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八章『せめて鞍上にて果てよ!』(9)
 自らの首に向かって直進してくるカエーナの精鋭たちを見たリョーンは、後退を止めて迎撃の陣を布いた。
 テーベやエトの敗戦が、指揮官の軽率な行動によるものだと断定したリョーンが、彼らの失敗を認めながら、自らもまた自軍から逸脱した行動を取ったのは何故だろう。
(さあ、わたしを助けに来い!)
 リョーンはもはや、喪服軍の中核である。ただの指揮官という意味ではカルカラがそれにあたり、リョーンは命令を発する立場にはない。だが、彼女を推戴して初めてロセの仇討ちという名目が意味を持つ以上、喪服軍の象徴は飽くまでリョーンなのだ。指揮官には代わりがきくが、ロセの娘はこの世に一人しかいない。リョーンの行くところに喪服軍があり、中心がずれれば必ずそのずれを補おうとするのは何も彼らに限ったことではないだろう。
 中心が動けば、皆がそれに集おうとする。この場合の皆にはもちろん敵のカエーナも含まれる。
 人が人を斬るというのは轟音を伴うのかと思わせるほどに、カエーナ率いる百人隊は鬼力を発揮した。
 味方が斃れる音だけで一曲をまかなえるほどに凄まじい律である。喪服軍は防具を捨てて参戦したのだから、一撃を受ければ致命傷であり、二矢を浴びて生きているものなどいない。
 今、リョーンの元に集うのは元々剣士団の人間ではない。彼女とともに剣翁の仇を討つために立った義士たちである。故にカエーナの攻撃を受けても崩れを見せないほどの強さはない。
「お逃げ下さい。ここはもう、持ちません!」
 一人がそう、リョーンに進言すると、彼女は首を振った。
「見ろ。カエーナがいる。ここで退くようでは、わたしは一生、義父の仇を討てないだろう」
 刃物で林檎をえぐるような容易さでもって、百人隊はリョーンに殺到した。

 良将とはただ勝つだけで得られる称号ではない。戦闘における味方の犠牲を最低限に抑えて、初めてそう呼ばれるに値する。故にたとえ奇抜な発想をもってカエーナを陥れたとしても、リョーンは兵たちにとって良き指揮官ではない。エトは少しあやしいが、撤退するにあたって自軍の損傷を最小限に抑えたテーベは良将とまでは言えずとも優秀な指揮官であり、今のリョーンを補佐するカルカラもまたそうである。
 自分の実力では、(おびただ)しい屍を踏みつけた上でないとカエーナにたどり着けないことをリョーンは知っている。彼女の決心とはその一事であり、復讐とは自分が生き延びて初めてなされるものである以上、自分に群がる命をつまんで火に投げ入れるような激烈さで自身を纏った。
 兵たちが次々と、自分ひとりのために死んでゆく。
 リョーンを逃がすために周りを兵たちが囲むと、彼女は抜剣し、空を薙ぎ払った。
「戦え。わたしを逃がそうとする愚か者は、斬り捨てる」
 既にこの場が背水の陣と化した頃、百人隊によって最後の防衛線が突破された。
――ひゅ…
 飛矢がリョーンの肩を掠めた。それもひとつやふたつではない。
 次いで、彼女の左右を固めていた者たちが消え、全員がリョーンを守るために百人隊に突進した。彼らの中央が破砕された頃、百人隊の先頭を駆る数人がリョーンの姿を捉えた。
「うおおおぉ!」
 鉄製の冑と鎧をうるさく鳴らしながら駆けてくる兵を見て、リョーンは右手の剣を振り上げた。両腰に差した短剣ではあまりにも短く、騎兵戦に耐えられない。
 竜と竜がぶつかり合ったような破裂音とともに、二人は交差した。辛うじて一撃目を耐えたリョーンは、続く二人目の攻撃を受け、竜から落ちた。最後の三人目が走り間際に落馬したリョーンに向かって射掛けた。
 その場の空気が凍りつき、視線は倒れたリョーンに向けられた。
 最初に切り結んだ百人隊の一人が竜を巡らせ振り返った頃、仰向けに倒れたリョーンの口元から白い息が上がった。
「まだ生きているぞ――!」
 リョーンを殺すために殺到した兵は一人ではない。リョーンが自分の肩に刺さった矢をつかんだ頃には自らに向かって十の矢が引き絞られていた。
 百人隊の兵達の耳に、すぅ――と、息を吸い込む音が聞こえた。
「お前達はそうやって、シェラを射たのか?」
 矢が射掛けられた。

