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底辺 作者:富士江 三蔵
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第6話

由香里のアパートに着いたのは昼過ぎだった。途中に寄ったスーパーで買った荷物を部屋まで運び、ようやくお役御免というところで奥の台所でその荷物を仕分けしていた由香里が私を呼び止める。

「クマく~ん!ご飯作るから一緒に食べていきぃよ!」

彼女からは見えない、玄関で帰りかけていた私に間に合わすように、やや早口で張りのある声が辺りに響く。

「あぁ、ええ。ええ。クマはこれから彼女と会うから忙しいねん。」

私が辞退の返答を考えるよりも早く、阿藤は彼女が言い終わると同時に口を挟んだ。

「え!?クマくん彼女できたん!?」

奥の台所で由香里は髪をヘアゴムでくくる手も止めてしまい、素っ頓狂な声で驚いた。

「え~、いつからなん?知らんかったわ。」

彼女以上に私には何のことやら全く分からない。

「‥右手や!クマの彼女はずっと右手や。なぁクマ!早よ帰ってようけコキたいやろ!?うははは!」

一瞬でも何事かと気を揉んだのがあほらしく思えた。ただ、いつもは苛立ちと悔しさしか生み出さない阿藤からの侮辱も、今はさほど辛くは無い。

『これで最後だ!阿藤よ、今のうちに好きなようになんとでも言ってくれ。これが言い納めだぞ‥。』

そう思うといつもは湧き起こる阿藤への殺意も昇華して、愛想笑いさえ浮かべられた。

「もぉ~何いうてんの。」

由香里のくすくす笑う声はすぐに包丁でまな板を叩く音に変わった。玄関先の部屋へと続く廊下の壁には腕を組んで阿藤がこちらを見据えている。

「‥失礼します。」

私はそこへ本当の別れの意味で頭を下げ、彼を背にした。。

「おい、クマ!」

ぎくりとして、恐る恐る後ろを振り返る。

「明日の朝は吉牛買ってきてくれ。並な。」

明日の約束などもうできはしない。

「え、あの‥」

しどろもどろになった私は思わず視線を下へ落とす。また苛つきかけた阿藤は、舌打ちをして私を睨む。

「‥なんや!嫌なんかい!?」

実行不可能な約束はしたくはなかったがやむを得ない。

「いえ、嫌じゃないです。買ってきます、行かせてください。」

このやりとりだけでも阿藤との生活から造り上げられた、確固たる身分制度のようなものがいつまでも越えられない壁となって立ち塞がっているのを最後まで思い知らされたような気がした。

「ほな、失礼します。」

これ以上に何か約束が増えるのは耐え難く、その想いがこの場から早く離れるよう急かす。目一杯の作り笑いで私は阿藤へ最後の一礼を送った。


外は小雨がちらつく日曜日とあって行楽帰りの人達も少ないのか、道路はかなり空いていた。それに有り難みを感じながらも一刻も早く脱出をはかりたい私は、必死で車を急がせた。頭の中ではそれを阻む日和ひよった心の一部分が囁いてくる。

『本当にやるのか?考え直すなら今のうちだぞ。会社に迷惑をかければ世話になった叔父の立場も危うくなるかも知れないし親族にも顔が立つまい。それにドルチェはどうする?客のない日が多いのに笑顔で給料を渡してくれ、日々の辛い空腹まで救ってくれたママさんの恩を仇で返す気か!?そんな多くの人を巻き込んでも我がままを通す“人でなし”に成り下がるのか!?』

『黙れ!そんなことは百も承知だ!ならばお前は、‥俺は馬鹿にされ続け、搾取され続ける飼い殺しのような一生を送るつもりか!?躊躇する余裕などないくせに恰好つけるな!』

それを抑えこむように私は強引にそれを振り切ろうと煩悶する。
犯罪に手を染める場合もそうなのだろうが、殆どの人は基本的に“盗む”“壊す”“殺す”この三つを軸にして、細かい法令など知らなくとも、やってはならないことは大筋理解している。そしてこれを守らんとするのは各個人の歴史がつちかった倫理や道徳を統合した理念、いわば“個人の掟”と言っても過言ではないものがつかさどっていて、超えてはならない一線を越えるにはそれを壊さねばならない。覚悟を決めれば容易たやすいことだが、向こう側へ渡ってしまえば境界線はなくなり、そこからは無意識に誇りや自尊心を否定して己を傷つけて生きていくことになる。

寮に戻った私は押し入れを勢いよく開け放ち、入寮以来押し入れの奥にしまい込んで使うことのなかったボストンバッグを引っ張り出し、ほこりも気にせず荷造りを始めた。気持ちのたかぶり と焦りで必要不必要の分別もままならないが迷っている暇はない。バッグからあぶれた多くの物の中には思い出の品もあったが、これから過去を捨てて生きねばならない決心はそれを捨てることをいとわなかった。

想像通りに寮に人気ひとけは無い。入寮者は私と阿藤を含めて五人だけだが、仕事が休みの日は食事が出ないこともあり、皆、遊びに出たまま夕食を済ますまで帰らないことが多く、夜まで誰もいないのは珍しいことではない。それでも耳を澄ませ、祈るように常に人気ひとけに注意しながら外にあるゴミ置き場へ私物を打ち棄て、汗だくで息を切らしながら部屋へ戻った私は最後の仕上げにとりかかった。 卓上の隅にあった裏が無地になっているチラシにボールペンで殴るように書き置きをしたためた。

―阿藤さんへ―
お世話になりました。もう戻りません。

「こんな感じか‥。」

呟きながらペンを置き、立ち上がろうとしたが、阿藤への修理代の件がまだ残っている。

『踏み倒してやればいい!』

真っ先にそう思ったが、余計な遺恨を残したくないのと、考えてみれば親族が請求されることも想定され、やはりそのままにはしておけない。しかし手持ちの全財産は2万円を切っていた。そんな急場に出た知恵が私にまたペンを握らせた。


《退職願》
突然で申し訳ありませんが、私、森野吉朗は一身上の都合により七月五日をもって退職させていただきます。尚、六月分の給料は阿藤昭正氏へ譲渡します


即席の退職願を引きちぎったノートに書き上げて、またペンを卓上に叩きつける。

「よしっ!これでええやろ!」

ペンを卓上に叩きつけるように置きながら自らに発破を掛ける。それはもうここでやるべきことはないと無理矢理自分に言い聞かせるものでもあった。

『よし!行こう!』

感慨深い思い出もなければ浸っている暇もない。私は勢い良く立ち上がり、ボストンバッグを引っ下げてドアノブに手をかけた。

寮を飛び出した私は振り返ることなくそのままの勢いで走った。顔見知りと遭遇するかもしれない緊張感が強い尿意を引き起こす。とりあえず電車に乗り、近場で一番の繁華街である“なみはな駅”に着くまでは気を抜けない。私は会社からの最寄り駅へは行かず、隣の上り方面の駅へと向かった。理由は会社の人間やドルチェの常連客からの目撃を避けたかったことと、下りの隣駅からなみはな駅を目指せば、また会社の近くの駅を通らねばならず、それがたまらなく嫌だったからだ。
その駅には今まで行く機会もなく、順路も覚束ない私は線路に近い道を進む。両脇の田んぼからはおびただしい数を想像させる蛙たちがげこげことけたたましく鳴いている。両脇から発せられるそれはあたかも花道を退場する不甲斐ない敗北者に浴びせかけるブーイングのようで、それからすら逃れるように私は歩を速めた。
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