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底辺 作者:富士江 三蔵
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第2話


そんな或る日の朝に事件が起こった。仕事が始まる前に皆が集まり作業の打ち合わせに入る時だった。打ち合わせといってもおにぎりを頬張る者、煙草を吸う者もいる軽い雰囲気のもので、ほぼ雑談のようなものだ。そんな中、阿藤が私に今から使うアタリやタガネ(仕上がった鋼材を切断する際に使う)の準備の確認を聞いてきた。自信の無い私は小さな声で返事をした。そんなことは普段通りなのだがこの日の阿藤は機嫌がかなり悪いようだった。

「こらぁ!クマ!聞いとんか!お前の為に言うたっとんのやぞ!なんもできんお前みたいなん居るんやったら小学生のほうがマシなんや!」

怒鳴る阿藤に周囲はこらえるように笑う者と顔をしかめる者とに分かれたが、後者も私への憐れみではなく、『また始まったで‥』という感覚のものである。嫌な一日が始まった実感と共にストレスからくるものなのか、胃の辺りが掴まれたような、きゅっとした痛みが走り、そこから絞り出すように謝罪する。慣れているはずだが惨めさは日々、より深くなっていく。

「ちゃんとせいよボケ!ぼーっとしとったら殺すぞ!」

阿藤は続けて侮蔑の表情そのままに鼻息も荒くがなり立て、同時に煙草を投げつけた。それは私の胸に当たると火の粉を散らして地面に落ち、くすぶっている。それを見た途端に、耐え難い怒りが込み上げてきた。

「何もタバコ投げんでもええやないですか!」

文句らしいものを面と向かって初めて言った瞬間だった。

「なんやとコラぁ!!」

すかさず胸ぐらを掴もうとする阿藤の手を払いのけ、二人が仁王立ちになったそのとき、周囲の人間が割って入って二人を遠ざけた。

「一丁前に口答えしやがって!あとで絶対シバいたるからな!」

いきがる阿藤と周囲の風景がもやに包まれたように白みがかって見え、今ひとつ現実感が鈍く感じる。耳鳴りが響き、頭の中で反響してわんわんと広がる。頭の中で何かが弾けているような感覚を覚えた。

『あいつが売ってきた喧嘩なら仕事の事は関係なしで遠慮なくぶち殺せる。今までさんざん人を虚仮こけにしやがって!‥やってやる!最悪でも刺しちがえてやる!!』

吼える阿藤をよそに私はそう思った。
阿藤に面と向かって楯突けた嬉しさで気持ちが高揚したせいか、自覚のある意味不明の歪んだ笑みが浮かぶ。はたから見れば相当醜悪なものに映っただろう。

案の定、就業後に私たちは部長に呼び出しを食らった。阿藤がいつもの私の役立たずぶりを伏線に、事のあらましをまくし立てている。当然私の出る幕はなく、どのみち私が悪いという結論で終わるのだろう。職場である以上、仕事の出来ない者に発言権などありはしないのだ。

私にとって聞くに堪えない阿藤の説明があった後、部長に今回の件をどう思っているのかを訊かれた。煙草の臭いが染み付いた、殺風景な事務所に静寂が広がる。

「‥確かに僕はいつも迷惑おかけしてます。すみません。」

ここにきて、また謝る事しか選択肢がない自分が腹立たしく、切なく、やりきれない。阿藤は『そうやろ。そうやろ。』と言わんばかりの得意顔でこちらを見ながら聞いている。ただ、せっかく反抗の狼煙のろしを上げたのにこのまま泣き寝入りでは溜飲が下がらない。

「‥ただ、殺すとか言うて煙草投げつけるんはどうかと思います。」

少しでも自分の正当性を主張したい私は唯一分がある材料で切り込んだ。しかし予想に反して阿藤は少しもたじろぐことなく猛烈に怒り出した。

「なに言うとんねん!お前がしょうもない事ばっかりしよるからやんけ!いっつもやる気なさそうに仕事しやがって!厳しいんは当たり前や!それが職人の世界やろが!死にもせんくせに揚げ足とんな!」

確かにそうだ。やる気がないのも見透かされている。だが、そんなに言うならクビにすればいいのだ。そうしなければやる気のない者がミスを犯すのは目に見えているし他の人達、ひいては会社にも迷惑なはずだ。それを承知で何度も引き留めておいて私の過失を責め続ける、その真意が分からない。

「まあまあ、ちょっと待てや。」

収まらない阿藤を見かねて部長が口を挟む。一週間のうち二日も現場に出ることもなく、出ても一時間も居ることもない立場の彼からすればこんな事で時間を食うのはわずらわしいのだろう。恰幅の良い体をソファに預け、左足を貧乏揺すりで震わせながら面倒とも困ったともいえないような表情で重い口を開く。

