浅倉新之助始末記
「やはり死ぬしかないのかなぁ」
裏長屋の低い天井を見上げながら、浅倉新之助は思う。死ぬと決心し、少しはひとのためになる死に方ができると自己満足した新之助だったが、敗北感と虚しさは残っている。
住み始めた頃は、掃除も雑巾掛けもして、古い建物ながらも清潔で小ざっぱりとした部屋を維持していた。食べた後、食器もすぐに洗い、脱いだ下着もすぐに洗濯していた。男の一人住まいにしては上等と言わなければならない。
しかし、生活に追われるようになると、その心掛けも徐々に薄れ、汚れてはずしたふんどしが部屋の隅に丸めて置かれているわ、流しには食器が食ったまま置きっぱなしになっているわで、使う都度、棚や茶箪笥に戻していた物も、畳の上に転がっているという有様になってしまった。
“貧すれば鈍す” と言うのはこういうことなんだなと新之助は思う。だが、そう思うだけで、片付けようという気力は沸いてこないのだ。
親の代からの浪人では無い。元はさる藩の勘定方で書き役を勤めていたれっきとした武士であった。
幼い頃火災事故で両親を亡くし、叔父夫婦に育てられた身であったが、叔父の尽力と藩主の理解もあり、家を再興して亡父の職を継ぐことが出来たのだ。
勤めは人一倍身を入れてこなしていたし、剣術の腕も立ったので、朋輩達には、それなりの尊敬と信頼も得ていた。ある一点を除いては、不足の無い人生を送っていた。
その“ある一点” と言うのは、新之助の風貌にあった。
例えば、見ず知らずの十人を集めて新之助を見せ、後で
「あの男は善人と思うか悪人と思うか」
と聞いてみたとしよう。すると恐らく、十人が十人とも
「悪人だと思う」
と答えるだろう。
名前だけは二枚目風だが、不幸なことに、新之助の顔はそれほど悪人顔であったのだ。人は見掛けでは無く中身だと良く言うが、第一印象というのは大きい。
幼い頃から新之助を良く知る者達は、新之助が気が優しくて正義感の強い男だということを良く知っているから、男社会の付き合いには何の支障も無かったが、残念ながらと言うかやはりと言うか、女には全くもてない。
顔立ちが整っていてちょい悪くらいならむしろ女にはもてるはずだが、新之助の顔は、そんな余地の無い、まるで芝居の敵役そのものなのだ。
幼馴染の娘達の中には、新之助の気心を良く知っている者も多いはずだから、器量は悪くても、新之助の嫁になっても良いと思ってくれる娘が居ればと、叔父夫婦は必死になって知り合いに仲人を頼んで回っていた。
そんなある日、新之助は思わぬ事件に巻き込まれた。ふとしたことで、勘定奉行と家老のひとりが結託して横領を働いていることを知ってしまったのだ。
親のいない新之助はひとり住まいだ。通いの下男と下女がひとりづつ。それに、六十がらみの若党がひとり居るが、他の家に比べれば気楽なことこの上ないので、自然と若い者達の溜り場となってしまっている。
正義感の強い新之助は入りびたりの者達に不正を知ってしまった事に付いて相談を持ち掛けた。
皆『それは許せん』ということで一致したが、
『上役の助けを借りて、勘定奉行にやめるよう説得しよう』
と提案してみると、
『そんなことをしても俺たちの意見など聞くものか、上役に握り潰されるか下手をするとこっちが罰せられることになる』
とそれには反対する者が多かった。
そして、
「それなら、いっそ殿に直訴しようではないか」
と言う者が現れた。下級武士が主君に直訴すると言う事は、命を捨てる覚悟が無ければ出来るものでは無い。しかし、新之助は藩の為にそうするしか無いかも知れないと思うに至った。
「そうだな。俺は殿には特に恩義がある。直訴によって罪に問われることになるかも知れないが、藩の財政を食い潰す白蟻共を見過ごしにすることは出来ぬな。分かった。俺が筆頭になり殿に直訴するから、皆も血判を押してくれ」
と皆に向かって宣言した。
『あの殿なら、きっと大掃除をやってくれる。もし直訴の罪を問われるようなことがあっても、自分が筆頭になることによって他の者達の罪はより軽く済むだろう。どの道親の無い身、育ててくれた叔父には迷惑を掛けるかも知れないが、藩のためにしたことと分かれば叔父も許してくれるだろう』
