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四章『剣舞う』(5)
 西区貧民街。
 工業地帯と南面したこの地域は、ヘドロにも似た液体の流れる水路と、風が吹けば打ち倒れそうな藁葺(わらぶき)の家屋が不規則に並んでいる光景が延々と続いている。
(くさい…)
 袖で鼻をつまみながら、リョーンはシェラと共に暗く濁った道を歩いた。細道まで石畳が敷き詰められていた都心部と違って、この場所では歩を進める度に粘り気のある土がふくらはぎに跳ね飛んだ。
 次いでリョーンの目に映るのは路傍で(うずくま)る人々だった。
 目は虚ろで、寒さで肩を震わせる老人。冬にもかかわらず裸の赤子を抱きかかえる女。
 そして擦り切れた布切れのように放置された死体。
 都会とは思えない静けさの中にいるのに、この場所は繁華街の雑踏よりも遥かに(わずら)わしい。そう、ただ単に大勢で不愉快な音を奏でるだけの都心部とは違い、貧民街の静けさは囁きでもって呪いの言葉を吐き続けるような薄ら寒い旋律を奏でられるのにも似ていた。
「はは、ここも王都だよ。カル」
 リョーンの心の内を見透かしたのか、半歩前を歩いていたシェラが言った。
「知ってる!」
 声が震えるのを嫌がったのか、リョーンは強い口調で答えた。

 カエーナの家の傍にあるという(やぐら)が見えたところで、三人連れの男と出会った。その内二人は人相が悪く、いかにも職業不良といった感じだ。だが、中央のひとりは違った。目が醒めるような銀髪に、シェラと同じ碧眼(へきがん)であった。それ以上にリョーンの目を()いたのは彼が年端も行かない少年であることだ。年は十四から十五といったところか。長い後髪は三つ編みに結んでおり前髪も長く垂れている。都心の女に良く見る髪形であることから、リョーンは彼が喋りだすまでこの少年が男であるのか女であるのか見当がつかなかった。
 衣服は黒く、リョーンやシェラとは違って、狩猟用の胡服(ズボン)を着ている。肩には女物の狐の毛皮を羽織っており、背は小さく、やはり女にも見える。
 シェラが止まった。
「久しいな、シェラ。調子はどうだい?」
 辛うじて男のものだと断定できる声で、少年はシェラに話しかけた。
「ぼちぼちだよ。ところで、ロマヌゥ。こんなところで何をしているんだ?」
 ロマヌゥと呼ばれた少年は嘲笑した。後ろの二人は不恰好ながらもそれに続いた。
「何をだって、シェラ? くく…君こそ何をしているんだと問わざるを得ないな。ここがカエーナ剣士団の領域だと知っていて踏み込んだのだろう。まさかそこのお姉さんが迷子にでも…」
 リョーンに眼をやったところで、ロマヌゥは言葉を止めた。そして一歩、一歩と彼女の周りを徘徊しながら、舐めまわすようにしてリョーンを見た。
「へえ…」
 間合いに入ったところで、リョーンは音を立てずに柄の封印を解いた。
「ねぇ、君は――」
 ロマヌゥの小さく白い顔が眼前にある。吸い込まれそうな光を放つ大きな瞳には戦意がないことが、未熟なリョーンでもはっきりと見て取れた。
「赤髪のカル?」
 リョーンはロマヌゥの挑発的な態度に、かえって冷静さを取り戻した。
「だからどうした?」
「おお、これはつれない…」
 大仰に落胆した態度を見せるロマヌゥをよそ目に、リョーンは言葉を続けた。
「わたし達はカエーナに会いにきた。用がないのならそこを通してもらおう」
「おやぁ、これは…」
 そう言って、ロマヌゥは背後の二人を見た。明らかに空気が変わった。
 その内の一人が剣の柄に手をかけた瞬間、この狭い空間で二人の声が交差した。
