ゴトンゴトンという音が、遠くから聞こえる。幕一枚仕切った向こうから、疲労に包まれた私の体を押しつぶす様に、その音は激しくなっていく。何かが体をはい回る様な感じがして……
目が覚めた。
電車の中でいささか居眠りしていたようだ。
前日に仕事を張り切ってやりすぎたのがいけないのかも知れない。それほどに久しぶりの、深い睡眠だった。重いまぶたを開き、強張った体を緩やかに動かすと、車内放送で「次は新大阪」と言うのが聞こえる。無機質な機械音声を聞き流し、まだ先は長いのだから、と私は目を閉じ
…れなかった。
「あ、あれ?」
私は驚いて声を出した。まぶたを閉じようとしても閉じることができないのだ。まばたき出来ず乾燥した目に、涙がじわっと溜まり出す。
焦って肥った体を揺らすと、古い座席がぎしぎしと揺れる。どうやら動かないのはまぶただけらしい。他の部分は正常なのに、まぶただけが石の様に動かない。
あんまり動揺していたものだから、乗客がこちらを見てくる。だがその視線は焦点を合わせてはいない。
そうこうしている内に、目は次第に痛むようになってきた。まばたき出来ないのだから当然である。
おまけに恐怖の念も涌き上がって来た。当然だ。視覚情報を遮断できない……この些細に思える自由の剥奪は、やってみれば分かるが、実に恐ろしいものなのだ。拷問にも使われる位である。
私は絶望のうちに身を浸しきっていた。ただ早くまぶたが動く様にとしきりに願いながら、白中夢のごとき幻覚に悩まされる。
ようやく家に辿り着いて、私はひと安堵した。とにかく目が動かなくなった原因について調べなければいけない。先ほどから、開きっぱなしの目は激痛を伴って涙を吹きだしている。
ところが玄関に着いた途端、出迎えた妻は私の顔を指差してげらげら笑い出したのである。
私は憤然として叫んだ。
「目が閉じないんだ。ひどい病気かも知れない。それなのになぜ笑う?」
それを聞くと、妻は一瞬ぎょろりとした目を見開いて止まったが、しかし堪えきれないというようにまた笑い出した。相変わらず私の顔を指差しながら。
「ごめんなさい、だって冗談だとばかり…」
そう言うと、笑いすぎた妻の体はひくひく痙攣する。……結婚以来、最大の屈辱だ。
「何がおかしいと聞いている。私の顔に何か付いているのか?」
そう言うと妻はまだにやにやしたまま、うなづいた。
「ええ、付いているわよ。
……目が」
「何だと!?」
私は仰天した。
「か、顔に目が?何でそんな所に…」
「本当に気付かなかったの?」
妻はなお、おかしそうに笑う。
「そんな、まぶたの腐り落ちた目がちゃんと機能するわけないじゃない」
……そうだ。私はようやく理解した。
つい深寝入りしすぎてしまった私は、恐らく普段と別の目を開いてしまったのだろう。いつもより高い目線でいるのにも気付かず、私は顔にある両の目を開いてしまっていたのだ。この体の元の持ち主の。とうに腐ったニンゲンの目を。
私は恥ずかしさを堪えながら、本当の自分の目を開いた。胸元にぽっかり開く一つ目。
「そうそう、その可愛らしい目ね。貴方のその目に私は惚れたんだから」
夕飯にしましょう、と立ち去ろうとする妻を私は呼び止めた。こんな、子供のやる様なミスを犯していささか恥ずかしかったから。それに、このようなことを、妻は近所の住人にすぐ触れ回るのだ。
「……なあ、このことは忘れてくれよ、な」
「分かっているわよ」
妻はくすりと笑って背を向けたが、私はそれをまるで信じていなかった。
妻の背中にあるぎょろりとした目…百ある内の一つの目が、明らかに愉快そうに嗤っていたのである。 |