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底辺 作者:富士江 三蔵
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最終話

不毛な三年が経過すると同時に定期預金も満期になる。“人質”の延長や新規を促されるかと思ったが意外にそれはなかった。
受け取った積み立て金は六十万円を切っていた。親父への送金と“内輪の流行”に乗って高級腕時計を購入した結果の額である。これがビクトリーに身売りされて過ごしたあかしであり対価のようなものである。それにしては随分安い気もするが、所持金150円で始まった逃避行を思えば当時の状況とは比べようもない。さしあたっての私の課題は行くアテを考えることより“良い形”で辞めることになった。経過と結果はどうであれ、私は約束を守った。義務は果たしたのだ。だからそれを台無しにするような逃げる形は避けたい。常務に申し出ることも考えたが、現在、直属の上司である正史に話を通さなければ面目を潰されたと捉えられるだろう。その結果、「なんで俺を飛び越えて話もっていっとんねん!?」と恫喝されるのは目に見えている。話を切り出すタイミングと言い回しには細心の注意を払わなければならない。

バブル崩壊が報じられた直後から本社の資金繰りが悪化したらしく、それを補填するためにビクトリーはあからさまな“回収日”を続けていた。今日は閉店までまだ一時間以上あるのに店内は閑散としている。正史にくだんの話をするにはこれ以上の好機はない。

「あの‥正史さん、話があるんですけど‥」

「なんや、辞めるとかか?」

正史の読みに面食らったが引き下がっている場合ではない。

「‥はい。今月で上がらせてもらいたいんですけど‥」

「なんや、河本さんとこに戻れんからか?そんなもんこっちで頑張ったらええやんけ。もうすぐ俺らの時代やないか。それとも俺とのつきあいは続けられんか?」

正史は狡猾だった。私と昵懇じっこんの仲というわけでもないのに『自分はお前に強い仲間意識を持っている。お前はどうなんだ!?』と揺さぶりをかけてくる。ここで答えを誤れば彼は怒り出し、曲解された事柄を弁解しても聞く耳を持たれず、なす術もなくこの話はうやむやになってしまう。そうなれば今後、この件は口に出しにくくなる。

「‥僕がここを辞めたら正史さんとつきあいは続けてもらえないですか?」

考えたわけでもないが悪くない答えが口をついて出た。

「‥無理やな。」

私の返答が意外だったのか、正史は一瞬の間を置いて静かに返答して正面を見据えた。やはり交渉は決裂に終わった。だが失敗ではない。彼を怒らすことなくこちらの意向を伝えられたからだ。多分これ以上の成果は何回やり直せたとしても上げることは出来ないだろう。ただ、双方の主張が平行線である以上、もう話すことはない。

「‥そうですか‥」

私は弱い返答を返すに留め、持ち場へと戻った。これで辞め方の選択は好まぬほうに決定された。
以前のトンコ未遂のときにボストンバッグは正史に没収されてしまった。まずはそれに代わる物を購入しなければならない。商店街にはそれを扱う店が二店舗あるがビクトリーの関係者に見られるのは勿論もちろん、常連客から要らぬ情報が内部に伝わるのも避けたい。考えた結果、私は遅番の休憩時間を使い、私服に着替えてそれを買い求めることにした。店主はビクトリーとは無縁な人物である。
人目と少ない時間を気にしながら一番大きく生地の薄いものを選び、可能な限り小さくたたみ、早足で戻る。あとは荷物をまとめるだけなのだが生活感のあるものをしまい込むにはまだ早い。不意に正史が見回りにやってくることがあるからだ。寮の部屋に鍵は無く、以前のことから正史は抜き打ちで部屋を開けるのだ。当初は「逃がさんぞ。」と捨て台詞のように言って笑っていたものだったが、“辞めたい”という本気の意思を私が表面に出したからには彼も薄れてきていた警戒心を強めているはずだ。もし荷造りの現場を押さえられれば“人質没収”ともなりかねず、次の機会は更に難しいものとなるだろう。
それに加えて間も悪かった。二週間ほど前、ついに井口がとんだのだ。私もあやかってすぐに続けばよさそうなものだが、それはできなかった。最低人員を割るのを承知でそれを実行すれば禍根を残すことになり、親父の手紙で実家の住所は割れているはずでそこへ彼らが押しかける可能性もある。そうなれば正当であるはずの私の行為は歪められてしまう。
私の計画を阻害する間の悪さと募集人員が入らない苛立ちが続く長い日々を経て、やっと若い人員が補充された。

