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底辺 作者:富士江 三蔵
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第4話

その日は珍しく大きなミスもなく、気がつけば仕事は終わっていた。いつも通りの体中の水分を蒸発させるような熱さに轟音と怒号が交錯する、ぼんやりとした記憶があるだけだ。今朝の出来事がもう何日も前の出来事のように思える。他の人々に、この一日はどのくらいに感じるのだろう?二十歳を過ぎれば時の経過が早くなり、一年などあっという間だと親父から聞いたことがあるが未だに実感できない。今はもう、強い酒を幾らかあおって酔いにまかせて眠りに就きたかったがそうはいかない。解決しなければならない問題はこれから山場を迎えるのだ。

太陽が地平線に沈んでもその残光が今日の終わりを名残惜しむかのようにいじらしく夜の闇にしがみつく。まだ五月の中旬というのに早くも駆り出された古ぼけた小さな扇風機が、《ぶううーん》と音の割に大した風も送らず、ゆっくりと首を振り、涼しげな風など送る気のないような惰性運動を続けている。布団が取り払われた炬燵こたつに阿藤は風呂上がりのビールを飲みながら胡座あぐらを崩して右膝を立て、対面には蛇に睨まれた蛙よろしく正座の私がいた。

「‥で、お前どないするんか考えたんか?」

阿藤は、立てた右膝の上に右腕を預け、缶ビールの飲み口を手で覆うようにしてそのふちを五本の指で引っ掛けるように持ち、私を見据えている。

「はい、やっぱり阿藤さんに迷惑掛けられませんので、サラ金で金借りて修理代と借金返します。」

無い知恵を絞った解答を認めてもらえるように顔を上げ、阿藤の目を見ながら言うように心掛けた。予想より少しはマシな回答だったのか、阿藤の表情の中に少し驚きが混じる。

「ちょっと待てや。そんなん言うたら、俺がなんか、無理やり修理代と借金を今すぐ返せ言うてかしてるみたいやないか。俺はお前に無理させんように考えたろう思て今、話しよんやぞ。」

どうせこいつは何も考えられず、答えなど用意出来ないだろうと阿藤は踏んでいたに違いない。そんな私の予想を反した返答に彼の声が少しうわずって聞こえた。それを打ち消すようにビールを一口飲み込むとおもむろに卓上の煙草に手を伸ばし、考える時間を作っているようにじっくりと点火して深く吸い込み、苦い顔を作りながら煙を吐いた。

「‥あのな、お前そんなもん借金を借金で返すだけのことやないか。胸張って言うことやないぞ。それに全部でなんぼになるんか先にはっきりさせんとな。まぁ修理代が安くみて10万として‥」

『10万!‥改めて見てもやはりあれでそんなにかかるのか‥本当はふっかけているんじゃないのか?』

声に出して言いたかったが、修理代を払わなければならない原因を作ったのは自分であるだけに何も言う資格は無い。

「お前、俺になんぼほど借りとんか覚えてるか?俺は10万くらいやと思うんやけど。」

そう言う阿藤の唇の左の付け根が、少しつり上がった。それに私の本能が危険を察知する。

『奴は何かを企んでいてまだ搾り取るつもりか!?いくらなんでもふっかけ過ぎだ!ここは奴を怒らせずに、なんとか公正な額にしなければ、また新たな足枷あしかせになってしまう。』

だが、その対策に思いついたのはできる限り毅然とした態度で臨まなければならないということだけだった。なんとも心許こころもとないが経験上、ここで曖昧なやりとりをすれば奴のいいようにされてしまうのは確実だ。

「いや、そんなには無いはずですわ。確かに全部で7、8万くらい借りましたけど、万札を三回は返してますし。」

「ああ、そうやったかな?」

阿藤は要求する金額に無理があることを自覚したのか、とぼけるように引き下がる。それに安心しかけた途端、彼は目を見開き、上半身をせり出して大きく広げた両腕をテーブルの天板に預けた。

