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底辺 作者:富士江 三蔵
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第5話

翌日、会社の仕事を終えた私は、ジーンズとポロシャツという出で立ちでバイトの面接へと向かった。寮から県道へ出てしばらく歩き、高架の坂道を境に平坦な側道を行くと賑やかな配色だが古びた商店街の名称看板が左手に見えてくる。そしてアーケードに入ると人気のない寝具店や衣料品店が並び、すぐに商店街の本通りへと繋がる。本通りへ出ると八百屋から始まって惣菜屋、肉屋、魚屋などが隙間無く並び、夕暮れ間もない時間帯もあってか行き交う人々も多く、活気に溢れている。その商店街を突っ切れば駅に出るのだが、途中にある和菓子屋の先から左へ入った裏路地の筋違いの通りにその店はあった。求人の貼り紙も剥がされてはおらず、私は募集に間違いがないか今一度確認した。

《アルバイト募集、時給七百五十円~、男性四十歳迄、経験不問、夜七時~十二時、週三・四回入れる方、委細面談》

やはり自分の条件を満たす内容に間違いはない。外から見れば十数人も入れば満員であろうと思われる小さな店ではあるが、重厚な茶色の煉瓦の外壁が人の往来を拒むような雰囲気に満ちていて、洋風の建物にありがちな、上部が丸くなっている観音開きの窓が存在を際立たせている。入り口の横には緑の看板に白抜きで“ドルチェ”と片仮名を特殊な絵文字のようにくずした店の名前が描かれ、うっすらと路地の闇に浮かんでいた。そのたたずまいが私の足取りを鈍らせたが、このまま帰るわけにもいかない。心を決めて私は店の中へ踏み込んだ。

面接は思いのほか問題なく、すんなりと終わった。バイトの人員はどうやら私以外に既に男性が一人いるらしい。私の担当はその人と交互の日である火、木、土曜日の19時から24時までで、ママさんの補助的役割の仕事かと思っていたが店番は単独での仕事だった。不安に思うところもあったがそんなに難しいものではないと聞かされた。確かに店が扱う酒類に生ビールは無く、瓶ビール、日本酒、洋酒と数種類のカクテルといったもので、カクテル以外はそのまま出すか水割り用の氷と水を用意するだけで、それ以外のカクテルのたぐいも元となる原液を炭酸水で割るだけという簡単さが初心者向きと思えた。また、学生の頃に中華料理屋でバイトしていたおかげで焼きそば程度の簡単な物なら作れることも役立ち、早速翌日から働くことになった。

バイトの初日はママさんが昼から通しで居て、一通りの仕事を見てもらうのがこの店の通例だった。広子という名のこのママさんは恰幅が良く、肝っ玉母さんといった風貌で、鼻と左の頬の間にある大きな黒子ほくろがより個性を際立たせた。性格的にも典型的な“関西のおばちゃん”といった感じで、声は大きく、よく喋りよく笑う。ただ言いたいことも遠慮がなく、時折私の不器用なところを目の当たりにすると「難儀な子やなぁ」と言って何度も眉をしかめた。ただ、遠慮のない物言いでも嫌味は無く、口下手な私に仕事がちゃんと務まるのか心配もあってのことだろうが時折上沼恵美子のようにきつい冗談をぶつけてくる。当然それに対して私は気の利いた“返し”など殆どできなかった。

「ヨシローくんはおとなしいなぁ。」

そんな私に失望するでもなく、そう言って彼女は困ったような笑顔を浮かべた。

初日の客は三人の組と四人の組の二組だけだった。
注文を伺い、飲み物とあらかじめママさんが作り置きしている付出しを持って行き、カラオケのリクエストを客から承ってLP盤のレコードほどの大きなディスクを機械に入れ、誰の何の曲が入ったのかを客に伝えるアナウンスを行うのが主な仕事の流れになる。ママさんに指摘されたのは、曲が入る前のアナウンスでは大きな声を出すこととお客さんが歌っているときは手拍子をすることくらいで他は及第点を頂けた。慣れない仕事にいささか戸惑ったが、全体的に簡単な仕事であることと常連中心で客層が良いのも幸いして、慣れるのにそう時間はかからなかった。

