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底辺 作者:富士江 三蔵
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第7話

改札口を抜けるとなみはな駅の構内は別世界のように賑わっていた。普段、この時間にこんな場所にいるはずのないことと、雨雲が重い雰囲気を醸した夕方の田舎の風景を見てきたせいか今ひとつ現実味がない。とりあえず一息つこうと周囲に目をらすと外への出口に向かう左手に噴水が見えた。吸い寄せられるようにそこへ行くと中心にトロフィーのようなオブジェが据え付けられた噴水の周りは広場になっていて、五人がけの薄緑の座席があちこちに設置されていた。この場所は個人の待ち合わせや、ツアーの集合場所にもなっていて目に入る円形の噴水の近辺では多くの人々が行き来している。待ち合わせ時間を過ぎたのか、若い女性が不機嫌そうな表情を浮かべていたり、これから飲みに行くのであろう仲間内で早めに来た面子が楽しそうに談笑していたりと人々がそれぞれの一場面を刻んでいた。 広場は他路線の連絡通路が交差した場所にあり、外に近い場所の一角には灰皿も設置されていて、待ち合わせの時間が近いのか、腕時計を気にしながらせわしなく喫煙していく人が多い。私はそこの人だかりから距離をとってジーンズのポケットを探った。出てきた煙草の箱は、すっかり痩せて外側のフィルムとの隙間は大きく開き、心細い残りを示していた。そこから取り出した煙草はいびつな形で、それを親指と人差し指で軽くしごき、形を直して火を着ける。
以前に雑踏にいる自分が世の中から取り残されているような不安を感じたことがあったが今はそれに紛れ、道行く誰もが私などには目もくれず、路傍ろぼうの石のようであることがかえって私の気持ちを落ち着かせた。そしてその安堵感は猛烈な空腹を生んだ。
駅構内で見つけた店でカレーライスをがっつきながら、今後を考える。急ぐ訳ではないが何のあてもなく、日頃の疲れと睡眠不足から今日は移動せず、ゆっくり体を休めたい。限られた軍資金から安く泊まれる場所として真っ先に頭に浮かんだのはサウナだった。雨のそぼ降る外に出てそれを探すのは億劫だったが、もう少しで休めるのだと奮起して私は繁華街に向かってまた歩き出した。
街灯やネオンの滲む水たまりを避けながら繁華街に近づくと“サウナ24hカプセルホテル”の文字のネオンが目に飛び込む。思いのほか簡単に目的地は見つかった。
ほっとしながら入り口の自動ドアを抜けると視界が大きく広がり、正面はホテルを思わすような受付になっていて左手にはロッカーが幾重にも奥へと続いている。サウナに来たのは今回でまだ二度目であり、前に行ったのも一年以上前だ。

受付に行くと年配の女性が待ち受け、靴のロッカーキーの提出を促し、マッサージを受けるか、カプセルホテルを使用するかを慣れた調子で質問しながら帳面に記入している。それに呑まれないよう私もつまらない見栄を張り、慣れた客を装いカプセルホテルの利用だけを申し込んだ。一通りのやりとりが終わると大袈裟な腕時計のようなロッカーキーが渡されてやっと全てが終わったような気がした。

浴場は思ったより広く、ロッカールームのさまざまなものが混じったむさ苦しい臭いとは打って変わって石鹸やシャンプーの香りが人々の湯を浴びる音や体を洗うシャワーの音と共に湯気に包まれ室内に漂う。客は十人ほどで、洗い場にはせわしなく清掃にいそしむ二人の職員が見える。場所の大きさから見ればかなり空いている状態だ。風呂をゆっくり楽しむのは久し振りだった私はかけ湯を浴び、サウナ室へ入った。三段の雛壇状になった最上段には先客がいて、うなだれたように(こうべ)を垂れた状態で座っていて、その頭をタオルで覆い、じっとして汗をしたたらせている。私は下段の奥へ進み、腰を落とした。

奥の中央にはガラス越しにテレビが据え付けられていて、バラエティー番組が流れている。蒸し暑い静寂の中、別世界の笑い声が響き、やがてそれが終わると先客はそれを待っていたかのように立ち上がり、我慢の限界とばかり小声で唸りながら部屋を出て行った。
テレビ画面は番組間の短いニュースに変わり、どこかの知事選挙の結果を伝えた後、傷害致死事件が現場の風景を映しながら報じられた。犯人の年齢や身長などの特徴を告げた後、女性キャスターは声をとがらせ「警察は現場から逃げた男の行方を追っています。」と締めくくった。私はもちろん犯人ではないが、《逃げた男》の部分に反応し、急に落ち着きを失った。

