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底辺 作者:富士江 三蔵
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第3話

飛行機雲が交差して広がる朝焼けの空が徐々に明るいものへ変わっていく。地上ではその優雅さとは全く異なった、平日の喧騒が始まりを見せていた。朝飯を頼まれていることもあって6時10分に車を出した。迎えの時間は7時の設定なので充分過ぎるほど余裕のある出発時間だ。未だに慣れない運転に緊張しながら徐々に交通量が増えつつある国道に出て、20分弱で目的のコンビニに着いた。国道沿いの、いかにも郊外店といった広い駐車場にこれから建設現場へ行くであろう車が駐車場の半分近くを占めていた。面倒に思いながら入り口からは遠いが両サイドに車がいない場所に空きを見つけ、後退する。輪止めまでまだ余裕があるはずなのに“ゴッ”と鈍い音と振動が伝わってきた。

『!?』

一気に血の気が引いていく。

『まさか!?‥いや、何もなかったはずだ!‥落ち着け!何かの間違いだ!』

どごまぎしながら少しだけ前に出し、祈るような気持ちで降車して状況を確認する。そこは自転車置き場に近く、誰かが邪魔に思って動かしたのか、がっしりとしたコンクリート土台で高さ70センチメートル程の“自転車置き場”と記されているスチール枠の看板が輪止めの1メートル程手前に放置されていた。その土台に当ててしまったのだ。車を見ると後部のほぼ真ん中のリアバンパーが少し凹んでいた。それを見ると反射的に涙が目に滲んで見えるものが変に明るく、少しぼやけている。どうにかなるはずもないのに次の瞬間にはそれを必死でさすっていた。どう見ても誤魔化せそうな傷ではない。悪夢ではないだろうかとも思って懺悔するように両手を組んで額に何回かぶつけても‥目は醒めない。

『神様!』

祈るようにまたバンパーをさすったが奇跡が起こるはずもない。やっと祈っても無駄なことを受け入れて真っ白になった頭を抱え込むと反射的に大きな溜め息が呼吸に混じる。

『あぁ、どうしよう!どうしよう!?』

思考もままならず、それに加えてこめかみが痛くなるほどの耳鳴りが頭の中で渦巻く。思わず吐き気がこみ上げ、その場にしゃがみかけたそのとき、微かに別の音が流入してきた。それは買い物を終えた、頭にタオルを巻いた職人の一団から発せられていて、がやがやとこちらに近づきつつあった。その気配が一気に意識を我に押し戻し、耳鳴りを消し飛ばした。ぶつけたのは彼ら車ではないが、罪悪感から逃避するように私は慌てて阿藤の車から少し距離を置き、思いついたように煙草に火を着け、何事も無かったように振る舞う。煙を大きく吸い込みながら気になる凹みをちらちらと見て、これからの事を考えた。

『‥まずいことになった。なぜ、ちゃんと確認しなかったんだ?‥そもそもなんであんなところに看板があるんだ!?‥全くツイてない!‥へこみは小さいしなんとかごまかせないだろうか?‥いや、姑息な事を考えてもすぐにバレてしまうのがオチだ。昨日がご機嫌だっただけに阿藤は相当な罵倒を怒りに任せて浴びせてくるにちがいない。‥もしかすると奴は殴りかかってくるかもしれないが、落ち度が俺にあるだけに抵抗もできないし平謝りするしかないのか‥。いや、何発か殴られて終わるならそのほうがいい。何を言われるか分からないのが一番怖い。どう予想しても“修理代を払ってそれでよし”と穏便に解決とはいかないだろう。‥いや、それどころか俺はまとまった修理代すら持っていないじゃないか!あぁ嫌だ!逃げてしまいたい。』

気がつけば煙草の火は、もうフィルターの近くまで迫っていた。車をぶつけてから実際は10分程しか経ってはいないのだが、随分と長く時間を浪費した気がする。いくら考えても車は直らないし時間を巻き戻すことも出来ない。最早もはやお使いを完了し、時間内に迎えに行かなければ更に阿藤を怒らせるだけだ。もう腹をくくるしかない。

やっとレジの行列を終え、やきもきしながら車を走らせ約束の時間の五分前になんとかアパートの前に着いた。とりあえず車から降りて出迎えを装う。煙草を吸って少しでも気分を持ち直したかったのだが、悪い報告をする手前、阿藤に喫煙を目撃されれば不謹慎な奴だと罵られそうなので諦めた。何気なく辺りを見回すと行き交う人々は無駄の無い、淡々とした動きでそれぞれの役目を果たすべく目的地へ向かっている。当然、誰も私のことなど気にもしない。そんな中で止まっている自分はこの世界に存在してはいけないのではないだろうか?現実逃避がそんな錯覚を生みだす。頭はふわふわとして夢の中のようだが、阿藤の登場を待つ現実世界は私の心臓の鼓動を確実に早めさせていた。

