【改稿前】銀のリボンを結んで
判を押していた。
「これで、契約完了です」
目の前に広げられた羊皮紙には見たことのない文字が並んでいる。まるで記号のような文字。
――これ、何語なんだろう……?
なにが書かれているのか凜子にはまったくわからない。しかし、凜子はその羊皮紙に判を押していた。
――ええと。契約書……って言ってたんだっけ? それはなんの? いったいなんの契約書なんだっけ――
「ありがとうございます」
微笑む美しい男性。すらりとした長身で、女性かと見まごうような中性的な顔立ち。年齢はおそらく二十代前半。艶やかな髪は不思議な銀色をしていて、腰のあたりまで長さがあった。髪と同じ銀色の瞳、長いまつ毛も銀色をしていた。そして、頭には――
――角……?
羊のような巻き角があった。
――なんだこりゃ? なんで角なんかつけてんの? ずいぶん変わった人だなあ……
服装は、ヨーロッパの民族衣装のような衣服を身にまとっていた。手首には銀のバングルをしている。
「凜子さん。これから、よろしくお願いします」
耳に心地よい深みのある穏やかな声。
――「よろしく」? なにを「よろしくお願いします」なの……?
そしてここはいったいどこなのだろう、と凜子は思う。大きな窓から満月が見える。
――月。月の光のような銀色の髪……ほんとに、とても、綺麗な人――
判を手にしたまま、魔法をかけられたように凜子は立ち尽くしていた。
ピピッピピッピピッ!
携帯のアラーム音で凜子は目覚めた。
「あ……夢……か」
鮮明な印象として残る夢だった。神秘的な銀の瞳を持つ男性の声が、まだ凜子の耳に残っている。
――「契約」ってなによ。私まだ高校生なんだから、親の同意がなければ契約なんてできないし。
なぜそんな夢をみたのだろう、ちょっと不思議に思いながら、凜子はいつも通り朝ごはんを済ませ、手早く学校に出かける支度をする。
「行ってきます」
清々しい五月の風に凜子の黒髪が躍る。いつも通りの時間に余裕を持った登校。部活があるわけでも、友達との待ち合わせがあるわけでもないが、凜子は足早に歩いていく。
青空に向かって伸びる深緑の葉を瞳に映し、凛子は思う。
――いつか……見つかるのかな。自分だけの、トクベツ。
凛子にはまだ、夢や志す目標といったものがなかった。高校二年生の春。凛子の友人には、すでにはっきりとした進路の希望を持ち努力を重ねている者もいる。だが自分はなにができるんだろう、どう頑張ればいいんだろう――夢に向け一心に打ち込む友人の姿を少しうらやましく感じていた。
凛子は、進学か就職かまだ進路は決めていないけれど、いつか人のためになるような仕事に就きたい、そう漠然と考えていた。しかしそれがいったいどういう方面の職種なのか、具体的には考えつかなかった。考えてもわからない。とりあえず、その日やるべきこと、学ぶべきこと、それから気になる楽しいことに集中することで精一杯だった。
気持ちのいい晴天。このところ、穏やかな晴れの日が続いていた。
――今日も暑くなりそう。うーん。髪、切りたいかも。日曜にでも美容院行っとけばよかったなあ。
ふと、そこで今朝見た夢、銀の長い髪の男性を思い出した。
――あんなに髪が長かったら、めんどくさいだろうし暑いよね。それに羊みたいな角。変なの。ほんと、変な夢。
容姿や佇まいの美しさに思わず見とれたけれど、別に凜子の理想のタイプなどではなかった。凜子はどちらかというと、見るからに男らしい印象の男性のほうが好みだった。なぜ自分の夢にあんな人物が登場したのかわけがわからない。
――羊男。
羊男の羊皮紙。眠れないときの定番のまじないは「羊を数える」ということもあり夢といえば羊。なんだか羊だらけだ、と凜子は思った。
いつもの通学コース。前方に見えるのは、見事なサツキの咲いている民家の庭。四季折々の美しい花々を咲かせるその家の庭は、通るたびに凜子の目を和ませる。お気に入りの場所。凜子はその角を曲がる。いつも通りに。
――え!?
急に、景色が変わった。
――なに? どうなってんの!? ここはどこ!?
信じられないことが起きていた。凜子は知らない風景の中にいた。
凜子の目に映っているのは、古いヨーロッパの街並みのような家々だった。いつもの見慣れた住宅街ではない。
――ありえない!
石畳の道をたくさんの人が歩いている――石畳――凜子の行動範囲の中にそんな道路はないはずだった。ヨーロッパ風の家だってなかった。歩いている人々も皆外国人のようだった。日本人らしき人はいない。そのうえ、人々は皆不思議な衣服を着ていた。ある人は民族衣装のような服、ある人はなんと甲冑を身に着け武装し、またある人は全身覆うようなマントを身にまとい――
――なにこれ!?
この光景はなにかに似ている、と凜子は思った。
――あ、ゲーム! ファンタジーゲームの感じだ!
凜子は全身から血の気が引いていた。立ちくらみがし、倒れそうになった。
「おねえさん。変わった格好をしてるね」
通り過ぎざま金髪の幼い男の子が凜子に声をかけた。にっこり笑い、凜子の返事を待たずに、前方にいる両親らしき人物の元へ駆けて行った。その男の子も男の子の両親も、やはり民族衣装のような変わった格好をしていた。
――変わった格好はあんたたちよ! 私は普通の制服姿なんだから!
凜子はただ茫然と立ち尽くす。これは夢なのだろうか――しかし、さっきまで間違いなく普通にいつもの道を歩いていた。確かな感覚だった。眠ってなどいないのは間違いない。でもこの現実離れした光景はなんだろう――凜子は青ざめ、頭の中は混乱していた。
――ええと。私……いったい……どうしちゃったの!?
不意に、後ろから聞き覚えのある声がした。
「凜子さん。おはようございます」
凜子は急いで振り返り声の主を確認する――立っていたのは、先ほど夢で見た銀髪の美しい青年だった。
「羊男!」
「……ずいぶんな言われようですね」
瞬間、凜子の頭の中のパズルがぴたりとはまったような気がした。この奇妙な現象は、この男が引き起こしたに違いない、そう凜子は確信した。どういう理屈かはわからない、しかし、絶対にこの男のせいだ、そう思った。
「ちょっと! あなたいったいなにしてくれんのよ!? これはどういうこと!? いったいぜんたいどうなってんのよ!? 説明してよ! てゆーか説明しなくてもいい! 一刻も早く私を元のところに戻しなさいよ! 私、これから学校に行くところだったのよ!? 遅刻したらどうしてくれんのよ!? まあ遅刻しなくてもどうしてくれんのよ!? 私は常に、絶対に、カンペキに早めの行動を心がけてるから遅刻はありえないだろうけど!」
凜子は早口で銀髪の青年に詰め寄った。
「……かわいらしいのに、案外強気なんですね」
「かっ……!」
自分のことを「かわいらしい」と評されて、凜子はたちまち真っ赤になった。
「ちゃ、茶化さないでよ!」
「私の名は、ミルゼです」
「別にあなたの名前なんて聞いてない!」
「羊男ではありません」
銀の瞳の青年――ミルゼは穏やかな笑みを浮かべていた。
「やはり、覚えていらっしゃらないようですね」
「わ、私がなにを忘れたっていうのよ!?」
凜子の瞳を動じることなくまっすぐ見つめるミルゼに、美しい銀の輝きを放つ瞳に、凜子はなんとなく気おされていた。凜子は思わず視線をそらす。
「私と凜子さんは契約を交わしました」
「契約!?」
――あ! あの夢の中の出来事!?
「あれは夢の中のことでしょ!?」
そんな夢の話をされても、と思ったが、そもそも夢の中の登場人物と会話をしている、そこが初めから奇妙な点であり、そうすると夢の人物に夢の話の正当性を持ち出されたらこちらとしては納得するしかないのか、と凜子はわけがわからなくなっていた。
「凜子さんは確かに判を押してくださいました」
ミルゼは凜子の判が押された羊皮紙を目の前に出した。
「そ、そんなの字も読めないしわかんないよ! それに……!」
羊皮紙の判は、凜子の名字ではなく「凜子」と名前の判になっていた。
「私、名前のハンコなんて持ってない!」
「これは凜子さんの印です」
「そ、それに私未成年だから、親の同意がいるんだから!」
「私たちの世界にそんな概念はございません」
「無茶苦茶よ!」
――なんなの!? いったい!? ありえない! 私の人生にこんなわけのわからない出来事が起きるわけない!
凜子は真面目で堅実、いつも現実的な思考で物事を判断してきた。友だちが恋の占いやおまじないの話などで盛り上がっていても、自分からその輪に混ざることはなかった。別にそういった話を批判的に思っていたわけではない。ただ、苦手だった。非現実的な不可思議なこと、よくわからないあいまいなことはどう受け入れていいかわからず、関わりたくなかったのだ。それがどうだろう。今は理不尽な世界に見事どっぷりと首までつかってしまっている。
「だいたい、契約ってなんの契約なのよ! 私、ほんとに知らないんだから!」
ミルゼは穏やかな口調でとんでもないことを告げた。
「凜子さん。これは労働契約です」
「はっ!?」
――労働、契約!?
「冗談じゃないわよ! 私、そんなの応募してないし、望んでない! そんな契約無効よ!」
「凜子さんはこれから私と一緒に働いてもらいます」
「な、なんですって!?」
「安心してくださいね。多額の報酬がありますから」
――一方的すぎる! こんなわけのわからないところに私を連れてきて……!
「……人さらい!」
「え?」
「早く、家に帰してよ!」
凜子の目には涙がたたえられていた。有無を言わせぬミルゼの様子に次第に恐怖を感じていた。
――も……もしかして角もあるし、不思議なことばかりだし……「契約」、とか言い出すし、この人は人じゃなくて……悪魔……?
悪魔、そんなものが存在するのだろうか――しかし今いる風景はどう見ても普通じゃない、と凜子は思う。非現実的な世界に関心のない凜子だが、悪魔と契約して魂をとられる物語のエピソードをなんとなく思い出していた。
「家? これから学校に行く、と先ほどおっしゃってましたが?」
「学校でも家でもなんでもいい……! 私を帰して……」
大粒の涙が溢れだす。凜子は小さく震えていた。
「どうして泣くんです!?」
ミルゼは驚き慌てた。凜子が泣くとはまったく思っていなかった様子だ。
「凜子さん! 大丈夫ですか?」
――あんたのせいで大丈夫じゃないのよ!
そう凜子は叫びたかったが、悪魔にたてつくのは怖くもあり、嗚咽でうまく言葉がでないのもありただ涙を流し続けた。
――え!?
ミルゼに抱きしめられていた。頭をよしよし、と撫でられて。
「泣かないでください」
――だから、あんたのせいで涙が出るのよ!
ミルゼを突き飛ばし、叫びたかったが、思いのほかミルゼの手が優しく、ぬくもりが心地よかったのでなにも言えなくなってしまった。
――え。ちょ、ちょっとどうしよう! 私、男の人に抱きしめられてる――
「泣かないでください」
もう一度、ミルゼは同じ言葉を発した。耳元に聞こえる、ささやくような優しい声。とても優しい、抱擁。
――「男の人」じゃない、「男の悪魔」、か。いい匂い。悪魔っていい匂いがするのかな――
心が安らぐ甘い香り。悪魔はこうやって人を誘惑するのかもしれない、ぼんやりする頭で凜子はそんなことを考えていた。
――いや! ぼんやりしてる場合じゃない! これは乙女の危機よ!
凜子はミルゼの腕から逃れた。思いのほか簡単に腕の中から逃げ出すことができたので、ちょっと拍子抜けしてしまった。
「すみません。まったく覚えていないんですよね。それでは不安になって当たり前です」
ミルゼは心配するような表情で凜子の瞳を見つめる――だから、私が泣いたのはあなたのせいなんだから、諸悪の根源にそんな顔で見つめられても! と凜子は思いながら涙を手で拭おうとした。凜子の頭にはハンカチで、などという女の子らしい発想は浮かばない。
――え?
ミルゼの細い指のほうが先だった。頬に流れた涙を、しなやかな指でそうっと拭ってくれた。
――そ、そんなことしたって、騙されないんだから!
「ここでは他の人の目もありますし、移動しましょう」
「人の目?」
すっかり周りのことなど意識から消えていたが、改めて辺りを見ると、通行人の好奇の目。凜子はとたんに真っ赤になった。
――あーっ! なにこれ! 朝っぱらから人目もはばからず二人の世界に浸ってる痛いカップルみたいに見られてるーっ!
「違いますっ! 違うんですっ! 私、そんなんじゃありませんっ!」
凜子は誰になにを弁解しているのかわけがわからないが、いたたまれずつい叫んでしまった。
――あーっ! もう、ありえないーっ! こんなの全然私らしくないーっ!
「仕事の待ち合わせにはまだ早い時間ですし、おいしいお茶でもいただきながらお話しましょう」
――仕事の待ち合わせ?
お茶でもいただきながらお話しする、というのん気な提案もツッコミ所満載だが、それより「仕事」、というワードをなんとかせねば、と凜子は思った。
「……ほんとに、私を働かせる気?」
「はい!」
ミルゼは満面の笑みを浮かべた。純粋に嬉しそうな、無邪気な笑顔だった。
――う。なんでそんなに笑顔がかわいいのよ! 悪の権化のくせに!
「では参りましょう」
行きたくなかった。しかし、このわけのわからない現実離れした空間に、一人置き去りにされるわけにもいかず、また、今この状態で自分が知っている人物といえばミルゼしかおらず、凜子は渋々ミルゼに従うことにした。
「凛子さん。本当にありがとうございます」
「な、なんで礼を言うのよ!?」
「あなたに会えて私は嬉しいんですよ」
ミルゼはにっこりと笑った。
「……」
私は、別に嬉しくないんだけど、と凛子は心の中で呟いた。
空は透き通るようなペールブルー。浮かぶのどかな白い雲。どこからかパンの焼けるよい香りが漂ってきた。
――そもそも、ここは日本なのかな。
頭ではとても困ったことになったと思うが、歴史を感じさせるような趣のある街並み、綺麗な空――いつの間にか心は落ち着いていた。
――変なやつ。
「今日は気持ちのいいお天気ですね」
「……」
「お散歩日和ですね。あっ! あんなところに猫! かわいいですねえ!」
「……」
こいつ、のんびりしてるなあ、と凛子は思う。ゆっくりした話し方と柔らかな微笑みのせいだろうか、どこか憎めない。
凜子は朝日を受けて輝く銀の髪を見つめる。
――三つ編みにでも、したろーか。
目の前で揺れている美しい銀色をした髪を、ひっつかんで三つ編みにしたい衝動をこらえながら、ミルゼの少し後ろをついていく。
――リボンは、角につけたほうがかわいいかもしれない。
凜子は心の中でミルゼをかわいく仕立てることで、ちょっとだけ復讐してやった気分になっていた。
――フラワーレースのリボンに、おまけにパールもつけちゃうんだから!
