僕の街の真ん中にはいつも時計塔がある
世界は個人に等しく様々だ。
世界は個々人の自我に等しい。
誰かの認識する世界が、その誰かの世界なのだ。
時にはその世界が閉塞感に包まれているように思えることもあるだろう。
だが、ほんの少し。ただのほんの少しのきっかけだけでそれは打ち壊されることもある。
†
生まれ育った街というものは、閉鎖された一つの世界だ。
彼自身、そう思っていた。
別に、街の外に出たことがないわけでもない。ただ、ときおり、この街が外界から隔離された世界なのではないかと思うことがあるのだった。
本当は街の外には何もなくて、虚無が広がっているのではないかと。
だけれど、その考えはいつでも消化されないまま思考の奥底に沈んでいく。
†
それは、彼が親の使いで、叔母の家へ届け物をした帰りのことだった。
彼がその日のようになにかを叔母の家に届けるというのは、よくあることだった。彼の叔母は一人暮らしで、あまり外に出ることを好まない。そこで、少年が母親の頼みで必需品を定期的に届けているのだった。
繰り返される行動。すでに定型化されていた。イヤというわけじゃない。好きということでもない。ただ普通の行動だった。
そうであるから、その日彼がいつもと違う道を帰途に選んだのは単なる偶然のはずだった。町はどこもかしこもが入り組んでいて迷路のようだ。いつも決まった道を通らないと迷ってしまいそうなほどに。少なくとも少年にはそう思えたのだ。どうしてもこの街が出口のない迷路のように。
その日彼はなんてことのない、いつもは気にすることのないある路地に惹かれていった。平生であれば、その路地の前を通り過ぎていくだけで、次の角を曲がる。
だが、少年は足を止めた。本当にそれは何てこともなかった。ただ足を止めずにいられなかった。彼は路地に目を向けた。
二つの大きな壁に隔てられた小さな隙間。建物と建物の間にできたわずかな空間。ゴミともしれぬがらくたが乱雑に転がっていた。そこは極端に狭く、また極端に暗かった。そのせいで先がどうなっているのかがはっきりとしない。
少年は路地へと足を踏み入れた。そこで少年ははたと気づく。路地のちょうど中央あたりだろうか。一筋の光が射している。建物の隙間と隙間とが絶妙に重なりそこだけ陽の光が入ってきているのだ。しかし、少年にとってそんなことはどうでもよかった。それよりもむしろ、少年はその光の中にいる人物に目を奪われた。
知らず足が進む。
その人物は壁の方を向き天を見上げている――ようだった。宙を舞う埃が光に照らされて雪のように煌めいている。その中にその人物は佇んでいるのだ。とても美しい、直感的に少年は思った。
しかし冷静に見てみると、その人物はおかしな格好をしていた。男とも女とも、大人とも子供ともしれないその人物は真っ黒なフード付きのコートのようなものを羽織っていた。ローブとでもいうのだろうか。フードのせいで顔が見えず、その服装自体のせいで体型もうかがいしれない。少年は妙にその人物が気になった。
警戒することも忘れ近づいてみる。
するとローブの人物は少年の方を向いた。少年は一瞬、顔が見えるのでは、と期待したが、実際はやはりフードでよく見えなかった。見えたのは口元だけだったが、性別はどちらともとれなかった。きれいな輪郭であることだけは分かる。
少年はしばらく、声も出さずその姿に見入っていた。
「やあ、今日はいい天気だね」
先に話しかけたのはローブの人物の方だった。その声は男の声だった。といっても、どちらかというと中性的で透き通るような声質で、それは耳に心地よく響いた。
しかし、少年はその言葉に同意しかねていた。いい天気、であるのは確かかもしれなかったが、素直に返事をするような心持ちではなかったからだ。
なにも言わず、わずかに顔をうつむけてじっとしているとローブの男はほんの少しだけ口元を笑わせた。
「そうか。そうだよね。君はそうであるからここに来たんだ。そう望んだからここにいて、私がここにいる」
男がぱちんと指を鳴らすとどこからともなく一匹の翼猫が彼の足下に現れた。黒くつやつやとした毛並みに、赤と翡翠色のオッドアイ。飛ぶことを忘れた背中の翼は、今は小さく、それでも確かにその存在を主張している。
黒い翼猫は男の足にすりすりと顔を寄せた。男はしゃがみ込むと、翼猫の頭を撫でる。翼猫はよほど気持ちがよかったのか、ごろごろと喉を鳴らして上機嫌のようだった。
