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底辺 作者:富士江 三蔵
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第13話

初めての店休日前の仕事明けに主任から聞かされていた前借りをした。店によって金額はちがうのだろうがパチンコ店では休み前に働いた分の前借りが出来る。コスモでは一日あたり五千円のそれが可能だった。前借りはこの業界では珍しいことでも恥ずかしいことでもない当たり前の風習で、その労働の対価は博打に吸い取られ、また次週に同じことを繰り返すのが慣例の者が多く、たちの悪い者になると夫婦での稼ぎを全て取り上げて擦ってしまう亭主もいた。

ともあれ私は三日で一万五千円を自由に使える権利を得た。とりあえず人心地ついたが先ずはスラックスと革靴を買い、少しでも自分独りの力で生きていく“本物の暮らし”を前進させなければならない。その残金を考えれば少額しか残らないが博打や風俗など贅沢をしなければ酒も飲めるしエロ本くらいは買える。とりあえず前夜に酒をご馳走になった香住にお礼がてら約束を実行した報告をしようと思い立った。生活が軌道に乗り出し、幾許いくばくかの金を手にすると自分以外のことにも考えが及ぶほど気持ちに余裕が生まれた。
はやる気持ちそのままに前借りの中から二千円を握りしめ、コスモの向かいにある自販機で備え付けのビニール袋に酒を詰め、私は香住の部屋を目指した。

「おう、よしぃ!」

ステテコ姿で現れた香住は既に飲み始めていたようで顔にほのかな赤みが差していた。
“今日は僕が買ってきました!”と言わんばかりに私は誇らしげにビニール袋を差し出した。小さな約束を果たしただけのことだがそれを話せる人がいるのは嬉しいものだ。

「そんな気ぃ使うなや。」

そう言いながらも香住は満更まんざらでもない様子で部屋の奥へ向かう。年輩者が好みそうな甘苦いオーデコロンの匂いが漂う部屋の中を進み、私は袋の中身をテーブルへ並べ立ててそのうちの一本を手にして胡座あぐらをかいた。

「すみさん、昨日連絡しましたわ。」

香住より言いやすいこの呼び方は他の店員に定着していて私もそれに追従していた。

「おう、そうか。やって良かったやろ?」

「ええ、まあ、‥そうでもないような‥」

香住の笑顔は全てが円満に解決したように受けとっているようで、ろくに話しもせずに電話を切ったことを思い出すと私の言葉は濁ったものになる。

「よしぃ、それをやっとかな親御さんは生き死にのとこから心配せなあかん。そうなったら捜索願も出されるし、よしぃも面倒やろ?投げ出すだけではあかんねん、最低限のことだけはしとかなな。‥それもせんかったらいつまでも半人前なんや。」

煙草をくゆらしながら語る彼の真意は理解できなかったが、それが自分の人生をかんがみたものである事だけは想像できた。それと連動して彼は私の全てを知っているのではないだろうかと妄想してしまい、言い訳やつぶさな内容も言わないまま私は話題を変えた。

コスモでの日々は穏やかに流れ、いつしか金木犀きんもくせいの香りが漂う季節になっていた。
現在は分からないが当時の業界では従業員の出入りは激しく、コスモで過ごす日々のなかにも店員の入れ替わりは多数あった。普通の企業でも従業員の入れ替わりが頻々(ひんぴん)と繰り返される所もあるが、決定的にちがうのはパチンコ店では前もって辞める旨を上司に伝えることもなく、昨日まで居た者が今日いない、いわば蒸発するような辞め方が殆どである点だ。コスモの従業員間ではこれを“トンコ”と通称していて、それが起こっても周囲の誰も驚きも動揺もしなかった。ただ一月ほど前にある班長がトンコした時は私だけが困惑した。私が買って間もないスニーカーを盗んで出て行ったからである。私はあまり接する機会はなかったが彼は年齢が三十そこそこで、寡黙ではあるがカウンター業務に就いている主任の情婦をはじめ他の店員からも人気があり信頼も厚く、それが裏切られただけに衝撃は大きかった。そしてそれは評判の良い人であっても安易に気を許してはいけないといういやしい教訓を私に植えつけた。