 歌が聞こえる。

――竜失くして仇討ちならず
――仇討たざれば…

(竜失くして、どうして鞍上にて果てようか…) 
 そんなことを考えながら、カエーナがリョーンの元にたどり着いた頃には、既に最初の数人がリョーンをなぎ倒し、矢を射掛けていた。
(終わったな…)
 そう思った刹那、カエーナの脳裏にひとつの光景がよみがえった。
 網膜に焼きつくような黄金色の光。赤く、(よこしま)な光。そして人智を超えた怪力。
 あれは何であったのか。考えるまでもない。リョーンに神が乗り移ったのだ。そして、神に剣を突きつけた自分は死ぬ。その死は、いつ訪れるのだろう。
 何かが鳴った様な音に、カエーナは正気に返った。
 淡い光が空に立っている。
 初めてではない。自分はこれを一度体験している。そう、剣翁の娘。赤髪のカルと戦ったときに、一度…
 矢を射掛けられて斃れたはずの死体。だが、それは起き上がり、自分を見ている。
(この娘は神に乗ったのだ…)
 死の色を秘めた「神龍の眼(ヨ・アン)」と眼が合ったとき、カエーナはここが自分の墓場であることを知った。

 余話である。
 誰かに伝えたところで何の意味も持たない話だ。
 だから、これはカエーナの独白であり、嘆きであり、自嘲である。耳を傾けたくないのであれば、それも人のあり方として正しいのだろう。
 まだ十代の頃、カエーナは山賊討伐のために北方へ出向いたことがあった。
(小さな村だ…)
 それ以外の何の感慨も沸かないほどに、寂れたところだった。とはいえ村全体で小規模の綿工業を営んでおり、現にこの村はカエーナが来る半年前に山賊による略奪を受けている。
 百人ほどの仲間と共にカエーナは村の警備にあたった。山賊の根城は山深くにあり、全滅させるために師団を率いても、賊は山間に隠れ、やり過ごすために、旅団ていどの規模の賊を本当に全滅させるためには一万にも及ぶ軍を率いて山脈を潰してゆくしかない。敗戦直後のクーン王国にはそんな余力などなく、この頃の賊討伐といえば、もっぱら襲撃される村の守備と同義であった。
 哨戒中に少女が木の実を持ってきた。
 十二か三くらいで、眼がくりくりしている。眉と唇が細く、目だった美しさはまだないが、清流のような澄みのある娘だ。
 娘が傭兵に差し入れを届けるというのは異様な光景だが、ならず者ばかりの傭兵とは違ってクーン剣士団の規律は厳しく、村娘に手を出したりすると即首をはねられるから、彼らもある程度は安心しているのだ。
 どうやら頬に傷のついたカエーナが怖いらしく、木の実を手渡すと小走りで去った。
「あんな少女でも、賊にとっては慰み者だ」
 同僚の言葉に胸糞が悪くなった。
 案の定、数日して賊の襲撃があった。
 予想より数が多く、一旅(五百人)はあった。だが、相手の武装が貧弱であったのと、統率の拙さから十分に撃退できた。剣士団兵、村人共に死者を出さずに済んだのだから、これ以上ない戦果だろう。比べて山賊の死者は多く、襲撃を行った三分の一が死んだ。数が多すぎる理由は、山賊は捕虜になれば即殺されるから、彼らも必死だったのだ。
 三年ほどして、再び北方の警備に行かされた。
 今度は別の街の警備だったが、前回と違うのはカエーナが百人程度の兵を率いる立場であるということと、率いる兵の数が傭兵も合わせて千を超えていたということだ。
 カエーナは自身で哨戒を行う立場にはないが、夜中に兵を励ますことはする。
 その時に街の娘が剣士団兵に対して食を届けているのを見て、カエーナは数年前を思い出した。
「このあたりに綿を商っていた村があったはずだが…」
 街の人に聞いたところ、その答えは虚しかった。
「ああ、あの村はね。去年、山賊の襲撃を受けて滅んだよ」
「傭兵を雇うことはしなかったのか?」
「そんな金、どこにあるってんだ」
 流石に千人規模で街を守っていると、山賊も襲撃する愚を悟ったようで、この任務は何事もなく終わろうとしていた。
 だが、指揮官のテーベが暇をもて余したがために、この集団は山岳部へ侵入し、山賊の根城を叩くことになった。無闇に進軍しては山間に隠れられるのがおちであるから、テーベは寡兵を裂いて陽動を行い、巧みに兵を動かしつつ、迎撃してきた山賊を包囲した。その数、五百である。
