360度、円
●0度、シテンそれはシセン
きっかけなんて忘れてしまった。それはあまり重要じゃないから。だから僕は今でも「どうして小説書いてるの?」という質問に弱い。どうしてってそんなの、書いているのが小説だからだ。
友達が居ないわけじゃない。移動教室に一緒に行ったり、ペアやグループを作るとき自然と組んでしまうような奴らはいる。けれど僕は休み時間に一人でノートに向かって文章を綴っているのも好きだった。次々と埋められていく紙面、そこで展開していく物語。ページを捲るごとに僕が作り上げた登場人物たちが、その世界で生きている。それが何よりも楽しかったし、現実には無い開放感もあった。僕は呼吸するのと同じぐらい当たり前に、小説を書いていた。
けれど勘違いしないで欲しい。小説を書けるからといって、成績が良いわけではない。実際、僕の順位は学年でもクラスでも、下から数えたほうが早かった。国語の、それも現代文だけがずば抜けて良い。それは解けるというよりも、他と比べて解りやすいだけだった。その証拠に、一緒に出された有名な作品の著者を埋める問題は、十点中三点しか取れていない。
テストが返された日の授業は好きだ。問題の解説だけで授業が終わることがほとんどだから、僕は安心して答案の余白に考えていたストーリーの素を書き込むことが出来る。そうやってその日も、次に書こうと思っていた話の設定を書き込んでいた。次の主人公は人の心を開放できる少年。他にその子の友人や、鍵となる女の子も考えなきゃいけない。どんな世界にするのかも重要だ。終わってしまったテストなんかより、こっちの方がずっと大事で、僕は思いついたことを次々と余白に書き込んでいく。
そうしてると、突然ニュッと可愛らしいオレンジ色のシャープペンシルが姿を現した。僕の机を二、三回ノックする。僕が手を止めてそのシャープペンシルに繋がっている腕の方を見ると、そこにはクラスメイトの真っ直ぐな視線があった。岩井朋実という、プライベートじゃ一度も話したことが無い女の子。眉間に皺を寄せたその表情は、誰がどう見ても不機嫌にしか見えなくて、僕も真っ先に「何かやらかしたっけ?」なんて自分を疑ったぐらいだ。
でも彼女は体を僕に寄せると、小さな声で言った。
「ねえ、門倉君って現代文得意だよね?」
これが僕と彼女のきっかけだ。彼女の視点にあった僕の答案、重なったあのときの視線は忘れることが無い。
けれど小説を書くきっかけは忘れてしまった。きっと始点となる出来事があるんだろうけど、振り返って見えたのは僕が立っていた始線だけだった。確かめる術を知らない僕は、未だに「どうして小説書いてるの?」に弱い。
●30度、ソコソコな僕の世界
声をかけられた日から、僕と岩井の距離は少しずつ少しずつ縮まった。そう思っているのが僕だけだと、これはどうしようもないのだけれど、あいにく確認なんて出来ないから、縮まったと思うことにしている。
現代文だけ得意な僕は、現代文だけ苦手な岩井に解き方を教えることになった。大学受験のための対策だとは分かっていても、女の子と話が出来る機会なんて滅多に無いから、小説を書き上げたとき以上に浮かれていたのかもしれない。
彼女が「分からない」といって唇を尖らせながら、うんうんと呻いていれば、それをどうにか解消してあげたかった。数学とか物理は、公式を利用して解いていくのが面白いと言って彼女が笑えば、僕は一ページ見ただけで頭が痛くなるそれらの教科書を三ページも読んだ。
岩井が問題を解いている間、小説のための設定をノートの余白にメモしておく。それを見つけた彼女が「私の事も小説に出せる?」と冗談っぽく聞いてくれば、僕は「検討する」と本気で答えていた。
楽しかった、何もかもが。広すぎず、自由すぎない束縛感。高すぎず、上を目指せる底辺さ。遠すぎず、気楽過ぎない緊張感。それらがとにかく心地よくて、僕はすっかり卒業ということを忘れていた。高校を出れば、岩井とは二度と会えなくなるかもしれないという事を。
でも僕は、自分で言うのもなんだけど、結構冴えない男だったりするわけで、告白なんてもっての他だった。それじゃあ、僕に何が出来るんだろう。そう考えたとき思い浮かぶのはただ一つ、小説を書くということだけだった。僕の想いを描いた小説。架空の登場人物に託して、次々展開させていく。でも書き上げたときに満足感は無かった。確かにそこには僕の気持ちがあるはずなのに、それは岩井に向かっていない。パソコンで清書して印刷した原稿の、面という面から溢れて散らばってしまうようだった。これを岩井は拾ってくれるんだろうか。現代文が苦手な岩井が?