昼間と夜の仕事の掛け持ちは、工場では常に睡魔との闘いだったが、夜に関しては待ち遠しく感じるほど楽しみでもあった。それはママさんの粋な計らいで、空腹時は店の物を好きに食べて良いことになっていたことに加え、阿藤や昼間の嫌な事から解放された気分になれるからだった。寮では先輩方が晩酌をしながら長い時間食堂にたむろする。私がその場に居ると、仕事での失敗をほじくり返され嘲笑の的にされるだけで、飯など食べられる状況ではなく、自然に食堂へは近づかなくなっていた。阿藤に誘われ、たまに外食することもあったが、私の夕食のほとんどは、彼の使い走りの間に菓子パンなどを買い、急いで公園でかじるか、時間に余裕が有る時は立ち呑みの酒屋で安酒をあおるかのどちらかだった。寮生活でありながら食べる事にも困窮し、さらに余計な出費に苦しめられていた私にとって、さながら救いの手が差し伸べられたように感じた。

店は大体いつも暇で、土曜日の夜であっても客の無い日は珍しくなく、こんな状況で店の経営は大丈夫なのだろうかと私はいくらか気を揉み、また給金をもらうのも気がひけたが、当時は後半ではあったがバブル景気の最中さなかという状況で、ママさんの旦那さんが不動産業でとても儲けていてこの店はママさんの趣味でやっているようなものだと常連客に聞いてからは躊躇ためらわずこの状況に甘えさせてもらおうと思った。
昼の仕事では、アルバイトを辞めさせられたくない一心もあってか、以前より失敗も減り、少しはこなれてきたと自負していたが、阿藤の私への風当たりはさらにきつくなっていった。それは自分の小間使いが本分を忘れたように他の仕事に精を出し、それを喜んでおこなっているように見えたからに他ならない。仕事中は小さな失敗でも「そんなしょうもないことしよんのやったら辞めさすぞ!」だの「おらぁ!眠たいんか!?」などと周りには解らないように重圧をかけてくる。仕事後の追い回しでも、れいの猫撫で声はなくなり、傲慢な命令口調ばかりになっていた。

そんな落差の激しい日々が二カ月を過ぎたときだった。既に梅雨に入り、屋外では霧のような雨がねとねとと体にへばりつくような土曜日の夜、私は客のない店で安息の時を満喫していた。その静寂を打ち破るように、ドアの内側で上部に複数束ねてある小さな鐘がカラコロと来客を告げた。有線放送の歌謡曲が流れる中、カウンターの中で椅子に座りうとうととしていた私は自分で考えるより先に飛び上がるように立って入り口を注視した。外からの扉と、さらにそこから数歩進むと店内への扉があり、その間での喋り声や笑い声で来訪者は三、四人と思われた。そしてすぐに店側の扉が開くと私は我が目を疑った。入って来たのは阿藤の一行いっこうだった。その面子は阿藤、阿藤の彼女の由香里、あとの男女は 初めて見る顔で、阿藤らと親しげな雰囲気から、どちらかの友人のカップルかと思われた。

「ほんまにヒマそうやないか!こんなんで金もらっとったらぼったくりやんけ。今日は俺らのおかげでボウズは無いんや。感謝してサービスせえよ!」

店に入るなり、阿藤は大声でそれまでの静寂を打壊した。気の緩みきっていた私はすっかり面食らって、たちどころに血の気が引いていく。心安らぐ時間は魔法が解けたシンデレラのように辛い下働きへと場面を急変させ、みすぼらしい姿に戻った私は意識が遠のきそうになる。