 隘路(あいろ)に追い込まれた山賊に逃げ場はない。
「殺せ」
 テーベの発した命令は決して残虐ではない。山賊に殺されたり、攫われたりした人のことを考えるに、彼らを生かして捕える理由など何一つない。相手もそれをわかっているために、必死で抵抗した。だが、常に訓練を行ってきた剣士団との差は歴然であり、わずかな時間で死体の山となった。
 カエーナも、その喧騒の真っ只中にいた。
 この頃の彼の指揮はまだ拙かった。進むことに関しては勇猛果敢であったが、左右の部隊との均衡がとれず、突出した。それでも陣を崩さずに指揮を行っていたが、包囲したはずの敵に囲まれる形となり、乱戦になった。
 一人の賊がカエーナの首を狙ってきた。
 凶刃を振り払うと、賊のかぶっていた皮の冑がはがれた。
「あっ…」
 少女だった。それも、見覚えのある顔だ。
(あの村の娘ではないのか?)
 哨戒中に自分に木の実を差し入れてくれた娘が、どういうわけか賊と同じ皮衣を着て自分に剣を向けている。
――どういうことだ。これは!
 こういった思考を許してくれるほどには、自身の置かれた状況は優しくない。
 剣を振り払われた少女が尻餅をつき、そこに味方の兵が殺到するのを見たとき、カエーナは強烈に後悔した。
(見なければよかった…)
 傭兵も、山賊も、勝った後にすることといえば大して変わらない。
 奪い、犯し、殺す。
 クーン剣士団は民を守るために存在するのだから、彼らは捕虜を売り払ったり殺すことはしても、捕虜を(なぶ)るような外法を行うことは少ない。だが、傭兵と混在したこの集団は、たとえテーベが実権を握っているとしても、それを行うだろう。
 少女がこの戦闘に生き延びたとしたら、それは不幸以外の何物でもない。
「どけぇ!」
 カエーナが()えると、兵たちは雷を打たれたように動かなくなった。
 部下を蹴散らして、少女の前に立った。
 目が合った。
 暗い色。墨や漆のような、目に飛び込んでくるような黒さではない。
 まるで黄昏の地平線のような曖昧さと、とりとめの無さを含んだ色。言うならば闇を孕んだような(くろ)さがそこにあった。
 カエーナは自分の中の何かがそこに吸い込まれてゆくのを感じた。
「カエーナ――!」
 一声によって正気に返ったカエーナの視界にはひとつの現象が飛び込んできた。
 死である。
 自身の死を回避すべく、突き出された剣を避けた時、カエーナは知らぬ間に剣を突き出していた自分に気付いた。
 小さな胸を、鉄槌の様に太い剣が貫いていた。
 再び少女と目が合った。だが、その瞳はもはや深淵にも似た暗さを、永遠に留めたまま、動かなかった。
 カエーナの率いる部隊は奮戦めざましく、誤って突出したことにより、かえってテーベの目に留まることとなり、カエーナはここから剣士団内部での地盤を固めてゆく。
 後から聞いた話だが、少女のいた村が干からびたのは、南人の進出により、クーン北方の商工業が大打撃を受けたことに起因する。すると、少女の村はやはり傭兵を雇う余裕がなく、山賊によって攫われたのか、もしくは村全体が山賊に落ちぶれるしかなかったのか。カエーナはこれ以上の詳しい話を知りたいとは思わなかった。
 数年後、剣士団の指南役に剣翁として名高いロセを迎えることになった。
 彼の剣技に感銘を受けたカエーナは、自らロセによる指導を志願する。勿論、彼のほかにもチャム、テーベ、カルカラ、ピオなどが顔を連ねていた。
「カエーナとかいったな。お前は女か子供を斬ったろう?」
 習い始めて一日目に、ロセはカエーナの剣が持つ暗澹(あんたん)さを見抜いた。
「女か、子供に殺されるのも、悪くはないと思っております」
「それでか、お前の剣には生気がない。だから強いともいえるが、やはり足りない」
 ロセはこれ以上何も言わなかったが、カエーナはロセが何を言おうとしていたかを悟った。
――生き残るつもりのない奴に、剣を教えても始まらぬ。
 二人は同じところで自らを嘲笑った。だが、それすらも嘲笑うようにしてカエーナの剣は他を圧倒し始めた。
 チャム、テーベ、カエーナの三人をもってクーン剣士団の三柱となるのは、この時からそれほど先の話ではない。