私の到着から数分ほど後、ほぼ予定通りの時間にアパートから出てきた阿藤は気だるさを帯びていて、眠そうに欠伸あくびをしながらこちらに向かってきた。

「おう、クマちゃん。車の中で待っとったらええのに。昨日はようけコイたか?」

言い終わるのを見計らって、私は謝罪の言葉をねじ込んだ。

「す、すいません、あの‥」

勢いに任せて謝罪しようと試みたが上手く言葉が繋がらず、見切り発車はすぐに行き詰まりを見せる。その挙動不審な私の様子に機嫌の良さそうだった阿藤の顔から波のように笑顔が引いて、これからの報告を吟味する為の冷たい目が私に注がれる。ほんの僅かな無言の間が異常に長く、周りが鉛色になったような重圧を感じる。

「‥すいません。阿藤さんの車ぶつけてしまいました。」

寝起きの阿藤は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに事態を理解し、眉ねに皺を寄せた。

「どこぶつけてん?」

静かな口調で問いながら彼の冷ややかになった目は事の追求を始める。私は車の後方をちらと見て、すぐに手をそちらに示した。

「‥後ろです。」

歯切れも悪く言い終えると私は視線を下に向ける。すぐに阿藤は車の後部へ移動し、私ものそのそと後へ続く。

「あぁー!!‥お前なんやこれ!?ごっついへこんどるやないか!」

リアバンパーを見て驚く阿藤の大声に道行く人々が何事かと、ちらりとこちらを見ては通り過ぎる。想像はしていたが、やはり私にとって意外な好展開などあるはずもない。私から見れば小さな凹みと思っていたが意外にも阿藤からはかなり大きな傷と受け止められ、いつもの仕事の失敗を責められたときの胃を鷲掴みされるような痛みがまた襲ってきた。謝罪しようとしたが上手く声が出ず、必死に絞り出すと言葉より先に情けない泣きそうな嗚咽おえつが先に出て、その後にやっと謝罪の言葉が後に続いた。それに反応して阿藤は怒っていた顔にいびつな笑みを加える。

「うぅー、すみましぇん。‥なんじゃそりゃ!悲しそうに泣き真似か!?悲しいんはこっちやわ!お前これ、どこでぶつけてん!?」

すぐさまおちょくるように私の真似をし、怒りの戻った顔で詰問が始まる。それを受けて私は申し訳ない気持ちに馬鹿にされている屈辱が入り混じり、どう言えば良いか頭に何も浮かばず、ただ俯いて黙していた。その態度に業を煮やした阿藤はいきなり私の左耳朶たぶを引っ張り、掴んだ耳の中に思い切り息を吹き込んだ。

「おーい!聞こえとんか!?まだなんか詰まっとんか!?どーこーでぶつけたか聞いとんのや!!」

捻り上げる指先により力をこめながら彼は殊更ことさらに声を大きくして責め立てる。その屈辱にむらむらと怒りが込み上げてきたが非がこちらにある以上耐えなければならない。しかし、その怒りの効果でまともに声を発することが可能になった。

