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  NOAH 作者:緑川海月
現実─2─
黎のいる病室へ飛び込むと、ヒュウ、と風が舞い込んできた。
バタバタと揺れるカーテン。
下半分割られた窓。
床に散乱する硝子の破片。
丸椅子を持ち、立っている黎。

その光景を見た聖は、全てを理解した。
黎は記憶を取り戻した。そして、愛する者を失ったことで錯乱しているのだということを。

「うわあああ!」
 
更に椅子を振り上げる黎を、止めに入る。

「黎! 落ち着け!」
 
腕を掴み、椅子を取り上げる。

「放せ!」
 
黎は抵抗するが、聖の力の方が上だった。あっさりと押さえつけられ、ベッドに座らせられる。
しばらく抵抗したが──まったく歯が立たなかった。黎はフッと力を抜き、今度はまったく動かなくなった。
そこへ、先程まで病室にいた乃亜、そして自宅の方にいた陽央が駆け込んできた。

「黎…!」
 
黎の目覚めに、乃亜は一瞬だけ笑みを浮かべたが、その様子に表情が曇った。陽央も同様だ。
陽央はゆっくりと黎のもとへ行き、膝をついた。

「黎、良かったわ目が覚めて。…気分はどう?」

「……」
 
黎は何も答えなかった。

それを見た乃亜も、黎のもとにやってきた。

「…黎? 頭……大丈夫? ごめんね、私のせいで怪我しちゃって……」
 
そっと、包帯の巻いてある額に触れた。
黎の体がビクッと震える。

「…触るな」
 
黎は乃亜を睨みつけ、小さなその手を払いのけた。

「黎!」
 
陽央が非難の声を上げる。しかしそれを無視して黎は立ち上がった。

「…もう、俺に、関わるな…」
 
と、足早に病室を出て行く。

「アタシ、追いかけるわ」
 
陽央は聖に目配せする。聖は軽く頷いた。

「頼む」
 
 
  
陽央が出て行ってから、乃亜へと視線を転じる。
彼女は、固まったまま動かなかった。黎の座ってたベッドを見つめたまま。
 
相当ショックだったのだろう……と、聖は何かいい言葉はないかと頭を巡らせた。すると、聖が口を開く前に乃亜が言葉を発した。

「…ねえ、聖さん。黎、別人になっちゃったのかな…?」
 
答えかねていると、乃亜は更に続けた。

「私、そうは思わないよ…」

「…え?」
 
その言葉は意外だった。
その真意を伺ってみる。

「だって、手が、震えてた。…ああすることが、辛そうだった」
 
乃亜は聖を振り返り、僅かに笑みを漏らす。

「ねえ、私、まだ頑張ってもいいかな?」
 
その言葉に、聖も笑みを返した。

「ああ、こっちがお願いしたいくらいだよ」

そう言う聖に、乃亜は大きく頷いた。



黎は外に出ると、早足に緩やかな坂道を登っていった。
 
当てがあったわけではなく、ただこちらに足が向いたのだ。そして、行き着いたのは──大きな川が見渡せる、小さな公園だった。
少し肌寒い風が優しく、絶え間なく体の横を通り過ぎていく。
 
二年前、ここに来た時。
乃亜に連れられて初めてこの景色を見た時。
あの時は何も解らなくて…。見るもの全てが新しく、輝いて見えた。この景色も、傍らで笑っていた乃亜も。
 
でも今は──。
ただ、辛いばかり。

「黎、いた!」
 
息を切らして陽央がやってきた。

「良かった、ここにいたのね。もう、心配したじゃない」
 
優しい口調だ。記憶が戻ったのを知っているから、気を遣っているのだ。

「…黎? …記憶、戻ったのよね?」
 
顔を覗き込むように言う。黎はそれから逃げるように顔を背けた。

「ああ…」

「そう…。ねえ、黎。今は辛いでしょうけど、少し時間が経てば、少しは楽になるわよ…」
 
その言葉に、黎は陽央を睨み付けた。


 
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