と思った。
その場で新之助が直訴状を書き、皆署名し血判を押した。
三日後に藩主が菩提寺に参拝に出掛ける。その折に隙を見て直訴することにし、他の者達は、新之助を押し止めようとする家臣達の邪魔をして、新之助が主君に近づくことを助けるという段取りを整えた。
もちろん、どんなことになっても刀を抜く分けには行かない。身を挺して邪魔する者を押し止めるのだ。
夜になって、仲間のひとり阿部伊織という者が新之助を訪ねて来た。
家に帰って弟と話しているうち、つい勘定奉行の不正のことを話したら非常に憤慨して『許しては置けぬ。是非自分も仲間に加えて欲しい』と懇願されたと言う。
「『居ても立っても居れぬゆえ、すぐにも血判署名したい』と言っているが、こんな時刻に弟を連れて家を出ると両親に疑われる。ついては、我が家で署名血判をさせたいと思うので、一晩直訴状を貸して欲しい、明日の朝には帰す」
伊織はそう言った。
『落とうとに喋ったのか。口の軽い男だな』と思ったし、何やらおかしいとは思ったが、ここで疑う素振りを見せて、もし仲間の間に亀裂が入るようなことになれば、何もかも台無しになってしまうと思い貸してやった。
しかし、やはり気になって眠れず、翌朝早く伊織の家を訪ねるため家を出た。
ところが、何やら城下の様子がおかしい。危険を察知する勘が働いて、物陰に身を隠していると、大勢の役人が足早に通り過ぎて行く。その上、案内役を果たしているのは仲間であるはずの六人だった。なんと、一人残らず裏切ったのだ。伊織が血判状を持ち出したのは、自分達も加わっていたという証拠を消すためだった。
新之助はもとより知らないことであったが、新之助の家を出た後、六人は話しながら歩いているところを、偶然通りかかった伊織の父に聞きとがめられていた。絶対に漏れてはならない大事に付いて話しながら歩くなど、不用心この上ない。つまり、新之助以外の六人の若者の感覚は、人騒がせな悪戯をして大人達を困らせるくらいのものでしかなかった。命懸けの大事などと言う実感は誰一人抱いていなかったのだ。
偶然聞き咎めた伊織の父は、六人を屋敷に連れて行き、問い詰めた。そして、仰天した。
確証も無く奉行を批判することがどんなに危険なことであるかと諭され、まして、直訴など…… 何を考えているのかと叱責され、
「お前達は、それぞれの家を潰すつもりか!」
と六人は怒鳴りつけられた。
そして、現実を悟った六人はあっさり心変わりしてしまったのだ。
信じられぬ馬鹿さ加減だが、危険なことを話しながら歩いていたのだから、誰か他の者にも聞かれている可能性が有る。伊織の父はそう考えた。
まして、署名血判した直訴状まで作っているとしたら、直訴状が役人に押さえられれば大事件になると判断した伊織の父は考えた。六家の者が揃って罪人となり、家が取り潰される事態だけは、何としても避けなければならない。それにはまず、血判状を処分する必要がある。だが、既に漏れているかも知れないのだ。どうしたら良いかと、伊織の父は考えた。そして、結論を出した。
新之助ひとりに罪を着せるよう六人を説得する。最初は渋っていた六人だったが、
「お前達とは違って新之助は真面目だ。そして、その上頑固だ。お前たちが遊びの延長のようなつもりで乗った話ではあるが、恐らく新之助は本気だ』
『父上、我らが悪かった。それほどの大事になるなど思っていなかったのだ。やめる。新之助を説得してやめさせる』
伊織は、手を付いて父に詫び、そう申し立てた。
『あの頑固者の新之助を説得して止めさせる自信がお前らにあるのか? それに、例え止めさせたとしても、もし誰かに聞かれていたら、事はもう発覚しているかもしれんのだぞ。明日の朝にはお前ら全員が牢の中ということにもなりかねんのだ。七軒の家が取り潰されることになるやも知れぬ』
『本当に申し訳御座いませんでした。血判状も焼くように新之助を説得するので、父上、どうかお許し下さい』