きらきら光る銀の髪。凜子はいつの間にか笑顔になっていた。
緑に囲まれたテラスのある小さな店。コーヒーのようなよい香りが店の外まで漂ってきている。
「ここは、早朝から営業してるんです。真面目ですよね」
「……別に早朝から開店してるから真面目ってわけじゃないと思うんだけど……」
「ここの飲み物や食べ物はみんなおいしいんですよ」
ミルゼは白く塗られた木製の扉を開けながら、笑顔で凜子に話しかける。凜子はとてもかわいい素敵なお店だなと思いながら、そこでうっかり褒めようものなら、ミルゼを調子づかせてしまうに違いないと考え、素直な感想は胸にしまっておくことにした。
「朝ごはんは食べました?」
「ちゃんと済ませたわよ」
「いらっしゃいませ」
ふわふわとしたキャラメル色の髪に、はしばみ色の大きな目をした若い男性店員が声をかける。歳はミルゼと同じくらいに見えた。
――あ!
凜子は絶句した。
――角! お店の人も角がある!
羊のような角のミルゼと違って、牛のような、上に向かってカーブしている角。爽やかなかわいい感じの顔立ちに、不釣り合いな鋭い角。
「おはようございます。今日は一日いい天気になりそうですね」
「おはようございます。ミルゼさん。珍しくチャーミングな方を連れてますね」
「とってもかわいらしい子でしょう? 素敵な相棒になりそうです」
――かわいらしい!? 素敵な相棒!?
凜子は赤面し、思わずミルゼを張り倒したくなった。が、ミルゼはすでに店の奥の窓際の席を目指して歩いており、残念ながら凜子の攻撃範囲から外れていた。
「私はしっかりごはんを食べてもいいですか?」
メニューを開きながらミルゼが尋ねる。メニューはさりげなく装飾が施され、まるで画集か絵本のような趣だった。
「勝手に食べれば?」
凜子は思わず悪態をつく。言葉にしてから、そういえばこいつは悪魔かもしれないんだったっけ、やばかったかな、と今さらながら不用意な発言を後悔する。
凜子はおそるおそるミルゼの表情をうかがう。ミルゼは食事を選ぶのに夢中のようだ。心なしか目を輝かせ、楽しそうに見える。
――なにそんなに夢中でメニューを見てるんだろう。大の大人の男なのに、なんだか子どもみたい――
穏やかな日の光が差し込むテーブルで、一生懸命メニューと格闘しているミルゼを見て、なんとなく、凜子は自然に微笑んでいた。そしてうかつにも微笑んでしまった自分にちょっと戸惑う。
――べ、別にかわいいだなんて思ってないんだから!
自分の好みは、誠実で頼れる男らしい男性。女の人みたいな顔をして言動が子供っぽくて、そしてなにより得体の知れない、こんなわけのわからないようなやつじゃない! そもそも、こいつは私をさらってきてこき使おうとしてる悪いやつなんだから! そう凜子は心の中で自分に言い聞かせていた。
「凜子さんは、決まりました?」
「えっ!?」
不意にミルゼに問いかけられ、凜子はどぎまぎする――輝く銀の瞳に見つめられていた。
「わ、私このメニューに書かれている文字だかなんだかわからない記号みたいなもの、まったく読めないんだけど!」
「ああ。そうでしたね。じゃあ私のおすすめを注文することにしましょう。甘いものはいかがですか?」
「べ、別になんでもいいけど……」
「じゃあ、おいしいお茶と軽めの甘いものでも頼みますか」
ミルゼは、牛の角を持つ店員にいろいろとオーダーする。そのやりとりを見て凜子は、どんだけ食べる気だ、そしていったいどこからが私の分なんだと疑問に思いつつ呆気にとられていた。
「……ねえ」
「はい。私の名前はミルゼです」
「……」
にっこりと微笑むミルゼは、凜子に自分の名を呼ばせたいらしい。凜子はその要求を無視することにした。
「……なんで頭に角……」
凜子はハッとし、言いかけてやめた。ずっと疑問に思っていたが、それはもしかしたら触れてはいけないところなのかもしれない、そう思った。
――『それは悪魔だからだよ』、そうはっきり言われたら、どうしよう。童話「赤ずきんちゃん」の狼のように、豹変したらどうしよう。『それはお前を食べるためだよ』――
「……草食系だからです」
「へっ!?」
思いがけない言葉に、椅子からずり落ちそうになった。
「どうして私の頭に角があるのか疑問なんですね」
「そうだけど……そ、草食系って!?」
「あなたがたの世界でも、草食動物は角があるでしょう? そんな感じです」
「な、なに言ってんの!?」
「今の店員さんも、私と同じ草食系です」
「いったいどういう……」
「ここでは三種類の人間がいます。雑食系、草食系、肉食系の三種類です」
「な、なにそれ!?」
「私やあの店員さんのように頭に角が生えているのが草食系の人間です。そして、頭の上部に獣のような耳がついている、もしくは頭の上部になにもついていないがお尻に尻尾がある、というのが肉食系の特徴です。頭の上部にもお尻にもなにもついていないのが雑食系になります。ほとんどの人が雑食系なので、凜子さんのようになにもついていない人が多いです。とてもわかりやすいですよね」
「はいーっ!?」
思わず叫んでしまった。
――草食系? 角が生えてる動物は草食系? そういえば、確かにそうだけど……それに肉食系? 獣のような耳? 尻尾!?
「あ、ありえないんだけど……」
「性格も、草食系は温厚でおとなしく、肉食系は明るく活発な人が多いといわれています」
「そんな話、聞いたことないよ!」
角の生えた人間も見たことがない。頭の上部に耳がついている人も尻尾が生えている人も見たことがない。当然ながら聞いたことだってない。
「そんな……冗談……! そんなばかげた話……!」
「触ってみます?」
「引っ張ってもいいの?」
「どうぞ」
ミルゼの角をおそるおそる触る。ついでに、ちょっと引っ張ってみる。ちょっとやってみたかったので、つい強めに引っ張ってしまった。びくともしない。角の生え際も見てみる。さらさらとした絹のような銀の髪をかきわけてみる。とても自然で、人工的につけたとは思えなかった。
「嘘……」
「本当でしょう?」
本当に、角が生えているとしか思えない。
――草食系って……
「悪魔じゃないんだ……」
凜子は茫然としながらも、少しほっとしていた。
「悪魔? そのほうがありえないと思いますが?」
ミルゼは柔和な笑みを浮かべた。凜子はなんだか頭がくらくらしてきた。
「……やっぱり羊男じゃん」
「まあそれはそうなんですけどね。でも、ミルゼと呼んでください」
次から次へと運ばれてきた料理は、確かに野菜や果物を使用したと思われる料理ばかりだった。凜子が見たことがない野菜や果物ばかりだったが、香りといい見た目といい、とてもおいしそうだった。
「いただきます!」
ミルゼは手を合わせ、元気よく食事の挨拶をした。無駄に元気すぎる、と凛子は少し呆れながら、控えめにいただきます、と挨拶した。
凜子の前に並べられたのは、レモングラスのようなよい香りのお茶とほんのりきつね色をしたスフレのようなスイーツだった。淡いイエローのグラデーションで彩色されたカップも皿も、思わず欲しくなるようなかわいらしいデザイン。
――食べたら、後戻りできなくなったりして――
誘惑の前に黙って座る凜子をよそに、ミルゼはぱくぱく食べ始めた。
――とってもおいしそうに食べるなあ――
本当に、子どもみたい、と凜子は思う。普通に座っていると気品があり、繊細で少食のイメージのミルゼだが、大きく口を開けて軽快に料理を平らげていく。
――あのブラウンソースがたっぷりかかったグラタンみたいなやつ、どんな味なんだろう。ちょっと食べてみたいかも……
「……って、話は、説明は、いったいどうなったのよ!?」
お茶を飲みながら話をする、と言っていたはずなのに、ミルゼはひたすら食べることに専念していた。
「あ。そうでしたね」
「あ、あのねえ!」
私は学校に行くところだった、のん気に食事につき合ってる場合じゃない! とテーブルを叩こうかと凜子は思ったが、ミルゼの分の皿が凜子の陣地まで浸食してきていてそんな隙間もなく、そしてなにより淹れたてのお茶もふわふわのスイーツもとてもおいしそうだったので、そこまで強気には出られなかった。
「私が凜子さんと夢で出会ったのは、凜子さんが私を呼んだからです」
「わ、私がミルゼを呼んだ!?」
「あ! 初めて私の名を呼んでくださいましたね!」
しまった! と凜子は思った。驚きのあまりついうっかり名前で呼んでしまった。なんとなく凜子は悔しい気持ちになる。ミルゼは嬉しそうに顔を輝かせた。
――なにがそんなに嬉しいのよ!?
凜子は戸惑う――なぜそんなことで、なぜ私がミルゼの名を呼んだ、たったそれだけのことで、どうしてそんなに嬉しそうに笑うの?
ミルゼは木のスプーンでグラタンのような料理を山盛りにすくい、頬張りながら話を続けた。
「正確に言えば、私、というより『私のような存在』を求めたから、なのですが」
「なっ!? なに言ってるの!? 別に私は誰も求めてなんかない!」
――確かに私には彼氏も好きな人もいないけど……友だちはいるし、家族もいるし、寂しいわけじゃない!
それに、と凜子は思う――ミルゼなんて、全っ然私のタイプじゃないんだから……!
「あ! 凜子さん、全然食べてないじゃないですか! 遠慮しないで冷めないうちに召し上がってください!」
不意に違う話題を持ちかけられ、凜子はちょっと面食らう。
「……遠慮してるわけじゃないけど」
「凜子さんのお好みではなかったですか?」
――おいしそう、とってもおいしそうなんだけど……
食べたら負ける、そんな気もした。なにに負けるのかよくわからないけれど。
「……私が食べましょうか?」
ミルゼがそう提案するや否や、思わず凜子はスイーツを銀のスプーンですくって口に入れた。ふんわりと軽い食感だが、濃厚な甘さとバニラの香りが口の中いっぱいに広がる。
「……おいしい」
「でしょう?」
ミルゼは穏やかな笑みを浮かべる。ミルゼの視線を避けるように、凜子はレモン色をしたカップに視線を落とす。
――どうして、いちいち、そんな綺麗な笑顔を私に向けるんだろう――
少し、胸がどきどきしていた。見つめる澄んだ銀の瞳に、少しでも気を許せば吸い込まれてしまいそうな気がしていた。
――ほんと、私らしくない。どうしちゃったの? 私。
甘いスイーツを食べてしまったからだろうか。魅惑的な甘さの中に、度の強いアルコールでも、特別な毒でも、もしかしたら銀色の魔法でも、入っていたのだろうか――優しい陽だまりの中、凜子はほのかに頬を染めていた。
「凜子さんは探していました」
「私が、探す……?」
「凜子さんは心の底で、自分の力を注げる特別ななにかを探していました。誰かのために自分はなにができるのか、模索していました。生きていることをより深く実感するために、目標となる星を探していました。美しい星々がきらめく中で、無限ともいえる選択肢の中で、自分にとってただひとつの大切ななにか、それを見つけるための手がかりを教えてくれる誰かを求めていました」
「え……」
――自分だけのトクベツ――
ぱちん。
心の中の、パズルのピースがまたひとつ、はまったような気がした。
――確かに……私は探していた――
繰り返される日常、見えない未来。自分は何者で、自分にはなにができるのか。誰かのために、それから自分自身を知るために、夢中になって打ち込めるなにかを見つけたいと願っていた――漠然としていたけれど、確かに凜子は胸の中にくすぶるような思いを抱えていた。
――でもなんでそこでミルゼが出てくるのよ!?
「私も探していました」
「え?」
「凛子さんのような方を探していたんです」
「私……?」
「真面目で向上心を持ち、なにか人のためになることをしたい、そう願っている人を探していたんです」
ミルゼはまっすぐ凛子の瞳を見つめる。
「導き手を探す凛子さん、そして他人のために自分の力を引き出して高めたいと願っている人を探す私、空間を超え二つの魂が引き寄せ合ったのです」
――二つの魂が……引き寄せ合う……?
どきん。
凛子は自分の鼓動が聞こえたような気がした。月の雫のような静かな光をたたえる銀色の瞳から目が離せなくなっていた。
「ん!? 空間を、超え!?」
「はい。ここは凛子さんの暮らす世界とは別の空間、異世界です」
「えええ!?」
「ここは色々と、だいぶ違うでしょう?」
にっこりと微笑むミルゼ。
――ま、まさかそんな非現実的な!
しかし、すでにすべてが非現実的だった。非現実的な事柄ばかりの世界では、非現実的なことを認めることが逆に現実的なのかも――凛子はとりあえず、ここではありえないことを受け入れるほうが自然なんだ、そう考えることにした。
「そ、そっか……だからありえないことばかりなんだ……そうだよね。景色も全然違うし、夢の中の人と話をしているなんてあるわけないし、角の生えた人間だっているわけないもの」
いったん認めてしまえば、案外楽だった。凛子は、これでは学校に遅刻したって仕方ないや、異世界に行ってたというのなら、先生も親も私の良心も、ついでに無遅刻無欠席だった私のプライドだって、まあそういうことならしょうがないよねって許せるだろう、とわけのわからない納得までしていた。
凛子はレモングラスの香りのするお茶を飲んでみた。すっきりとした中にほのかに感じる甘さ。ちょうど凛子の好みに合っていた。
「……それで、いったいどういう契約なの? どうして私はすっかり忘れてしまっているの? 本当に、私は契約に承諾していたの?」
「ええ。もちろん、凛子さんは承諾してくださいました。忘れているのは、契約を交わした部屋が、こちら側とあちら側の二つの空間の間の不安定な場所だったから、空間移動が初めての凛子さんには負荷がかかってしまったためでしょう」
――二つの空間の間の不安定な場所……ああ。あの大きな窓から月が見える部屋――
「……仕事の内容は?」
ミルゼは辺りを見回す。近くに人がいないのを確認する。それから力強い瞳で凛子を見つめた。そして一呼吸置き――ゆっくりと口を開いた。
「……ざっくばらんに申し上げますと――キノコ採りです」
「えっ!?」
凛子はまた椅子から落ちそうになった。
「キノコ採りとは山に自生しているキノコを採取してくることです」
「キノコ採りの意味はわかるわよ!? なんで、なんで私がキノコ採り!?」
わざわざ異世界というわけのわからないところに連れてこられた理由がキノコ採り――籠をしょって山に登っておいしいキノコを採ってくる――どう考えても凛子の将来の夢ややりたいことと結び付くとは思えない。ありえないにも程がある、と凛子は思った。そして今ミルゼはなんのために周囲を気にしたのだろう、と凛子は疑問に思う。別に人に聞かれてまずい話でもあるまいに――
「とても難しいのです」
「えっ?」
「このキノコ採りは」
「難しいって……?」
険しい山なのだろうか、それとも毒キノコと判別が困難ということなのだろうか――凛子は首をかしげる。
「……ドラゴンがいます」
「ど、どらごん!?」
意外なミルゼの言葉に凛子は絶句した――神話や物語に出てくる、あのドラゴン!?
