隻眼の男が言っていたことは嘘が含まれていて、跡継ぎを必要とした父が母から自分を取り上げたのかもしれない。母とともに暮らさなかったのは、何か理由があったのだろう。
 ホヌと別れる時、チャムは試すつもりでもう一度彼女の名を問うた。
 彼女は短い名前を小さく耳打つと、竜車に乗って風のように消えてしまった。
 チャムは今でも王宮を見上げる度に、首にかけた蒼穹の櫛に手をやり、白い御髪の貴人(・・・・・・・)のことを思い出すのだ。


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