『今夜しかない!!』

現時点で給料日から十日、〆日からいえば給料の大部分がトンコすればただ働きなのだ。これ以上奉仕する気はない。
そんな中、幸いしているのは本社の経営悪化で常務も忙しいらしく、ひと月前から打ちっぱなしに行かない日々が続いていたことだ。
通常通り仕事を終え、荷造りの仕上げに入る。制服とゴルフバックと健康保険証を残した家財は以外と多く、しっかりと収めなければ入りきらない。ゴルフセットは安いものにしていて正解だった。あとは新しく入った人間が使えばいい。保険証は河本の件のすぐあとに給付された。

[済んだことやしもうええやないか。これ作ったったから気分良く頑張れや]

―三年勤めてやっと支給された健康保険にはそんな意味が含まれている―

妄想による曲解なのだがそれを見る度に自分が安く見られているようで怒りが込み上げる。

正史が来ないことを祈りながら音をたてずにカモフラージュに置いたものをバッグに詰める。テレビの音でそれを掻き消すことも考えたが、それでは隣からやってくる正史の気配も察知できない。脳にまで響くような心臓の鼓動を感じながら布団を広げ、足元にバッグを隠し、消灯して私服のまま布団に入る。

《‥カチャ‥》

ほどなくしてドアノブが回った。閉じたまぶたに強い光は感知していない。

『頼む!そのまま灯りを点けず行ってくれ!!』

上下の(まぶた)に力を込めて祈る。蛍光灯が灯れば全てが露見してしまう。
息を潜めて狸寝入りをしながらも正史の動向がはっきりと分かる。通路からの微弱な光を頼りに彼は一通り左右を見てドアを閉めた。

『‥助かった‥』

しかしここで安堵に浸って気を許すわけにはいかない。眠りこけては機を逃すかもしれないし、なにより脱出するには正史の部屋の前を通過しなければならないのだ。

―金原夫婦の眠りが深く、駅までの徒歩の分を含み始発になる時間―“午前五時”私はこれが好機と踏んだ。

緊張は緩むことなく睡魔を遠ざけ、忍ばせたペンライトの光を受けた時計は予定の五分前を刻んでいる。

『今だ!行くぞ!!』

長時間暗闇にいたことでうっすらと部屋の内部は認識できる。

『ゆっくりでいい。‥慎重にやらねば!』

バッグをドア近くに静かに置き、布団を二つ折りにする。落ち着いていた心臓の鼓動が再び体中を叩く。
長い時間をかけてドアノブを回し、ゆっくりと‥大きく開ける。

『もう少し小さいものにすればよかったか‥』

バッグが大き過ぎて縦にしないとドアを通過できないことに今更後悔する。取っ手のついた長さ1メートル強、幅、奥行50センチメートルほどの丸太のような形のバッグを物音を立てずにドア枠を通過させるのは困難を極めた。

《コッ》

通過を目前にしてバッグの角をドア枠に当ててしまった。

『しまった!何やってんだ、俺!』

私は昔から大事なところで必ずといっていいほど失態を演じてしまう。ともあれ自分を叱責しても状況は変わらない。行くも戻るもできず、冷や汗をたらしながら私はしばらくその場で固まった。‥隣室の物音はない。静かに息を吐き、今度は胸一杯に吸い込み、呼吸を止めて摺り足で正史の部屋を過ぎ、階下へ向かった。

飛び出した外はひんやりと地方らしい澄んだ空気に包まれ、人気はない。脇目もくれず私はひたすら走った。駅の目前で息も絶え絶え振り返るとクランク状の造りである商店街の奥行きは仄暗く、誰もいない。

『やっと終わった‥とりあえずここを離れてゆっくり眠りたい‥』

三年を無駄なものにしたのは彼が思考を停止して常に受け身と惰性で生きていた罪でもある。

彼しかいない自室でテレビがあるとする。彼はテレビを見たいのだが電源が入るのをただ祈って待っているだけなのだ。しかしそう思うなら自分で動き、リモコンを探すか本体に働きかけなければそれは叶わない。彼はいつその事に気づけるだろう?

重そうなバッグの反対に体を傾け、一歩一歩踏みしめるような足取りで彼はホームへ消えていった。
―了―

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