「ドラゴンは、時折村や町まで来て人を襲います」
「そっ! そんな危険な……!」
「いずれは誰かが退治しなければなりません。そして月や星の運行を読み解くと、ちょうどここ一週間がドラゴンの脱皮の時期、活動が鈍っているチャンスの時期なんです。キノコ採りの、千載一遇の好機なのです」
「だからといってどうして……」
「私たちが採取しようとしているキノコは大変貴重な薬となる高価なキノコです。ですがそのキノコが自生している場所はドラゴンの住処になっているのです――というより、そのキノコはドラゴンの呼気を好んで養分としているので、ドラゴンがいる場所にキノコが繁殖しているのですが――だからこれは大変困難な仕事です」
「ちょ、ちょっと待ってよ!」
まず、ドラゴン、というのがいただけない。いくら異世界だって、そんなものが存在するなんて! そしてなんでまたそんな恐ろしい仕事に私が抜擢されるのかも意味がわからない――凛子はおおいに抗議したい気分だった。
「我々は、凛子さんの力を必要としているのです」
「私の力?」
凛子はとりあえずなんでもソツなく器用にこなせてしまえるほうだった。しかしとりたてて目立った特技や人より秀でた能力はないと自分では思っている。しかも、キノコ採りやドラゴン退治の適正、もしくはドラゴンの目をかすめてキノコを採る才能――そんな適正や才能が果たして世の中に存在するのだろうか――があるとは到底思えない。
――私になんの力があるというの? まさか怪力だとかすごい戦いができるとか思ってるんじゃないでしょうね!?
「凛子さんは、おそらくご自分ではわからないと思いますが、我々にはない大変優れた力をお持ちです」
「いったい私にどんな力があるっていうの? それから……さっきから言ってる、我々って誰のこと?」
「凛子さんの優れた力――それは冷静に本質を見極めようとする目です」
「え?」
――本質を見極めようとする目……?
「我々と申しましたのは、この仕事の仲間のことです。私と凛子さんのほかにあと二人が加わります。あとの二人はこれから待ち合わせ場所で合流することになっています」
「あと二人、ということは……四人で行くんだ」
「はい。まだ少し待ち合わせの時間には余裕があります。とりあえず、食べましょう」
言い終わる前に、すでにミルゼは色鮮やかな何種類ものフルーツが入っている、透き通ったゼリーを口にしていた。
「……とっても危険なんでしょう?」
「はい」
「『はい』って……! そんな!」
「でも大丈夫です。あとの二人に会ったらわかります。二人は大変優秀なファイターです」
「ファイターって……!」
――ゲームやファンタジーの物語のように、ドラゴンを退治する気なの? そういえば、街中で武装して歩いている人を見かけたっけ。あんな感じなのかな……ゲームや架空の話だったら、私だってちょっぴりわくわくする。しかし、現実にそんな恐ろしいこと、とんでもないことに私が関わるはめになるなんて――
「……私、帰ってもいい?」
「契約を――解除したいのですか?」
「うん!」
「と、いうことは、私のもとで一週間補助的な仕事をしていただくことになりますが?」
「なにそれ!?」
「お忘れのようですが、口頭でもご説明致しましたし、契約書にも記載してあります。『尚、一方的な理由で契約の解除を希望する場合は、そのかわりとして一週間補助的な仕事を行うことに同意する』」
「なっ……! そんな無茶苦茶な話! そんなの絶対違法、そんな契約無効よ!」
「こちらの世界では合法、正当な契約です」
――そうだった。ここはヘンテコな世界だった――
「そうなりますと、今回の件は非常に残念ですが……でも凛子さんと一週間も一緒に働けるのでしたら、私としては、それはそれでとても嬉しいですね」
ミルゼは満面の笑みで、土のぬくもりの感じられるような風合いのカップを手にした。
「あ、悪魔……!」
そうは言ったものの、凛子の心の中はなぜかほんの少しだけ――弾んでいた。
――私と一緒がとても嬉しいって……? しかもあんなに笑顔で――
「どちらにします? 契約続行します? それとも一週間頑張ってみます?」
「う……やるわよ。その……キノコ採り……とやら……」
「よかった! 凛子さんが参加してくださるのならとても心強いです! 残りの二人も喜びますよ!」
なにやらとんでもないことになってしまった。しかし、こうなった以上もう腹をくくるしかない――凛子は、かくなる上はこのヘンテコな世界を私なりに楽しんでやる、とまで思い始めていた。
「……二人って、どんな人なの?」
「二人とも、肉食系です」
「えっ。そ、そうなんだ」
――ええと。肉食系の人は頭に耳、もしくは尻尾付き、そして明るく活発、って言ってたっけ。
「……肉食っていうと、やっぱり攻撃的な感じなの?」
「はい。まあそうですね」
「そ、そうなんだ……」
「二人は――リールという女性とディゼムという男性です。リールはサラマンダー系で特徴は尻尾です。ディゼムは、ジャガー系の耳を持ちます」
「へ…へええ……」
もういちいち「ありえない」とは思わないようにしよう、と凛子は心の中でそう決めた。いちいち驚いていたらただ疲れるだけだ、と思った。
「どうして……」
「なんでしょう?」
「どうして三種類の人間がいるの?」
「ギフトです」
「ギフト?」
「妖精から授かる『ギフト』です」
「よ、妖精!?」
驚いていられないと思ったのに、予想外の言葉に早速驚いてしまった。
「その三種類の差は、誕生した瞬間、妖精が現れるかどうか、それから授けられるギフトの性質によって決まります。生まれたときに妖精が来なければ雑食系――まあ普通の人々といっていいでしょうか――そして妖精が現れると赤子に角、または耳か尻尾を授けていくのです。それが『ギフト』です」
「ありえない」
もう「ありえない」とは思うまい、と思ったそばから言葉にしていた。
「ギフトを受けると、外見上の変化、性格の方向性と食性の決定、そして実は一番の大きな特徴としては――魔力がつきます」
「ま、魔力!」
「草食系は、『同調』と呼ばれる、他者と感覚を共有させる力と、大まかな探知能力を持ちます。肉食系は、驚異的な身体能力と攻撃系の特殊能力を授かっています」
「……」
凛子は頭を抱えていた。よくわからないけれど、まるでファンタジーゲームみたいだ、と思った。
「じゃ、じゃあミルゼは妖精からギフトをもらったんだ。すごいね」
「妖精が現れるかどうかはまったくの気まぐれといわれています。ギフトと呼ばれていますが、妖精が現れたから強運とか優れているとかいうわけでもありません。また、望んでいたから授けられるというわけでもありません。まあ進んでわが子にギフトを授けてもらいたいと祈る親もいますが、祈ったからといって妖精が現れるというわけでもありません。ただ人間はそういうものだと受け入れるしかないのです」
「ミルゼは――嬉しくないの?」
特別な能力を授けられる、それはとても素晴らしいことなのではないかと凛子は思う。しかしミルゼの口調はまるで人ごとのように淡々としていた。
「私としては――」
ミルゼは少し窓の外を見た。みずみずしい緑の葉がそよぐ。
「普通、といっては語弊があるかもしれませんが――普通が一番、そう思います」
「ギフトがないほうが良かった……?」
「はい。例えば凛子さんのように、なにも縛られることなく可能性が無限に広がりますから」
「私に可能性がある……?」
「はい。凛子さんには隠された宝物のようにひっそりと輝き、見つけて欲しがっている才能がたくさんあります」
――そう……なのかなあ? 私に才能なんて――
「それに、いろんなおいしい物が食べられる、それってすごいじゃないですか!」
結局食いもんかい! と凛子はツッコミたくなった。ミルゼの銀の瞳の奥には悲しみとあきらめの色が宿っていたが、明るく言い切るミルゼの様子に、そのときの凛子にはミルゼの絶望ともいえる感情を感じ取ることはできなかった。
カラフルな果物を内包した透明なゼリー。それはまるで、未来に向けたくさんの可能性を胸に秘めた凛子のようであり、また赤子のときにすでに方向性を運命づけられてしまい自分で選択できる自由を閉じ込められてしまったミルゼのようでもあった。
正反対の異質な運命――限りなく透き通ったゼリーは陽光を浴び、テーブルの上で静かにきらめいていた。
外は心地よい風が吹いていた。
――今頃、みんなは数学の授業中かな……私がいなくてみんな心配してるだろうなあ――
凛子の足取りは自然と重くなる。晴れ渡った青空とは裏腹に、今にも雨が降り出しそうな心境になっていた。
「心配ですか?」
「……」
「心配ですよね」
「……」
「あまり心配なさらないでください」
「……」
「ここは凛子さんの住む世界とは違う時間の速度になります」
「……?」
「この世界から見ると、凛子さんの世界では時間はほぼ動いていないように見えます。だから、心配しなくとも大丈夫ですよ。まだ凛子さんがいなくなったとは誰も思っていませんよ」
「えっ? そうなの!?」
早くそれを言ってくれ、そう凛子は叫びたい気持ちだった。ミルゼの長い髪をひっつかんで、いっそのこと日本髪のように高く結い上げてしまいたい、思わず手がうずうずした。
「待ち合わせの場所はもうすぐですからね」
待ち合わせ――もうすぐその肉食系とやらの二人の人物に会うのか、と凛子は少し緊張していた。きっとミルゼと違って恐ろしい外見と性格をしているのだろう、そう想像した。
ミルゼと違って――そこで凛子は思わず足が止まった。
――私、ミルゼのなにを知っているというんだろう?
知らず知らずのうちに、ミルゼに好感を抱いている自分に気が付いた。好感どころか――
――ミルゼは優しくて穏やかで――とても綺麗で――
柔らかな風が通り抜ける。清々しい緑の香り。
――わけのわからないやつなんだけど――
光る銀の髪。凛子は、姿勢のよい美しいその姿から目が離せなくなっていた。
「凛子さん。どうしました?」
不意に振り向かれ、凛子はどぎまぎする。
「えっ? な、なんでもないよ」
「緊張しなくて大丈夫ですよ。とても気のいい人たちですから」
「ふ、ふうん」
道行く人々は皆普通の人たちのように見えた。角や耳、しっぽなど変わった特徴のある人はいないようだった。
「……肉食系の人、いないね」
「そうですね。今のところ、いませんね。まあギフトを受けた者は自然と夜行性の生活を好むことが多いですから、日中は余計少ないかもしれません」
「えっ? そうなの?」
「私も夜の方が得意です。だから今のお店の店員さんは、早朝からしっかり働いていて偉いなあと思います。凛子さんも偉いですね」
「い、いや別に活動する時間帯が違うだけだと思うけど……」
「でも私は夜も結構寝てますよ。一日中寝ていてもいいかなあと思うくらいです」
食べるか寝てるか――お前はコアラか!? とちょっとツッコミたくなった。
細い路地に入る。その路地をさらに曲がり、建物と建物の間を進む。レンガ造りのような建物に、裏口らしき黒い金属製の扉。ミルゼはその扉を開ける。
「階段……」
いきなり、地下に続く細い階段があった。ミルゼは薄暗い階段を降りていく。
「え……。なんか怖いんだけど……」
凛子は引き返したくなった。先ほどまでの明るくあたたかい日差しは感じられない。空気感が違う。通りから少し離れただけなのに、昼間でもここは別次元の場所だ、そう感じた。
「大丈夫ですよ。そんなに怪しいところじゃないですから」
「そ・ん・な・に!?」
そんなに、とわざわざ付けるということは、まったく怪しくないというわけではないと認めたようなものだ。
「危険ではありません。昼間は」
「ひ・る・ま・は!?」
しかも、「安全」とは一言も付けない。
――怪しすぎる! だ、大丈夫なの!?
地下に降りると、看板も飾りも目印となるようなものもなにもなく、ただシンプルな扉があった。
「待ち合わせ場所って、ここなの!?」
「はい。そうです」
そう笑顔で答えながら、ミルゼはなんの躊躇もなく扉を開け中に入った。
中は――どうやら飲食店のようだった。扉や階段の暗い印象とは違い、店内は案外広く清潔感があり、昼間からすでにたくさんの人々が飲食し談笑していた。荒くれ者のような怖い若者ばかりかと凛子は想像していたが、予想に反して年配の客が多く、きちんとした身なりの老紳士といった風情の人たちや、上品な中年の女性客の集団などがいた。
「な、なんだ。そんなに怖くないかも……」
凛子は少し安堵した。
「よっ! 久しぶりっ!」
いきなり横からミルゼに声をかける大柄な若い男性――その頭には、獣の耳が付いていた。
「あっ……!」
凛子は思わず指を指してしまいそうになった。
「久しぶりです。ディゼム。こちらが、協力してくださる凛子さんです。凛子さん、彼がディゼムです」
――ほんとに耳が……!
「へええ! かわいいねえ! 凛子! よろしく!」
よく通る快活な声。ディゼムは大きな手を差し出し、握手を求めた。
「よ、よろしくお願いします……」
思わず素直に凛子も手を差し出した。分厚い手にぎゅっと力強く握られ、凛子はうろたえる。
黒い髪に褐色の肌、生き生きと輝く黒い瞳。たぶんミルゼと同じくらいの年齢だろう。凛子は完全武装の姿を想像していたが、ディゼムは軽装で動きやすい恰好をしていた。大きな口からは綺麗な白い歯がこぼれ――肉食系のためか犬歯がとがって見える――人懐っこく眩しい笑顔だった。精悍な顔つきで眼光は鋭いがタレ目で、いかにも女性にモテそうな――そしてちょっと女好きそうな――感じがした。背が高く筋肉質で屈強な外見をしているが、女性にはめっぽう弱いに違いない。
「リールのやつ、まだ来ないんだよねえ! まったくあいつはいつも遅えんだから!」
ディゼムは困るふうでも怒るふうでもなく、大きな声で愉快そうに言う。
「ディゼムはいつ来たんですか?」
「ん? たった今よ! 今! まあとりあえず座ろうぜ!」
――よかった。とりあえず怖い人じゃなさそう。
凛子はほっと胸をなでおろす。
「凛子は、飲めんの?」
着席するやいなや、ディゼムは興味津々といった感じで凛子に質問する。
「ま、まさかっ! 私、未成年ですっ! 飲めませんっ!」
「凛子さんの住む国では、未成年は飲酒が禁じられているんですよね」
こちらの世界では飲酒が大丈夫ということらしい。でも成人したって私は別にお酒を飲みたいなんて思わないだろうと凛子は思う。自分が酒を飲んでコントの酔っ払いのようになった姿を想像して凛子はぞっとした。
「そっかあ。俺は早速なにか飲もうかな。おーい、おねーさあん!」
元気に店員に手を振るディゼム。またしても無駄に元気なやつが、と凛子はちょっと先行き不安になる。
「私はなにを食べようかな」
また食うのかいっ! と凛子がツッコミを入れようとした時、ハスキーな女性の声がした。
「こんにちは。珍しく早く着いたでしょう?」
ショートカットの若く美しい女性だった。髪の色は薔薇のように深紅、瞳は輝く金色だった。赤い口紅に黒いアイライン、はっきりとしたメイクだが、メイクがなくても十分美人、むしろ素顔のほうが花のように美しいに違いない、そんな整った顔立ちだった。すらりとした長身でスタイルがよく、黒のホットパンツとヒールの高いブーツがとても似合っていた。そして後ろには――爬虫類のような長い尻尾があった。
――し、尻尾だ! ということはこの人が――
「こんにちは、リール。久しぶりですね。約束の時間通りとは珍しいですね」
「リール! 早かったじゃん! 元気してたかあっ?」
「ふふふ。あんたたちの顔を見るのが楽しみで、今日は早く起きちゃったのよ」
「まーたまた! んなわけねーだろ、たまたまだろおっ!? たまたまっ!」
「ふふ。そうね」
涼しげな目を細め笑う。
「リール、彼女がお話した凛子です。そして凛子、彼女がリールです」
「ふうん」
リールは微笑みを浮かべながら、ちょっと珍しいものでも見るような目で凛子を眺めた。美人に見つめられ、同性でも凛子はちょっとどきどきする。
「よろしく。凛子」
「よ、よろしくお願いします……」
突然、リールは一枚のカードを胸のあたりから取り出し、素早く凛子に向けた。カードには一匹のトカゲが描かれていた。
「なにか見える?」
「えっ……?」
ぼうっ!
