レイの正体─2─
それを聞いても、悲しみや不安だという感情が沸いてこなかった。
レイにはまるで雲の上の話で、それが本当に自分の身に起こったことだという実感がない。
けれど、もし本当にヒオウ以外の何もかもを失ったのだとしたら。今頃、自分は泣き叫んだり、パニックに陥ったりしなくてはならないのだろうか。
……そう思うと、何の感情も持てない自分が、ひどく冷徹な人間に思えてきた。
「…ごめん」
気が付いたら、ヒオウに謝っていた。
「なあに、どうしたの?」
「きっと……辛いことがたくさんあったんだよね。でも、何も覚えてなくて……大切な人のこととか、全然、思い出せなくて……ごめんなさい……」
あまり表情に変化はないが、その面差しには明らかに悲しみが浮かんでいた。
「レイが謝ることはないわ。記憶をなくしたのはあなたのせいじゃないもの」
丸椅子から立ち上がり、ベッドに腰を下ろしてヒオウは言った。
「確かに、リトゥナのみんなのことを忘れてしまったのは悲しいことだけれど、でも、記憶をなくしたのは、みんながあなたに『過去に捕らわれないで前をしっかり見て生きていきなさい』ってことを伝えたかったからなのかもしれないって思うの」
「……でも」
反論しようとするレイを押さえつけ、ヒオウは明るく言った。
「はいはい、そんな悲しそうな顔をしない! 元気出して、ねっ」
と、レイの頬にぶちゅうっ、と熱いベーゼを送った。
「うわああっ」
兄にキスをされ、叫ぶレイ。それを見てヒオウは更に笑った。
「ほら、元気出たでしょう?」
「う、うん…」
ウインクをしてみせる兄に、レイは苦笑した。
と、そこへ、黒髪の少女が入ってくる。
その顔は少し強張っていた。
「あー……───」
少女、乃亜はレイには解らない言葉──この地球の言葉で、日本語というらしい──で喋る。それを聞いたヒオウは大笑いした。
「あっはははっ、見ちゃいけないもの見ちゃった、だって」
どうやら、先程の熱い口付けを見られていたらしい。
「えっ、違うよ、そんなんじゃ…」
レイは慌てて否定する。その言葉が通じたのか、乃亜はフッと顔を崩して、レイに近づいてきた。
「レイ、外、いこう」
と、手を差し出す。
「えっ、外?」
「外、きもちいい、天気、いい」
乃亜はまだうまくリトゥナ語を話せないらしく、単語での会話が主だった。目が覚めたときにカタコトの言葉だったのは、リトゥナ語を上手く話せなかったから、のようだ。
「確かに今日はいい天気ね。ジメジメした感じもなくなってきて、空気が清々しくなったわ」
ヒオウがそう言うと、乃亜はにっこり笑った。
「そう、……んー、暑くない、涼しい。んんー……」
乃亜は何かを言いたいらしいのだが、言葉が出てこないのか、難しい顔をして唸っている。
しかしすぐにパッと笑顔を作り、レイに手を伸ばした。……言葉を伝えるのは諦めたらしい。
「いこう、レイ、ヒオウ」
「アタシも?」
「うん」
レイとヒオウは、乃亜に引っ張られて外へと出て行った。
その様子を診察室の窓から眺めていた聖は、思わず顔を綻ばせた。
大の男二人が背の低い少女にグイグイ引っ張られて道を歩いている。その姿のおかしいこと…。
「先生、次の患者さん入れますよ」
看護師に声をかけられ、慌てて窓から視線をはずす。
「はい、お願いします」
カルテを手にし、看護師に声をかける。
このまま何事もなければいいが…。
聖には、彼らに確かめなければならないことがあった。しかし、どうしてもそれを、訊く気にはなれないでいた…。
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野いちご版「NOAH」
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