うんうん呻く暇も無く、考えるより先に僕は放課後の教室で岩井に向かって喋っていた。
「他の男より冴えないのは分かってるんだけど、それでも岩井と離れたくない」
広くも遠くも無い、ソコソコな世界に暮らす僕の、ちっぽけな言葉だった。岩井は聞き終わったあと、ちょっと唇をくるんと内側に引っ込め、それから左手で右手を握り締めてちょっと腕を伸ばした。体の中央に寄った腕で少し盛り上がった胸に、たとえ一瞬でも目が行ってしまうのはしょうがない。僕は出来た人間じゃないから。
それから岩井は唇を元に戻して、ちょっとだけはにかみながら「私も一緒に居たい、かも」と呟いた。すぐに言葉が出なかった。ポカンと立ち尽くしてる間、彼女はさらに言葉を続けてこう言った。
「女がみんな、冴えた男が好きなわけじゃないから」
それが皮肉じゃない事は、制服の裾を握り締めた手と、机や床を往復する視線が証明してる。何を言おうと思ったのか、僕は結局言葉が出なかった。
冴えない僕の、底々な世界に君が加わった。
●45度、平均的彼女
付き合い始めてよく分かる。朋実は普通の女の子だ。大学に入ってすぐに染めた髪の色を気にしている。長かった髪を肩の辺りまで切って「切り過ぎたかな?」と呟いた。僕はそんなのどっちでも良くて、ただ彼女の髪を僕の指で梳いていたいなとだけ思っていた。
「化粧ってヘタクソなんだよね」
映画を見に行った帰り、ギラギラに光る化粧品売り場で彼女が話した言葉だった。右を見ても左を見ても、似たような顔の女しかいなくて、僕はただひたすら居心地の悪さを感じていたのを覚えている。
化粧なんてしなくても、朋実の肌は充分きれいだったし、触っていても気持ちいい。だからファンデーションとか、そういう顔に塗りたくるようなものは買わなくてもいいのにと、そればかり考えてしまう。そんな想いが通じたのかは分からないけれど、その日朋実はアイブローペンシルと化粧水だけ購入した。
「私みたいなのはこれだけで充分」
そういっておどけてみせた彼女だったけれど、僕は知っている。売り場から出た後、新発売の化粧品コーナーを一度だけ振り返って見たことを。
朋実、本当は他の子みたいに化粧してみたいんじゃないの?
聞いてみたかったけれど、結局僕は口に出す事ができなかった。
一緒に居てみてよく分かる。彼女は普通の女の子。ピンクの服が嫌で、オレンジの服が大好きだったり、ゴテゴテした装飾が嫌いだけれど、キラキラした装飾が好きだった。ツルツル過ぎる素材だと引きつった笑みを浮かべて、ふわふわな素材だと無表情になってつい触ってしまう、そんな子だった。そんな色んな朋実を見るたびに、僕はその全部を抱き締めて、隠してしまいたくなった。この感情が決して綺麗なものじゃないのは分かっていたけど、それでも僕は抑えきれずに彼女に触れる。振り返って朋実が笑った。僕は泣きたい気分になった。
彼女は普通の女の子、僕は小説を書く男。カタカタと、キーボードを叩く音しか響かない部屋で、時折カチカチと小さな音が混ざる。それは朋実がメールを打つ音。僕が綴る小説を待っている音だった。
付き合い始めて大きく変わったこと、それは彼女が僕の話を読むようになったことだった。告白前に書いたものは、あまりに拙くて恥ずかしいから読ませていない。けれどそれ以外のものに、彼女は全て目を通した。読み終えて返ってくる言葉は大半が「テーマ、よく分かんない」だったけれど、彼女が現代文を読めないのは良く知っているからそれでいい。でも少し悔しい。
絨毯の上に携帯電話を放り投げて、朋実がふわふわのペンギンぬいぐるみを抱き寄せた。寝そべる彼女が身につけていたロングパーカーが、体のラインにそって巻き付いている。ミニスカートから生えるレギンスは、腿にぴったり張り付いていた。そんな彼女を盗み見しつつ、僕はカタカタ、キーを打つ。朋実は普通の女の子。僕は小説を書く男。
●90度、不変で不偏な君と僕
簡単だろうと思って始めた本屋のバイトは、接客がてんで駄目な僕には難しいバイトになった。でも文だけ得意な僕は、宣伝POPを作る仕事を任された。