「待て!」
「やめろ!」
 シェラとロマヌゥのどちらが先に叫んだのかはわからない。ただ、彼ら二人が同時に叫ばなければ、確実の一人の命は消えていただろう。
 シェラの首筋にゴロツキの短剣が突きつけられている。一方、ロマヌゥもまた同じ状況だった。リョーンは抜剣のついでにロマヌゥの首を飛ばすつもりだったのか、少年の首に突きつけられた剣刃はまだ(さや)から抜けきっていなかった。
「なぁ、ロマヌゥ」
 首に凶器を突きつけられたまま、シェラが少年の名を呼ぶ。少年もまた、それに応える。
「何だろう。シェラ?」
「今はまだ、一花咲かせるには寒いだろう。このあたりでお開きにしたいのだが…」
「奇遇だな。僕もそう思っていたところだ…」
――さて、どちらから剣をおさめるか…
 この間が微妙である。どちらも退きたいことでは一致しているのだが、何せ相手のことなど微塵も信用していない者同士、先に剣を引けば必ず、一瞬死が垣間見える。
 リョーンもまた、息を殺してこの緊張に耐えている。その証拠に、彼女の額には玉のような汗が浮かんでいる。
 だが、これも長くは続かなかった。闖入(ちんにゅう)者である。
「何をしている!」
 声が聞こえたのが先かどうか、リョーンの注意が逸れた刹那、ロマヌゥはリョーンを突き飛ばすと、憎悪のこもった目で彼女をねめつけ、そして(はし)り去った。後の二人もそれに続いた。ヘドロの弾ける音だけを残して――
「ふぅ…助かったぜ。カエーナ」
 シェラの言葉に驚いたリョーンは、衣服についた泥をはたくのも忘れたまま、眼前の男を見上げた。

 カエーナという男は、リョーンの想像通りの人物だった。
 長身でいて胸板が厚く、黒く長い髪は後ろに結んでおり、分厚い髭に狼のような目をしている。鼻立ちは剛健な精神を宿したかのようでもある。肌は少し赤く、頬に傷跡がある。
 そして、背には剛力を誇示するかのような大剣を背負っている。
「何をしに来た。シェラドレイウス?」
 カエーナはシェラを愛称ではなく、本名で呼んだ。
「つれないな、カエーナ。シェラと呼んでくれよ」
 シェラは口元に笑みを浮かべているが、リョーンは二人の間が早くも殺伐とした空気に包まれたのを感じた。
「俺は既にクーン剣士団ではない」
「待て。カエーナ!」
 身を翻したカエーナの肩をシェラがつかんだ瞬間、シェラの体が宙に浮いた。リョーンが気がついたときには、既にシェラは地面に叩きつけられていた。だがこの男、(うめ)き声のひとつも上げない。ただ鈍重なだけなのかどうか、リョーンには量ることはできないが。
「何をする!」
 背なから落ちたので呼吸もままならないシェラの代わりに、リョーンが叫んだ。
 カエーナはリョーンを見た。その眼差しには驚きも、好意も存在しなかった。王都に来てからというもの、今や自慢の赤髪と「カル」の肩書きのおかげで、人に出会うごとに好奇の目で見られてきただけに、リョーンはカエーナという男を強烈に感じた。
(人殺しの目だ…)
 クーン剣士団の誇る戦士の目とは、リョーンは思わなかった。ロセに限りなく近いカエーナの眼光は、ロセにはない色を秘めていた。
 憤怒である。そして憤怒だけでは到底押し流せない、心底に深く打ち込まれた憎悪。
()ね。女」
 口元に微かに浮かぶ(あざけ)りと共に、カエーナはリョーンに背を向けた。
「待て。カエーナ!」
 カエーナは止まらない。
「我が名はリョーン。剣翁ロセの娘だ!」
 それでもカエーナは止まらない。リョーンの焦りを嘲笑うかのように道の向こうへと歩を進める。
「わたしと勝負しろ。カエーナ!」
 止まった。だが、カエーナは振り返らない。ただ、空を仰いだのである。