「おい!ぼーっとしとらんと瓶ビール五本ほど持ってこんかい!」

その声でやっと我に返り、ぎこちなく動き出す。

「お前に食いもんなんか作れんのか?」

阿藤はメニューを見ながら毒づく。おそらく居酒屋辺りでかなり飲んできたのだろう。

「もお~、そんなこと言うたらクマちゃん可哀想やん。」

本気でそう思っているとは考えられないデレデレ顔で、由香里が阿藤をたしなめる。ちがう場面でもちょくちょくあるのだが、冗談めいていても誰かが私を庇護するような発言が不快で許せないのか、その後必ず阿藤は不快感を露わにして私を(おとし)める。

「何言うてんねん。こいつは大人しそうやけど根性汚いで~!」

それを口火に彼は誰も聞いてもいない、仕事の失敗をごまかそうとしたことや買ってきたジュースを落として黙っていたことなどを次々と並べたてる。

「のう、クマ!」

『どう答えるんか分かっとるな?』そう言いたげな表情で睨みながらこちらに振ってくる。
初対面の人に自分の失敗や欠点をひけらかされた恥ずかしさに阿藤に対する敵愾心がより募る。しかし逆うことはできない。

「‥はい。そうです。」

力なく俯き、答える私を連れのカップルはやや困惑した様子で気の毒そうにこちらを見る。こんな体たらくでも初対面の人間にあわれに見られたくはない。私は今出来る最高の作り笑いでいつも通りの仕事を心掛けた。


やがて彼らが飲みながら雑談を交わし、場は一旦落ち着いたが心中で私の怒りは消えることがない。

『ぼけが!死にくされ!!』

行き場のないそれは飽和状態から溢れ出し、呪詛のように口をつく。

―自分が嫌っている相手にはそれが自然に伝わり、相手も自分を嫌う―

当たり前のことだが、今の私と阿藤はこの負の連鎖の中にある。そして力の差が歴然としていればその関係は一方的な優劣を形づける。刃向かえば“劣”である私には自分の首を締める結果にしかならないのだが、そうであっても心の奥底にある阿藤への反抗心はくすぶり続けた。かたや阿藤にとって従順でない“家畜”など徹底的に主従関係を“躾る”対象にしか映ってはいない。

「おい、クマ~、せっかく来たってんからみんなに太っ腹なとこ見せてボトルくらいサービスせえや~。」

ひとしきりくだを巻き終えた阿藤は、テーブル席の死角になっているカウンター内の私を呼び、洋酒を無心してきた。私がそれに難色を示すと“ノリが悪い”だの“空気が読めない”だのと絡み、それでも渋る私に対して手を叩き、「クーマ!クーマ!」と声を張り上げながらの連呼を繰り返す。このときになると由香里の友人カップルも遠慮はなく、私の立場など“そんなもの”程度の認識に変わっていた。私はやむなくそれに従い、彼らが早く帰ることと常連客が来ないことを祈った。

「ここ出てちょっと行ったらたこ焼き売りに来とるから二つ買うてこいや。」

しばらく内輪で盛り上がる様子に一息つくのも束の間、店を離れるわけにいかない私に対する嫌がらせのような注文は続いた。楽しい時間を過ごせるはずだった聖域は見る影もなく阿藤に蹂躙じゅうりんされ、私はひどく落胆したが彼らは騒ぎ続け、悪びれる様子もなければ帰る素振りもない。私にとっては他に客が来なかったことだけが唯一の救いだった。