『ひょっとしたらもうばれているかもしれない‥』

また心の中にいる“日和った私”が囁いてきそうな気配を感じた私は首をぶんぶん横に振り、そそくさとサウナ室を出た。


入浴すれば相当な眠気がくるだろうと思っていたが、予想に反して目は冴えてくる。

『ビールでも飲むか‥』

喉の渇きと雑念を同時に払拭しようと食堂へ赴く。腕時計のようなロッカーキーは便利なもので現金を持たずとも提示すれば館内のあらゆるサービスにも使用できた。打ち出の小槌を持ったような錯覚に気分を浮わつかせながら生ビールと少量の肴がセットになっているものを注文し、適した座席を遠目に探す。食堂は旅館の宴会場を思わすような造りで、畳張りで四人ずつが向かい合わせになって飲食ができるテーブル十卓ほどが三卓ずつ列をなし、その下には水気に強そうな茶色の座布団が備えられていた。目立つのは真ん中付近に陣取り、大声で談笑する初老の四人だけで、他は寂しげに晩酌をする一人客がちらほらとあって、中には飲んだままその場で転がりいびきをかいている客もいた。私は最前列にあるテレビに近い五列目の端へ座を占め、早くも程良く細かい水滴をつけたビアジョッキを控えめに鼻の高さまで持ち上げた。

『今日からの自由に乾杯!!』

誰にも聞こえないようにそう呟くと、もう待ちきれない喉にぐびぐびとビールを流し込む。渇ききった喉をとりあえず落ち着かせるには粗方(あらかた)八分目を飲み込むまでジョッキは口から離れなかった。すぐに残りもなくなり、また買い求める。二杯目を飲み終える頃にはほろ酔いになり、気分も随分とやわらいだ。


気がつけばもう昼を過ぎている。

『しまった!寝過ごした!!早く阿藤を迎えに行かなければ!』

そう思いながらもおろおろするばかりで何もできずに慌てふためく。

そんな悪夢で目が覚めた。心臓の鼓動がこめかみに感じ取れるほど脈動は大きく、早い。ねっとりとした汗が顔から首筋にかけて伝い、一瞬今いる場所の判別がつかず記憶を辿たどる。

「今日から自由だ!俺の独立記念日に乾杯!‥よし、景気よくいこう!!」

酔いが回ると調子づいて、結局生ビール二杯のあとに日本酒二合を二回追加したのを思い出す。

『そうだった‥寮を出てサウナに来たんだった。それにしても嫌な夢だった‥今何時だろう?』

枕元に置いた記憶のあるタオルを探り当て、もぞもぞと顔から首筋、そして脇をぬぐ)う。カプセル室内の枕元にある小さなテレビの下に)め込まれたセルフタイマー付きの時計は冷ややかな青白いデジタル数字を灯し、音もなくちょうど五時を示していた。阿藤を迎えに行く時に起き出す時間よりかなり早い時間だ。
『‥もう気にしなくてもいいのにこんな時間に目が覚めるとはな‥。後悔はしていないが戻るにしてももう遅い。阿藤は確実に遅刻するだろうな‥』

悪夢から落ち着きつつあった動悸どうき)は失踪の発覚を思うと再び激しくなっていく。

『それにしても少し飲み過ぎたか‥。かまうもんか。今日は仕事もないんだし別にいいさ‥。』

ごまかすように思考を変えて仰向あおむけになってぼんやりしていると、狭いカプセル室の天井が右へ右へと流れて行くように見える。しばらくすると室内の圧迫感が吐き気をもよお)しそうで不安を覚えた私はおもむろに起き出しふらふらと便所へ向かった。鼻で大きく呼吸をしながら小用を足していると、軽くみていた吐き気はしょっぱいつば)ともなって猛烈にこみあげてくる。

『やばい!』

迫りくる吐き気は容赦なく逆流を始める。小便を終えたばかりで、満足に残滓ざんしも振り落としていないがなりふり構わず大便器に走り便座に手をつくと、それを上げることも出来ず噴き出すように嘔吐おうとした。未消化の吐瀉としゃ物は黒や茶色の混じったひどく汚い色合いで口中が酸っぱく、苦い。それを見ると更に吐き気は増幅し、二度三度と繰り返し吐いた。もう出るものも無く、粘っこい唾液だけが便器まで垂れ、幾度吐き捨ててもその糸は切れず、汚物まみれの便器と自分が繋がっているようで、えづきがまたぶり返し、やむなくそれを指で引きちぎる。せり上がる胃が他の臓器を引っ張っているようなったような痛みに呼吸もしづらく、吐き気の元凶である溜まった汚物を視界から消そうとレバーを大のほうへひねった。両手を便座に預けたままの姿勢で涙ににじ)む天井の薄明るい照明を見ていると瞳孔どうこうの加減なのだろうか、辺りが少し暗くなったり元に戻ったりを繰り返す。

『俺は本当にこの世界に実在してるんだろうか?今までの全ての記憶は本当は夢じゃないのだろうか‥。』

空調の快適さと酔いの残りはまだ夢の中を彷徨(さまよ)っているような錯覚を生み、じっとしているとこの場に溶けて消えてしまいそうな気がした。

『馬鹿な妄想か‥』

背中をドアに預け、へたりこんで天井を仰ぎ、そのまま頭を打ちつけてみる。

『・・痛い。やはりこれが受け入れるべき現実なのか‥』

ちょろちょろと貯水タンクに水が溜まっていく音だけが時間の流れを伝え、それは弱く、小さくなりながら静寂に吸い込まれていく。

『そうだ。俺は今‥生きている。これが現状なのだ。目を覚ませ!全てを捨ててしまったがやっと自由になったんじゃないか!』

打ちつけた頭の痛みから我に返ると個室の窮屈きゅうくつ)さが今までの自分の世界そのもののような気がして嫌悪感が込み上げ、それは当てあてどのない旅への欲求を駆り立てた。

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