「きゃあっ!」
カードに描いてあったトカゲの絵が、炎を吐いた。炎は渦を巻き、凛子の目前まで迫った。
「リール!」
ミルゼが立ち上がり、かばうように凛子の肩を抱き引き寄せた。
「ふふ。大丈夫よ。ちょっと凛子の目を試しただけ」
「私の目を……試す?」
「今の炎は私と凛子にしか見えなかったのよ。ミルゼにもディゼムにも、これはただのカードにしか見えない」
「え!?」
――今の炎が、他の人たちには見えていないの!?
「あなたはあちらの世界の住人の中でも、特に見えるほうみたいね」
「ええっ!?」
――私が見えるほう!? そんなまさか!
「そんな、私そんな不思議な力なんてありませんっ! 霊感とかぜんぜんないし、そういうの別に信じてるわけでもないし……」
「違うのよ。凛子の世界ではそうじゃないのかもしれないけれど、こちらの世界では現実的な感覚が強い人ほど、隠れているもの、見えないものが見えるの」
「えっ!?」
「ちなみに、私もミルゼとディゼム同様、見る力はあまりないわ。今のは私の術式だから私にも見えるの」
――現実的な感覚が強い人ほど見えないものが見える……?
まるであべこべだ、と凛子は思った。霊感とか特殊な能力を持つ人こそ他の人が見えないものが見えるというもの――やっぱりここはヘンテコな世界なんだ――
こちらのことはこちらの人の言うことに従うほかない、こちらのルールを理解するしかないんだ、凛子は改めてそう思った。無秩序に感じるけれど、こちらなりの秩序に乗っ取って世界が構築されているんだろう、そう凛子は考える。ほわわんと「へえ。不思議な世界なんだなあ」と受け入れるのではなく、いったん立ち止まり、自分の中である程度租借し納得しないと気が済まない凛子らしい思考だった。逆に、自分で納得さえできれば素直にそのルールに従うという柔軟性があった。
「凛子! すごいな! 頼もしいじゃないか!」
ディゼムが酒の入ったグラスを掲げ、白い歯を見せて笑う。
「リール! 危険じゃないとしても、いきなりひどいじゃないですか!」
ミルゼが抗議した。
「なあに? 仕事仲間の実力を知っておくのは大切なことでしょう? お互いのためにも」
――ミルゼ……私のことを心配して……?
真剣な表情でリールに食ってかかるミルゼの姿に、凛子は密かに胸が高鳴るのを感じた。でもすぐに、ミルゼだって色々いきなりでひどかったと思い返し、心の中でちょっと減点してやった。
「そんなことをしなくたって、私にはわかりましたよ、凛子さんの才能が! リールだってちゃんと感じたはずです!」
ミルゼの強い口調にディゼムが割って入った。
「まあまあ! いいじゃないか! 別に危なくないわけだし、凛子の力がわかったわけだし、そんなに怖い顔すんなよ! ミルゼ!」
ミルゼの拳が固く握られているのを凛子は見た。それは暴力をふるおうというわけではなく、ただ自分の感情を抑え込むため――そんなふうに見えた。
「……珍しいわね。ミルゼ。あんたがそんなに――」
「……」
ミルゼが黙り込んだ。自分でも少々戸惑っている――ようだった。
――え……? 珍しい……の……?
ミルゼを見つめるリールの瞳が、ふっと緩んだ。そしてリールは凛子のほうに向きなおった。意外にも優しい微笑みを浮かべていた。
「凛子。ごめんなさいね。怖かったかしら?」
「い、いえ! そんな、大丈夫です!」
即座に非を認め謝ってくれたリールに、凛子は大慌てで返答する。
――よかった……。リールさんも怖い人じゃなかった――
「ミルゼもごめんなさいね。確かに私が悪かったわ」
肩をすくめ、素直にミルゼに謝る。
「いえ……私こそつい……」
リールに頭を下げた後、ミルゼはちらりと凛子を見た。なぜかちょっぴりすねた子供のような表情だった。そしてぷいっと凛子から顔を逸らした。ミルゼの頬が少しだけ赤くなっているように見えた。
――あれ……? ミルゼ……?
初めて見るミルゼの表情だった。
――今のは……?
どきん、どきん。
――どうして? ミルゼ……?
ミルゼの言葉が、ミルゼの表情が、心に鮮烈に焼き付いたようだった。
――あれ。どうしよう……私……頬が……
凛子は自分の頬が真っ赤になっているのを感じた。頬に手を当てて隠したかったけれど、皆に、ミルゼに気付かれてしまいたくなくて、凛子はぎゅっと手のひらを握りしめ大急ぎでうつむいた。
「まあみんな! 座って座って! せっかくメンツが揃ったんだから、早く打ち合わせ始めようぜ!」
「そうね。でもとりあえず、私もお酒! まずはおいしい物がないとね! 凛子はなにを飲む? 強いやつ?」
「だ、だから私は飲めませんっ!」
凛子は両手を振り、大慌てで断った。
「ははは。やっぱ凛子がなに飲むか気になるよねえ!」
「……私はなにを食べようかな」
――だから、また食うんかい! そしてどいつもこいつも……!
凛子はおおいに先行き不安になっていた。
野菜料理の皿、肉料理の皿、そして四人分のグラス――凛子とミルゼだけソフトドリンクである――の脇に、ミルゼは羊皮紙に描かれた地図を広げた。
「予定通り明日早朝、このルートで向かいます」
「そ、早朝っ!?」
凜子は思わず大声で驚いてしまった。
「どうしたの? 凛子。なにか問題でも?」
リールが凛子の反応を見て声をかけた。
「も、問題です!」
ミルゼも不思議そうな顔で凛子を見つめる。
「凛子さん。なにが問題なんです?」
「だ、だって、早朝って……! それじゃ、それじゃ今晩はどうするのよ!?」
朝を迎えるためには、当然のことながらまず夜を迎えねばならない。
――夜を過ごすって、どこで、どうやって!? 大問題じゃない!
「宿はみんなの分ちゃんととってありますよ」
「や、宿!」
「もちろん豪華で素敵な宿よねえ?」
すかさずリールがミルゼに顔を近づけ尋ねる。変な宿、しょぼい宿だったら容赦しない、とでも言いたげだ。
「女子はそういったとこに敏感だねえ! やれやれ、まずは今晩の宿のことから打ち合わせかよ。まあ確かに思い出作りにははずせない重要ポイントだけどねえ!」
ディゼムが頭の後ろに両手を当てちょっと伸びをする。
「ディゼムまで……旅行じゃないんですから。リールも知ってるでしょう? すぐそこの『ミモザ』ですよ」
「ああ! あそこは評判いいみたいよね!」
「あ! 俺泊まったことある! 飯もうまいんだぜ!」
ディゼムが急に目を輝かせ、身を乗り出した。肉食獣の両耳をぴんっと立てている――いかにもわくわくしているという感じ。
「部屋はリールと俺、ミルゼと凛子の組み合わせ? それとも俺と凛子?」
「なっ……!」
凜子が顔を真っ赤にし、絶句する。
「ディゼム! なんで男女が同部屋なんですか!」
凛子の代わりにミルゼがツッコんだ。
「うーん。やっぱ野郎同士か」
そりゃそうだとわかってるけど改めて残念、そんなふうにディゼムが呟く。耳をしょぼんと寝かせてしまった――思ったことがすぐ表れる、わかりやすい性格。
「当たり前でしょ」
ごっ!
リールがメニューの角をディゼムの頭にぶつけた。
「角はやめろや。角は!」
リールが今度はメニューの『面』の部分をディゼムの顔に押し付けてみる。
「面はもっとやめろお! 面を面に押し付けるなあっ!」
「……」
ミルゼも凛子も見なかったことにした。面倒なので。
「ミルゼ……そういう話も契約のときに、ちゃんと私に話していたの?」
凜子がミルゼにそっと質問した。隣ではまだリールとディゼムが、わあわあとなにかやっていた。
「ええ。もちろんです。契約ですから」
「……」
凜子がテーブルに突っ伏した。またしてもテーブルの上は料理だらけだったのであまり隙間はなかったが。
「キノコ採りは早朝が定番ですから」
「それはそうだと思うけど……」
「うー。俺、朝早く起きんの苦手なんだよねえ」
ディゼムが頭をかく。
「凛子。起こして」
ごっ。
リールが無言でメニューの角をディゼムの頭にお見舞いした。
ドラゴンがいる、そうミルゼは説明していた。自分も含めこのメンバーで本当に大丈夫なのか、凛子はとてつもなく不安になる。
「あの……皆さんはこういうお仕事、今までも何度かなさっていたのですか?」
おそるおそる訊いてみた。
「ええ。そうよ」
リールが答えた。リールの瞳孔は、猫や爬虫類のように縦長な形状になっていた。それが不思議と気持ち悪いというわけではなく、神秘的な美しさがあり思わず凛子は見つめてしまう。
「我々は基本このメンバーです」
ミルゼが微笑む。落ち着いた口調から、他の二人を深く信頼しているのが伝わってくる。
「プラスもう一人、凛子の役割をする人、それでいつも合計四人なんだ」
ディゼムが指を四本立てて答えた。ミルゼと違い、男らしい大きな手。
「私の役割?」
「ええ。我々の『目』となる役割です」
「目……」
――そういえばさっき、私の力は「冷静に本質を見極めようとする目」とミルゼが言っていたっけ――
「私たちには見えないものを見てもらうの。さっきのカードの炎のように」
「リールさん……私に本当にそんなことが……」
「あら。リールでいいわよ。凛子。さっき、自分でもその力がわかったんじゃないの?」
本当に、そんなことが――ミルゼもリールもディゼムも、穏やかに微笑む。凛子を信頼し、仲間として受け入れ、そして尊重している、そんな空気が流れていた。
――大人の人たちからこんなふうに見てもらえるの、初めて――
自分の能力という実感はないが、それでも自分を一人前として見てもらえることは嬉しいと思った。認められることの喜びと清々しい緊張感があった。自然と背筋が伸びていた。
「あの……『目』の役割の、前の人は……辞めてしまったのですか?」
どうしてメンバーが変わったのだろう――訊いていいかどうか迷ったが、思い切って訊いてみる。
「『目』の役割をする人は、凛子さんの世界の人にお願いしているのです。だから大体一回きりの契約になってしまうのです」
「え……?」
「ドラゴンは、俺達には見えないんだ」
ディゼムが真剣な表情で答えた。リールが続けて説明する。
「彼らは隠れているから。私たちの世界の『見える人』でもドラゴンはあまりはっきりとは見えないの。だから、ドラゴンなんて伝説上の生物だ、と考える人も多いわ。本当に存在を確信しているのは、魔力を持つためドラゴンを肌で感じることのできるギフトをもらった人間と、研究熱心な学者くらい」
「学者さんが!?」
意外なリールの一言に凛子は驚く。
「ええ。こちらでは現実的に物事の真理を追究するような人が見えやすいんですよ」
ミルゼが野菜料理を次々と口にしつつ付け足した。本当に、どれだけ食べるのが好きなんだ、とそちらのほうにも凛子は驚く。
「それから、異世界の人々、凛子たちの世界の人のほうがちゃんと見えるんだ。ドラゴンが隠れるのは俺たちの目からだからね。異世界の人用には対応しきれていない」
ディゼムは骨付きの肉の塊を頬張る。漫画によく出てくる「漫画肉」みたい、と凛子は密かに感動していた。ついでに、そういう肉を豪快に食べるのがディゼムは似合うなあと感心する。
「私の目で見えるんだ……」
「うん。ちなみに言うと、妖精も凛子たちのほうがはっきり見えるよ」
ディゼムは酒のほうも進んでいた。食べかたも飲みかたも豪快だった。いっぽう、リールはブラッドレッドの色をした酒をたしなみつつ、優雅にナイフを操りステーキを一口大の大きさにして口に運ぶ。その「一口大」が少々大きいようにも見えるが。
「そうなの。ギフトをもらった私たちには、妖精は光の球のように見える。妖精はドラゴンのように隠れているわけではないし、私たちにも光として見えるんだけど。妖精は、羽の生えた小さな人の形をしているわ」
「妖精は、凛子のようなかわい子ちゃんの目に見えやすいんだよ」
そう言いながらディゼムがウィンクする。
「……妖精は、異世界の人こちらの世界の人を問わず、自らを高めようという想いが強い、前向きで若々しい魂の持ち主が見えやすいんです。妖精の場合、今まではっきり見えていた人でも、向上心や前向きな変化を求める心が薄れると見える力が弱まっていきます。逆に言うと、志いかんで今まで見えなかった人もある程度見えるようになっていきます。見ることに年齢や性別や容姿は関係ありません」
ディゼムの適当な説明をミルゼが訂正した。
「ドラゴンの見える人と妖精の見える人は違うの?」
「はい。それから、隠れているぶん、ドラゴンを見るためには高い資質と能力を必要とします。異世界の人には対応しきれていない、とディゼムが説明しましたが、それでも凛子さんの住む世界の人が誰でもはっきり見ることができるというわけではないんです」
ミルゼが食べながら話す。話しながらで、しかも大口に食べているが、下品な感じや失礼な感じがしない、むしろなんだかほれぼれするような食べっぷり――凛子は妙なところに感心していた。
「私は、いつも探しています。凛子さんのような素晴らしい方を。私の能力を駆使して」
「ミルゼは人材探しとキノコ探しの名人だからねえ!」
ディゼムがミルゼに屈託のない笑顔を向ける。
「名人というわけではないですけれど」
ミルゼがちょっと照れたように呟く。
――あ。そうか。草食系は、「探知能力を持つ」とか言ってたっけ――
「……ルートはこれが最適だと思います」
ミルゼが地図を指でなぞる。細くて長い指。凛子は地図よりミルゼの美しい指に目が行ったが、慌てて地図に集中する――目的地とされる場所は山を一つ越えた次の山の中で、見るからに大変そうだ。
「……移動手段はどうするの? まさか……全部徒歩!?」
「いえ。車で行けるところまでは車、そしてこの手前の山のふもとでギルウを借ります」
「『ギルウ』って?」
「凛子さんの世界にいるヤギを大きくしたような動物です。狭く険しい山道も平気で登ってくれます。その動物に乗って行きます」
「それ、私も乗れるの!?」
馬だって乗ったことがないのに、そんなヤギに似ているという動物に乗れるのか凛子は自信がなかった。
「大丈夫です。人によく馴れ、人が大好きな動物です。彼らはとても賢く、人を乗せて運ぶ仕事に誇りを持っているんですよ」
「とってもかわいいんだぜ! 凜子も気に入ると思うよ!」
「ちょっと乗り心地はよくないけどね。でも一生懸命運んでくれる姿は健気で愛らしいわ」
ディゼムの言葉にリールが微笑みながら付け足した。
「当然、車の手配も済んでるんでしょ?」
リールがミルゼに確認する。
「はい。大丈夫です」
「そりゃそうだろ! ミルゼは真面目で頼りになるからなあ!」
「誰かさんとは違ってね」
リールが思いっきりディゼムの顔を見ながら言う。
「リール! ひどいなあ! そんな目で俺を見ないでくれよ! んー……でも、確かに……俺もそう思う!」
ディゼムが自分で認めた。ディゼムは不真面目で頼りにはならないらしい。
ほぼ雑談だらけの会話が進む。酒も食べ物も進む。凛子は目の前を通り過ぎる会話をただぼんやりと聞いていた。
――ほんとうに、へんなひとたち――
「……凛子はなにが好き?」
いきなりリールに話を振られ、凛子はどきっとする。
「えっ? なにがって、なんですか?」
「凛子はふだん、なにをしてるのが好きなの?」
「ええと……本を読んだり、音楽を聴いたりするのが……好きです」
自分で言ってみて、地味だなと思い、凛子は少し恥ずかしいような気持ちになっていた。
「へえー! 素敵じゃない! どんな本を読むの?」
リールが瞳を輝かせ身を乗り出した。
――え。そ、そんな反応?