「‥来る途中のコンビニです。そこの自転車置き場の看板で当てました。」

低姿勢でいなければならないのだが、どうしても腹立ちが抑えきれない。あらぬ所を睨みながら、つい素っ気無い言い方になってしまった。

「お前、車ぶつけといてなに偉そうにもの言うとんや!?」

何より強いこの切り札を出され、私はず怖ずとして俯くように頭を下げながら小さな声で謝るしかなかった。

「もうええ!このままっても時間なくなる!早よ乗れ!俺が運転する!」

素早く運転席に乗りこむ阿藤に続くことも出来ず、ぐずぐずとしている私に阿藤がまた怒鳴る。

「なにぼーっとしとんねん!早よ乗らんかい!!」

その声にやっと体が反射的に反応して、私は助手席へ走った。

車中では長い沈黙が続いていた。阿藤は普段、車内でカーステレオかラジオをつけるのだが運転しだしてからは電源を切っており、重く張り詰めた狭い空間はタイヤの転がる音と時折使用される方向指示器の音が《カッチカッチ》と大袈裟おおげさに響くばかりで、聞こえるはずの周囲の雑音さえこの場に入り込むのを拒んでいる様だった。長い緊張に喉はカラカラに渇き、精神が重圧に押し潰されそうになりながら私はもう一度しっかり謝っておこうか考えあぐねていた。しかしそこからまた叱責される展開を思うと今一歩踏み出せない。事が何も進展していない今、阿藤の怒りが収まっているはずは無く、今までの経験からすればこのまま一言も謝らなければ彼は今回の事を“礼儀知らず”と上書きして記録するだろう。そして今後、事ある毎に他の過去の出来事に追加して私の人間性を全て悪として罵詈雑言を浴びせるのだ。それが事実に基づいているだけにそんな気で行動した訳ではなくとも「お前は考え方が汚い!」「普通の人はそんなことせぇへんぞ!」「お前は常識も分からんから何やってもあかんのや!」などと一方的に非難され、言い訳も許されずそれを認めさせられる。そして私は何度も“社会不適合者”の烙印を押され、自分でもそれを甘んじて受け入れるしかなく、日々、意識に擦り込まれたそれに呑まれ、過失ばかりを繰り返し“爪弾き(つまはじき)”になっていく。そんな私がいつも一番恐れているのは殴られる痛みではなく、この心をえぐられるような仕打ちだった。勿論、先に謝ったからといって展開が変わる訳ではないだろうが何もしないで後悔するよりはいい。

車は国道を外れて片側一車線の県道に入ろうとしていた。会社まではあと10分程で着くだろう。真っ向から口を開く度胸の無い私は、その左折に阿藤の神経が集中するのを見計らって謝ることにした。

「あの、阿藤さん、愛車ぶつけてもうてほんま、すんませんでした。すぐに修理させてもらいますんで。」

できるだけはっきりと今の自分の頭で考えられる最善の言葉を述べて深く頭を下げた。阿藤は機嫌こそ良くはなさそうだったが思ったより冷静な口調だった。

「‥お前な、えらい簡単に言うけど修理に持って行く場所知っとんか?それにお前、これ直すんになんぼほどかかる思とんや?」

私は答えに行き詰まり、俯くしかできない。

「聞いてんのやで!」

阿藤は語気を荒げて答えを急かす。

「いや、あの、どこか修理工場探して、‥金額はどれくらいか‥分かりません。」

「ほらなぁ!お前はそんな段取りも考えんと口先だけや。お前はしょうもない傷や思とるか知らんけど、こ10万以上はすんぞ!」

『!!‥こんな傷で10万円もするのか!?』

それがもう少しで口を衝くところだったが落ち度はこちらにあり、穏便に済ませたいので耳を傾ける他ない。

「お前、俺がいっつもバイクとかチャリがちゃんと見えとるか訊いてもちゃんと見てますみたいなこと言うてたけど、お前の安全確認なんかこんなもんなんや。分かるか?お前がやってんのは見てるんやない。見てるフリしてるだけや!」

「‥はい、すみませんでした。」

自分の不注意が招いてしまった結果なだけに何も言い返すことはできない。

「そんな奴が偉そうにすぐに修理させてもらいます言うて、お前、今そんな金あるんか?」

「いや、今は10万も無いですけど、もうすぐ給料なんで入ったらすぐに出せますんで、少しだけ待ってもらっていいですか?」

「みてみぃ!お前はいっつもそんなんや!“すぐに直します”みたいなことは金を持ってる人間が言うことや。俺に借金まであるお前が偉そうに言うセリフちゃうぞ!そういうとこから常識ない言うんや!」

いつも通り、彼の言うことは筋が通っていて隙はない。ただ私は偉そうに言ってるのではない。出来る限りの誠意と謝罪をしたいのだが、それが上手く伝わらないだけだ。

「‥すみません。考えが足りませんでした」

これでまた、私の“誠意”は“いいかげんなその場しのぎ”にすり替わり、自らそれを認めなければならない結果になってしまった。もう何も発言できないししたくもない。

「まあ、とりあえず仕事や。どうするか考えとけよ。後で聞くからな!」

車窓からやっと会社が視界に入ってきた。長い、長い朝だった。仕事の始業を起点にすればまだ一日は始まってもいない。阿藤からの宿題の答えを考えなければならないが、とにかくこの拷問のような空間から一秒でも早く逃れ、始業までの僅かな時間にカラカラになった喉の渇きを解消し、煙草を吸いたい。既に昇りきった太陽はじりじりと熱気を放ち、終わりを許さないような一日の始まりを告げていた。

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