『無かった事にするには既に遅いかも知れぬ』
『では、どうすれば……』
『不憫だが、新之助ひとりに罪を負ってもらうしかない。お前ら六人を罪人にする訳にも、六軒の家を取り潰させる訳にも行かん。新之助は親兄弟の無い身だ」
伊織の父の決定に恐怖を覚え、新之助ひとりに罪を着せるということにしばらく苦悩した六人だったが、やがて頷く。
伊織の父は、直訴状を奪うための策を伊織に与えた。それが、伊織が新之助を訪ねた裏事情だったのだ。
六人の裏切りを知った 新之助はその場から故郷を出奔した。
流れ流れて江戸に辿り着き、千束の裏長屋に住み着いた。浪人者に小刀はいらないので、旅に出て後、まずそれを金に換えた。着ていた羽織袴に加えて着物も売り、安い古着を買った。
新之助は剣術が好きで刀にこだわりがあったので、他のことを節約して、分不相応に上等のこしらえの刀を買って持っていた。これだけは金に換えることはすまいと思っていたが、古着に差すと目立ちすぎる。盗品ではないかと役人に目を付けられる恐れがあった。
そこで、刀身だけを残して、鞘、柄などを売って安物に替えた。この金は"たなちん" を払い最低限の家財道具を買っても暫く残った。
当面そんな風にして凌いでいたが、いつまで続くものでは無いから収入の宛てを付けなければならない。
傘張り浪人という言葉があるが、新之助も大家に頼んで傘張りの内職を世話してもらった。ところが、不器用で小手先の細かい仕事が苦手な新之助は、綺麗に仕上げることができず、一回目の納品の時
「旦那、これじゃ売り物になりませんよ。こんな仕事におわしは払えませんね。それどころか、一旦剥がして誰かにやり直させなけりゃなりませんから、こっちは大損ですよ…… まったく…… 」
と断られてしまった。
仕方が無いから、近所の子供に読み書きでも教えて暮らしをたてようかと思ったが、金を掛けて子供に読み書きを習わせようなどという住人は居そうもないし、そんな余裕も有るはずが無い。
只で教えてやれば、米や惣菜くらいは礼に持って来るだろうから、少しは暮らしの役に立つというものだが、新之助の周りには、子供どころか人が寄って来なかった。
最初長屋に来た時、一瞬怪訝な表情は見せるものの、新たな入居者と分かると、長屋の住人達は気さくに新之助に声を掛けて来た。しかし、人見知りの激しい新之助は何と答えて良いのか迷ってしまうのだ。
「旦那、お早うございます」
と声を掛けられても、国許に居た時のように
「うん。精が出るのう」
などと答えたら、偉そうにしていると思われるのではないかと考えてしまう。
かと言って、長年の武士としての性からか、素直に
「おはようございます」
と返すこともできない。そんな風に迷っているうちに通り過ぎてしまうので、住人達にしてみれば
「やっぱり、顔が恐えだけじゃなく、薄気味の悪い浪人だな」
ということになってしまう。
長屋というところは、一部運命共同体のようなところがある。米や味噌が無くなれば隣近所が貸してくれる。男の寡暮らしと分かれば、近所のおっ母たちが交代でおかずを持って来てくれたりもする。借りたものは返すという気持ちさえ持っていれば、お互い貧しいのは分かっているから引け目も感じずに暮らせるのだ。例え食い詰め浪人と分かっていても『先生、先生』とおだててくれる。普通ならばそうなのだ。
ところが、新之助は見掛けが恐い上に、その対応について誤解されてしまったので、さすがに気さくで人の良い長屋の住人達もあまり寄り付かなくなってしまっていたのだ。
そんな状況で『手習い』の看板を出してみても、誰ひとり習いに来る訳が無い。
用心棒を探している大店があると口入れ屋に紹介されて行ってみた。
ところが、一瞬表情の変わったあるじは、急に揉み手をしながらお世辞笑いをして
「いや~、申し訳ありません。口入れ屋さんにお願いしてはいたんですが、今朝になって急に御恩のあるお方から紹介されて、他のご浪人さんに決めてしまったんですよ。残念ですが…… 」