(まだだ…)
 リョーンは自分の内から湧き上がる膂力(りょりょく)に、もはや驚かなかった。彼女の心を支配したのはただひとつである。
(まだ、殺してはいけない)
 みし――と、右手で掴んだ敵兵の頭が粉砕しかけた音を聞いた時、しかしリョーンは快感を伴うほどの殺意を押し殺すことに努めた。
(カエーナだ。カエーナを殺す)
 リョーンの剣は、まだ誰かの命を吸っていない。その最初の一人がカエーナとなることに、彼女は何よりもこだわる自分を認めた。
「カエーナ。お前だ。お前を最初に殺す」
 つかんだ頭を無造作に投げた。百人隊の一人は木屑の様に路傍にうち捨てられた。呻きが聞こえたということは、やはりまだ生きている。
 リョーンを囲う戦士たちは、彼女の豹変に戦慄していた。
 目が醒めるような赤い髪が、微かに他の光を放ち始める。
 夜刻の鐘が鳴らされた。炬火に照らされたリョーンの髪は、黄金にも似た光に包まれていた。
 敵味方に関わらず、場が凍りついた。否。神威に照らされて平然としていられる者など、果たして人といえようか。
 たったひとりの例外を除いて。
――カエーナが来た。
 二人が互いを視界にとらえた頃、咆哮にも似た強烈な(とき)の声と共に、その場の静寂は破られた。
 ピオである。

 カエーナの突出により、挟撃の手が緩んだと見たピオ率いる騎兵隊は、リョーンを救援するために瞬く間に東へと迂回した。
 とはいえ、ここは騎兵が全力を発揮するに足る平野ではない。家屋が並び立つ中で路地を選ばなければならず、また長駆することもできないから、騎兵特有の勢いを敵にぶつけることはできない。剣翁の教えを受けただけあって、ピオは頭を使った。
(中央通りまで後退し、一気に突っ切ろう)
 故に騎兵隊は一度戦場から消えた。
 十分に加速を終えての突撃である。一本道であるから迷うことなどない。それに目印としては目立ちすぎる警備用の櫓がある。
 今度は自軍が横腹を突かれる形になったカエーナ軍は完全に分断された。
 そしてピオの突撃により、カエーナは寡兵と共に前線に取り残される形となった。
 だが、リョーンはカエーナだけを観ている。カエーナもまた、そうであった。