「よっしゃ!ほんなら全部込みで15万にしといたるわ。それでええやろ?」

張り上げた声には商店で値切りに応じた店主のような思い切りの良さが演出されていた。だが、元値が怪しいだけにそれに接しても私は得をした気持ちにはなれない。多分、安めにまけるように見せて恩を着せる狙いなのだろう。修理代に10万円は釈然としないが、相場がどのくらいか見当もつかないし、迷惑料を上乗せしたと思えば仕方ない気もする。元々が不利な立場なだけにここからしぶとく交渉するわけにもいかない。

「はい、ほんならそれでお願いします。そやけど今度の給料でも全部払えませんので足りん分は来月でもいいですか?」

彼がどう払わす思惑なのか分からないが、借りは早く返さなければろくな事にならないのは明白だ。

「おいクマ、俺の話聞いとったんか?無理させんように考えたろ言うたってんやろ。だいたいお前、煙草もなしでジュースも飲めんような生活できるんか!?」

「やれます!そやから今月と来月で払わしてください」

「こら!クマ!何いちびっとんねん!現実的に無理なことやから言うたってんやろが!」

「いや、やります!大丈夫です。」

「お前な、病気やケガとかして病院行っても金要るんやぞ!それにな、お前が文無しで生活すんのは勝手やけど、そのせいで身近におるもんが気ぃ使うて煙草とか吸いにくうなるんや!そんな事も考えんと思いつきだけで物を言うやろ?お前のそういう気ぃ使うこと分からんのが常識ない言うとんや!俺はそんなことも考えて大変やろ思て分割にしたろ言うとんやぞ!?」

確かに阿藤の言う通り私は日頃、他人への気遣いなど出来てはいない。だが、していないわけではない。そうは思っても伝わらない気遣いなどしていないのと同じ扱いになってしまうのだ。結果がすべてのこの世の中で、しかも仕事の世界で成果を上げられない私の言い分など彼の完成された理論の前ではおくびにも出せず、最早もはやぐうの音も出ない。

「すんません。いや、僕のせいでいつも迷惑かけてますんで出来るだけ早よ返さなあかんと思って言うたんです。」

完膚なく打ちのめされて出てくる言葉も言い訳がましいものになる。せっかくまとまりそうな話がまた険悪なものになりそうで息苦しさが高まる。阿藤は半分程の長さになった煙草を、頬をすぼめて一気に吸いこむ。

「まぁ、その気持ちは分からんでもないけどやな‥そやけど現実的に一銭も無しで生活するんが無理なんは分かったやろ。」

話が完全に自分の流れになった確信を得て、阿藤は幾分柔らかい口調になる。それを見て少しほっとする私がいる。自分でも嫌になるくらいに負け犬ぶりが板についたものだ。ここまでくると抵抗するより謝るほうが楽に感じる。

「はい、生意気言うてすいませんでした。」

素直に謝ると阿藤は気を良くして少し表情を和らげた。

「まぁ分かればええんや。で、どうする?月に2万、いや、別に1万ずつでもええんやで。」

行き先の決まっているような話にうんざりして、その条件を呑んでしまおうかと気持ちが揺らぎそうになる。しかし、一年を越えるような弱みを作りたくはない。

「ほんなら月5万で、三回で払わせてください。お願いします」

「おい、何言うてんねん。お前の給料の三分の一超えてもうてるやないか!お前はさっき言うたこと聞ぃてへんのか!?」

「阿藤さんの気持ちはありがたいんですが、それに甘えてばっかりの自分が嫌なんです。」

「クマよ、言うてることは立派やけど今までのお前見てるとそれは無理やな。」

この状況を作っているのも私なら、この信用の無さを作ったのも私である。今や周囲はおろか過去の自分でさえ既に私の味方ではない。
毅然とした態度で臨むはずだった気概は完全に崩れ、今は借金を返す算段にさえ懇願する身に成り下がっている。

