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西山正義の小説

ある夏の一日

作者:西山正義
   ある夏の一日

                    西山 正義


 空気の密度が濃くなった。やがて夜が降りてくる。僕の中に。静かに静かに……ゆっくりと。
 夜が漆黒の舌を出す。そいつが僕の襟足を舐め、背筋を愛撫する。
 夜の重みが、夜の艶めかしさが、衣服を透かして、僕の素肌にべっとりと纏わりついてくる。
 眼を閉じて、耳を澄まし、呼吸を整える。僕はじっとして、夜の成分が微粒子となり、身体の中に浸透してくるのを待っている。

 そう、待っていた。だが……。
 それから僕は一体何をしようとしていたのか――。



 五十年目の終戦記念日、男は朝から多摩川の土手に寝そべっていた。コンクリートの防波堤にビニールのレジャーシートを敷き、タオルを枕にして、ショートパンツひとつで真夏の陽に当たっていた。
 なんて穏やかなんだろうと男は思った。河原の緑が彩やかだった。水面がまさにきらきらと輝いていた。川は殆ど流れていないかのように見えた。ともすると逆に流れているのではないかと錯覚する。男は仰向けの身体を一旦起こし、それから横になって向こう岸を眺めた。大粒の汗が目に入る。高層マンションが建ち並び、対岸の景色は随分変わってしまった。それでも右手にはよみうりランドの、左手には向ケ丘遊園の観覧車が、丘陵の上に左右ほぼ均等の位置に見える。永年見慣れた愛着のある風景だ。
 そろそろ始まる頃かなと男は思ったが、生憎時計は持ってこなかった。先の戦争で逝った人々が、五十年後の今日のこの長閑さを知ったら何と思うだろうか。戦後も十八年を経て生まれた男は、もちろん当時を知らない。それでも時折、調布飛行場を発着するプロペラ機の音を耳にすると、妙な胸騒ぎがするのは何故だろう。繰り返しそういう映像を見せられてきた所為なのか。親の世代ですら漸くもの心つくかつかぬかの時代だ。
 また上空をプロペラ機が通過して行った。もしも今、例のウーというサイレンとともに、「空襲警報発令」という怒声がし、防空頭巾にモンペ姿のおばちゃんがブリキのバケツをガンガン鳴らしながら走って来たら、この河原にいる人たちはどんな反応を示すだろうか。一瞬まざまざとそんな幻想を描いてしまって、男は何だか可笑しくなってきた。まさか冗談にもそういうことはなさそうだった。
 それにしたって随分呑気なものじゃないか。魚釣りなどしている。一体こんな川で何が釣れるというのか。さっきから見ていると、なるほど釣れないこともないらしいが、釣ったそばから逃がしているではないか。何のために釣っているのか。彼らの答えは訊くまでもないだろうが、それにしても好い気なもんだ。と男は思う。するとこんな答えが返ってきそうだ。――おれたちが好い気なもんだって、それじゃあ、おまえたちは一体何なんだ。おまえたちの方がよっぽど好い気なもんだ。揃いもそろって野郎ひとりで、ただゴロゴロ寝ているだけじゃないか。いい若い者が。どうせ、海に連れて行く彼女もいない、遊びにも行けない、帰るところもない、そんな野郎どもだろう。