正直リールが関心を持つとは思わなかったので、凛子はどぎまぎする。
「ええと、れ、恋愛の物語とか……」
今度はディゼムが目を輝かせる。両耳もピンとしている。
「へーえ! 凛子は恋愛の物語が好きなんだ! でも、物語じゃなくて実際に恋愛するのはどう? 例えば、俺とか!」
ごんっ。
リールとミルゼが同時にグラスの底をディゼムの頭にぶつけた。
「ひどいなあ! 別に俺は冗談で言ってるわけじゃないんだから! 俺はいつだって本気なんだぜ」
「冗談で言ってるわけじゃないから始末に負えないんです!」
ミルゼがディゼムを睨み付ける。
――れ、恋愛……
凛子は頬を染めうつむく。恋の物語を読むのは好きだけれど、実際に自分が恋愛することはあまり考えていなかった。しかも、目の前の男性が自分を恋愛対象として見てくれているなんて――どう反応したらいいか、どう答えたらいいのか困惑していた。
ミルゼが凛子の表情をちらちら伺うように見ていたが、凛子はうつむいていたためそのことには気が付かなかった。
「凛子! だめよ! こんな男相手にしちゃ! ディゼム! 凜子に変なこと言わないで! 凛子は物語の世界を楽しむのが好きなんだから! 凛子、私も物語を読むのが好きよ。ふふふ。私の場合、本を読むようなタイプに見えない、っていつも人から言われるけど。失礼しちゃうわよね、いったい私のことどういうふうに見てるもんだか」
リールは自分のことに話の方向を持っていくことで、さりげなく凛子を助けた。
「凛子。私はね、ハッピーエンドの夢のある物語が好きよ。やっぱり幸せな気分でゆっくりと物語から現実に戻りたいじゃない? ディゼム、あんたはどうせ本なんて読まないんでしょう!?」
「うーん。字を見てると眠くなってくるんだよねえ」
「それも楽しいとは思いませんか? 私はよく眠る前に本を読みますよ」
――リールも、ミルゼも本を読むんだ。ミルゼは……ミルゼはどんな本を読むんだろう?
「ミルゼはどんな本を読むの?」
凜子が尋ねる前に、リールが訊いた。
「冒険する物語ですね。海を越えて諸国を旅するような物語を読むとわくわくします」
「で、すぐ眠っちまうんだろ?」
ディゼムがすかさずツッコんだ。
「そうなんですけどね」
ちょっと恥ずかしそうにミルゼが笑う――そして遠い目をした。
「自由に、憧れます」
「まあな。俺たちは……自由ってわけじゃないから」
「そうね」
「え……? どういうことなんですか?」
寂しそうに微笑む三人に、思わず凛子は尋ねた。
「ギフトを受けた者は、生まれた地を離れられないの」
「え……」
「あまり遠くへは行けないんだよね」
リールの言葉にディゼムが続ける。そしてミルゼが口を開いた。
「妖精は、ギフトを受けた者の使う魔力の残り火――放出された魔力エネルギーの大気中に残された成分――を好みます。妖精は、ギフトを持つ人間が使用した魔力エネルギーの一部を養分のひとつとして採取しているんです。妖精が人間にギフトを与えるのはそのためです。妖精は、あまり遠くへは移動しません。そのせいか、ギフトの魔法は限られた範囲に限定されるようです」
「ギフトの魔法の適用される範囲から出ようとすると――俺たちは消滅するんだ。ギフトの証である角や獣のような耳、尻尾を残して」
思いがけず恐ろしい言葉をディゼムが発した。
「えっ!?」
――消滅……!?
「人が、消えてしまうというんですか!?」
「ええ。そうなの」
驚く凛子に、リールがさらに説明を加えた。まるで他人事のような事務的な調子で――
「学者の長年の研究によると、私たちの消滅はどうも妖精が意図したわけじゃなく、魔力の反動というか……一歩でも適用範囲から出てしまうとエネルギーの暴走が起きて――そして、ギフトの証である体の一部だけを残して消えてしまうの」
「その適用範囲の境目を、『境界』と我々は呼んでいます」
――そんな、そんなことって……!
「まあ、隣接している町や村までは行けるし、俺は生まれたこの地を気に入ってるからいいんだけどねーっ!」
ディゼムが一気に酒をあおる。言葉とは裏腹に寂しそうな目で。
『普通、といっては語弊があるかもしれませんが――普通が一番、そう思います』
先ほどのミルゼの言葉が脳裏に蘇る。
――さっきのミルゼの悲しそうな顔は……そういうことだったんだ――
「……私は、海を見てみたいです」
ミルゼが呟く。
「おっ! いいねえ! 俺もぜひ行きてーなあ! 海! 潮風ってどんな感じなんだろう? 潮風を全身に感じながら崖から思いっきり海に飛び込んで、遥か遠くまで泳いでみてえよな!」
「と言いつつ、ディゼムは水着のおねーちゃんが一番楽しみなんでしょ?」
リールがいたずらっぽく、ふふふ、と笑う。
「それもある! おおいに、ある!」
大声で言い放ち、豪快に笑うディゼム。
ミルゼの銀の瞳。美しい銀の瞳は遥か遠くを見つめているようだった。
――ミルゼ……海、私は海が好きだよ? ミルゼ……ミルゼもきっと、海を見たら――
『凛子さんのように、なにも縛られることなく可能性が無限に広がりますから』
不思議な力を持ちながら、かごの中の鳥のように定められた生き方――ミルゼの端正な横顔を見つめていると、凛子はなんだか胸が締め付けられるような気持ちになっていた。
日が傾き始めたころ、宿の「ミモザ」に入った。白壁には鉢植えの花や緑が飾られている。建物は小さいが、明るくきちんとした印象で申し分のない宿だった。リールも満足そうだ――もちろん凛子とリールが同部屋だった。
「さて。体調を整えるために早めに宿に入ったけど、夕ごはんには早いし……凛子は観光してみたい?」
長い尻尾を揺らし、リールは笑顔で振り返った。
「えっ!? か、観光!?」
「少しその辺のお店でも見てまわろっか。男どもはほっといて、ちょっと買い物でもしようよ」
「か、買い物、ですか?」
「お近づきの印になにかプレゼントしてあげる! 大丈夫、凛子の世界にもちゃんと持って帰れるからね」
リールに促されるまま、宿の近辺をゆっくり散策する。赤い屋根の、小さな雑貨屋らしき店があった。
陳列されているのは手作りのバッグや洋服、木のカップやかわいらしい人形、綺麗な石のアクセサリーなど。リールの趣味というより、凛子の好みを考えてこの店に入ったようだった。
「あ……」
様々なリボンが置かれた棚の前で、思わず凛子は足を止めた。
「なあに? あ、いいわね。凛子は髪が長くて綺麗だからよく似合うわよ」
美しく輝く銀のリボンが二本で一セットになっていた。シルクのような滑らかな光沢。
――きらきらして綺麗なリボン……ミルゼの角に、結んでみたいな。
想像して思わず頬が緩む。自分に、というよりいたずらでミルゼの両角に結んでみたい、凛子はそんなことを考えていた。
「じゃあ、このリボンがいいのね、あと、なにが欲しい?」
「えっ……!? ほ、ほんとに買ってくださるんですか!?」
「遠慮しないで。この世界に来てくれたお礼、そして記念よ」
ふふふ、とリールは微笑む。凛子はリボンが欲しかったわけではなく、ただミルゼの頭につけているところ、頬を赤くし困惑するミルゼの顔をなんとなく想像してみただけだったのだが、せっかくのリールの厚意なのでありがたく受け取ることにした。リールは銀のリボンの他に、銀のネックレスまで凛子にプレゼントした。
「本当にありがとうございます。こんなにいただいてしまって――」
「そんな、改まって礼を言うことないわよ」
リールは笑いながら、凛子の頭をぽんぽんとたたく。
「そんなに高価なものでもないし。雑貨屋さんって見るだけでも楽しいわよね」
「ありがとうございます! ほんと、嬉しいです!」
凛子はぺこりと頭を下げた。
「こちらこそ、散歩に付き合ってくれてありがとね」
二人は夕暮れの中、街路や店先に植えられている美しい草花をゆっくりと眺めながら、宿に向かい石畳の道を歩いていった。
――リールって、外見からちょっと怖い人なのかと思ったけど、本当に優しいな。もしお姉さんがいたら、こんな感じなのかな――
心地よい夕風が頬をなでる。まるで西洋の絵画のような街並み、古い石畳、そして変わっているけど優しい人たち――凛子はこの不思議な世界が好きになっていた。
「おおい! 二人してどこ行ってたんだよお!?」
宿に戻ると大声のディゼムが出迎えてくれた。
「ナンパよ」
さらっと言ってのけるリール。
「ま、マジか!? こんないい男が二人もいるのに!?」
「いい男? いったいどこにいるのよ? どこに?」
リールは大げさに辺りを見回す。
「り、凛子さん……」
ミルゼがナンパと聞き、絶句した。
「ミルゼったら、なに『あわあわ』してるのよ!? そんなわけないでしょ!?」
リールは呆れながらつかつかとミルゼに近づき、耳元にそっと囁いた。
「まったく、あんたって男は、ほんとわかりやすいわね」
「えっ……!?」
顔を真っ赤にし驚くミルゼに、ふっとリールは微笑む。
「まあ、頑張んなさいよ」
「なっ……!」
ぽんっ、とミルゼの肩を叩き、リールは宿の食堂のほうに向かって歩いていった。
「なんだあ? リールのやつ? なあ、ミルゼ、今あいつなんて言ったんだ?」
「なっ、なんでもないです! なんでも!」
凛子は三人のやりとりをぽかんと見ていた。
――なんだか……よくわかんないけど、ほんと三人とも仲がいいなあ。
「よし! とりあえず飯だ飯だ! ミルゼ、凛子、俺たちも行こうぜ!」
意味不明にぐるぐると腕を回しながら、ディゼムも食堂に向かう。
ミルゼと凛子はなんとなく立ち尽くしていた。思わず顔を見合わす。
「ディゼムはいつも元気いいね」
凛子は「元気いいね」の前に「無駄に」、と付けそうになったが、それはやめておいた。
「いつもあんな感じです」
「リールは優しくて美人で、素敵な女性だね」
「……怒らせると怖いですよ」
「あ! そんなこと言っていいの? 告げ口しちゃうよ?」
いたずらっぽく凛子は笑う。
「それは勘弁してください、困ります」
特に困ったふうでもなくミルゼも笑う。
やはり、食事も酒も大量だった。目にもおいしそうな料理が並ぶ。
「おいしい! この世界の料理は、みんなおいしいね」
「凛子さんのお口に合ってよかったです」
あいかわらず、ミルゼは人一倍食べていた。
「凛子は、学校に行ってるんだって?」
またしても「漫画肉」に食らいつきながら、ディゼムが尋ねた。
「はい」
今朝も本当は学校に行くところでした、と言うと恨みがましく聞こえそうなのでやめておく。
「そうかあ。まだ学生さんかあ。将来はなにになりたいの?」
「えっ……」
凛子は言葉に詰まる――自分は、なにになりたいんだろう――
ディゼムは凛子をまっすぐ見つめ、それから言葉を変えた。
「んー。『なにになりたい』って言い方は違うか」
「え……?」
「なにをしてても凛子は凛子なんだし、生きていれば自然とどんどん変わっていくわけだし、自分をなにかの枠にはめることはないからね。凛子は現在、なにをしてみたい?」
「まだ……わかりません……探しているんです」
凛子はうつむき、ちょっと恥ずかしくなっていた。ずっと探しているのに夢も目標も見つけられない自分が情けないと思った。
「そっかあ! それはこれからが楽しみだね! 思いついたことをいろいろやってみるといいよ!」
「え……」
――楽しみ、なの……?
「凛子は後にも先にも世界でただ一人、特別なただ一人なんだから、自分を大切に、周りの人たちも大切にしてそのとき心から望むことをやってみるといい。成功も失敗もちゃんと自分の血肉になるから」
――ディゼムは、なにも見つけられない私を軽蔑したりしないの?
ディゼムは酒の入った自分のグラスを見つめる――氷がかちりと小さな音をたてた。
「俺は……パイロットとして働いてみたかったな」
ディゼムは、透明な氷に視線を落したまま呟く――そこにまるで、遠い日、少年だった自分の姿が映っているかのように――
「そうなんですか! 初めて聞きました」
ディゼムの言葉にミルゼが驚く。
「ディゼムの夢は、パイロットだったのね」
ディゼムの夢の話は、もちろんリールも初耳だった。
「でも、隣の町まで行くのに飛行機は必要ないからね」
肩をすくめ、笑うディゼム。
「ミルゼは海、俺は空に憧れてたんだな」
ディゼムは少年のような目をしていた。
「凛子。たとえ叶えられない夢だったとしても、夢見ることは幸福なことなんだ。そこに苦痛や絶望を感じたとしても、たとえなにも残せなかったとしても、それでも過ごした時間が生きている証になる。一生懸命取り組むことで必ず次へとつながるんだ。なんでも好奇心を持って眺めてごらん。宝物はあらゆるところに隠れているから」
――宝物――
リールが優しい微笑みを浮かべる。
「焦ることも恥じることもないのよ。凛子。なんたって人生は長いんだから。私だって、実現させたい将来のイメージはいまだに漠然としてるし」
「リールはどんな夢を持ってるんですか?」
ミルゼが尋ねた。
「……お嫁さん」
ぶっ!