「‥お前もあんまり言うたんな。こいつも縮こまってまうばっかりや。それで焦ってポカやらかしよんのもあるんちゃうか?‥そやけどクマももうちょっとマシに仕事できるようになれよ。」

部長はやれやれといった様子で話しをまとめにかかった。だが、自分に一切の非を認めない阿藤はそれにも納得がいかない。

「そんな奴が俺より必要や言うんやったら俺が出て行きますわ!」

彼は声高に部長が困惑するのを見越して自分の優位さを見せつける。

「お前が悪いとか要らんとか言うとんちゃうやないか。出て行くとか言うなや。‥クマも人に迷惑ばっかりかけとんのやから、そこはちゃんとわきまえとかなあかんぞ!」

以前のときより阿藤に熱が入っているが、やはり大筋の展開は変わらない。たとえハッタリであろうと、もし、彼がへそを曲げて何日かでも欠勤すれば仕事の進行に大幅な遅れが出るのは確実で、管理能力を問われる立場の責任者にこの発言はかなり効果があった。阿藤も部長の慌てたような反応に満足気な表情になってきている。そして部長は苛ついた顔つきで吸っていた煙草を素早く消してまた次の一本に火を着けた。

「阿藤から聞いてるけど、仕事に向いてないとか言うてるらしいな。でもな、誰も彼も向いてる仕事してるわけやないぞ。みんなしんどいんや。お前は我慢と頑張りが足りんのちゃうか?そのへんもうちょっと考えて、気合い入れて明日から頑張れや。」

これ以上進展のない話に、部長は私への援護の打ち切りと阿藤の完全勝利を宣言した。
もとより味方などいないが、更なる孤独感が身を包む。事あるごとに自分が悪者である構図は仕事が出来ない私にとってくつがえすことなど不可能でしかなく、死にたくなった。前にも幾度かそんな気持ちになったことがあったが阿藤の言う通り、そんな度胸があるはずもなく今も死ねずにいる。

くだんの結果に意気消沈しながらも阿藤との喧嘩に備えて心持ちを好戦的なものに切り替えていく。正当性のない私が奴に報復できる機会は今を置いて他にないのだ。
空調の効いた事務室からはとても同じ建物内とは思えない、むっとした暑さのもる人気の無い廊下を阿藤の後に続く。そこは夕陽の赤みを帯びただいだい色が窓から射しこんで辺り一面をセピア色に染め上げている。
本当はこんな形で歩きたくはないのだが、逃げているように見られたくないのと喧嘩の再開宣言を待つ理由もあって適度に距離をとって歩いた。

「おい、クマ!」

早くも仕切り直しを始める気かと私は立ち止まり、拳を固める。

「‥まぁ今回はもうええ。許しといたるわ。明日からまた気持ち入れ替えて頑張れや。」

阿藤は振り向きざま“しゃあないな”という含みを織り交ぜた穏やかな表情を浮かべた。
さっきまであれだけ息巻いていたとは思えない今の阿藤の豹変に閉口する。部長との面談で自分の存在価値を改めて確認して気を良くしたのか、結局完全な肩透かしを食らったのだと認識した途端にやるせなさと失望感が同時に襲ってきた。部長からも見放され、萎えそうになる闘争心をなんとか維持していたのにそれも徒労に終わった。結局、私は汚名を重ねただけでこの件は終わってしまう。もう私には出すカードは残っていない。全ての原因が私にあり、いったん事が収まったとしている現状で、今、阿藤に殴りかかれば“自分の非もわきまえない卑劣漢”にしかならず、そうなれば叔父の評判までおとしめてしまう。収穫がまったく無くなった胸の苦しさから、また蚊の鳴くような返事しかできなかった。

「そんな落ちこむなって。もう済んだことやん、元気出せや~。それよりクマちゃん、今日頼むで~。」

阿藤は先程までの出来事が何だったのかと疑うほどの一変した調子の声で続ける。彼がこの猫撫で声になるときは頼みごとがある時と相場は決まっていて、面倒な事ほど甘ったるい声色で依頼する。今までの最高ランクはバイブレーターの時だった。どうしてもその日に必要だと泣きつかれ、まだ陽が沈まぬ時間にアダルトショップへ使いを頼まれたのだが、これを渋った私に駄賃2000円の約束で懇願した。その約束もまだ果たされていないが今の頼みごとはその女の部屋への送り迎えを指していた。そこは車で30分ほどかかる住宅街にあって駐車場は無く、阿藤にとっては駐車違反の罰則を避けることと、運転の面倒さを解消する一挙両得の案が“彼女の家に二人で出向き、私に送迎させる”ことだった。

「クマもそのうち車買うんやろ?長いこと乗ってへんと勘が鈍るし練習しとったほうがええんちゃうか?ハタチ超えて乗れんでは恰好悪いしな。俺の車で練習したらええわ。たまに由香里のとこまで送ってもらうときに運転教えたるやん。そのあと迎えに来るまでは好きに乗ってええし。」