とわずかな小銭を握らされて、体良く追い払われてしまった。
あるじにしてみれば、こんな人相の良くない浪人を用心棒にしたら、自分まで悪徳商人のように思われてしまうと思ったのだろう。
『ふん。それならばいっそ、この顔を逆手に取って、やくざか金貸しの用心棒でもやってみるか』
と思ってはみた。しかし、根が真面目な新之助にはやはり出来ない。
『俺は一体何をしているんだ』
新之助は思った。ただ生きて行くということがこんなに大変なことだったなんて、藩士であった頃は全く考えたこともない。
決して多くの扶持をもらっていた訳ではないが、贅沢さえしなければ暮らしに困ることはなかった。そして、それは新之助の中では当たり前のことであった。藩士という身分を失って初めて、決して当たり前のことではなかったことを思い知った。
しかし、暮らしのことだけなら辛抱は出来る。こうなってしまった以上何としても生きてゆかなければならない訳だから、その覚悟は出来る。
もっと新之助に取って耐えがたいことがほかにあった。
ひとに認められたい。叔父夫婦に恩を返したい。藩のため、殿のためお役に立ちたい。そう思って努力して来たことが、藩士という身分を失った今、何の意味もないものになってしまっているのだ。
『これからの自分は、まるで獣のように、ただ、餌を得るためにだけ生きて行かねばならないのか? だとすれば、そんな人生に何の意味があるのだろうか』
いっそ死のうかと思った。まず、腹を切ろうかと思ったが、切腹というのは、武士の対面を保つためにするものだ。食い詰め浪人が切腹したとしても笑われるだけ。かと言って町人のように川に飛び込んだり首を吊って死ぬなど、みっともないことこの上ない。そんなことは出来ない。
ほとほと嫌になって、無け無しの小銭を持って居酒屋に入り、肴も取らずに酒を飲んでいると、
「へっへっへ、旦那一杯お注ぎします」
と隣の席で飲んでいた遊び人風の若い男が自分の徳利を持って近寄って来た。
「何の用だ」
「いえね、失礼ながら、旦那。景気があんまり宜しくねえんじゃございませんか? 気を悪くしねえで聞いておくんなせえよ。実は、旦那にぴったりないい仕事があるんですよ。旦那、お強いんでしょ、…… やっとうの方」
「ふん。押し込みか? 追いはぎか? 俺に何をやらせようってんだ! 」
「しっ、しっ、しっ。旦那、人聞きの悪いことを言うもんじゃありませんよ。そんなんじゃねえって…… 」
「酒がまずくなる。消えろ! 」
「何だと、この食い詰め浪人が! しみったれた飲み方してやがるから、こっちは親切で小遣い稼ぎの口世話してやろうと思って言ってやってんのに…… 消えろだと。…… てめえ、ここの払いもできねえんじゃねえのか? ひょっとして、え? 貧乏浪人さんよ」
「何ぃ」
と言って立ち上がった新之助が刀の柄に手を掛けた。
その時、
「お待ちなさい! 」
と座敷の方から声がした。
見ると、座敷で飲んでいたやはり浪人風の男が土間に下りて来た。
同じ浪人とは言っても新之助とは全く違う身なりをしている。さかやきこそ伸びているものの、その髪は綺麗に整えられており、上等そうな着物を着流し、左手に持った刀を右手に持ち替え、洒落た蒔絵の鞘を帯に差し通しながら歩いて来る。
「そんな奴を斬っても刀のけがれになるだけですよ。おい、兄さん、ここの勘定は俺が払って置く。これで、どっか他へ行って飲み直しな」
そう言って小粒一枚を放った。
左手で器用に受け取った遊び人は「へっへっへすいません。そっちの旦那はさばけたお人だ。じゃ、あっしはこれで…… 」
と言い残し、右手で着物の裾を掴んではしょり、小走りに店を出て行った。
「済まぬ。差し出たことを致した」
小粋な浪人はそう言って、新之助に軽く頭を下げた。
「いや、こちらこそお礼申します。お蔭で馬鹿な真似をせずに済み申した。その上散財までお掛けして」
「何、同じ浪人同士。拙者もな、貴殿同様、最近までは暮らしも儘ならぬ身でござった。ですが、運の良いことに、この度、さる藩に仕官することが出来ることになりましてな」