三人とも、思わず口に入れたものを吹き出してしまった。
「ちょーっと! なによその反応は!」
「い、いや、ちょっと意外すぎて……ごめん」
「すみません……想定外でした」
謝るディゼムとミルゼ。
「ごめんなさい。今ちょっとむせちゃって……」
とりあえず、凛子は偶然むせてしまった体を装った。
「ディゼム! ミルゼ! それに凛子まで! ちょーっと! あんたたち、失礼すぎるわよ! 私、こう見えても案外家庭的なんだから!」
「そうかあ。リールは『男なんて!』、と言いながらバリバリ仕事に邁進する感じかと思ってた」
ディゼムは大笑いするのかと思いきや、眩しいような眼差しでリールを見つめる。
「たくさんの子供や孫に囲まれた老後とか、素敵じゃない? 私は、家族のために強くなりたいの」
――そうなんだ……リールはそんな夢を持ってるんだ――私はなんのために、誰のために努力すればいいんだろう……?
「もう老後の話かあ! 俺たち、何十年も経ったら、いったいどうなってんだろうな?」
「あんまり変わらないんじゃない? 特にディゼムはそのまんまの気がする」
「それはいいのか悪いのか!?」
「若々しいと見るか成長がないと見るか」
くすくすとリールが笑う。それからミルゼのほうをちらりと見た。
「ミルゼも変わらなそう」
「そうですか?」
「ミルゼはもともと、若さがない!」
びしっと指差すリール。痛いところを突く。
「き、きっぱり言い切りましたね!?」
ディゼムが、うんうんとうなづく。
「昔からミルゼは、穏やかぁーに仕上がってたからなあ! まあ子供っぽいとこもあるけど?」
「仕上がってるって……人間が出来てる、とかそういう言い方ではないんですね……」
ミルゼが苦笑する。
――私は、数十年後、どこでなにをしてるんだろう……?
自分がどこに向かおうとしているのか。そして誰とどんなふうに過ごしているのか。凛子にはちょっと想像ができなかった。ただ、今までは未来を考えると不安や焦燥感にとらわれがちだったのだが、今の凛子は明るく楽しみな気持ちが大きくなっていた。きっと、大人の語る未来への気楽な会話が安心感をもたらしてくれたのだろう。
「……数十年後どころか、今日のこと明日のこともわからないや」
熱々のチーズのたっぷりかかったドリアのような料理をスプーンですくいながら、凛子は呟く。持ち上げたスプーンの動きに合わせ、とろけたチーズが伸びる。凛子は思う――この不思議な人たちと過ごす摩訶不思議な時間も、皿からスプーンへ伸びているチーズのように、ちゃんとどこかにつながっているんだろうか……?
「それは当たり前のことですよ」
ミルゼが微笑む。
「あらかじめ未来が全部わかってしまったら、ちょっとつまらないじゃないですか」
――わからないことは、面白い……の?
「……ミルゼが説明不足でここに連れてきたから、余計明日のことがわからない」
ちょっと口をとがらせ文句を言ってみる。
「すみません。一応説明はしたんですが……」
「凛子! よかったな! ミルゼの説明不足のおかげで、とっても楽しいだろ?」
横からディゼムが笑いかける。
「ディゼム! もう!」
「ふうん? 凛子の中で俺はすでに呼び捨て扱いなんだな。まっ、嬉しいけど?」
瞳を輝かせ、凛子のほうに身を乗り出すディゼム。親愛の笑顔を浮かべていた。
「あっ……! すみません! つい……」
つい、なんだというのだろう。つい、こいつは呼び捨てでいいや、と思って? そこは深く追究しないでおこう、と凛子は自粛した。
「いいなあ。私なんて、なかなか名前すら呼んでもらえなかったんですよ」
ミルゼが少しすねた顔をした。
――うわ。ミルゼのこういう表情、かわいいというか、なんか色っぽいというか……
凛子はちょっとどきりとする。
「それはたぶん、ミルゼが悪いんじゃない?」
リールがいたずらっぽい視線を向ける。
「そうなんです! だってミルゼったら……」
そういえば、ミルゼもとっくに呼び捨て扱いだった、と凛子はそこで気付く――私、今まで年上の人を呼び捨てにすることなんてなかった――
「凛子。ディゼムのことは呼び捨てでいいわよ? なんなら『お前』、とかでもいいし」
「リール! お前―っ!」
まったく緊張感のない決行前夜。食べて飲んで笑って、そして明日の出発が早いということで夜の更けないうちに、それぞれ部屋に戻ることにした。
窓から丸い大きな月が見えた。
――私は現在なにをすべきで、未来はどこへ向かうのだろう……?
月の光は優しく柔らかく、中庭の木々をそっと照らしていた。
「凛子、眠れそう?」
横になってしばらくすると、隣のベッドからリールが声をかけてきた。
「はい……寝つきはいいほうなんで大丈夫です」
「このベッド、寝心地がいい感じよね。安宿じゃなくてほんとよかったわ」
「あの……」
「なあに? 凛子」
「リールさんは……リールは、ギフトをもらってよかったと思っていますか……?」
カーテンの隙間から少し、月の光が差し込んでいた。
「うん……そうね。私はどちらでもないわ。私は私だし。ミルゼやディゼムのように、遠くへ行ってみたいとかそんなに思わないしね。生まれたときからだから、もうそういうものだって思ってる……でも自分の能力に関しては、私は誇りを持っているわ」
「そうなんですね……」
「ギフトは……妖精の植えた『種』だって思ってる人もいるわ」
「え……?」
「妖精が、あとで自分の食料にするため人間に種を植え付けているようなものだって感じている人たちもいる。人間が魔力を使ったときが収穫どき。妖精って、人間が力を持ったら使わずにいられないってことを知ってるのね」
確かに、不思議な力があったら自分だって喜んで使うだろう、と凛子は思う。
「妖精に反発してあえて魔力を使わない人もいるわ」
「え……?」
「一生魔力を使わないって誓って、あえて普通の職業を選んで普通に生活していく人もいる。ミルゼがよく食事に行く店の店員さんもそうね」
――あ、あの牛の角の店員さん!
「別に、魔力を使わない人たちがいても、他に使う人がたくさんいるから妖精はまったく困らないわ。魔力の残り火は妖精の主食でもないし。人間が魔力を行使するかどうかは妖精にとってはおそらくどうでもいいこと。でも――ギフトや妖精に複雑な思いを抱く人は、たとえ意味がないささやかな抵抗だとしても、あえて普通の生活を選んでいくわ」
――いろんな人がいる。いろんな捉え方、生き方があるんだ――
「これから、凛子はどんな道を選んでいくのかしらね。ふふふ。勉強して、恋をして、働いて……変わっていくことを恐れず、どんどん自分の世界を広げていきなさい。遠い世界から応援してるわ」
「リール……ありがとう」
「ふふふ。明日は早いからね。そろそろ、おやすみなさい」
「リール……ありがとうございます……おやすみなさい」
――元の世界、自分のいた世界は今何時頃なんだろう、みんな心配してるのかな――
暗闇の中、両親や友達のことを考えていた。それから、学校のことも。不安や心配や寂しさが、凛子の胸をよぎる。様々なことに思いをめぐらせていたとき、唐突にミルゼの顔が浮かんだ。
いつの間にか凛子はミルゼの寂しそうな瞳を思い出していた。
――ミルゼに海、見せてあげたいな……
海に憧れるミルゼ。叶わないささやかな願い。切ない横顔――
――あれ? お父さんやお母さんや友達や学校のことを考えていたのに、どうして私、ミルゼのことばかり考えているんだろう――
それから、ミルゼの優しい笑顔、子供のようにすねた顔、そして私のために怒ってくれた顔――いろんなミルゼの表情が頭に浮かぶ。それから――腕に抱かれたときの、ほのかな甘い香り――
――私、ミルゼのこと悪魔だと思ってたんだっけ――でもいつの間にかこんなにも心を占領されちゃうなんて……やっぱりミルゼは悪魔、だったりして――
神秘的な銀の瞳、銀の髪。まるで月からの使者のよう。
ほどなく凛子は眠りに落ちていった。
まだ外は暗かった。空気が澄んで肌に冷たい。
「じゃあ参りますかーっ!」
早朝からディゼムはテンションが高かった。無駄に。
車はジープのような形状をしていた。頑丈なボディ、実用性を重視したデザイン、かなりの悪路でも走行可能に見える。暗い中でも一目で使い込まれた古い車であるのがわかった。乗り心地は――あまり快適ではなさそうだった。
ディゼムが運転席に座る。リールがちらりとミルゼに目配せし、助手席にさっと座った。結果、ミルゼと凛子が後部座席に並んで座る。
「凛子さん、眠かったら眠っていいですよ」
ミルゼが声をかける。
「ううん。大丈夫。よく眠れたし」
車を走らせると、すぐに眠っていた。ミルゼが。
――眠っていいですよ、って自分が寝てるし……
ミルゼの頭が凛子の肩にもたれかかった。巻き角が、こつんと当たる。
――ちょーっと! ミルゼーッ! 頭が私の肩に乗ってるんですけどーっ!?
「おいおい、ミルゼー。もう爆睡かよ!?」
バックミラーを見て苦笑するディゼム。
「しかも立場が逆だし」
くすくすとリールが笑う。
――もう。ミルゼったら……
穏やかな寝顔。繊細な、長い銀色の睫毛――ミルゼはすっかり眠りこんでいた。ほんとに、お前はコアラとか猫とかハムスターか、とツッコミたくなった。
――髪、サラサラだなあ……
思わずそっと髪に触れてみた。艶やかな銀色。
――リールにもらったリボン、角に結んだらきっとすごく似合っちゃうだろうな。
ミルゼの――男性にしては華奢な手首――銀のバングルにも触ってみる。冷たい金属の感触。
――ちょっと、ミルゼ! これじゃ触り放題だよ?
ミルゼの甘い香り。どきどきする。自分の中のどきどきをごまかすため、ミルゼの髪をもしゃもしゃにしたり、ミルゼのほっぺをにゅーっと引っ張ったりしてみたくなったが、さすがにやめておいた。
街道を抜けてしばらく砂利道を走る。ガタガタと車は揺れるが、ミルゼは起きない。
「ミルゼ、全然起きないね」
ほっぺを引っ張っても起きなかったかも、やっぱりちょっとやってみようかな、などと凛子は思う。
「まあ凛子さえよければ、寝かせとけ寝かせとけ。まったく、幸せそうな寝顔だよなあ」
「ほんとね。ミルゼは食べることと眠ることが大好きだから。でもなんか食べ物の匂いでもしたら起きるかもよ?」
リールが自分の尻尾の先を撫でつけながら笑う。凛子は、リールの尻尾にもリボンをつけたらどうだろう、とぼんやり考える――きっと、大きめの真っ赤なリボンが合うかな。ディゼムの耳にリボンは……似合わなそう。似合うとしたら首に鈴くらいかな。
少し辺りが明るくなってきた。すぐ前方に山々が見える。一番手前の山のふもとにログハウスのような建物があった。
「ミルゼ、着いたぞー。かわいいギルウちゃんたちが待ってるぞー」
「あ……」
寝ぼけまなこのミルゼ。一瞬今の状況を判断できない様子。
「あっ! 凛子さん! すみませんっ!」
凛子の肩にもたれかかっていたことに気付き、大急ぎで謝る。
「ミルゼ、よく寝てたね」
本当は、ずっとどきどきしていたけど――なんでもないふうを凛子は装った。
「ミルゼ、おはよう。凛子にヨダレつけなかった?」
からかうようにリールが声をかける。
「本当にすみません……」
頬を赤くし、申し訳なさそうに謝るミルゼ。
「どんまーい!」
ディゼムがミルゼの頭をわしわしと撫で、髪をくしゃくしゃにした。
ギルウを貸し出してくれるという店の中に入る。その店の裏は広い牧場となっていて、ギルウと呼ばれる生き物たちが草をはんでいた。
ヤギに似たギルウは、黒目がちの瞳で凛子を見つめた。体毛は少し長くふわふわとしていて、白色、黒、まだら模様とそれぞれ毛色に個性があった。
「わあ。かわいいー!」
まっ白な毛をした一頭のギルウが凜子に顔を寄せ、甘えたような仕草をする。凛子はギルウの頭を優しく撫でてあげた。ディゼムは角の生えたギルウの頭をわしわしと撫でる――さっきまったく同じような光景を見たっけ――凛子はちょっと吹き出してしまった。
「の、乗れるかな?」
大きさは馬より少し小さかった。店の人が手早く四頭のギルウに鞍と手綱をつけてくれた。
ミルゼ、ディゼム、リールは馴れた感じでそれぞれギルウに乗る。ディゼムの乗ったギルウは、一番大きく立派な体躯をしていた。しかし、この店の中で一番足が速いのはミルゼの乗った黒い毛並みのギルウだという。この二頭は、店主自慢のギルウらしい。
ギルウの全面的な協力のおかげで、無事凛子もギルウの背にまたがることができた。
朝もやの中、山道をギルウに乗って登っていく。濃密な森の香り。道を知っているミルゼが先頭、リールが二番目、三番目に凛子、最後にディゼムの順で進む。しばらくの間はよかったが、徐々に道は険しくなっていた。ギルウは草むらも岩だらけの道も気にせずどんどん進んでいく。
「すごいね。この子たち、力あるね。こんな急な険しい道も人を乗せて進んでいくんだもんね」
「急な崖も平気で歩くのよ。人が乗ってても全然平気な顔で登ったり下りたりするのよ」
道ではないほうへ進む。ふだん人が行かない方向らしかった。丈の長い植物の間を通り抜け、小川を渡る。木々の間を進み、崖の前に出た。
「えーっ!? まさか、崖を!?」
思わず手綱を握る手に汗がにじむ。相当な高さだった。
「凛子。目をつぶってたら?」
リールが振り返り、涼しい顔で微笑む。
「そんな! 余計怖いです!」
リールもミルゼもディゼムも、ギルウたちも、崖であることをまったく意に介さず余裕の様子。ギルウたちは崖を下り始めた。
「ええっ!? 本当にこのまま下りるんですか!?」
「ここから隣の山に行くのよ。しっかりつかまっててね」
――そんなそんなそんなーっ!