 不思議に思ったリョーンもまた、空を見上げた。目に入るのは曇天。そして、いつ降り始めたのだろう。粉粒のように小さな雪。
――ひゅお…
 一瞬。リョーンが雪に見入ったのはほんの瞬きする間である。だが、気付いた時には既に氷のように冷たい剣刃がリョーンの喉元に突きつけられていた。リョーンとカエーナは投げ飛ばされたシェラを挟んで十歩は離れていたはずなのに。
「ロセは…」
(何という目をする。この男は…)
 真面目で母親思いとはシェラのカエーナ評だが、いざ対峙してみると人間が他人を評するということの無意味さを痛感せざるを得ない。母親さえ手にかけても顔色ひとつ変えない。これが喉元に剣を突きつけられたリョーンのカエーナ評である。
「勝負の最中に余所見をして良いなどと教えたか?」
 暗く低い声が、狭い道に響く。リョーンは口をきつく結んだ。恐怖に歯を震わせれば、それだけでカエーナは興を殺がれ、リョーンを捨て置くだろう。だが、リョーンには耐えられなかった。耐えられないのである。敗北に…
「やめろ、カエーナ。カルには手を出すな…」
 未だに起き上がれないシェラがカエーナの足首をつかんだ。
「貴様が命乞いとは。堕ちたな、シェラドレイウス…」
 心底からの軽蔑と哀れみを込めて、カエーナはかつての剣友に言い捨てた。
 金属の激突する甲高い音が響く。カエーナが一瞬だけシェラの方に注意を向けた隙にリョーンが抜剣したのだ。
 体勢を立て直すために距離をとるなどというのは、稽古の中での話である。実戦では機に乗じることが全て。故にリョーンはたて続けに剣を打ち込む。
(ロセからは教わらなかったか、カエーナよ…)
 二合、三合、リョーンの激しい打ち込みをカエーナは体勢を崩しながらもさばききる。
(勝負の最中に無駄口を叩くなと!)
 押し切った――と、リョーンが思ったところでカエーナは素早く体勢を立て直し、二歩、三歩と距離を置いた。いつの間にか開けた場所に出ている。狭い小道に比べて少し明るい。
「ほう、赤髪のカルとはロセの娘のことであったか…」
 リョーンの赤い髪に雪が弾けて溶けた。
 対峙した。決闘である。

 ロセ邸のタータハクヤとエトは未だ帰らぬリョーンの身を案じていた。
「もう日が傾くというのに。そんなにシェラという人が良いのかしら?」
 タータハクヤが微笑とともに言うと、エトが首を振った。
「それは無いと思う」
「あら、どうして?」
「あの人が来た時、お(ねぇ)、嫌そうな顔をしてたもの…」
 歓談の後、エトがリョーンを探しに行くことになった。シェラが相当に女に対してだらしが無いという評を剣士団の人間から聞いたためである。だが、タータハクヤが案じているのは別のことだ。彼女は未だに時々、リョーンが蘇生したことに疑問を覚える。そしてその不安は、リョーンが何の問題も無く、健全に暮らしてゆけばゆくほどに、かえって大きくなってゆく。
 タータハクヤはふと、窓の外から屋内を照らす夕日を見た。
 悪寒が立った。
(何故…何故また『あれ』がいるの…)
 黄金に輝く太陽。それに重なるようにして、空を分かつ金色の光。いつか見た神龍(しんりょう)が、再びタータハクヤの視界に現れたのだ。前と違うことは、(にお)い。そう、吐き気を催す獣臭が今回は感じられなかったことだ。神はこちらを見ていないということだと、タータハクヤは受け取った。
 光はすぐに消えた。丘の上に位置するロセ邸のタータハクヤが見渡す先、そこは西区貧民街である。


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