閉店までいつもの何倍も長く感じる時間をようやく乗り切り、安堵の中にも怒りを滲ませ今後のアルバイト生活に不安を巡らせつつ、私はまた阿藤の下僕に戻りコンビニエンスストアを目指してとぼとぼと歩いていた。夜も遅く、帰りにタクシーを使うのも勿体もったいないという名目を用意して友人カップルを引き留め、飲み直しと称して寮で夜を明かす段取りで阿藤はあらかじめ手を打っていた。他の寮生でそれにとやかく言う者などなく、今日は彼女を連れ込んでセックスするといった後ろめたさもない阿藤の手回しにより寮長も黙認している。別段寮長が厳しい人間でもなければ規則もあってないようなものだ。それに加えてに阿藤は目上の者に対する立ち回りもうまく、断られるはずもない。
当の阿藤はドルチェを出る前、先ほどの会計を友人男性と張り合って競り落とし、皆の前で気前良く1万円を出して私に酒や肴を適当に買うよう言いつけて帰って行った。
コンビニの周囲は田畑が大部分を占めていて、大型のパチンコ店や中古車店などが点在する県道はその電光看板が消えると闇が深く、時折トラックや乗用車、バイクが車列となっては静寂を破り、光の束が通り過ぎる。この暗がりを寮と反対側に十数分歩き、やっと店に着くと私は頼まれた買い物などそっちのけで、缶ビールとワンカップの日本酒を先に購入し、店を出るとすぐ駐車場の隅で缶ビールのプルタブを開け、最初から勢いよく缶の底を夜空へ向けるほどの勢いで一気に喉へ流し込んだ。渇ききった喉に強い刺激が走り、程良い苦さが快感へと変化して飲み干すまで私の口を離させない。缶が軽くなると声にならない嗚咽おえつのようなものが出て、涙目に映る街灯は虹色ににじんだ。やがて胃にほのかな温もりを感じだし、やっと人心地つくとドルチェでの出来事の断片が強制的に繰り返し脳内から放映される。その度に怒りは加算され、八つ当たりの対象物を手に入れた私は地面に置いた缶を思い切り踏んづけた。缶は呆気あっけなく《くしゃっ》と軽い音をたてて、ほぼ平らになっただけで、鬱憤が晴れることはない。他に仕様の無い私はおもむろにワンカップを取り出し開封に取りかかった。妙に力んでいるのか上蓋うわぶたをめくり取ると変な具合に左手の人差し指の付け根に当たり、うっすらと血が滲む。

『‥俺はこんな何でもない事さえ満足に出来ないのか‥?』

自分の不器用さと無力さが恨めしく、自分と自分を受け入れてはくれない世の中に憎しみを感じた。

『くそったれ!』

すべてに馬鹿にされているような被害妄想に襲われ、それを振り切るように酒をあおるが勢い余って口角から溢れた酒が左右の首筋を這う。

『神がいるんなら大したサディストだ!‥今も俺を見て笑ってるんだろう‥どうだ?楽しいか!?‥どいつもこいつも馬鹿にしてやがる!!』

過去の自分の様々な罪業などかえりみることなく、卑屈に歪んだ精神は酔いと手を組んで次々と悪態を生み出した。ひとしきりそれをつぶやくと首筋の酒を払うように手で拭う。気疲れは酔いを加速させ、被害妄想は高まり攻撃的な気持ちへ変化していく。

『阿藤のぼけが!好き放題人をなぶりやがって!いつか復讐してやる!・・いっそ今から勢いに任せてバットででも殴りまくってやろうか。泡を食った奴を見ればさぞかし気分も晴れるだろうな。‥あぁ、今は客が邪魔か。いつか、もし奴を始末したとしたらその後はどうなる?世間から見れば結局俺が凶悪な加害者で奴は善良な被害者になるだけか!?。あほらしい!真面目にやってりゃ誰かが見ていていつか報われるなんてどこかで聞いてたが何も変わりゃしない!何もできず弱い立場の者はいつまでも弱いままか!?』

いつからか、物思いにふけっていると知らぬ間に没頭する癖がついたようだ。この時、配送のトラックが入って来なければまだ心の闇から戻ってはいなかっただろう。我に返ると随分と時間を食った気がする。うたた寝から起きたように意識を戻すと先程の勢いはすっかりなりを潜め、早く戻らねばならない焦りが私を無意識に小走りにさせた。

