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第18話
「後生です、歌子様!」

自分の後ろを先ほどから付いて回るチットに、歌子は厭きれていた。
そして厭きれを通り越し、段々と腹が立ってくる。
って言うか、誰が名前で呼んで良いと言った!
『様』をつけるなら、せめて『さん』にしてくれよ!
歌子はいつまでも一般人意識から離れられなかった。

「しつこいな、嫌って言ってるでしょ!」

自分よりも頭二つ分は背の高い男に対し、歌子は睨み付けた。
片手に先ほどチットが持ってきた、まだ温かいパンを握り締めながら。
今日はレーズンパンだ。
現代に居たときは、進んで食べなかったが今はどうだろう。
レーズンの微かな酸味の香りと、パンの香ばしい匂いに涎が垂れそうになる。
一口、かじる。

「おいひい…」

果物時折キノコ生活、早一ヶ月と三週間…。
味を噛み締めるって、こんなに素晴らしいことだったんだ…!
歌子はパンも幸せも噛み締めた。

「国に来ていただければ、もっと美味しい料理…、それこそ焼きたてホカホカのパンも、ジューシーなお肉だって食べれます!」

「あう」

ですから!とチットは両手を合わせ、歌子に頼み込む。
どうやら一足先に帰ったチットの主、オリエントが仕事をしないらしい。
チットはこの森の最短距離にある町に泊まりこみ、二日に一回、歌子にパンを運んでいる。
オリエントは帰ることを渋ったが、仕事が溜まるとチットに泣きつかれ、しぶしぶ帰国した。
そして数日前に連絡が入ったのだ。

どうにかしてくれ――――、と。

美味しいものは食べたい。
でも。

「無理なんだ、行けないよ」

行きたくないんじゃなくて、行けないんだ。

「主さんが自国から離れられないように、私も離れられないんだよ。この森から」

皆が泣くのだ。
一歩森から出ただけで、魔が泣き、木々が揺れ、大地が震える。
親から離れたくないとすがり付く子供のような、悲痛な感情が歌子に流れ込む。
離れられないし、離れたくないんだ―-―。

『歌子』

ふわりと風が起き、歌子は温かい体毛に包まれる。
ふにゃっと笑い、その陽だまりの香りがする体を抱きしめた。

「こっ、黒狼様」

チットが姿勢を正す。
ネロはチットに見向きもせず、頭を歌子に擦り付けた。

『早く帰ろう。皆が待っている』

帰ろう。そう、私の家に。私の居るべき場所に。

「うん、帰ろうネロ」

ネロに跨ると、歌子は振り返る。

「パンご馳走様でした。もう、大丈夫」

もう大丈夫、持ってこないで良い。
それは遠まわしな拒絶だった。

「あ、ああ…」

青ざめるチットを見て、歌子は胸が苦しくなった。
でも仕方ないじゃないか、そう、仕方が無い。

「…さようなら」

黒い瞳と髪を持つ少女は風に消える。
チットは呆然とその場に立ち尽くした。

そう、それが二時間ほど前のこと…。

「美味しいか?」

なぜ自分はこんな場所に居るのだろうか…。
歌子は先ほどパンを握っていた手に、今度は純銀製のフォークを握り締めながら唸った。
ふかふかのソファー、歩きなれた芝生とは違う、もこもこの絨毯。
様々なお菓子が乗った、こりゃまた高そうなロココ調の低いテーブル。
そしてそれらを霞ませる勢いの、隣りに座るイケメンの笑顔…。

美味しくない。何この生クリーム、甘すぎじゃない!
紅茶だって渋みが出てるし…、と言うか私は和菓子が好きなの!
…なんて悪口は一切言えない。
こんな美味しいお菓子、今までに食べたこと無い!
あう、手が止まらん!!

パクパクとケーキやらクッキーやらを口に運ぶ歌子を見て、オリエントは幸せそうに、目じりに笑い皺が寄りそうなほど微笑んだ。

早く帰らなきゃ皆が心配する。
っていうか世界が崩壊するんじゃなかろうか?
帰らなきゃ、帰らなきゃ…。
しかし手が止まらない。
美味い美味い。
もし何かあったら、あの不思議歪み、ぶっ潰す。

小一時間ほど前に自分をこの部屋に、ヴォールクの城の最上階にある、執務室の片隅に飛ばした不思議歪みを思いながら、歌子は口をもごもごした。


【恋愛遊牧民】


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