挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
底辺 作者:富士江 三蔵
しおりの位置情報を変更しました
エラーが発生しました

ブックマークしました。

設定

更新通知 0/400

設定を保存しました
エラーが発生しました

カテゴリ

ブックマークへ

以下のブックマークを解除します。
よろしければ[解除]を押してください。

ブックマークを解除しました。

12/26

第12話

二日ぶりに出歩く外の世界は太陽が刺すような力強い熱気を放ち、まぶたを開けるのも困難なほどの眩しい光に溢れかえっていた。そして誰もがそれを嫌っているのか、コスモを出てからまだ通行人を目にしていない。そんな昼下がりに蝉たちだけが長い間の地下生活から解放された喜びをそれぞれの鳴き声で競いあうように謳歌おうかしている。

昼間と夜との交互に働くコスモでの生活には意外と早く馴染め、体も楽だった。過酷な暑さの職場と阿藤の小間使いから解き放れたこともあるが、ここでの実労働時間は七時間半と短く、遅番後から早番出勤の間は11時間ほどだが逆の場合は24時間近く体が空く。それは半分休みのような感覚で、定休日にこれがはまると連休に近い自由な時間となるからだ。しかし、そんな贅沢ぜいたくな状況にありながら私は心地良く睡眠を取ることはできなかった。自由の対価である、脳裏から離れない妄想と不安は悪夢となって何度も私を叩き起こし、安らぐことを赦しはしなかった。

香住との約束もあるが、安眠を阻害する要因を少しでも解消し、心の安寧を得る為には鍛造会社との決着(一番の問題は阿藤との決着なのだが)をつけねばならない。本当は分かっていることなのだが私の臆病さは嫌な過去を終わったことと決め込んで考えるのを避け、欺瞞ぎまんに満ちた心はそれを記憶から消そうとする以外のすべを生み出さなかった。そして日常で思考の隙間から湧き出る妄想は常に正論で完全武装して私の心をさいなみ、悪夢となって現れて私はそれに毎日うなされ続けていた。しかし今、香住に背中を押され、その元凶をやっと清算できるかもしれない機会が訪れたのだ。

景色と同じように思考が熱気でぼやけていく中、気乗りのしない私は顔をしかめながら香住への言い訳作りのために電話ボックスなど無いよう祈りながら闇雲に歩く。

『一回りして公衆電話がなければ帰ろう‥もし見つけても連絡するのは会社だけだ。‥多分事務員が出るだろうから言うだけ言って伝えてもらえばいいだけだ。大丈夫、すぐに終わる!‥だが、もし役職者が出ればややこしいことにならないだろうか‥。切ろう。そのときは切ってしまえ!電話して生きてることだけ伝えりゃいいんだ。でも‥ああ気が重い。そもそも香住のおっさんは何でこんなことをさせたいんだ!?。』

元々自発的な行為でなく、暑さにも嫌気がさしてもう戻ろうかと思い左へ曲がると眼前に電話ボックスは現れた。そこは公園の外れで、近くには工場らしき建物の高い塀だけが殺風景に広がり、人払いされた空間が手招きするかのように私に行動を促す。電話をかけるだけのことなのに急に動悸が激しくなり、身がすくむ。
思い切って中に入ると想像以上のサウナのような暑さに朦朧もうろうとなり、全ての思考は寸断され、全身から一気に汗が吹き出した。たまらず外へ飛び出し街路樹の小さな影に移り、首に掛けていたタオルで汗をぬぐう。鍛造の現場で暑さには慣れているつもりでいたが、私は元来暑さに弱く、強い日差しに照らされ続けた電話ボックス内には息もしづらいほどの熱気が詰まっていた。

『すぐ終わる!さっさとやってしまおう。』

扉が閉まらないように右足で抑え込み、熱気を逃がしながら気力を高める。
意を決して再び中へ入ると蝉の声がたちまち止んだかのように小さくなり、じわりと噴き出てくる汗が時の流れを緩いものへと変えていく。
間違えないようダイヤルを順に押すとぷつぷつとした音の後に呼び出し音へと切り替わった。それが三回目に入っても誰も出ず、もう切ってしまいたい衝動に駆られたが、暑い中を歩いた労力を無駄にしたくはないし、これからも心に大きなしこりを抱えたまま暮らすのも辛い。そんな葛藤が『誰もでるな!出るな!』と『さっさと終わらせたいのに早く出ろよ!』の相容れない気持ちを混沌とさせる。呼吸も忘れる緊張感の中、六回目の呼び出し音の途中でやっと事務員が出た。待たせた詫びからお決まりの会社の名乗りが聞こえ、沈黙が流れる。

「‥あの、もしもし?」

頭の中に映る事務員が返事の遅さにいぶかしげな表情をしているのが分かる。

「‥もしもし、‥森野です。あの‥」

ある程度考えていたにも拘わらず、どう切り出していいか分からなくなって声にも力が入らない。

「えぇ!?‥く、クマくん!?ちょっと、ちょっと待って!切らずにちょっとだけ待ってて!」

事務員は椅子から転げ落ちそうなほどに驚いた声を上げた。その様子から会社では大事おおごとになっていたことが想像できる。待つのも誰かに代わられるのも拒否したいが事務員の様子にそのまま切ることも出来ず、私は気のない返事を返した。それに間髪を入れず“ガゴッ”と耳障りな音が頭の奥に響いた。どうやら事務員は手を滑らせて受話器を机に落としてしまったようだ。ほどなくして、打って変わったように保留中のゆったりしたメロディーが耳の中に流れこむ。

「‥もしもし?」

部長の声は幾分か押し殺したもののように聞こえた。なんとなく感じる息遣いの荒さは事務所まで急いできたからなのだろう。

「‥もしも~し!」

どう話を切り出せばよいものか分からず、まごまごしている私に部長が声量を上げて応答を催促する。

「‥あの‥迷惑かけてすいません‥」

「‥ほんま‥お前なんで急に出て行くねん。‥あのなぁ、クマ。‥もう辞めてもええからいっぺん帰ってこいや。」

部長は溜め込んだものの中から選び抜いたように言った。

「いえ、もう帰りません。もちろん実家にも戻りません。」

「クマよ~、そんなこと言うなや。みんな心配しとるぞ。どこにるんか知らんけど行くとこあるんか?とりあえずいっぺん帰ってこいよ。阿藤も怒ってないから‥。」

気を使っているのだろうが、それを理解するどころか上擦うわずった笑いを含んだ部長の声が胡散うさん臭いものに感じ、更に阿藤が引き合いに出されたことでむかむかと嫌悪感が募ってくる。
それが高じてくると『こいつがどこかで自立などできはしない。優しくなだめればすぐに帰ってくるだろう』と高をくくっているような発言にすら思えた。

「何が可笑しいんですか?僕には笑えることなんか何もありません。二度と電話もしません。‥もう切ります。」

勝手な被害妄想で無性に腹を立てた私はにべもなく言って受話器を置いた。

『なめるなよ!こっちは全てを失う覚悟でやってるんだ!上手いことなだめすかしてるつもりだろうがそれでなびくと思うなよ!‥まあいい。‥義務は果たした。やっと終わったんだ‥。』

一方的なやりとりで電話を切って清算とは言い難いが、とりあえず香住との約束をやり遂げた事実だけが独りよがりであっても僅かに心のしこりを溶かしていく。
結果はどうであれ、とりあえず山場を終えて電話ボックスを出ると蝉の声が少しやわらいで聞こえ、外の世界が穏やかなものに変わったように感じた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