難しいかなと言って始めた居酒屋のホールのバイトは、朋実に意外と合っていたらしい。数字の扱いが得意な彼女は、店の帳簿管理も少しだけ手伝っているとか。
僕と彼女はそうやって自分の世界に住んでいた。同じ世界に居られる回数は少しずつ減っていったけど、会えなくなったわけじゃない。休みが重ならなくたって、どちらかが相手のアパートに行って晩御飯を作っていたりとか、洗濯物を取り込んで畳んでおいたりして、待つことが出来た。休みが重なった日は相変わらず僕が小説を書いて、彼女がそれを待っていたりしていた。
でも確実に変わってはいた。バイトで疲れた頭では、小説がなかなか進まなかった。完成までに時間がかかる。その間、朋実は待ちぼうけ。僕は焦って小説にかかりきり。そして彼女は、僕は。同じことを繰り返していた。
どっちが悪いのかと聞かれれば、どっちも悪くないと答えるだろう。でもそのすぐ後に、どっちも悪いって言うかもしれない。けれどそうしたことすらどうでも良くなるぐらい、僕と朋実の間には一定の埋まらない溝が出来ていた。それは前からあったのかもしれない。僕らが見て見ぬ振りを決め込んでいただけで。そういえば、文と数字にも一定の埋まらない溝があるかもしれない。文で計算できないように、数字で文章が書けないように。
それは本当に出来ないものなんだろうか?
例えば僕が彼女を待たせている時間を、遊びに行く時間に変えたら。バイトで金銭的に余裕もあるから、彼女に服とか買ってあげたり、あのギラギラした化粧品売り場で「化粧してみたら?」なんて言って新発売の化粧品一式を買ってあげたり出来るかもしれない。そしたら彼女は退屈しないし、ずっと待っている事も無い。その分、笑ってくれたら。
僕は彼女の笑顔が好きで、仕草が好きで、その髪を指で梳くのが好きだ。それでもいいんじゃないだろうか。休みの日に書かなくたって、小説は、彼女を待ってる間にでも進めれば、それで。
それで、小説ってどうやって書くものだったっけ?
●180度、くるり、反転
「修平は就職、どこ受けるとか、もう決まってる?」
晩御飯を食べ終えてゆったりとテレビを見ていると、不意に朋実が切り出した。時間が経つのはあっという間で、彼女と付き合うようになってからもう三年になろうとしていた。今じゃすっかりお互い名前で呼び合うのにも慣れたし、どちらかがどちらかのアパートに何日も泊まるなんて、当たり前になっている。そんな僕らはこれから迎える就職戦争について、日々頭を痛めていた。
「いや、まだ決めてない。何になれば長持ちするかなっては、思ってるんだけど」
「修平なら何でも長持ちしそうだけどね。でも、うん、私も何なら出来るのかな……」
「僕より朋実の方が、よっぽど雇ってくれるところありそうなんだけど……。会計とか向いてるし」
そんな会話で僕らは笑っていた。それは心から溢れるものじゃなくて、もうそれしか出来ないといった力無い笑い方で、止み終わると気まずい沈黙だけが流れる事になる。それでも僕らは笑っていた。
「でもさ、修平ならやっぱり小説が一番長持ちしそうだよ」
空になった茶碗を重ねながら、沈黙になる直前、彼女が言った。そのまま立ち上がり、台所に向かう。カチャカチャと食器がぶつかり合う音、ザアザアと蛇口から水が流れる音、それらが静かな僕らの間を駆け抜ける。
小説を書かなくなってから、何日経過したのか。僕は一週間過ぎる前に数えるのを止めてしまったから、詳しい数字は分からない。でもそんなことよりも、僕はもっともっと肝心な事が分からなくなっていた。以前は小説を書くために使っていたノートパソコンも、今じゃすっかりレポートを作るためだけに存在している。色褪せたわけじゃないのに、妙にくたびれた様子のそれは、今に動かなくなっても何ら不思議は無かった。
そして考えてしまう。
小説を書いたからといって、一体何になるんだろう。
別に書けないから言っているわけじゃない。そもそも僕は、小説なんて趣味で書いていただけだ。どこかの賞に応募するわけでも、誰かに見せる必要があるわけでもない。それにこれから就職活動も始まれば、忙しくなって時間的に余裕だって無くなる。そうすれば必然的に書いていられなくなるから、いずれはこうしてピタリと書かなくなっていたんだろう。そうなるとますます、小説を書いて何になるのだろう、と思ってしまう。それでも僕は諦めが悪いらしい。