「お願いします。心配はかけませんから。」

「ほー、どう心配かけへん言うんや?」

勢いで、熱意を伝えたはいいが具体策を訊かれるとは思わなかった。切羽詰まった私は昼間に考えていた、おそらく使わないと思っていた案を思い出した。

「阿藤さん、あの、僕、バイトしようと思うんです。」

「はぁ!?あのなぁ、お前、ウチの会社が副業あかんの知らんのか?」

会社の規則など有って無いようなもので、寮に女を連れ込むようなやからが吐く正論に違和感はあったがそこには触れられない。

「はい、知ってます。そやから会社には黙ってて欲しいんです。」

ここまでくると後には引けず、月に5万円返す算段を変えたくない一心だった。

「本業もろくに出来んやつがバイトなんか出来んやろ!?」

反論は出来ないが、この案を通さなければさらに長い借金地獄が待っている。

「そうかもしれませんが、二日に一回くらいで、4、5時間ほどなら大丈夫やと思うんです。常識ない僕ですけど、利子も払わないかんと思てますし。」

「‥クマよ、俺は利子なんか考えてへんけど、お前がそういうことに気がつくようになったんは嬉しいわ。」

そう言いながら阿藤の口元が(わず)かに緩む。それは、いつしか競馬が当たった時に見せたのと同じものだった。そしてそれが出たのは彼の目論見が20万以上取るか、相応の利子が最初からの目的で、それが相手である私の口から出たからに他ならない。

「まぁ聞くわ。お前も色々考えたみたいやから、どうするつもりなんか全部言うてみいや。」

阿藤は残りのビールを喉を鳴らして旨そうに飲み干した。その空き缶を卓に置く《てん》と間の抜けた音が説明を始める合図となり部屋中がしんとなる。アルバイトの案まで話が発展するとは思わず、その先は大して何も考えていなかった私に阿藤の全てを見透かすような、それでいて何か期待を持っているような視線が注がれる。

「‥あの、バイトは商店街近くのカラオケ喫茶で募集の貼り紙してたんで、そこへ行ってみようと思ってます。時間とか仕事明けで都合良さそうですし。‥とりあえず行ってみんとなんとも分かりませんが‥。利子は一割位で考えてるんですけど‥。」
彼がどの程度の利子で納得するか分からないが高い設定にしたくはない。自然に利子のところからうつむき気味になり、声も尻蕾しりつぼみに小さくなる。

「‥えらい用意がええやないか。お前、もっと前からバイトしよう思とったんちゃうか?」

「いえ!そんなことは‥」

確かに考えていたが、それは今回の緊急事態を凌ぐ為の選択肢の一つに過ぎない。とは言え、それを見透かされた気がして動揺してしまう。阿藤は卓上に無造作に置かれた数種類のつまみの中から竹輪を選び、くちゃくちゃ音を立てて食べながら水滴にまみれて汗だくになったような二本目の缶ビールのプルタブを引く。《ぷしゅ》とやや気の抜けた音と同時に小さな泡の塊が、飲み口から顔を出す。

「なぁクマよ。あの車売ったろか?」

「‥え!?」

予想だにしなかった突拍子のない彼の提案に私は固まった。
それを横目に阿藤はぬるそうなビールを喉仏を三回ほど動かして流し込む。

「‥いや、それやったら修理代払わんでええし、お前も楽やろ?借金の分込みで50万でどうや?利子もいらんし。」

予期しなかった彼の言動に、今までのやりとりが全て徒労になるような気がして強い疲労を感じ、意識が遠のきそうになる。利子の額が気に入らなかったのか、話は振出しに戻るどころかより険しくなってしまった。しかし諦めてはいけない。この場を凌ぐためだけに首を縦に振るには代償が大き過ぎる。