「クマちゃんご苦労さァん‥とでも言うてもらえる思とんか!?えらい遅いやないか!みんな待っとんやぞ!?そんなんを考えてぱーっと買うてこんかい!ほんまいつまでも気遣いとか出来ん奴やわ!」

帰るなり阿藤が気色けしきばむ。幾らか機嫌は良いだろうと見込んでいた私の読みは全く甘かったことを知り、さっさと帰ればよかったと後悔する。

「こんな買い物なんかどうでもええ思てどっかでさぼっとったんやろ!」

阿藤は私の隠した失敗や気持ちをことごとくに言い当てる。本当は揺さぶりをかけているだけなのだろうが私は素直にそれに反応して体がすくみ、表情がこわばる。それを見て阿藤は確信を得る。簡単な推測に私は馬鹿正直に反応して正解だと答えているようなものだ。いつもならここでねちねちと取り調べの尋問めいたものが始まるのだが今日は客達のとりなしもあって、それはまぬがれた。この場に居るべきでない私は心を込めず詫びを入れてそそくさとねぐらである押し入れへと帰っていく。いびきがうるさいとの阿藤からの苦情により自分から申し出てここで眠るようになって三カ月になる。惨めなようだが暑さを除けば個室のような安心感があり、今では数少ない自分を取り戻せる場所の一つになっていた。

はっと目覚め、押し入れから這い出ると朝の十時を過ぎていた。阿藤と由香里は窓際近くのテレビの傍で壁にもたれて毛布にくるまり寄り添って眠っている。タカヒロとマミと呼ばれていた友人カップルはその近くの側面で寄り添っていた。部屋のすみに積まれた布団がそのままなことから夜通し飲んでいたことがうかがえる。よく見るとタカヒロは起きているようで、酔っているのか疲れたのか、遠い視点に目をやり、微睡まどろんでいた。私が出ていくとややあってその目が私を追う。それに気付き、なんとも気まずいような雰囲気に私はどうしていいか分からず、とりあえず挨拶をした。タカヒロはおざなりに挨拶を返しこちらを見据える。

「なあ、クマくん。俺ら先に帰ろう思とんやけど、駅までの道、教えてくれへん?」
彼はしわがれた声を戻そうと咳き込みながら聞いた。

「いや、あの、ええっと‥」

突然の要望に私は返事に困った。

『どうしよう。阿藤を起こすか?寝起きが悪い“ヤツ”をできればそっとしておきたいが、そのまま帰しても怒られそうだ‥。』

日頃いくら熟慮した上での行動も阿藤の機嫌を損ねる結果にしかならず、叱責にさいなまれ続けていた私は何かにつけ、どう対処すれば良いのか分からず、この時もどうすれば阿藤の言う“常識があって気が利く”になるのか思いあぐねるばかりだった。
そんなことをタカヒロが知る由もないのだが、目覚めて間もない状態でこんな難問を投げかけられ、私は彼にさえ恨めしい気持ちになった。だが、それをあらわにすることもできず、ただただ狼狽した。阿藤を起こさず、なおかつ気の利いた行動となると、彼らを車で駅まで送るのが最善かと思われた。しかし阿藤を無視して事を進めるわけにはいかない。

「あの、とりあえず阿藤さん起こします。」

「いや、ええからそのまま寝かしといたって。」

こちらの心中などお構いなしにタカヒロがさえぎる。

「いや、でも‥」

ここまで渋る私を見て、やっと何か感付いたタカヒロが弱々しく微笑む。

「マ-チャン(彼は阿藤をこう呼ぶ)には後で言うとくから‥。」

彼は全て任せておけと言わんばかりの柔和にゅうわな、落ち着きのある口調で私を制止してからマミを揺さぶり、起こしにかかった。

「ほら、帰るで。」

反応はするものの彼女のまぶたは重く、目は開ききらない。
『しょうがないな』とでも言いたげにタカヒロは先に立ち上がり、大きく伸びをした。
当時は携帯電話など一般に普及しておらず、「あとで言うとくから」とはいつになるのか、本当に言って貰えるのか、なんとも心許こころもとない申し出だったがすでに選択の余地のなくなった私はその言葉を信じて阿藤の車で彼らを駅まで送った。
彼らを降ろして寮へ戻り、煙草を一本吸い終わる頃、由香里が目覚め、目をこすりながら辺りを見回す。

