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底辺 作者:富士江 三蔵
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第1話

灰色にくすんだ空がじっとりとした不快さを増幅させる。そんな梅雨終盤の蒸し暑い中、私はパチンコ屋の目の前に立っている。ついさっき駅前の喫茶店でモーニングを食べて残った所持金は僅かに150円。勿論もちろんそれで勝負などできるはずもない。

高校を卒業して就職した澱粉工場だったが仕事も半人前以下のくせに不満ばかりを募らせ、給料の安さと変化のない毎日に辟易として過ごし、結局二年も続かずに退職した。その後は日々パチンコや競馬などの遊興にふけり、残金が僅かになると親父に金を無心し、それが昨日今日のようなバツの悪い時だけ日雇いの引っ越しのバイトなどをしてまた金の続く限り遊ぶ。そんな自堕落な生活を送ってきた。親父は当初、小言や説教を垂れていたがそんな日々が一年も過ぎると怒りは沸点を超え、家を出て叔父の所へ身を寄せるか、自分の裁量で好き勝手に生きて行くのかを迫った。前者の選択は鉄鋼関係に勤める叔父のツテを頼り、就職して寮へ入れという事だった。
なんの資格や特技もない私は渋々叔父の世話になる事に決めたのだが、待っていたのは危険な労働と先輩である阿藤の゛かわいがり″だった。

紹介された鍛造工場の現場は簡単に言うと時代劇などで刃物をカンカンと打っている鍛冶屋の仕事をかなり大規模にしたもので、刃物は1トンや2トンの鋼材に、金槌は1トンや2トンのハンマーに当てはまる。当然ハンマーは機械仕掛けで安全な室内からの遠隔操作となる。鋼材を持つ手となるのは“マニピュレーター”と呼ばれるバスのような大きさの特殊車両で、前方に“く”の字の形状のアームを2本搭載し、それを操作することにより鋼材を固定するように掴み、前へ後ろへ移動する。
ハンマー打ちとマニピュレーター乗りはいわゆる“花形”で、かなりの熟練度と作業の緻密さを要求され、責任は大きいが鋼材からの熱に直接晒されることはない。その他の作業員達は鋼材をフォークリフトで運んだり、ハンマーの前に立ち、鋼材の向きを変える回転台を入れたり、寸法を合わす為に“アタリ”という四角い金属の塊に持ち手をつけた道具を持って熱い鋼材の目の前でかなりの熱さに耐えなければならない。その役目では作業着にいつの間にか火が点くのは日常茶飯事で、アタリを持って動けない作業員は周りの者に消火してもらうのだが、それすら上手く消せない私はよく阿藤から怒鳴られ、またはたかれた。彼は私より2つ年上で、作業員の中では中堅に位置していながら現場の進行をほぼ仕切っていた。中学を卒業してから勤続してきたプライドからなのか、人のコネで入ってきた私に密かな敵意を持っているようだった。

「玉城さんの紹介かなんか知らんけど、特別扱いはせぇへんぞ。」

これが彼からの第一声だった。しかし入寮の時に聞いたその言には続きがある。

「仕事は仕事。それ以外は気楽にいこうや。仕事が終わればタメ口でもええで。」

痩身で端正な顔立ちの阿藤は優しそうな笑顔でそう言ってくれた。そういうふうに目上の人間に云われると人はかえって恐れ多く感じるもので、私は丁重にそれを辞退すると同時に『この人は女性にもモテるんだろうな‥』と思った。

「お前は森野やからクマやな。」

暫く今までの経歴や軽い雑談のあと、彼は私の名前と体格からあだ名を付けた。

「うん、クマや。クマや。」

誰でも思いつくこのネーミングが彼にとっては上出来だったようで彼は何度も満足気に繰り返し呟く。私自身、幼少の頃から何度も使われているそれは気に入ったものではない。それが否応なく決められたことに軽い屈辱とこれからの不安を感じた。

鋼材の温度が肝である鍛造の仕事はスピーディーな作業が要求される。鋼材を出す炉と、熱せられて綺麗なオレンジ色になった鋼材から発せられる、今までに経験のない痛いような熱さと息を吸えば肺の中が火傷やけどしそうな灼熱の現場の中、私以外の全員がオートメーションの機械のように作業をこなしていく。余剰人員であり、右も左も分からない私に役割などあるはずもなく、気の利いたことをしようとしても空回りするばかりだった。何かしらの補助でもと思い、次に使うであろうアタリの用意も順番を間違えてばかりで道具を渡すタイミングもずれていて、それらは他の作業員を苛立たせた。さらに作業の流れも読めずにいち早く間違った方向へ移動する私に周囲は失笑し、全員の代弁をするように阿藤は怒りをあらわにした。

