傷を負った少年─2─
午後五時四十分。
櫻井医院の若き院長、櫻井聖は椅子に座りながら大きく伸びをした。
まだ診療時間は終わっていないのだが、この大雨のせいか、待合室には人一人いなかった。窓の外を見ればそれは一目瞭然。
台風とさほど変わらない暴風雨の中、外に出るにはかなり勇気がいる。よほどの重症でもなければ家でおとなしくしていよう、ということなのだろう。
患者も少ないし、この嵐なので、つい先程2人いる看護師を帰したところだった。
診療時間が終わるまで後20分弱。もう患者は来ないだろう……と、かけていた眼鏡をはずし、もう一度伸びをして椅子から立ち上がった。
すると、そこに彼の妻である李苑が現れた。
「お疲れ様。やっぱり患者さん少なかったわね」
「ああ、この嵐じゃあな…。もう今日は来ないかもな」
と、窓の外に目をやる。雨足は先程からどんどん強くなっている。風は恐ろしいくらいに強く、窓ガラスがガタガタと激しく音をたてた。
「お掃除しちゃいましょうか?」
「そうだな…。じゃあモップだけかけてくれるか? 機械類はそのままでいいから」
「はい、分かりました」
李苑は奥にある掃除用具入れからモップを取り出し、長い髪を揺らしながら掃除を始めた。
「雛は寝たのか?」
机の上を整理しながら、まだ生まれて間もない娘のことを聞いてみる。
「ええ、ミルクを飲んでぐっすりよ」
掃除をしている手は止めずに、李苑は答える。
「じゃあ、起きたら遊んでやろうか」
綺麗に整った顔を僅かに歪め、聖は言った。その言葉に、李苑は「ふふっ」と短く笑う。
この小さな医院で幸せに暮らす三人家族。近所でも評判の美男美女夫婦と、二人の間に生まれたかわいい娘。
何事もなく平和に暮らしていたこの家族に、これから大変な事態が待ち受けていようとは誰が予想しただろうか…。
バタン! と激しく扉の開く音がして、聖と李苑は入り口の方に目をやった。
「あら、患者さんだわ」
李苑は素早くモップを影に隠す。そうする間に、患者だと思われた人物は診察室に飛び込んできた。
「大変っ、聖さんっ!」
飛び込んできたのは、頭から足までびしょ濡れになった、隣の家の女子中学生。
「乃亜ちゃん、どうしたんだ?」
「人が……男の子が、倒れてるのっ」
そう叫ぶ乃亜の白いセーラー服には、僅かに血がついていた。
「怪我したのかい?」
聖は乃亜もどこか怪我をしたのではないかと心配して訊いた。
「うん、あの、男の子が血だらけでっ」
「…分かった」
どうやら乃亜は怪我をしていないようだと判断し、聖は李苑に視線を投げた。彼女も医者なので、それだけで聖が何を言おうとしているのかを理解する。李苑が僅かに頷くのを見て、聖は乃亜とともに外に出た。
「こっち!」
乃亜に引っ張られてどしゃ降りの雨の中を進んでいくと、僅かに明かりを地面に届ける街灯の下、蹲る人影がふたつあるのが見えた。
少年の元にたどり着くと、素早くその状態を観察する。
青白い顔、冷たくなった体、そこから流れる大量の血…。
一目で自分一人の手には負えないことが分かった。設備の整った総合病院に連れて行かなくては。
「大丈夫か! しっかりしろ!」
声をかけても何の反応もない。かなり危険な状態だ。
「一旦、中に運びます。止血しますので」
聖は少年に寄り添う人物にそう言った。しかし睨まれるだけで、何の返事も返されない。
「あっ、聖さん、その人達日本人じゃないみたい。言葉が通じないの」
横から乃亜に説明される。
「成る程。とにかく、この子を運ぼう」
聖は着ていた白衣を道路に広げ、それに少年を乗せた。担架代わりにするのだ。
「足の方持って」
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