「あれ~、マミちゃんらは?帰ったん?」

髪をかきあげながら出す甘ったるい声は私を不安にさせる。何も悪いことはしていないが、阿藤を目覚めさせたくない私はもう少し声を潜めてくれないだろうかと気が気でない。

「あの、帰りはる言うんで、さっき駅まで送りました。」

「え~、そうなん?」

私の不安をよそに寝起きから生気を取り戻してきた由香里の声は大きくなっていく。そして、やはりそれに反応して阿藤がむくりと起き出した。どこにも焦点の合っていないような目をしばたたかせながら毛布から這い出し、卓上の煙草を探りあてて気怠けだるそうに火をつける。
今までの経緯をどこまで聞いていたのか分からないが、自分なりには常識的で気を利かせた行動だったと自分に言い聞かせ、不安をぬぐう。由香里はおもむろに阿藤のそばへ座り、阿藤は空いている左手で愛おしそうにその頭を撫でる。

「マミちゃんら帰ったんやって‥。」

残念そうに由香里は呟き、彼の寝癖を触っている。しばらく沈黙が続き、煙が部屋の上部にかすみのように漂いだした頃、阿藤が気怠そうに口を開く。

「・・タカヒロらはいつ帰ったんや?」

何かが詰まっているような喉から、絞り出すようにかすれた声で訊きながら、重そうな(まぶた)を左の手の平で覆う。

「・・え、と十時半くらいです。どうしても帰りはる言うんで阿藤さん起こします言うたんですけど、ええから寝かしといてって言いはるんで駅まで送りました。」

無意識に由香里への説明より言い訳がましくなる。

「・・お前、誰の言うこと聞いとんや?分からんことは俺に聞けていつも言われとんちゃうんか?俺はあいつに渡すもんあったんやぞ!」

いつもの声の大きさこそないものの、その中には怒りの感情がはっきりと感じられ、私は、いつしか体内に巣くう寄生虫のようになったどす黒い不安の塊にはらわたを掴まれたような痛みにさいなまれ、息苦しくなる。やはり今回も私の行動が裏目に出たのは疑う余地も無い。だが、自分なりに考え、気を遣ったつもりの行動が全て否定されるのは腑に落ちない。

「すんません。僕なりに考えたつもりやったんですけど‥」

謝る、というより食い下がるような口調になる。これに阿藤は触発し、少し掠れは残っているもののほぼいつも通りに戻った声量でがなり立てる。

「ほんならお前、何で送ったんや?歩いて行ったんか?」

「‥いえ、車です。」

「それは誰の車やねん?俺の車やろが!それを勝手に使うんがお前の常識か!?普通ちっちゃい子ぉでも物借りる時は人に聞くぞ!?そういうとこからお前は小学生以下や言うねん!だいたい最初にそんな報告ないんがやましい言うとるようなもんやろ!そんなんで“僕は一生懸命考えましたぁ”みたいなこと平気で言うお前の神経が分からんわ!だいたいお前のやっとることはいつも一生懸命とは違うんや!お前のはな、一生懸命やっとるふりしとるだけや!そんなんやからいつまでたっても何もようしぃきらんのや!」