ノートパソコンを開くと、鈍くディスプレイが起き上がる。何も映っていないモニターには、冴えない僕の顔があった。そっちの僕は小説が書けるんだろうか。モニターの向こうは何もかもが逆さまな世界で、こっちの住人はそっちに行きたいと思っている。でも向こうの世界のことなんかまるで分かっていないで、いざ行けたら絶望の一つでも抱くんだろうか? それからの展開は、どうしよう。
キーの上に右手を軽く置く。人差し指に力を入れると、キーは音も出さずに沈んだ。ディスプレイには冴えない僕の顔。真っ暗なそこに、文字は一つも打ち出されなかった。
「修平、最近書いてないよね」
降りかかった声に顔を向けると、そこには濡れた手を拭いている朋実が立っていた。僕は慌ててキーから手を離して、仕舞おうとノートパソコンに手をかける。けれどそれは彼女の言葉で行われることは無かった。
「私たち、しばらく会うの止めよっか」
あまりにも突然すぎる言葉に、僕は声を失った。頭の奥じゃ、そういえば告白の返事をもらえたときも、何も言えなかったなとか、そんなことを思い出している。
「修平、バイト始めてから、全然書いてないよね。最近、ちっとも新作読んでないもん。どうせ書けばそっちに時間取られるからって、私に気遣ってるんでしょ?」
僕が黙っている間に朋実は上着を羽織り、小さなバッグの中身を確認して、外に出る準備を進めていた。何か言わなきゃいけない場面なのに、僕には何の台詞も出てこない。ただ気が焦るばかりで、今すぐ立ち上がって彼女の腕を掴むことも出来ずにいた。
「気遣ってて、それで書けないって言うのなら、書き終わるまで私、修平とは会わない。私、テーマとかは全然読めてないかもしれないけど、修平の話読むの、好きだもの」
それから彼女は手際よくブーツを履いて、ドアの前で振り返った。その目は真っ直ぐこちらを見つめている。初めて朋実に声をかけたれたときも、あんな目をしていたなとか、やっぱり僕は頭の奥でそんなことを思い出していた。
「修平の話に出てくる人たちね、みんな修平みたいに優しくて、好きだよ。じゃあね」
扉が開けられると外気が一気に入り込む。部屋は一瞬で冷え切って、そして一瞬で元に戻った。それでも僕は忘れないと思う。ドアが閉まるその直前、細長く見えた外の景色を。
ディスプレイに僕の冴えない顔が映る。向こう側の僕は小説を書けるんだろうか。こっちの右は向こうでも右で、こっちの僕は向こうでも僕だというのに。
●240度、水面下の理想センユウ率
僕は今、彼女が何をしているのか知らない。それと同じで、彼女は今、僕が何をしているのか知らない、と思う。バイト先の本屋にこっそり来てる可能性もあるけれど、今のところ僕はそういった姿を見かけていないし、そうした話も聞いていない。でも出来れば知らないでいてほしいと思う。今の僕は、朋実に見せるにはあまりにも格好悪すぎる。以前「女がみんな冴えた男が好きなわけじゃない」と彼女は言っていたけれど、冴えないのと格好悪いのは別問題だ。
バイトが終われば、僕は真っ直ぐ家に戻って、まず軽く腹に何か入れた。それがパンだったり、売れ残りのコンビニおにぎりだったり、日によって変わりはしたけれど、それを食べ終えたらあぐらをかいた。閉じたノートパソコンを引き寄せ、ディスプレイを開く。電源を入れて、そこが明るくなるまでの間に緊張が高まって、指先が酷く鈍る。それはたまに震えるときもあって、僕は苦笑いを浮かべるしかなかった。
システムが起動し終えて落ち着くと、僕は迷わずテキストエディタを開いた。そこには三行ほどの短い文章が載っていて、僕はその末尾にカーソルを合わせた。たったこれっぽっちの文章が、ここ三週間の僕の成果だ。