「さようですか。それは良うござった」
「江戸お留守居役が剛毅な方で、支度金として大層なものを頂きましてな。元々着道楽であったので、こんな、役者のような衣装を作ってみたと言う訳でござるよ。傾奇者とお笑いくだされ」
「何の、良う似合ってござる」
「失礼ながら、そっちの座敷で少し飲み直しませんか。勿論私が持ちます」
「いえ、そんな。これ以上ご散財をお掛けする訳には参りません。私はこれで…… 」
「そう申されるな。共に祝うてくれる人が欲しかったのですよ。いずれ貴殿が仕官された折には、今度は私が馳走になる。そういうお約束でいかがですかな? 」
「…… いえ、実は私は仕官の望みなど持てる身では無いのです」
「すねに傷を持つ身ということでござるか? 」
「はあ、まあそういったところで…… 」
「そうですか。いや、立ち入ったことをお聞きするつもりは無い。誰もひとに言えぬことのひとつやふたつ抱えて居りますからな。ここは堅いことを申されず、黙って付き合うては下さらぬかな。友を得た心地なのですよ」
正に新之助も、友を得た心地になっていた。この男の心の広さ、深さを感じていた。
久しく口にすることの無かった刺身や煮付けをたらふく食べて、遠慮を捨てて、新之助は本当に久し振りに心地良く酔うことができた。
「貴殿だけでは無い」
急に神妙な顔付きになって男が言った。男の名は立原隼人と言う。
「うん? 何がでござるか? 」
ほろ酔い加減の新之助が答える。
「脛に傷持つ身は、浅倉殿だけでは無い。拙者も同じと申したのよ」
「え? 立原殿も”脛に傷持つ身” ということですか? 」
「ええ、そうです。実は、以前ひとの妻女と過ちを犯しましてな。その上、そのことが女の夫に知れてしもうた。本来なら、こちらが二つ重ねて斬られなければならぬ身。それが間男のご定法。ところが、ばれていることを知らなかった我等は、茶屋で逢瀬を楽しんでおりました。そこへ夫が踏み込んで来たのですが、罵ることも無くいきなり斬り掛かって来たので、こちらは賊と思い、逆に斬ってしまったのです」
「何と…… 」
「それから女を連れて逃げました。江戸に出てから三年。子を設けることもなく、その女は病で死にました。女には夫との間にふたりの子が有りました。上の娘は今年で十七、弟は十五になるそうです。私の顔を知らぬそのふたりに、私の顔を知っている叔父の義時という者が後見として付き添って、つい最近江戸に入りました」
「え? それがばれたら、貴殿の仕官はどうなるのですか? 」
「多分取りやめになるでしょう。ですが私は折角掴んだこの機会を何としても失いたく無いのです。貴殿なら、この気持ちお分かり頂けると思います」
「…… とは言っても…… 」
「実は夕べ、義時を殺しました」
「えっ! 」
「あの者達は私の居所を掴んでおりませんでした。義時にすれば子守のような形で江戸に来たものの、いつ巡り合えるかも知れぬ仇、つまり私のことですが、それを探して女気も無く過ごすのは辛かったのでしょう。
千住の飯盛り女と馴染みとなって通い始めていたのです。その帰りを待ち伏せて斬りました。岡場所帰りの土手のこと、辻斬りの仕業ということになったようです。あの姉弟は私の顔を知りません」
小声で顔を寄せて話す立原隼人が、さっきとはまるで別人に感じた。
そう感じると同時に、
『俺を騙そうとしているのだ』
と思った。女の夫も承知の上で斬ったに違いない。
「何が言いたいのですか!? 貴方の代わりにその姉弟に斬られろとでも言うのですか? 」
「とんでもない。そんな無茶なことは言いませんよ。姉弟と正々堂々と立ち合って、私に代わって返り討ちにして欲しいのですよ」
「相手は十七の小娘と十五の子供ですよ。何の罪も無いふたりを何故私が殺さなければならないのですか! 居所も知られていないし、顔も知らないのなら放って置いても問題ないじゃありませんか」
「藩はすぐに、義時の代わりの者を送り込んで来るでしょう。そうなれば、遅かれ早かれ私のことは知れます。ばれてしまえば、勝っても負けても私の人生は終わりです。