「あなたは……何ですか?」
誰、と問うわけでなく、何、と訊ねた少年はある意味で正しかった。ローブの男はフードの影で微笑んでみせた。
「だから言っただろう。私は君が望んだからここにいるんだ」
それ以上の説明は不用だろうといった口振りに、少年は何も返せなかった。
「思考停止……もよくない。とはいえ、今の君には何を言っても無駄だろう。そんな顔をしていては」
そんな顔、と言われ少年はハッとなった。今自分はどんな顔をしているのだろうか。自分の顔など、自分で見られるはずもなく、確認する術もないが、どうしようもなく自分の顔を見たくなった。今、自分がどんな表情をしているのか。それはやはり自分では分からないことだから。
男は少年に優しく微笑みかけた。
「この街は君の住む世界だ。でも、もしこの世界に息詰まりを感じ、もし、君がどうにかしたいと思うのなら、君が、君自身でも気づいていない『なにか』を知りたいというのなら、この子についていくといいよ。そこに連れていってくれる」
言うと、男の足下にいた翼猫が、今度は少年の方へと寄り、少年の足に頬をすり寄せた。
「え……?」
少年は自分の足下の翼猫に視線を向けた。すると、猫の方も少年を見上げているようだった。
「あの……」
少年が男に話しかけようと視線をあげる。すると、そこにはもう誰もいなかった。少年の顔を映していた空間も今は周りと同じようにどこまでも透明に光を案内している。
少年は辺りを見回す……といっても両方は壁だ。男は忽然といなくなっていた。しかし、不思議と驚きはなかった。今のやりとり自体が夢であったかのように思われたから。
ただ、翼猫は確かにここにいる。
驚きはなかったとしても、ただ何もすることもできず、呆然と翼猫を眺める。
しばらく見つめていると、ふいに翼猫は歩き始めた。どこか軽快な足取りで。光を抜け、少年の来た方向とは逆方向の闇の中へと。
「ちょっと……」
呼びかけても止まってくれそうにない。それどころか、ときどきこちらを振り返り、ついてくるよう促しているようだった。
――もし、君がどうにかしたいと思うのなら、君が、君自身でも気づいていない『なにか』を知りたいというのなら、この子についていくといいよ。そこに連れていってくれる。
男の言葉が脳裏に浮かぶ。
少年は翼猫の後をついていくことにした。
猫はすたすたと歩く。少年は、それをおぼつかない足取りで追う。
しばらく暗闇の中を進むと、前方に明かりが見えた。長く感じたこの暗い路地も、もう終わりらしい。
路地を抜けた。元来た道と同じような風景が現れる。当たり前と言えば、当たり前だ。この街はどこもかしこも、基本的に同じような建物が並んだ、同じような風景なのだから。
猫はやはり、迷いなく進む。中空に浮かんだ数ステップの階段を下り、建物の間を縫うように。時折、他人とすれ違うが、猫を追いかける少年を奇異の眼差しで見るだけだった。
少年はすでに、そんなことは気にしていない。今は、前を行く黒い翼猫を追うことに夢中だった。
幾度も角を曲がり、ステップを上がり、下り…………そんなことを繰り返している間に、見慣れない大きな道へ出た。
「なんだろ、ここ」
何年間もこの街に住んでいるのに、そこは始めてみる場所だった。呆然として立っていると、翼猫はその大きな道の真ん中で、ちょこんと行儀よく座って少年のことを待ってい
た。
なんだか、急かされているようだった。
「あ……うん。今行くよ」
少年は駆け足で翼猫の方へ向かう。翼猫もそれを確認してか、またとことこと先へ進み始めた。
後に続こうと向きを変えたときだった。少年はハッとした。
そこに建つのは、巨大な時計塔。この街のシンボルであり、中心である塔。街の住人はこの塔を毎日見て、この塔とともに過ごす。だんだんと先が細くなる四角柱。どこか街とミスマッチだ。しかし、これがなければ街が成立しない。補色のような妙。
少年も勿論この塔と生きてきた。
この塔を目印にいろんな場所へ向かうし、時計塔としての当然の機能――時間を確認するのにも役に立っている。
しかし、実際、この道のような塔につながる大道を見たことがなかった。存在すら知らなかった。街は広い。といっても、少年としては、様々なところを知り尽くしているつもりだった。