ギルウは素早く渡れる足場を見つけ崖を下る。人を乗せていてもまったくバランスを崩さない。凛子は必死につかまっていたが、そんなに必死でなくてもギルウのほうが人を落とさないよう気を配った動きをしていたので大丈夫のようだった。
崖を越え、隣の山へ渡る。この山は滅多に人が入らないのだろう、進んでも進んでも道のようなものは見当たらなかった。
高い木々、朝日が枝葉の間をくぐり抜け、舞うようにゆっくり降りてくる。足元にはシダや苔。大きな木の根を飛び越えて進む。
少し開けた場所に出た。ミルゼがギルウから降りた。
「私の調べでは、この先にキノコの群生地があるようです。そこの藪を抜けたらすぐだと思いますので、歩いて行きましょう」
その言葉が通じたかのように、ギルウたちはゆっくりと草をはみ始めた。
「ギルウちゃん、いい子で待っててな」
またディゼムがギルウの頭をわしわしした。
「さて、凛子」
ミルゼが凛子のもとへ近づく。
「目を、貸してください」
「えっ?」
「私の力で、凛子の見えたものを短時間ですが、みんなで共有できるようにします」
「それがミルゼの力……でも、いったいどうやって?」
「手をつないでください」
凛子の右手をミルゼが握る。
――わ。ミルゼの手……少し……冷たい。
どきどきして、凛子の手は熱くなっていた。
――手を握るって、こんなにどきどきするんだ――
「リールもディゼムもつないでください。皆で円になります」
「じゃあ凛子の左手を私が。凛子の手、あったかいね」
リールに言われ、凛子はどきっとする――リールに、どきどきがばれちゃったかな。ミルゼにも……ばれちゃったらどうしよう――ますます手が、顔が熱くなる。
リールの左手を、がしっとディゼムが握った。
「ちょっと、ディゼム! ひとの手をクマみたいに乱暴に握らないでよ!」
「クマに手を握られたことあんのかよ!?」
リールの頬はほのかに赤く染まっていた。照れ隠しであるのは一目瞭然だったが、ディゼムは気が付かないようだった。最後にディゼムとミルゼが手を握る。
ミルゼは銀の瞳を閉じた。
「では……『同調』! 我らは凛子の目を借り、見えなきものを見、隠れしものを見る!」
ミルゼの声と共に、一瞬辺りが光に包まれた。風が通り抜け、美しい鈴の音が聞こえた気がしたが、ほんのひとときの出来事で、そのあとは森の静寂に染まった。
「これで……大丈夫なの?」
おそるおそる凛子が尋ねた。
「はい。大丈夫です」
――でも、本当に、私の目で見えるんだろうか――
もしも、自分に「見る力」がなかったら、そのせいで皆を危険に晒してしまうのではないか――凛子は皆の安全が気掛かりだった。いつの間にか自分のことよりも――
「そんな心配そうな顔しないで。大丈夫よ。自分の力を、それから私たちの力を信じて」
凛子の不安を見透かすようにリールが声をかけ、凛子の頭をぽんぽんとたたく。リールの落ち着いたハスキーな声は、凛子の胸の奥底まですうっと染みわたっていくような気がした。
――そうだ。疑ってばかりいないで、信じなくちゃ。行動してみなくちゃ。
凛子は力強く一歩踏み出した。
藪の中をかき分けて進む。ミルゼの言った通り、すぐにまた開けた場所に出た。
「な……なにこれ!」
そこには、一面ぼんやりと発光するキノコが群生していた。軸の部分が細く長く、傘の部分は、雨傘が少し開いたというような感じの形をしていた。上の方が濃い紫で、下にいくほど薄い紫色をしている。そしてそれらのキノコの奥には――巨大な漆黒のドラゴンが横たわり、目を閉じていた。固い鱗に覆われ、恐竜に翼が生えたようなその姿は、凛子が本や映画やゲームなどで見たドラゴンそのものだった。
「うわ! こいつはデカいな! 色も……こいつはまさか……」
ディゼムが思わず声をあげる。
「変異……体!?」
リールが声を震わす。
「えっ!? 『へんいたい』って!?」
「脱皮の時期が通常より早く、もうすっかり完成体となっている――突然変異の個体です! これはまずい!」
ミルゼが叫ぶと同時に、ドラゴンが黄金の瞳を開け、漆黒の巨大な翼を広げた。風圧でキノコが一斉に揺れる。
「ちっ!」
ディゼムが構えると、空中から光の結晶でできたクロスボウのようなものが出現した。そのクロスボウは実在する物質ではない――ディゼムの魔力による武器だった。
ゴウウウウウウウッ!
リールが口から炎を吐いた。炎は渦を巻き柱のようになり、まっすぐドラゴンへ向かう――同時にドラゴンが氷の柱を吐く。炎と氷は猛烈な勢いでぶつかり合う。ディゼムがドラゴンめがけて光る矢を放つ。ドラゴンはかわしながら宙を飛ぶ。
「スピードが通常のドラゴンと違う! 桁違いだ!」
凜子を守るように立つミルゼの上空にドラゴンが――そして、一瞬の出来事だった。
「きゃあああああああっ!」
ドラゴンが凛子をつかみ上げ、空へと――飛び去る。
「凛子さん!」
ミルゼは疾風のごとく駆け、黒い毛並みのギルウに飛び乗りドラゴンを追いかける。ディゼムとリールも続く。
「まさか変異体だったとは……! くそう! どうして私じゃなく凛子さんを!」
ドラゴンは凛子をつかんだまま空を飛ぶ。
「離して! 離してええ!」
強い風に凛子の声はかき消される。恐怖のあまり気を失いそうになる。
――あ! あれは!
すぐ前方に青いきらめき――凛子の瞳に海が映った。
――海! ということは、このままでは……!
ミルゼたちは海を見たことがない。ということはギフトの魔力の適用外、『境界』を越えてしまうということだった。『境界』を越える――すなわち誰も助けに来ることができないことを意味していた。
「くらえーっ!」
ディゼムが矢を放つ。同時にリールが胸元からカードを取り出し、宙に投げる。カードには深紅の鳥が描かれていて、投げられるとともにカードから飛び出した。その炎のような鳥は、空中に生まれ出るとともに、みるみる大きくなっていった。そして凛子に向かってまっすぐ飛んでいく。
キエアアアアアアーッ!
ディゼムの矢がドラゴンに命中した。続けざまに五本の矢がドラゴンを貫く。
ドラゴンの手から凛子が離れ落ちる。すかさずリールの炎の鳥が凛子をキャッチした。炎の鳥はなんとかリールのいるほうへ戻ろうと必死に羽ばたくが、凛子を支えきれず斜めに下降していく。
ディゼムの強力な魔力の矢によりドラゴンは絶命し、波打ち際に落下していった。
「凛子さんーっ!!」
ミルゼがギルウに乗って岸壁を駆け降りる。
「だめだっ! ミルゼッ! それ以上は……!」
ディゼムが叫んだ。
「ミルゼーーーッ!!」
――ああ! だめだ! 岩にぶつかる!
凛子は迫りくる海辺の岩の前に目を閉じた。
ドサッ!
「よかった……なんとか間に合いました」
瞳を開けると、ミルゼの優しい笑顔――凛子は無事ミルゼの腕に抱かれていた。
「ミルゼ……!」
――よかった! 私、助かったんだ――
「凛子さん。大丈夫ですか? ケガとか痛いところは?」
「大丈夫……。痛いところも、ないよ」
「怖かったでしょう。とても危険な目にあわせてしまってすみませんでした」
――大丈夫。ミルゼが来てくれたから――
ミルゼのぬくもりに、包み込むようなほのかな甘い香りに凛子は安堵した。
ミルゼの全身が、光り輝いていた。
――あれ? どうしてミルゼ、光っているの……?
きっと海辺のまぶしい朝日のせい、凛子はそう思い込もうとした。
ミルゼは凛子を腕から降ろしてあげた。
「本当に、綺麗ですね。これが海、なんですね――」
ミルゼの瞳にも海が映っていた。潮風が銀の髪をなでる。
「ミルゼ……?」
「よかった。凛子さんと一緒に海が見られるなんて――」
――ミ……ルゼ……?
「凛子さん。早く見つかるといいですね。凛子さんだけの特別な道――いえ。凛子さんなら大丈夫です。すぐに見つけられると思いますよ」
光が増し、ミルゼの輪郭がぼやけて見える。
「ミルゼ? へ、変だよ……? なんだかミルゼ……」
ミルゼは笑っていた。
――あれ? ミルゼはなんて言ってたんだっけ。ミルゼが海を見ることができなかったのはどうしてだっけ――
その答えは凛子も知っていた。でも頭が、心が、答えを拒絶していた。
――あれ。なんでだろう。ミルゼの姿がにじんで見える。
凛子の頬を涙が伝う。
――いやだ! そんなの、私は認めない! 絶対信じないんだから!
ミルゼは優しく凛子の涙を指で拭い、頭をそっと撫でる。
「ありがとう。凛子さん。本当に」
「ミルゼ! な、なんでそんなこと言うの!?」
――どうして今ありがとうなんて言うの!? それじゃまるで……!
お別れみたい、凛子はどうしても浮かんでしまうその言葉を、必死で頭から振り払おうとした。
――そんなわけない! 絶対、ありえない! ありえないんだからっ!
「凛子さん……会えて本当によかっ……」
潮騒――よく聞こえないよ、と凛子は思った。ミルゼの声が聞きとりにくいのは、きっと潮騒のせいだ、と凛子は信じたかった。
――ミルゼ……? どうして……? 空の青が透けて――
空は、澄み渡っていた。
「ありが…と…う……」
「ミルゼ! だめだよ! ミルゼ! だめえっ!」
凛子は激しく否定するように首を振り、ミルゼに抱きついた――はずだった。
カシャーン。
銀のバングルと、衣服、そして一対の巻き角が落ちた――
――え。嘘……ミルゼ……?
凛子の腕にミルゼの感触は、もうなかった。
「ミルゼ……」
ひときわ強い潮風が吹いた。実際はずっと波の音がしていたが、そのとき凛子の耳には届いていなかった。静寂に包まれていたような気がした。
岩の上に落ちた銀のバングルにそっと触れてみる。その冷たさに、凛子の指が震える。そして角――頭にあるはずの角が、どうして岩の上にあるのだろう――
「ミルゼーーーーッ!!」
ミルゼが、消えていた――優しい香りを残して。
「嘘! こんなの嘘よ! ミルゼ!」
――嘘よ! こんな、嘘よ……!
「いやあああああーっ!」
凛子は、泣いた。まだぬくもりの残る衣服とバングル、そして巻き角を強く胸に抱きしめた――そうすることで、またミルゼが戻る、そう考えようとした。
――そんな……! さっきまで笑っていたじゃない! 私を助けてくれたじゃない……! どうしていないの!? どこに行ってしまったの!? ミルゼ……!
凛子はミルゼの面影を抱きしめていた――いくら強く抱きしめても、いくら涙を流しても、ミルゼは戻らなかった――
どのくらいそうしていただろう。長い時間だったのかもしれないし、まだ短い時間だったのかもしれない。繰り返す波の音。凛子には永遠のように感じられた。
黒いギルウが優しい瞳で凛子を見つめ、頬の涙をぺろぺろと舐めた。リールの放った炎の鳥も、凛子のすぐ傍で心配そうに見つめている。
――ギルウ……私を助けてくれた鳥さん――
凛子はゆっくりと顔を上げた。海はどこまでも青く、穏やかだった。
――そうだ……早く戻らなくちゃ。リールとディゼムが待っている――
いつまでもミルゼを独り占めしてはいけない、そんなことを凛子は思った。リールもディゼムも知りたくないだろうけれど、伝えなければならない――
言葉は必要なかった。凛子の姿――泣きはらした顔、腕にはミルゼの衣服、バングル、そして両角を抱えていた――を見て、二人はすべてを理解した。
「凛子……!」
リールが凛子を抱きしめた。
「辛かったね……! ごめんね、一人にしてしまって……!」
「凛子……本当にすまない。一撃で仕留めていればこんなことには――」
凛子は激しく首を振った。
「ごめんなさい! リール、ディゼム! 私のせいで、ミルゼが……!」
「凛子! 違うわ! ミルゼには責任があった。異界から呼び寄せたあなたを、安全に帰す義務があったの」
「義務……」
「それに」
「それに……?」
「ミルゼは、凛子、あなたを助けたかったの。どうしても、あなたを助けたかったの。そうしたいからそうしたの。だから、凛子、あなたは絶対に自分を責めたりしちゃだめよ。そんなことを考えていたら、ミルゼが悲しむわ」
リールもディゼムも涙をこらえきれなかった。ディゼムは後ろを向いて、きつく拳を握りしめていた――血が出るのではないかと思うほどに――
光る小さな人影が見えた。
「あっ……! あれは……?」
「妖精だよ。皆で大量に魔力を使ったから、さっきまでわんさか集まっていたよ。もうほとんどどっかに行っちまったけどね」
吐き捨てるようにディゼムが答えた。
「妖精さん……! お願い! ミルゼを返して! ミルゼを連れて行かないで!」
凛子の悲痛な叫び声。森の静寂を切り裂くような魂からの叫び。
「無駄だよ、凛子! 妖精がミルゼを連れて行ったわけじゃない。それに、やつらとは意思の疎通はできないんだ」
それは、トンボのような羽根の生えた、光る小さな妖精だった。凛子をじっと見つめていたが、そのうち空高く飛んで行った。
「ミルゼ……」
その後のことは、断片的にしか凛子は覚えていない。
「ミルゼも話したと思うけど、このキノコはね、大変貴重な薬になるのよ。これで大勢の人が助かるの。それに――」
「もしかしたら、なんだけど、俺たちギフトを貰った人間にも、なにか特別で有効な成分があるかもしれないって話なんだ」
三人でキノコを採集した。ミルゼがいなくなってしまったから、とてもそんな気分になれなかったけれど、黙々とキノコを集めた。採り始めてみると、少しだけ気が紛れた。単純作業に救われた気がした。
街に戻り、キノコを取引している場所に行った。キノコは宝石に換算されるという。やはり、かなりの価値があるようだった。
「これが、凛子の取り分よ」
宝石は、均等に四等分された。ミルゼが受け取るはずだった報酬分は、薬の研究開発をしている機関に寄付しようということになった。
「私の分は、いりません」
凛子は宝石を受け取ることを辞退した。
「凛子の世界でもちゃんと通用する宝石よ」
「いえ……私はいいです。私の分も、寄付してください。そちらの世界の人々のために、どうかお役立てください」
でも、とリールが凛子にちゃんと自分の分の報酬を取るように勧めたが、凛子の考えは変わらなかった。
――きっと、そのほうがミルゼも喜んでくれるはず――
「ありがとう。凛子。本当にいいの?」
「はい」
――少しでも、誰かが助かるならそのほうがいい――
「それから凛子……実は、ミルゼには家族がいないの。だから、これは凛子が持っていて」
リールは、凛子にミルゼの銀のバングルを手渡した。
「そうだな。凛子が持ってたほうがミルゼも喜ぶな」
ディゼムが寂しそうに笑った。
「ありがとうございます――」
凛子は銀のバングルをしっかりと胸に抱いた。そして、リールとディゼムに深々と頭を下げた。
「それから、凛子――契約書、いる?」
ミルゼと交わした羊皮紙の契約書。
「あ……! 欲しいです!」
「そう言うと思った。ミルゼの手書きだからね。凛子から見たらわかんないだろうけど、ミルゼは字が上手いのよ」
――ミルゼの、文字――
そっと指でなぞってみる。丁寧にしたためられたミルゼの、痕跡――
また涙が溢れてきた。リールも目を潤ませていた。ディゼムは黙ってそっぽを向いていたけど、泣いているのはすぐに分かった。
「さようなら。凛子」
「え……」
「もうそろそろ、戻ったほうがいいわよね。凛子の大切な人たちも、だんだん心配し始める頃だろうし」
「ありがとな。凛子。またいつか、会えるといいな」
ディゼムが凛子の頭をわしわしと撫でた。大きな、あったかい手。
「リール、ディゼム……」
「凛子。ありがとう。元気でね。あまり引き止めるとますます別れが辛くなっちゃう」
「ふふふ。実は俺もリールも寂しがり屋なんだよ」
「別れは、笑顔がいいわよね?」
そう言って、リールが凛子をぎゅうっと抱きしめた。薔薇の花のような、よい香りに包まれる。
もう少しだけ、ここにいたい、みんなと一緒にいたい、凛子はそう言おうとした。
「あ……」
気が付けば、毎朝通る通学路。四季の花咲く家の角を曲がったところ。
「ここは……」
呆然と立ち尽くす。時計を見ると、完全なる遅刻であったが、凛子が学校に来ていないことを騒ぐほどの時間はまだ経っていなかった。
立ち尽くしたまま、涙が溢れてきた。
――ミルゼ……リール……ディゼム……!