折角掴んだものが跡形もなく消えてしまうのです。浪々の身の辛さを誰よりも分かっている貴殿だからお願いしているのです。
藩は仇討の名誉が欲しいだけです。あの二人が返り討ちになってしまえば大義が無くなります。それで終わりになるのですよ。そのためには、こちらの居所を知らせて、役所に届け出をさせ、正々堂々と立ち合う必要があります。女子供を殺すくらい造作も無いことですから、何も他人に頼む必要は無いのですが、私が仇として公衆の面前に顔を晒す訳には行かないのです。分かって頂けますよね。ことが済んだら上方にでも行かれたら良い。相当な謝礼のほかに、もちろん路銀も都合します」
『お断りする! 』
と大声を上げて席を立とうと思った。
しかし、全く比べものにならないほど些細なことなのだが、おごられてしまっている。その引け目があった。本来なら金を叩き付けて、
『お前のおごりなど受けぬ! 』
と言ってやりたいところなのだが、本当に情けないことに、その金が無い。
騙されて、たらふく食って飲んでしまったことが悔やまれる。金が無いということは己の誇りまで捨てなければならないことなのだと思った。この男は、自分の都合より他に何ひとつ考えていない男だったのだ。
それが見抜けなかった。多分、この男は別にひとを雇っていて、ことが済んだ後、俺をも消す段取りを用意しているに違いない。いや、むしろ、その段取りを先に取っていて、最後に、公衆の面前で仇役を演じる男を探していたのだろう。そして、どこから見ても悪人顔の食い詰め浪人に出会った。それが俺の役回りか…… と新之助は思った。
『しかし、もし俺が断っても、こいつは俺の口封じに掛かる一方、別の誰かを敵役に仕立てるに違いない』
新之助はそう思い直した。どうしたものかと考えた。
『姉弟に助太刀して、こいつを斬り捨ててやりたい』
そう思った。
だが、このことを姉弟に話して信じてもらえるだろうか? いや、俺の顔は用心される顔だ。怪しんで話も聞いてもらえないだろう。それに、俺は藩から追われている身ではないか。万一仇討の助太刀をして立原隼人を討ったとして、その噂が広まったら身に危険が及ぶ。どうせ死のうかと思っていたのだから、それは諦めても良い。
だが、お尋ね者の助太刀を受けたとなれば、美談が一挙に醜聞に変わってしまう。栄誉は失われ、姉弟に対する藩の扱いも変わってしまうだろう。
『やはり無理か』
そう思った。
そして新之助は、もうこれ以上生き恥を晒すことにうんざりしている自分に気が付いた。
それなら、少しはひとのためになる死に方をしてみようと決心したのだ。そして、身代わり敵役を引き受けた。
姉弟に討たれてやることにしたのだ。自分が死ねば、姉弟の国許から見聞役が急ぎ派遣されて来るはずだ。そして別人と分かれば仇討は続行される。死んだ浪人者の身許が分かり、その長屋を捜索すると、何と脱ぎ捨てられた褌の下からすべての経緯を書いた書状が発見されるという仕組みだ。それで立原隼人も終わりだ。
騙され続けて来た男が、最後に命を懸けて立原隼人を騙す。言い知れぬ快感に、新之助はひとりほくそ笑んだ。
死ぬと決めた武士は、自分の身の周りを綺麗に片付け、髭を剃り、髪を撫で付けて死地に赴くものだが、武士の誇りを捨ててしまった自分にはこの塵屋敷のようになった部屋が相応だし、敵役として一層悪く見えるように無精髭も剃らない事にした。
只一つしたことは、髷を解いて、"たなちん" の受け証を中に入れて髪を結い直したことである。死体のもとどりを切れば、すぐに身許が知れる仕掛けだ。
『返り討ちににしてやるから、明後日の卯の正刻に浅草寺境内まで出向いて参れ』
との投げ文を姉弟の投宿する宿に投げ込ませたのは本物の立原隼人である。
突然の事態に驚き、義時を失ってしまった今、姉弟のふたりだけで仇を討てるか不安が募ったが、逃げる訳には行かない。早速役所に届けを出し準備に取り掛かる。