その出来事も記憶から薄れてきた時分の昼下がり、三人の警察官がどかどかと入って来て小柴に詰め寄るとそのうちの二人が彼の腕を左右から固めるようにがっちり組み上げ、立ち去って行った。仕事をしながら確認できたのはそこまでで一段落して再び辺りを見ても警察官の姿は無く、騒然としていた場内も何事もなかったように元に戻っていた。小柴がいなくなっても主任や総班長が皆に何かを指示することはなく、私以外の場内係員は動揺もせず、淡々と仕事をこなしている。場内係員の仕事はとりあえずナンバーランプを着けた客を消化していけばなんとかなるので非常時は自分のシマ以外も皆でフォローするのが暗黙の了解だった。
台の故障を除けば呼び込みも含め一通りの仕事は身についた私もそれに加わり所狭しと動き回った。時折香住に話しかけては小柴の件に色めき、僅かな間に煙草を吸う。今では会話を交わす客もいて、冗談混じりの挨拶なども交わすと完全にコスモに溶け込めている気がした。

『俺は今、自分だけの力で生きている!』

誰でも出来ることをやっとこなせるようになっただけで稚拙な私は自己満足に陶酔していた。しかしそれをよそにコスモは大きな転換期を迎えようとしていた。


「小柴のおっさんな、ありゃあシャブやで‥」

酎ハイをぐいとあおり、小さなテーブルに左腕をついて胡座あぐらをかいたまま前のめりに体をせり出し、香住は自信満々といった笑みを浮かべた。
暗いイメージが付きまとう当時のパチンコ店では想像できる範疇はんちゅうの事ではあったが、いざ身近に起きたこととなるとかえって現実味に欠ける。

「まさか‥そんな‥もっとちがう犯罪とか何かの間違いってことも‥」

「いや、間違いない。あいついっつも顔色悪いし目ぇうつろやろ。たまに言動おかしいしな。‥なによりワシは匂いでわかるんや。別にこの業界では珍しいことやないで。それに間違いやったらすぐ帰ってくるはずやしな。」

私も変わり者のたぐいだがそれは差し置いて、確かに小柴には病的な何かがあるように思える。誰に話しかけているのか分からない言動といつも生気のない表情や顔色の悪さに加え、死んだ魚のような虚ろな目‥初日のカセットのところから記憶を辿たどってみると辻褄つじつまは合うような気がする。

「‥匂いって‥そんなんあるんすか?」

「あるんや。シャブやってる奴はなんちゅうか、独特の甘い匂いがするんや。」

事柄が穏やかでないだけにホラ吹きの気がある香住の見立てを素直に信じたくはなかったが嘘である確証もない。それに小柴が警察に連行され、戻ってこないのは事実だ。彼が捕まろうと知ったことではないがパチンコ店に身を置いてこそ見えてきた、自分が持っていた偏見が払拭されていく中、再び胸中が嫌な色に染まっていく。

『やはりこの業界はこんなこともあるのか‥。つきあう人間には注意しないと取り返しのつかないことになるかもしれないな。‥疑いたくはないが住さんが親切なのは俺を利用するためなのかもしれない‥』

すっきりとしない思考が疑念となり、脳内を支配し始めたがドアを叩く音がそれをさえぎった。

「ん、誰や?」

香住が呟くように言うがドアをノックする乾いた硬い音は止まらない。

「わかった、わかった。」

急かされる呼び出しに少し慌てた口調で答えながらも香住はのっそりと動く。来訪者は昨日入った青山だった。

「おぅ、あんたか!」

私はまだ口をきいたことはなかったが、香住は早くも馴染みがあるらしい。

「どうも。」

人見知りな私は伏せ目がちに挨拶した。

「わし青山です。香住さんとは同郷なんよ。」

彼は手土産の酒をテーブルに置くと穏やかな物腰で私に微笑んだ。ちらと見る青山の容貌はオールバックで固められた髪にこけた頬、鼻から下は今朝剃ったばかりであろう髭が、もう青さを広げていた。

彼らは記憶にある地元の地理などを互いに口にして一頻ひとしきり盛り上がった。

「帰りたいの~。これ当たっとったらワシ、土産持って帰れたんじゃ!」

それが一段落すると青山は古い新聞の切り抜きと一緒に宝くじをテーブルに置いた。切り抜きには当選番号が並び、宝くじは前後賞から洩れた、しかしかなり当たりに近い番号が記されていた。

「惜しかったのう‥ワシも帰れるんやったら帰りたいわ。」

我が事のように感嘆したあと、香住は遠い目をして呟くように相槌を打った。私はそんな二人が悪い人間とは思えず、少なくとも彼らを疑うのは止めようと思った。
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