 防波堤の上では、男たちが思いおもいの恰好で甲羅干しをしていた。面白いことに、男たちはあたかもメジャーで測ったかのように等間隔に並んでいる。男はもう一度起き上がりその方を見やった。妙な習性である。電車の座席でも、最初のひとりが一方の端に腰掛けると、次の人は反対の端を陣取り、三番目の人は大概真ん中に座る。公園のアベックの絶妙な配列もまさにその通りで、人間の心理に則った一種のマナーというか、おのおのが落ち着けるだけのパーソナルスペースを確保しておきたいという動物的な本能なのだろう。従って、邪魔な隣を追い出すには必要以上に近寄ればいい。いま男を落ち着かなくさせているのは、隣との隙間に変なオヤジが侵入してきたからだ。妙な緊張感と居心地の悪さを覚える。煙草を一服すると行ってしまったので、男は氷を入れた水筒から麦茶を出して、一息に飲み干すと、今度はうつ伏せに寝転がった。
 風は殆ど凪いでいた。遮るものなどありはしない。直射日光が容赦なく背中に降り注ぐ。汗がじゅわっと吹き出してくる。気持ち良かった。男はこのまま眠り込んでしまいそうな気配だった。
 上空から、女性のあの機械的なアナウンスが微かに聞こえてきた。遠くて何を言っているのか定かには聞こえなかったが、意味していることは分かった。こんな河原にはセスナは飛んで来ないのかも知れない。男はハッと飛び起きた。周りは相変わらず呑気そうにしていたし、我関せずといった雰囲気だった。ここでいきなり直立不動になったり正座するのは人目が気になったので、男は失礼だとは思いながら、胡座をかいたまま黙祷した。一分経過。何だかほっとした。とにかく〈行事〉は終わったのだ。
 五歳くらいの男の児がゴム草履をパタパタさせながら、男の頭のすぐ上を無遠慮に走り抜けて行った。その後を父親らしき人が釣り竿を抱えて追いかけて行く。何とも微笑ましい情景じゃないか。男の児の嬉しそうな顔ったら。男にも今年四歳になる娘がいる。下の息子はまだ生後六か月だったが、おれにもあんな頃があったんだなと思うより先に、おれも数年後には魚釣りだの、蝉取りだのに付き合わされることになるんだろうなと男は思った。それはそれでいいじゃないかと最近は思う。
 この辺りにも昔はザリガニがたくさんいた。在来種ではないアメリカザリガニが大量発生していたこともある。川が一番汚れていた時だ。いわゆる高度経済成長の末期で、土手を下りると異臭がしたし、河原には魚の死骸がたくさん打ち寄せられていた。公害問題が喧しくなってきたのと、ドラマにもなった昭和四十九年の大洪水を契機にだいぶ整備され、少しはきれいになってきた。あの洪水の時、友達とふたり自転車を漕いで、雨の中びしょ濡れになりながら流されてゆく家を見に行ったけ。ここら一帯が水田だった往時とは比較にならないだろうが、おれの小さい頃よりはましになった。娘はお転婆で、この河原にもよく連れてくるが、息子にもここで思い切り遊ばせてやりたいと男は思った。ただ街全体が明るくなった所為で、星はやはり昔に較べて見えなくなった。天体望遠鏡をステーションワゴンに積み込んで、子供と一緒に星を観に行くのが、近頃では男の月並みだがささやかな夢になっていた。