――もっと幼いころ、友人とよく探検をした。入り組んだ街は、どこを歩いても不思議にあふれていた。住み慣れたように思える街は、やはり広くて、僕らを飽きさせなかった。そんな僕らの不思議の象徴は、あの時計塔だった。何度も何度も、あの時計塔の元へ行こう、と街を歩き回ったことがある。でも、どうしても、どうしても辿り着くことはできなかった。
それはあくまで”つもり”に過ぎなかったと、少年は思い知らされた。こんな知らない場所があるのだから。ゆっくりと翼猫の後について、大道の真ん中を進む。
少年に時計塔へとつながる大道は、街から隔絶されたように感じられた。雑然とした街の様子とは一線を画し、清浄とはまた違った無機質さがそこにあった。その道が時計塔へと吸い込まれていく。
道を進み、少年は時計塔へと通ずる道が一つではないことに気づいた。時計塔を中心に、放射状に道がいくつも広がっているらしい。細い道もあれば少年の行く道のような大きな道もある。いずれもが、塔の周りの円形の広場へ通じていた。
翼猫は、最後は振り向くことなく塔の陰へ消えていった。
「え、あ、ちょっと……」
少年はなんとか翼猫を追いかけようと少しだけ走った。しかし、どこにもいなかった。翼猫が消えていったところには塔の入り口がポッカリと口を開けていた。
足元がひんやりとする。すぅと風が塔の中へ吸い込まれていく。
「……」
少年の足は自然と塔の中へと進んでいた。
初めて入る塔の中。なんだか心が浮き立ってくる。
塔の中は冷たかった。ところどころにある窓のようなものから光が光線上に差し込んでいる以外光はなく、全体的に薄暗かった。
入り口のすぐ側から階段が始まっていた。壁に沿うようにして螺旋状に、上に上へと続いている。一番上はとても遠くに見えた。
ふと見ると、階段の少し上の方をさっきの翼猫が歩いていた。
少年は翼猫を追いかけるようにして階段に足を踏み出した。
壁からつきだした金属製の階段は、少年がステップを上るたびにタンタンと軽快な音を響かせた。
ただ、いくら上ろうが景色は一様に薄暗い壁だ。それでも彼は進み続けた。
どれほど上っただろうか。やがて目の間で階段は途切れ、外へ出られるようになっていた。
翼猫はちょうどそこにちょこんと座っていて、まるで少年を待っているかのようだった。
少年が翼猫の横まで行くと、翼猫は数歩前へ進んだ。少年も進む。
外へ出た。
視界が大きく開ける。
いつの間にか、空は夕焼けの色に染まっていた。
塔の上部。少し上を見ると、そこがいつも見ている大きな大きな時計だった。ちょうどテラスのようになっている場所。しかし、柵があるわけでもなく足を滑らせでもしたら落ちてしまいそうだ。
だが不思議と少年は怖いとは感じなかった。
少年は一歩前へ出て景色を見下ろす。
そこは彼がいままでずっと住んできた街、世界。いつもは大きく感じられる建物もここから見るとただの小さな箱のようだった。住み慣れた街のはずなのに上から眺めるだけでまるで異国の街に飛んできてしまったかのようだ。
少年はしばらくのあいだ、立ったまま街を見つめていた。
陽はどんどん沈んでいく。茜色の空は、夜の色に追われていく。
夕色の最後の一滴が消えようとしたとき、突然翼猫はその小さな翼を目一杯に広げた。翼猫はわずかに助走をつけ、たっと空に飛び立った。その小さな翼で飛べるはずもないのに、気持ちよさそうに空に滑りだした。そして、わずかな夕空を目指すように、遠くへ遠くへと飛んでいってしまった。
遠くへと。ただひたすらに遠くへと。
あんなふうに飛べたとしたらどれほど気持ちが良いだろうか。
少年はそう思い、一歩前へ足を踏み出した。
初めましての人は初めまして。
マナ'とかいう者です。
今回はこの「あなたのSFコンテスト」に参加させていただきました。
この作品は「少しだけファンタジー」ということで「SF」とさせていただきました。また、「そんなふつうな物語」とも書いてますが、こちらに関しては感じ方次第だと思うので正式には取り扱いません。
この小説は、昔別企画に投稿しようとして、やめたものの改稿版となっています。実際のところ、投稿するのは初なので、新作であることには間違いなさそうです。
すこしでも、なにか感じていただければと思います。
ちなみに、もう一作品、この企画に投稿予定です。
そちらの方は期間内に完結するか微妙なので、あれなのですが……。
ぜひ完結させたいと思ってます…。もう一個の方は短編-中編予定