「‥阿藤さん、僕にはまだ早いですわ。運転は下手ですし、駐車場代も払えませんし‥。」

「そうか?ええ話やと思うけどな。バイト代で一年もせんうちに買えるぞ。どこでも
好きな時に行けるし、クマちゃんモテるで~。」

車は出来れば欲しいが阿藤の車など絶対に買いたくはない。

「そうかも知れないですけど、まだまだ仕事も中途半端ですし、もっと仕事できるようになって給料上がってからのほうがいいと思うんです。」

「借金があるからがんばる!車があるからやる気が出る!男は甲斐性や。ほんで借金解消や!は・は・は!」

阿藤は車を言い値で売りつける妙案に気を良くしたのか、つまらない駄洒落に一人、呼吸もしにくそうに腹を抱え、大声で笑った。

やがて笑いも落ち着き、しんとした部屋に《み゛~》と果てることなく続く、力強い夜虫よるむしの鳴き声だけが響く。

「クマちゃんよ、まあ煙草でも吸えや。」

赤ら顔の阿藤は卓上の灰皿を私の方へ滑らせる。先にカラカラに渇いたのどを潤したかったが、煙草の我慢にも辛さを感じていた。私はせきを切ったようにズボンのポケットをまさぐり、しわくちゃになった煙草を探し出し、覚束おぼつかない手つきで火を着けた。飲み込むほどの勢いで痺れを切らしていた体へ煙を送りこむと私のお気に入りのやや甘い匂いのする煙が肺を満たし、頭の中がふわりとして、酔ったような感覚と同時に、軽い目眩めまいが起き、意識が朦朧もうろうとなる。少し気分は落ち着いたが、話の雲行きは怪しくなるばかりで悠長に構えてはいられない。

『このままではまずい。奴はもう事が成立したと決め込んでいるんじゃないだろうか。ここでなんとか断らなければ骨の髄までしゃぶられてしまう。ぶつけたのは悪いがなんでこんな展開になるんだ!?。どう足掻あがいても奴にぼったくられる結果にしかならないのならこんな話し合いは無駄なだけじゃないのか?』

そう考えていると全てが馬鹿らしく思え、虚無感が気持ちを萎えさせた。ふと気がつけば、急いで吸った煙草の火は、フィルターの近くに迫っている。我に返って阿藤を見ると、彼は豆菓子をぼりぼりとむさぼりながら二本目のビールを飲み終え、卓上の煙草に手を伸ばしている。慌てて煙草の火を消し、灰皿を阿藤の前へと戻すと彼は少しうつろなよどんだ瞳でこちらを見た。通すなら今しかない。

「阿藤さん、とりあえず修理代と借金分を三ヶ月で払わしてください。どうしても、けじめだけはつけときたいんです。」

「なんや、嫌なんか?それとも高い言うんか?
恰好つけんとちゃんと言えや。」

目が据わり気味の阿藤を見ると、からみ酒になりそうな不安にかられる。

「いや、そんなんやないんです。いっぺんちゃんと借金返さんと気持ち悪いやないですか。計算もややこしくなりますし‥利子とか取る気のない阿藤さんにせめて僕の気持ちで借金返す間はタバコとお使いに行く分の代金は全部払わせてもらおうと思うんです。車売ってもらうためにも借金は早く返したいですし。」

心にもない言葉をなんとか繋ぎ、その場をしのぐ。最低一日500円として、何も無い日が何日かあったとしても、月に最低1万円は確実に出て行くだろう。利子としては破格の金額になるが、消耗しきった私は早い幕引きを望み、萎えた気力からやっとのことで考えついた策はなんの事は無い、単なる“先送り”だった。本当は車を買う気など毛ほども無いが、『もう後はどうにでもなれ』と思う投げやりな気持ちはあっさりと私に嘘をつかせ、更なる悪人へと仕立てさせてゆく。
先ほどまで渋っていた阿藤もこの条件は妥当なものだったようで満足気な表情を浮かべたが、それを隠すように一瞬で真面目な表情に切り替える。

「‥お前の言いたいことはよう分かった。バイトの事は黙っといたるわ。そやけど昼間に仕事でしょうもないことやったらすぐに辞めさすからな。」

最後に彼はそう釘を刺してこの件はやっと一段落となった。
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