 男はここへ何しに来たのか。無論それは愚問というものだ。ただ日光浴に来ただけだ。
「腹へったなあ」男は独り言をいった。
 昼間の感覚と夜の感覚はどうしてこうも違うものなのか。男には訝しくて仕様がなかった。夜には出来て、昼には出来ないこと。夜の思想とはよく云ったものだ。一人の人間の中で、意識がこうも違うとは。一体どちらが本当なのだろう。いや、どちらも本当であり、どちらも本当ではないのかも知れない。手紙は夜書くものではないと言われるのも解かるような気がする。
 休みになると、昔からの悪い癖がでて、昼と夜が逆転してしまう。妻と子供が実家に里帰りしているので尚のことだった。昨夜もとうとう一睡もしていない。夏の夜はすぐ明ける。空が白みはじめたと思ったらもう真夏の日盛りの陽が射し込んできていた。朝食を近所のコンビニエンス・ストアで買ってきたサンドイッチで済ませると、にわかに睡魔が襲ってきた。ここで眠ってしまったらまた昼過ぎまで寝てしまうだろう。そうするといつまでたってもこの悪循環は直らない。しかし、徹夜を貫こうかとも思ったが、特別な用事でもない限りとても持ちそうになかった。それよりも中途半端な時間に眠ってしまう方が悪いような気がして、どうせ一度は寝てしまうのなら、河原に行って身体でも灼きながら寝ようと、男は朝からここへ来ていたのだった。暑いのは内も外も同じだし、変に汗をかくよりいいと思ったまでだ。
 夜。たかだか十二時間前のことなのに、昼間にあの感覚を体現することは出来ない。まして真夏のこんな真っ昼間に。夜の記憶を取り戻すことすら難しい。どちらが生き易いのだろう。少なくとも男にとっては夜の方が肌身にしっくりと馴染む。昼間の呼吸困難は何なんだと思う。どうせ何も出来ないのだから、こうやって日向ぼっこでもしている以外に方法はない。夜に抱かれると身も心も冴々としてくるのに。尤も、残念ながらそれもほんの一瞬の出来事に過ぎず、夜の翼に包まれたと感じはじめた最初のせいぜい一、二時間の間だけだ。夜の明晰さよ、でも今は紛れもなく昼間だ。昨夜おれが考えていた事は一体何処へ行ってしまったのか……。
 これから一番暑い時間にならうとしているのに人が増えてきた。ここも以前はこんなに人が集まる所ではなかった。昔から地元の人間はよく来ていたが、やれかき氷だ、やれたこ焼きだのという出店はなかった。いつ頃からだろう。土手のサイクリング・コースがきちんと整備されてからだろうか。それとも五本松が新東京百景に選ばれたあたりからだろうか。あの真ん中の松の下にはうちのポチが埋まっている。撮影所が近くに二つもあるため、たびたび時代劇や刑事ドラマなどの背景になっている。ある時、仮面ライダーの撮影をしているのに通り掛かった。ショッカーが次々に泥水に足を捕られて何とも情け無かった。桜の季節はたいへんな賑わいで、花見の宴会が盛大に開かれる。団地との境(丁度それは「はけ」と呼ばれる武蔵野崖線に沿っている)を走る根川通りは、桜のトンネルになる。今ではわざわさ遠くから車で来る。つい十日ほど前にも、京王多摩川の河川敷で行われた花火大会のために大渋滞になった。その河川敷には時々「石を売る男」や「鳥男」が出没するという。もちろんこれは漫画での話。「妖怪ポスト」もこの市内にあるらしい。
 そんなことをつらつら考えながら周りの景色を眺めていると、当然のことのように競輪場の建物が眼に入ってきた。そうだ、京王閣といえば、彼はどうしているだろうか。男はKのことを思った。
 ――Kは、あの多感だった中学・高校時代の最も親しい同級生で、彼はそのまま上の大学に進学し、男は一年浪人して別の大学に行ったが、その後もずっと交流は続いていて、殆ど会話らしい会話もせずにひたすら音楽をやっていた中学の終わりから高校にかけてより、むしろ大学に入ってからの方がいろいろな話をしたし、男にとってKは、いわゆる親友というのとも違うのだが、友人という枠を越えて特別な存在になっていた。多摩川やこの辺りの風景を、精神的な原風景として捉えている点でも二人は共通していた。男は自分のことは棚に上げて、何も音沙汰がないということは特に変わったことはないのだろう、と一瞬思ったが、いや、そうじゃない、Kとは所帯染みた話や単なる世間話はしない習わしになっていたので、そういう〈報告〉はお互いしないだけで、きっと身辺上の変化はそれなりにあるのだろうと思い直した。そういえば、その後「彼女」とはどうなったのだろう。
 あれからすでに一年だ。去年の夏、Kと会うのはその時も一年八か月振りだった。この五年、いや七年、数える程しか会っていない。こんなに近くにいながら。しかしKとの間では、「会わない」ということにも意味があって、それはお互いがお互いを欲していないか、あるいは会えるような態勢が整っていないかのどちらかなのだ。男にとっては後者の色彩が強かったが、そろそろ会いたくなってきた。いや、そろそろ会うべき時機に来ていた。だが、もう少し待ってくれ。もうすこし。と男はKに向かって語りかけた。そしてKの住む方角に、悪いと言うように頭を下げた。
 それにつけても、いつまでここに粘っていても食事が出てくるわけではないので、男は帰ることにした。身体全体が火照っていた。髪の毛まで赫く焼けているような感じがする。ビニールのシートがべったりと汗で貼り付いた。シートは汗で濡れて折り畳める状態ではなかったので、無造作に丸めて持ち、煙草の吸殻を掻き集めてゴミ袋に入れると、土手を登って行った。この春に見たところでは、土筆や蓬もだいぶ復活してきているようだった。急に、「これが、つくしんぼうっていうのよね」と、ませた口調で言う娘の上目遣いの仕草が思い出された。荷物をかごに載せる時、自転車のハンドルの鉄の部分に腕が触れた。そこは焼けるように熱くなっていた。