けたたましい阿藤の叱責に翻弄ほんろうされながらも私はその渡すべきものを責任をもって届けるとは言えない。言えば“誰の車で?”“お前のもんでもない車で届けるんが責任か!?”と詰め寄られるのがオチだからだ。そして“どうすんねん”となり私は言葉を失う。これで“詰み”だ。そうなれば阿藤の言葉の暴力が詰まった機関銃の弾丸をまた食らい続けるのだ。そう思うと何ともいえない悲愴な気分と自分の間抜けさに対する怒りが重なり、今までに数え切れないほど味わってきた、いつものいたたまれない気持ちに支配され、うつむきながら喉から絞り出すような声でまた謝るだけだった。
以前に聞いていた『そのうちお前のもんになるんやから車は好きに乗ってええぞ。』とは何だったのか。かすかにそれが頭をよぎったが、確かに許可も得ずに車を使ったのは常識に欠けていた。だが、私なりに考え、気を遣ったつもりの今回の行動さえ小学生以下と批判されるほどのものならば、これからもすべての事柄に対して何一つまともに出来ることなど無いのではないか?そう思うと何か、元より太くもない自信や尊厳といったものが紡がれた糸の束が日々一本一本切れ、最後の一本が今、この瞬間にぶっつりと切れたような感覚に陥った。

「もういいやん。クマくんも悪いことしたんやないんやし。」

由香里の発言に少し救われた気がしてありがたく感じたが、それが阿藤の怒りを強くさせるだけのものなのはいつもの事なのでできれば放って置いて欲しかった。

「お前は黙っとけ!俺はこいつに常識いうもんを教えたらなあかんのや。のぅ、クマ。お前怒られんの好きやもんな!由香里、こいつは怒られたいからわざとしょうもないことばっかりしよんやぞ!ほんまに変態なんや。なぁ、クマ!‥は!は!」

この、酷いそしりのどこかに彼をくすぐる部分があったのか、最後まで言い切るなり息もしづらく見えるほど笑い出した。
いつもならこの追い討ちに憤り、ただただ屈辱に耐えながら厭世的えんせいてきな気分に呑み込まれるのだが、今日はその中にも冷ややかな、乾いた初冬の風のようなものが吹き抜けたように感じた。

『どこから間違っているのだろう?人生の全てが間違っているのだろうか?もう、何が常識的で人を気遣うことなのかまるで解らない。俺は何か、人として大きな欠陥があって正しい事が分からないのだろうか?何もかもが解らないこんな状態では、いつまで経っても阿藤が認めるようなことは何一つ出来ないのかもしれない‥。しかし今後もここで人に迷惑をかけ続け、それ以外のことでも阿藤になじられ続けて生きていたくはない‥。いっそ死ねたら全てが終わって解放されるのだろうが、そんな度胸も無い‥。これからも退職さえゆるされず、こんな状況に甘んじるくらいなら、黙ってここを去るしかない。これで終わりにしよう‥。だが、実行すれば、大好きな叔父の顔に泥を塗り、親父や他の親族にも、二度と会うことは許されない。優しく接してくれたドルチェのママさんにも恩を仇で返すことになる。そうなればきっと俺の味方は完全にいなくなる‥』

人として最低な次元の道を選ぶなら、それだけの代償を、そして覚悟を持たなければならない。

『いや、もういい!考えるのはもう止めだ!味方など欲しがるな!身勝手な最低な人間でもいい。最後に野垂れ死んでも俺はこんなところにもう居たくない!!』

自信やら尊厳やらの糸が切れ、その中から煙のように薄くなった弱々しい私の根幹、魂のようなものがその風の正体のように思えた。そして覚悟を決めた瞬間から胸の中の黒い霧が晴れ、晴朗せいろうが広がった。

「阿藤さん、僕が至らないばかりにまたご迷惑をおかけしました。すんませんでした。」

言葉の中にこれからの裏切り行為の詫びも含まれていた。それが阿藤には殊勝に映ったのか、少し驚いたようだったが、その表情からやっと怒りは消えたように見えた。

「‥まあ終わったことやし分かればええんや。そやけどお前も早よ俺からなんも言われんようにしっかりせえよ。どうせまだまだあかんのやろうけどな。‥もうええわ。しんどいから早よ由香里んとこへ送ってくれ。」

気だるそうにそう言うと阿藤は車のキーを私の前へ放り投げた。
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