そんな理にかなったような建て前と、うわべだけの親切心を盾に阿藤は巧みにその役目の承服させようとした。
彼の愛車は軽のワンボックスタイプでマニュアル車だった。私は仕事も駄目なら運転も下手で、この送迎も苦痛でしかなかった。なにしろハンドルを持ち、基本的に前を向いている状態から
「ブレーキが遅い!」だの
「ミラー見とんのか!?横の原チャリ気づいてなかったやろ!?」
などと横から大声で怒鳴られ、頭を叩かれる。そこで見ていたなどと弁明しようものなら「いいや。お前は見てへん。ほんなら何色やったか判るんか?‥見てみぃ。判らんくせに言い訳すんな!」とまた叩かれ、私の言い分は全て否定されるのだ。私を便利に利用したいときは親切心を恩着せがましく押しつけて、それを断ると烈火の如く怒り、恩も感じない最低な奴だと罵る。公私ともに全てがこんな感じで怒鳴られるのを避けたい心理と否定される人格を打ち消したい思いから迎合し、知らぬ間にやりたくもないことを望んでやっている形になっていた。
余計な面倒事を避けたい私は自分の未熟な運転で先輩の愛車を傷つけるような事になってはいけないと私は当初それを拒んでいた。

「なに言うてんねん。仕事で山本特殊金属さんとこから鋼材取りに行くこともあんねんぞ。お前の為に運転教えたる言うてんやろが!だいたい車乗れな免許取った意味ないし会社の車乗ったときに事故らんと乗れんのか!?それにお前には“僕がやります!”みたいなとこはないんか?」

そんな有無を言わさぬ彼の完璧な理論武装に言葉も返せず私の意見は却下された。

彼女の家までの道のりは阿藤のその日の気分次第で決まる。
どっかりと助手席に腰を落ち着けると彼は「今日は前のルートで行くぞ」とか「次を右や」などと、教習所の教官気取りで指示を出す。慣れない運転に加え、私の呑み込みも悪いのだろうがいきなり道順の変更を要求されたり、いつ叩かれるかもしれないと横を常に気にしている状態では集中力に欠け、運転技術の向上はおろか、地理も頭に入りはしない。そしていつまで経っても進歩を見せない私の運転を阿藤はせせら笑う。

「ほんまにクマは何やらしてもあかんのぅ。お前、後から新しい人間入ったらすぐ抜かれてまうで。そんなん嫌やろ?そやからがんばったら役職に推したるがな。主任。主任やで!‥なんにも出来ま主任や!!」

そのうえ私を小馬鹿にしてそれが高じると自分の駄洒落が面白いのか、人をなぶっているのが楽しいのか、嬉しそうに咳こむほど大笑いするのがつねだった。
今日は騒動の後で私の不満が相当溜まっていると読み取って気を使ったのか、それとも部長の反応から自分の存在価値が改めて実感できて機嫌が良いのか、珍しく優しく接してきた。

「クマちゃん最近運転も落ち着いてきたんちゃう?これやったら俺、着くまで寝ててもええかも知れんな。」

悲しいことだが阿藤からの滅多にない褒め言葉に少し嬉しくなる自分が存在する。日頃鞭に打たれるばかりで存在価値の乏しい私にとってまれに出る飴はとても貴重なもので、正直、嬉しくもあったしやる気も引き出した。阿藤は巧みにこれを使う。ドメスティック・バイオレンスを受けている女性で、ほんの少し優しくされるだけで別れられない人がいると聞いたことがあるがこんな感じなのかもしれない。

「クマちゃん、今日は好きなエロビデオでも借りて、ようけコいてゆっくり気分転換しとけな。朝はおにぎり二個と魚肉ソーセージ頼むわな。」

車から降りる間際にそう言い残し、阿藤は小洒落こじゃれたアパートへ消えて行った。
阿藤のように生身の女とセックスする機会が無いのは悔しい事ではあったが、自分の自由な時間は貴重なもので、彼が近くにいないことは私の心を芯から落ち着かせた。
帰りのその足でレンタルビデオ店に行き、返却までに阿藤も必ず見るはずなので彼の好みそうなものでありながら自分でも楽しめそうなエロビデオを選ぶ。そしてここぞとばかり酒と色々な肴と弁当、さらにカップラーメンまで買って呑みながらビデオを観て、欲情が極まってくると発散させた。毎日が酷い状況下にあっても卑猥な物を観て劣情を催し、それに流されるままの自分は本当にしょうもない奴だと思った。だが、悄気しょげていてもすぐに終わってしまうこの時間に余計な事は考えず、一瞬でも楽しく過ごそうと開き直った。
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