朋実が部屋を出て行ってから、僕は何度も考えた。冴えない僕に、離れていく彼女すら止められなかった僕に、今何が出来るんだろう。それは彼女を説得することでも、頭を下げる事でもなくて、そうなると残されている道は一つしかなかった。けれど今まで書けなかった小説は、書きますといってあっさり書けるものではない。それは僕が一番良く知っている。それでも綴らなければならなかった。彼女が好きだと言ってくれた、僕が描く小説を。
けれどそれは進まない。悩めば悩むほど、話が展開しない。登場人物は少し離れたところに立っていて、僕をジッと見つめている。前なら何もしなくたって動いてくれたのに。どうして動いてくれないんだろうという疑問は、やがて僕の中で苛立ちに変わる。そしてまたもがいて、前に進めなくなっていた。それはまるで水が体に絡まって、溺れるときとよく似ている。
僕が彼女を専有できていたら、こんなことにはならなかったんだろうか? そんな考えが浮かぶ事もあった。誰かに取られることがないように、彼女は僕のものなんですと、占有権を堂々と掲げられれば、もっと楽になっていたかもしれない。でもそんなことを思うたびに、僕をまっすぐ見つめる朋実の瞳を思い出す。あの目はそんなこと望んじゃいない。僕だって、そんなこと望んじゃいない。僕らが望んでいるのは、小説が完成することだ。
キーを叩く。カタカタと音が響くたびに画面には文字が現れた。けれどそれはバックするカーソルに消されていく。どんな展開を描いても、頭の奥の僕が「それは違う」と言っていた。正解が、見つからない。いや、小説に正解なんて、あるんだろうか。僕は何のために小説を書いていたんだろう。
キーを叩いていた手が止まる。そういえば僕は前に、彼女への想いを全部綴った小説を書いた。それは結局誰にも見せていない。僕の気持ちが散らばりすぎて、見せれるようなものじゃなかったんだ。
僕は今、何を書こうとしているんだろう。書かなければいけないから、書く。小説って、そういうものだったろうか。少なくとも僕が書いていた小説は、そうじゃなかったはずだ。キーの上に置かれた指は、ふわりと持ち上がり、カタ、と音を響かせた。
僕は小説に全てを詰め込めない男。そして彼女の全てを専有出来ない男。でも誰がそれを咎めるんだろうか。
どうして小説を書いてるの?
ディスプレイの行数が、少しずつ増えていく。
●360度、円
思いの他、バイト先で時間を取られて、僕は慌てて朋実にメールを打った。慌てているせいなのか、何度も言葉を打ち損じて、余計に時間がかかった気がする。けれど二ヶ月ぶりに会えるという事実は、僕の心を落ち着かなくさせた。電車を待っている時間ももどかしい。走っていける距離だったら、今すぐ全速力で向かうのに。
ホームにアナウンスが流れたときに、携帯電話がブルブルと震えた。僕も吹き付ける風でブルブルと震えそうだったけれど、そんなのお構いなしに画面を確認する。新着メールの表示が出ていて、僕はそれを押すだけで緊張していた。メールは案の定、朋実から。バイトの時間が伸びてしまったから、少し時間を潰してほしいという内容だった。
轟音と共に電車が滑り込んでくる。僕はそれに乗り込むと、彼女に返信を打った。それはたった一言「分かった」という言葉だけ。それから空いている座席に腰を下ろし、背もたれに体を預けた。両腕でしっかりと鞄を抱える。それから目を閉じた。暗闇の向こうに、細長い外の景色が見える。そこに立っている朋実が言った。
「私の事も小説に出せる?」
けれど僕は小説に出せるほど、君の事を分かっちゃいないんだ。
発車のベルが鳴っていた。ゆっくりと瞼を上げると車内の光が飛び込んできて、一瞬で暗闇を取り払う。
彼女のバイト先の居酒屋はなんていう名前だったっけ。しらさぎとか、しらいしとか、そんな名前だった気がする。入口を潜った僕を見たら、朋実はどんな顔をするだろう。そんな彼女に言ってやるんだ。「時間を潰しに来たよ」って。
僕らはぐるりと一周したんだろう。終点にたどり着いても、それは始点になって、そしてまた一周し始める。繰り返し、繰り返し。
再び描く、円。それは縁。
繋げるのは、原稿用紙たった五枚の、僕が綴った物語。
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