さよなら─1─
「ん?」
足音がしたような気がして、陽央は顔を上げた。
黎の代わりに花壇の手入れをしていたところだったのだが──人影は見当たらない。
「気のせいかしら」
と、また花壇に目を向けた時。
庭に白いワンボックス車が入ってきた。
「あら、お帰りなさい」
立ち上がると、運転席から李苑が降りてきた。
「ただいま」
李苑は助手席に乗っていた雛を下ろし、両手に重そうな買い物袋を持った。
「ああん、またそんな重い荷物持って! 買うものいっぱいの時は呼んでって言ってるのに〜」
「ごめんなさい、こんなに買うつもりじゃなかったんだけど、つい…」
「それはアタシが運ぶから、李苑ちゃんは雛ちゃんと家に入ってて! この間も聖くんに怒られてたじゃない。入院するところだったって…」
「…そうね、ごめんなさい」
申し訳なさそうに謝る母を見てか、雛もちょっぴり泣きそうになりながら、
「ごめんなちゃい…」
と謝る。
「ププ、雛ちゃんを怒ったんじゃないわよ」
笑いを堪えながら、陽央は手洗い場へと向かう。
「それはそこに置いといてね! 雛ちゃん、お母さんを家に連れてってね!」
「はい!」
頼まれて使命感に燃えた雛は、李苑の手をグイグイ引っ張って家の中へ入っていった。
「ただいま…」
雛とともに家の中に入った李苑は、何となく重い空気を感じた。雛の靴を脱がせ、手を繋いでリビングへと向かう。
中は静かだった。
ダイニングのテーブルの上に、乃亜のために作っておいたシュークリームがそのまま置いてあった。それを見て、ひどく胸騒ぎがした。
雛が手を離し、リビングにある本棚から絵本を取り出すのを横目で見ながら、キッチンへと足を踏み入れた。
そこには、黎が立っていた。
こちらに背を向けるような感じで。
李苑は名前を呼ぼうとして──キラリと光るものを目にした。果物ナイフの刃が黎の手首に押し当てられている。
「──黎くん!!」
バッと黎の右手を掴み、上にねじ上げる。その衝撃で黎の手の力が抜け、カランカランと音を立ててナイフは床に落ちた。
「…離せ!」
ナイフの落ちた音で我に返った黎は、力一杯李苑の手を振り払った。
その拍子に李苑は後ろによろける。黎は素早くナイフを拾い上げた。
「駄目! 黎くん!」
李苑は黎に飛び掛る。
「離せっ!!」
「駄目よっ!」
「俺はノアのところに行くんだっ!」
「黎くん!」
と、その時。
僅かな間ではあるが、激しいもみ合いをしたせいでお腹に負担がかかったのだろう。一瞬腹部に痛みを感じ、李苑は体から力を抜いた。
だがそのせいで力の均衡が崩れ、黎は思い切り李苑を突き飛ばす形になってしまった。
カウンターに勢い良く背中を叩きつけられ、床に倒れる。
さすがの黎も、ハッとした。
「おかあしゃん?」
雛がカウンターの影から覗き込んでいた。李苑はその声に起き上がろうとしたが……腹部を中心に体中に激痛が走り、動く事が出来なかった。
「……うわあああん、おかあしゃあんっ!」
異常を察したのか、雛はわあわあ泣き出した。
「何の騒ぎっ!?」
外から陽央が戻ってくる。
キッチン内に倒れる李苑を発見すると、陽央は青ざめた。
「…聖くん!」
くるりと踵を返し、医院の方へ走る。
「うわあああ、れいくんのばかーっ!!」
雛の喚き声を聞きながら、しかし心はどこか遠くへと行ってしまったかのような感覚に襲われた。
みるみる青ざめていく李苑の顔。額から流れ出す汗。両腕で包まれたお腹には──皆で誕生を心待ちにしていた赤ちゃんが。
「あ……」
何かしなくては──そう思うのだが、体が硬直して動かない。
「李苑!!」
聖が駆け込んできても。
皆が色々叫んでいても。
自分の体を揺さぶられても。
動く事が出来ない。まるで何かに縛られているように。
救急車のサイレンがして、隊員達が駆け込んできた。
わあわあ騒がしい中で。
黎には、李苑の声が聞こえた。
この喧騒の中、とても静かに。
「黎くん……生きて」
パチン、と弾けるように、意識が戻ってきた。
「…李苑…ちゃん…」
呟いた途端、バシッと背中を叩かれた。
「あんたも行くのよ! グズグズしないで!」
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野いちご版「NOAH」
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