当日浅草寺に出向くと竹垣が張り巡らされ、その外は黒山のひとだかりである。白装束に鉢巻を締め襷掛けのふたりは、まず立ち合いの役人に挨拶し、憎っくき父の仇、立原隼人の到着を今や遅しと待ち構える。手足が小刻みに震えるのは止まらないが、もはや命を捨てる覚悟は出来ている。
待つうちにやっと仇が現れた。想像以上に憎々し気な顔をした立原隼人、実は浅倉新之助である。
「待ち兼ねたぞ立原隼人! 己を探してこの江戸に来て三月、こんなに早く巡り会えたのは亡き父の導き、そしてまた、観世音菩薩のお導きであろう。父の無念今こそ晴らしてくれよう。覚悟せよ」
姉が必死に口上を述べた。
「ふん。ぴーちくぱーちくと小うるさいことだな。何時までうろつかれては迷惑ゆえ、わざわざこうして出て来てやったのだ。捻り潰してやるから、能書き並べる暇があったら、さっさと掛かって参れ」
新之助は完璧な敵役を演じている。
「悪党、お前こそさっさと殺されちまえ! 」
「そうだそうだ。もし返り討ちなんかにしやがったら、江戸っ子が生きて帰さねえからな。どうせ死ぬんなら、潔く討たれてしまえ! 」
「やっぱり、悪党は悪党らしい顔してるもんだぜ。おいみんな。あの子らが危なくなったら、みんなで石投げようぜ~! 」
「そうだ。分かった。分かった。石拾って来い」
「え~い。静まれ! 正々堂々の勝負じゃ。無法はお上が許さんぞ! 」
と役人が叫ぶ。
「へっ、どっちが無法だ。無法者ってえのはな、そこの浪人のような奴を言うんだよ。役人のくせに何にも分かっちゃいねえなあ」
そんな騒ぎの中、意を決した二人が新之助目掛けて切り付けて来た。新之助は一応二~三度軽く払う。
「ふん。そんなへっぴり腰で人が斬れると思うか! 腰に柄の根を当てて、相討ち覚悟で体ごとぶつかって参れ! 」
そう新之助が怒鳴った。
一瞬はっとした二人だが、次の瞬間、何故か新之助の指示通り、腰に柄の根を当てて体ごとぶつかって来た。
正眼に構えていた新之助が、す~つと上段に剣を上げ、そのまま目を瞑った。
腹に二本の焼け火箸を打ち込まれたような、痛さと言うより熱さを感じた。内臓のすべての血液が吹き上がって来て、新之助の食道と気管を塞ぎ、口から溢れ出た。腹に感じる耐え切れぬほどの熱さと呼吸の出来ぬ苦しさが、いっぺんに新之助に襲い掛かる。
思わずカッと見開いた目に景色が揺れ、回り始める中
「やった! やった! いいぞ。もういっちょうとどめだ」
という野次馬達の叫びが、遥か遠くからの声のように聞こえ、やがて深黒の緞帳が下ろされた。
「申し訳ありません。まさか、あんな馬鹿な野郎だとは思いませんでした。
いったい何のつもりでわざわざ斬られやがったのか。とんと分かりません。どっち道、後で始末するつもりではおりましたが、ここで死なれたら台無しですよ。国許から見聞役が来たら面倒なことになります。もうひと手工作しなければならなくなりました。
全く面倒掛けやがって…… 」
「お前に取ってはそうかも知れぬが、新之助がさっさと死んでくれたことは、わしに取っては吉報でな。替え玉が、出奔して行方知れずとなっていたあの浅倉新之助だったとは…… ふっふっふ長年の肩こりが取れたような気分じゃ」
そう答えた立原隼人が仕官した先の藩の留守居役とは、何と、かつて新之助が不正を糾弾しようとしたあの勘定奉行であり、今は出世して江戸留守居役となっている男だったのだ。
凡そ一月後、立原隼人は後見の親族と姉弟に討たれ、三月後には、新之助の元上司の勘定奉行、今は江戸留守居役の男は、立原との繋がりの調べから襤褸を出した。
非公式にではあるが、その結果が幕府から藩に通知されたため、長年の悪事が発覚して切腹することになる。
そんな運命を知る由もない二人は、仇討ち見物の後、深川の料亭に繰り出し、馬鹿な男の話題を肴に大いに盛り上がって、その日酔いしれていた。
「坂東の風」の執筆の合間を縫って書いてみました。
立原隼人が登場する居酒屋でのシーン。TVドラマなら、差し詰め、里見浩太郎とか高橋英樹が何度もやっているシーンでしょうが、裏返しを描いてみました。