「こらぁ!クマ!危ないやろが!」

「ウロウロすんな!」

「なにキョロキョロしとんねん!」

「ぼーっとすんな!邪魔や!」

マニピュレーターやハンマーから発せられる凄まじい轟音から耳を守る為に装着している耳栓越しで作業指示などぼんやりとしか聞き取れないのに阿藤の怒号は脳に直接響く。

役立たずなまま1ヶ月も経った頃、様子を気にした叔父が飲みに誘ってくれた。
大手の鉄鋼会社で出張などもある忙しい部署で働く叔父はあまりコンタクトを取れないことを詫びながら近況を尋ねる。姉の忘れ形見である私に年に一回ほどの頻度ではあったが、会えば幼少の頃からいつも優しく接してくれた事を思い出す。少し老けたけれど南国の出の人らしい意志の強そうな瞳にしっかりとした眉、未だ衰えを感じさせないがっちりとした体、溌剌はつらつとしながらも落ち着きのある声。それらすべてが“立派な大人の男”を醸している。
それに比べて自分の不甲斐なさが惨めに感じ、励まされると喉の奥が痛くなって思わず涙が出そうになった。必死でそれをこらえながら仕事はまだまだで、皆さんの足を引っ張っているが先輩方は皆優しい人ばかりだと伝えるのがやっとだった。

寮では教育係である阿藤と相部屋で、仕事の出来ない分の負い目を私生活で補う、常に使いっ走りに甘んじる日々を過ごした。煙草や酒、レンタルビデオはもとより果ては彼女とのSEXに使うバイブレーターまで買いに行くこともあった。そして小銭で済むようなお使いの代金の多くは貰えることもなかった。言えば貰えるかもしれないが「仕事もそれくらい欲出せよ。」などと嫌みを言われるのは目に見えていたために私はいつもそれを飲み込んでいた。

寮は女人禁制だったが規律は緩く、阿藤は休日に他の寮生が出払うのを見越してよく女を連れこんできた。当然私が外で時間を潰すのだが、彼女もいない私は日頃の散財分を取り戻したい気持ちも手伝い、たいした手持ちも無くパチンコ店へ向かう。
当然、すぐに軍資金は溶けてゆき、少しだけ金を残して喫茶店で時間潰しをするのが常で、金欠になって帰ると阿藤は嬉しそうに笑って金を貸してくれた。その金のやり取りが曖昧で、返す金と追回しの代金の境界線はいつの間にか崩れ、借金を請求されない代わりにいつしか当座のものは私が支払う形になっていった。そうなると給料の減り方はさらに早くなり、私はいつも困窮していた。

半年近く経った頃、私の体重は10キロ以上落ちていた。もともと太り気味な体型だったのでやっと普通の人より少し痩せて見えるくらいになっただけだったが、鏡に映った自分が親父に似てきていることに驚愕きょうがくした。

それだけ経っても私の役立たずぶりは相変わらずで、それを殊更ことさらに責めたてる阿藤に対しての、言えるはずもない不満はあらぬ場所を睨みながらブツブツと発するようになっていた。阿藤もそんな私に気分を害して苛立ちをより一層募らせた。当初の、少しは和やかだった雰囲気は最早微塵もない。そうなると侮蔑の度合いはますます酷さを増して負の連鎖は歯止めを失った。それに呑み込まれた私は怒られまいと焦る気持ちが先走るだけで、フォークリフトから鋼材を落としたり、寸法の違うアタリを用意してしまったりなど絵に描いたような失敗を毎日のように繰り返してしまう。

「お前は俺に怒られたいからわざと失敗しとんのか?お前ほんまは変態やろ?」

そのそしりには私の無能さになかさじを投げたようなものが含まれていた。そんな呆れと見下しを混在させた嫌みとさげすみは怒鳴り声も交えて延々と続く。一日の内、発する言葉の殆どは「すみません」ばかりで、いつの間にか工場のまごうことなきお荷物的存在の私に構う人間は全くいなくなった。ここに至るまで何度か阿藤に辞めたいと漏らした事はあったが、そのときは怒鳴るような事はなく、優しく宥め諭され、気がつくとまた明日から気を取り直して頑張ることになっていた。仕事でここまで使えない奴を引き留めようとするのは多分、便利に使える小間使いを手放したくなかったのだろう。一度は職長である部長に訴えたこともあったが阿藤も交えて話すことになり、結果は同じものになった経緯がある。

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