学校には登校途中で気分が悪くなったということを電話し、家に帰った。両親ともすでに仕事に出ていて家には誰もいなかった。凛子は部屋に閉じこもり、声をあげて泣いた。
『泣かないでください』
ミルゼの優しい声が頭に浮かんだ。涙をそっと拭ってくれた細く美しい指を思い出した。
――でも、もうミルゼはどこにもいないんだ――
ただ名前を呼んだだけで、とても嬉しそうな笑顔を浮かべていたミルゼ。凛子は何度もミルゼの名を呼んだ。あのまるで子供のような無邪気な笑顔も、穏やかな声も、もう返ってこない。
『泣かないでください』
記憶の中のミルゼは、優しく微笑んでいた――
「凛子。ずっとそのリボンばかりつけてるね」
休み時間、美術部の咲良が声をかけた。凛子の髪は、ゆるく二つに分け銀のリボンで結わえられていた。
「うん。似合わないかな?」
「なに言ってんのよ! 似合ってるに決まってんじゃん! すごく綺麗でかわいいね! どこで買ったの?」
「貰ったんだ」
――とても大切な、私の宝物なんだ――
リールに貰った銀のネックレスは、凛子の部屋の机の引き出しに大切にしまってある。銀のバングルと契約書の羊皮紙は、密かにカバンに入れ持ち歩いていた。いつも、いつだって肌身離さず持っている。
「ふうん、いいねえ! あ! 凛子ったらまたノートにデッサン描いてる!」
「あ……!」
恥ずかしくて急いで手で隠す。
「凛子はいつもその人、描いてるね。羊みたいな角の人――凛子が考えたの? それともゲームかアニメのキャラクター?」
「まあ、そんなとこ……」
「それにしても、まさか凛子が美術部に入部してくれるとは思わなかったなあ。今までの部活とかけもちしてるんだって?」
「絵の勉強、してみたくなって」
凛子はミルゼの面影を追い求めていた。記憶が鮮明なうちに描きたい、消えてしまったミルゼを、もう世界のどこにもいなくなってしまったミルゼを、せめて描き残しておいてあげたい――突き動かされるようにただミルゼの姿を描き続けていた。
「凛子、どんどん絵が上達してくるんだもん、びっくりしちゃったよ。絵の才能があったのに、今まで気付かなかったのが不思議だね」
「才能……なんてないと思うけど――描きたいんだ。どうしても」
「将来は、なにか絵の方面の進路を考えているの?」
「ううん。まさか。将来は、難しいだろうけど製薬会社とか薬剤師とか、そういった方面の仕事に就きたいと思ってるんだ」
「ふうん。そうだったんだ。偉いね!」
「いっぱい勉強しないとね。と思いながらついノートに落書きしちゃうんだけど」
「あはは。実は私も人のことあんまり言えないんだあ」
凛子は、ミルゼやリールやディゼムのように人を助けるような仕事をしたい、そう考えるようになっていた。しかし、もっともっと絵が上手くなりたい、今はそちらのほうに意識が向かっていた。
その晩、夢を見た。
月明かりの草原の中、長い髪の人物――
「ミルゼ!?」
違っていた。よく見れば真っ白い髪をした、眉目秀麗な青年――頭には、蛾の触覚のようなものが付いていた。そして、背中には大きな白い蛾のような羽――
美しい青年が、口を開いた。
「私は、妖精の王」
「よ、妖精の……王様……?」
「異界の子よ。人間の消滅は、我らにとっても望むところではない。それは非常に悲しむべき出来事だと長い年月ずっと憂い続けてきた」
――どうして、私にそんなことを言うのだろう――
「あと少し、あと少しなのだ」
「え……?」
――なにが、あと少し、なの?
「我らの影なる導きと、彼らの尽力のかいあって、あと少しで神秘のときが訪れる――」
「彼らって……?」
――神秘のときって……?
「あと少し、あとほんの少しなのだ――」
ザザザザザ。
風に揺れる草原の海。美しい、満月。
そこで、凛子は目が覚めた。いつの間にか、涙で頬が濡れていた。
――不思議な夢。どうしてかな……私、泣いてたんだ――
いつも通りの朝。いつも通り朝食を済ませ、早めに登校する支度をする。髪には銀のリボン、カバンの中には――まるでお守りのように――銀のバングルと羊皮紙。
「行ってきます」
十一月の澄んだ風が凛子の前髪をふわりと巻き上げた。いつも通りの通学路。凛子はいつも通り美しい花木に彩られた庭――今は南天の実が赤く色づき始めていた――の角を曲がる。
「あ……!」
いつもと違っていた。突然目に飛び込んできた、懐かしい風景。
――ここは……!
古い石畳、明るい日差し、辺りに漂うパンのよい香り――凛子は思い焦がれた場所に立っていた。
目の前には、年老いた男女がいた。二人とも、満面の笑顔だった。男性は、頭に獣の耳を持ち、女性は、爬虫類のような大きな尻尾――この笑顔を、私は知っている……!
「リール!? ディゼム!?」
「凛子! 久しぶり!」
――まさか……まさか……! でも、でも確かにリールの声……!
リールは、ぎゅっと凛子を抱きしめた。懐かしい薔薇の香りで胸がいっぱいになる。
「ふふ。驚いただろ? 俺もリールもすっかり『じいさんばあさん』さ。凛子は変わらないな。こっちはあれから五十年ほど経ってるんだ」
わしわしと凛子の頭を撫で、ディゼムが笑う。年をとっても、人懐っこい笑顔は変わらない。
「えっ……! 五十年も!?」
半年くらいしか経っていないのに、こちらでは五十年も経っているという。ただただ凛子は驚く。
凛子の瞳をまっすぐ見つめ、リールがゆっくりと口を開いた。大切な魔法の言葉を伝えようとするかのように。
「会わせたい人が、いるの」
「え……?」
「凛子に」
どきん。リールの言葉に凛子は胸が高鳴るのを感じた。
――まさか……! まさか……!
リールもディゼムも黙って微笑んだ。
木の陰から、すらりとした男性が現れた。
陽光に輝く、銀の髪。
「お久しぶりです。凛子さん」
変わらぬ美しい、銀色の眼差し。穏やかな、深く心に染みこんでいくような声。
「ミルゼ……!」
凛子は駆けだした。懐かしい笑顔に、焦がれ続けたその胸の中を目指し――そして、今度こそしっかりとミルゼに抱きついた。
「ミルゼ!!」
――この優しい甘い香り……! ミルゼ! ほんとに、ほんとに、ミルゼなんだ……! 夢じゃ、ないんだ……!
「ミルゼ! ごめんなさい! 本当にごめんなさい、私のせいで……」
「凛子さん! 凛子さんのせいなんかじゃありません! 謝るべきは私のほうです。凛子さんを恐ろしい目にあわせてしまって本当にすみませんでした」
凛子の頬に涙がとめどなく流れ落ちる。ずっと堪えてきた気持ちが涙となって溢れてくる。ぎゅうっとミルゼを抱きしめ続けた。
「泣かないでください。凛子さん。私はちゃんとここにいますよ」
笑顔で凛子の涙をそっと指で拭う。美しい、細い指。
ふっ、とディゼムが笑う。
「ずるいよなあ。俺はこんなじいさんなのに、ミルゼは若いまんまだもんなあ。圧倒的に俺が不利じゃん。これじゃあ凛子を取り合えないじゃないか」
どすっ。
ディゼムの腹にリールの肘鉄が入った。
「妻の前でなにふざけたこと言ってんの」
「えっ!? つ、妻!?」
凛子は驚き、思わず振り返った。
「そうなの。なんか知らないけど、結婚しちゃってたのよね。私たち」
「なんか知らないけどってなんだよ!?」
「五十年って、恐るべしよねえ」
「なに言ってんだ、あの後すぐ付き合いだしたじゃないか。それもリールから……」
どすっ。
またリールの肘鉄。
「男は余計な事言わない!」
なんだか似合いの夫婦だなあと、凛子はくすくす笑う。明るく賑やかな家庭なんだろうなあと想像し、凛子はあたたかい気持ちになった――本当に、よかった――そして、ミルゼの顔を改めて見ると――
「あれっ!?」
「気がつきました?」
「ミルゼ、つ、角……!」
ミルゼの頭に角はなかった。
「今まであったものがないって、なんか変な感じですね」
ミルゼはそう言いながら清々しい笑顔だった。まるで長い呪縛から解放されたような――
「あのキノコから開発された薬を使って、角からミルゼが復活したの。ミルゼの体が戻ったら、今まで妖精にかけられた魔法がほどけたみたいに、角は消えてしまったわ」
「薬の開発に五十年もかかってしまったんだ。学者が言うには、あと少しで薬が完成するかもしれないってのに、なかなか最後の決め手がわからなかったらしいんだ。でも、ある晩奇妙な夢を見て――その夢がヒントになって、見事薬が完成したらしい。夢のおかげで薬が完成できたなんて、なんだか不思議な話だよな」
妖精王だ! と凛子は思った。妖精王や妖精さんの働きかけでミルゼが助かったんだ、そう凛子は確信した。
「私はもう魔力が使えなくなりましたが、なんでも食べられるようになりました。そして、海にも行けるようになったんですよ!」
「ミルゼ……! よかったね……! ほんとに、よかった!」
「どんな姿になろうと、どう変わろうとミルゼはミルゼなんだけど、あの巻き角がないと、少し寂しい気もするなあ」
ディゼムがしみじみと呟く。
「そうですね。複雑な思いはありますが、自分と共に歩んできた角ですからね。そのおかげで皆とつながることもできたわけですし――今思うと、大切な自分の一部だったんだなあと――」
「ミルゼ、ちょっとかがんで」
「なんですか?」
凛子はするりと銀のリボンをほどいた。それから、ミルゼの髪の両脇を少々すくい上げ、それぞれくるりとねじり、髪で小さなおだんごを二つ作って仕上げに銀のリボンで結んだ。
「おっ! 巻き角っぽい! ミルゼらしくなった!」
「なんですかもうー。これじゃ女の子みたいじゃないですかー!」
ミルゼは頬を赤くし、ちょっと口をとがらせた。
「思った通り、似合うね」
「ええ。とてもよく似合ってるわよ」
「ミルゼ、綺麗な顔してるからなあ。男にしとくのもったいないぞ」
皆、勝手なことを言う。
「さて、後は若い人たちに任せて、老兵どもはこの場を去るといたしますか」
ディゼムが笑う。
「えっ?」
リールが胸元からカードを取り出す。あの、炎の鳥が現れた。
「この子を預けておくわ。帰りたくなったら、この子に話しかけて。すぐに帰れるようにするから」
「凛子。俺らがいつ、くたばってしまっても大丈夫だぞ。俺らの孫の中の一人がギフトを受けた者なんだ。こっちとあっちの行き来は、孫ちゃんがやってくれるから」
「そんな、縁起でもない!」
「じゃあ凛子。また後でね」
「リール、ディゼム……! 本当にありがとうございました!」
リールとディゼムは笑いながら大きく手を振って、さっさとどこかに行ってしまった。お孫さんまでいるんだ――凛子は改めて五十年の歳月に驚く。
――リールとディゼムったら……。二人っきりにしなくても――
そう思いつつ、凛子は緊張と嬉しさで頬を染めた。
「五十年……」
ミルゼが呟いた。その歳月の重みをかみしめるように――
「え……?」
「リールもディゼムも私にはなにも言いませんが――大変な五十年だったと周りから聞いています。私を助けるために、薬の研究開発の資金集めや、優秀な学者を探し、呼び寄せるためにずいぶん無茶をしたらしいです。今では立派なお子さんも、かわいいお孫さんもいますが、私のためにかなりの苦労を――」
「ミルゼ!」
凛子はミルゼを力いっぱい抱きしめてあげた。
「リールもディゼムも、そうしたいからそうしたの! どうしても、そうしたかったの! だから、ミルゼは自分を責めちゃだめ! 自分のせいで、なんて思わないで! ミルゼが明るく元気でいることが、なにより二人への恩返しになるんだから!」
これは、リールが私にプレゼントしてくれた言葉だ、と凛子は思った。リールからプレゼントされた銀のリボンをミルゼに結んであげたように、長いときを越えてリールの言葉をミルゼに贈った――凛子の真心を添えて――
「凛子さん……ありがとう」
「ミルゼ……帰ってきてくれて本当にありがとう」
――妖精王さん、本当にありがとうございます――
天を仰ぎ、凛子は感謝の祈りを捧げた。
「あ! そうだ! ミルゼ! 私、やりたいことと将来の進路、見つけたの!」
「凛子さん、よかったですね! やりたいことってなんですか?」
「えーと……」
――ミルゼの肖像画を描きたいんだ――
「今は、秘密」
「なんですか、それ! 教えてくれないんですか?」
「それは完成したら――教えるね。進路のほうはね、私、お薬に関する仕事に就きたいと思ってるんだ」
「それは素晴らしいですね!」
「ミルゼは今、なにかやりたいこととかあるの?」
「たった今やりたいこと、というのはあります」
「たった今? それはなに?」
「海を見に行きたいです」
「海……」
「もう消えたりなんかしないから大丈夫ですよ」
「海を見たいの?」
「はい。凛子さんと一緒に」
波打ち際を二頭のギルウが走る。銀の髪の青年と、黒髪の少女をそれぞれ乗せて。
「やっぱり気持ちいいですね!」
「うん!」
凛子は、すぐにでも海を描いてみたくなった――リールやディゼムにも海を見せてあげたい、私の絵で上手く伝えられるかわからないけど――
それと、ミルゼの絵も描き上げようと思った。絵が出来上がったらミルゼにプレゼントしよう――銀のリボンを結んで――
――一生懸命描いても、いい絵が描けないかもしれない……ミルゼは喜んでくれるかな――
空も海もどこまでも青く輝く。
潮騒が、大丈夫だよ、そう答えてくれた気がした。