(やはり、剣翁の娘よ――)
 飛矢の乱れる中、リョーンはスサに騎乗する。その間、部下はカエーナを守るために防御の陣を布き、しかしカエーナは無防備なリョーンに襲い掛かるようなことをしない。
「待っていてくれたのね。嬉しいわ…」
 騎乗を終えたリョーンがカエーナに言うと、わずかに咳き込んだ。落馬の時に左肺をいためたのだろうが、リョーンは血糊のついた手を見ても無表情であった。
 そういえば、初めて手合わせした時も櫓の下だったなと、リョーンは左脇にそびえ立つ警備用の櫓を見た。
 カエーナが剣を抜くと、リョーンもまた構えた。
 駆けた。
 飛矢が耳を掠める度に何かが散ったような音がする。
 一歩、また一歩とスサが踏み込む度に、誰かの命が散ってゆく。
(命が散る音だ。これは、命が鳴っているのよ…)
 誰の命か――と問われれば、答えに窮せざるを得ない。勿論、自分のために捨て駒になった剣士団の人間達の命であるが、リョーンにとって最も重いものは彼らではなく、未だ生死不明のまま仇討ちを宣言してしまった義父ロセでもない。もとより、ロセが死ぬなどという想像が出来るリョーンではない。
(シェラ…)
 誰よりも生きていて欲しいのに、他の誰よりも生存が絶望的な我が師。
 リョーンにとっての仇討ちとはシェラのそれであり、そのために全てを偽ってまでカエーナの許にたどり着いた。
 そういう意味では今散っているのは自分自身であり、この戦いが終われば何も残らないという強烈な予感がある。いや、何も残らなければいいのにと思う自分がある。
 眼前にカエーナの雄大な体躯が広がった頃、リョーンは渾身の力を込めて剣を薙ぎ払った。
 鉄槌。
 剣の神とまで讃えられるロセを驚愕させた唯一の技。いや、力のままに振り下ろすその一撃は技とはいえまい。だが、相手の命を奪うために自身の死を乗せる一撃は、確かに(わざ)であった。
 剣がへし折れた。
 神に乗ったリョーンが繰り出す一撃は、しかしカエーナの首をとることあたわず、剣を砕いた鉄槌の一撃は鈍い音と共に女の鎖骨にめり込み、リョーンを叩き飛ばした。
(まだ、死んではいまい!)
 最初に出逢った頃の感触がまだ手に残っている。この程度の手ごたえでは鎖骨を折るのが精一杯だろう。
 カエーナは竜を旋回させて、落馬したリョーンを探した。
 が、いない。
 自身の駆る竜の足取りが重い。今の激突で負傷したのだろうか。
 訝ったカエーナが鞍に黒い小刀が刺さっているのに気付いた刹那、視界が闇に覆われた。
(飛剣か!)
 剣をかざすのと、その目にリョーンを見とめたのは同時だった。
 飛翔した。
 カエーナの一刀を受ける際に、素早く玄糸刀をカエーナの鞍に刺したリョーンは剣と剣のぶつかり合う衝撃を利用して跳躍した。糸は櫓に固定してあり、カエーナが進んだ分だけリョーンは上空へと引き上げられるが、これを仕掛けるには激突の瞬間は短すぎる。
(立ち会う前に、仕掛けていた)
 恐らく、最初に落馬した時だろう。その時からリョーンはカエーナと戦うことだけを考えていたことになる。
 こういった想念が刹那に入り乱れた後、空中から降り立つリョーンは懐剣ペイルローンを真っ直ぐに立て、カエーナに襲い掛かった。
 カエーナが辛うじて行った防御は、紅の刃の軌道をわずかにずらした。
 鮮血。
 懐剣ペイルローンはカエーナの左肩に深々と突き刺さり、刀身が笑みを浮かべたような色になった。
 リョーンはカエーナの乗る鞍に激突するようにして着地した。二人は相乗りのような状態になったまま、しかしリョーンはカエーナの肉を裂いた懐剣を手放してはいない。
「何だ、この下品な剣は――あの、微風を撫でるような突きはどうしたのだ?」
 苦痛に顔をゆがめながらカエーナが悪態をつく。
「お前が教えてくれたのだ、カエーナ。止めをさせぬ剣は、いくら正しくても意味がない」
未通女(おぼこ)めが、止めをほざくか…」
 竜が嘶くと共に、二人は振り落とされそうになった。カエーナは素早くリョーンの背後に回りこむと、彼女の首を絞めた。この距離だと自慢の大剣は使えない。
「きゅうぅ!」
 喉もとに残った空気が一斉に吐き出され、奇妙な音が鳴った。
(窒息して死ね!)
 どうしようもない怪力、だがこの程度でリョーンを殺しきれるのかという疑問がカエーナの頭をよぎる。
 リョーンの左手が動く。それは、カエーナの左肩に深々と突き刺さった懐剣ペイルローンを強く掴んだ。
「おおぉ!」
 絶叫と共に、カエーナは右腕を引き絞った。こうなれば首の骨を折って息の根を止めるしかない。
――チリチリ…
 何かの焼けるような音がする。
(何だ。何の音だ…)
 カエーナはふと、リョーンの抵抗が思ったほどに激しくないことに気付いた。以前のリョーンならばその膂力(りょりょく)でもってカエーナの腕を引きちぎるくらいのことはしそうなものだが、彼女の首を締め付ける腕は何の抵抗にもあっておらず、肩に刺さった懐剣は更に押し込まれるわけではない。
 懐剣――そう、カエーナは自らの肩に刺さった懐剣に目をやった時、リョーンの試みている抵抗の壮絶さを知り、息を呑んだ。
 鳴っていたのは懐剣である。その刀身を喰らうようにして静かにカエーナの首を狙っているものがあった。
 玄糸(げんし)である。
 リョーンは右手で玄糸を掴み、着地の衝撃と共にカエーナの首をくくるように置かれたそれを引き寄せている。その軌道上に懐剣ペイルローンがあり、カエーナの首を飛ばさずに済んである。リョーンは懐剣を押し込むのではなく、引き抜こうとしていたのだ。
(なんという娘だ!)
 文字通りカエーナを殺すためだけに今のリョーンは生きている。その全てが殺意に向かっているがために、行動のひとつひとつがつながりを持たない。故にリョーンは今しがたカエーナを刺した懐剣が行動の妨げになっており、本人はそのようなことをものともせずに排除しようとしている。
 知性のある人間の行うことではない。
(畜生道に落ちたか…)
 カエーナは左肩に力を込めた。筋肉を圧迫することで懐剣が引き抜かれるのを防ごうとしたのだ。
――チリチリ…
 玄糸はついに懐剣の刀身を蝕み始めた。これは剣の削れる音であった。
「カ…エーナ…」
 喉を絞められて息を止められたはずのリョーンの口から、声が洩れた。
 何かが切れた音がした。
 刹那、カエーナを巡っていた景色が一転した。
――鞍上で死ね。
 誰かの声が聞こえた。だが、それを受け止めるべき意識は既に戦士には無かった。
 何かの(かたまり)が地に落ちた。

八章『せめて鞍上にて果てよ!』了
九章『ああ、カエーナ』へ続く


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