 シャワーを浴びる。火照った身体には心地良かった。日焼けの痕もひりひりするほどではない。泳いできたわけではないのに、あたかも海やプールから揚がったあとのような倦怠感があった。石鹸をこすりつけ、泡立てていると、どうしたことか妙に官能が刺激されてきた。男は、何ひとつ淫らな気持ちがないままに、手淫した。こんなことは実に久し振りだった。絶対不可欠なはずの想像力も必要としなかった。そこにあるのは性欲ではなく、単なる物理的な欲求で、それは性的衝動というよりは、むしろ排泄行為に似ていた。

 結局、男は昼寝をしてしまった。歯痛の薬を飲んだのが効いたのか、昼食の休憩にちょっと横になるつもりが、身体はどんどん蒲団にめり込んでいってしまった。やはりコンクリートの上とは違う。うつ伏せに枕を抱きかかえるようにして寝ていたので、力尽くで無理やり身体を引き剥がすように起き上がった。
 クーラーをつける。冷蔵庫からパックのアイスコーヒーを取り出し、氷を入れた。いかにも涼しげな音をたてて氷が弾けた。この五日間で、たった一つのコップしか使っていない。つくづく家事をしない男だと思って苦笑した。これでは今時のお婿にはいけない。洗濯物も溜まり放題だ。独り身だったらどうなってしまうのか。
 太陽は西に傾いていたが、まだ暮れるには間があった。実際昨日から続いているような一日だったので、やけに長い一日のような気がする。女房子供のいない夏休み。何処にも出掛けず、のんびりと羽根を伸ばしている。傍目にはきっとそんな風に見えるに違いない。もちろん仕事のことなど一切忘れている。自分が勤め人であることすら脳裡の中から消えている。何をしてもいい筈だった。というより、男にはやらなければいけないことが本当はあった筈で、そしてそれが故に今年は妻の帰省に付き合わなかったのだが、何をしなければならなかったのかが憶い出せない。いや、棚に上げて考えたくないのだった。
 なかなか部屋が冷えてこない。ここいらで何かミュージックが欲しいと思ったが、今の気分に相応しいものが思い浮かんでこなかった。レコードラックを漁ってみる。いいアイデアが見つからない。ロックや交響曲は暑苦しい。ディープ・パープルだとかワーグナーだとかはもっての外である。そうかといってジャズやポップスという感じでもないし、ましてフォークや歌謡曲ではない。はじめはドアーズをかけようとして、やはりピアノ曲が涼しげでいいかも知れないと思い直し、ドビュッシーとサティを取り出してみたが、それもどうも違うような気がする。子供用のCDが随分増えたなと思いながら更に探っていると、棚の一番奥に隠れてインド音楽のCDがあった。「これだ!」と男は手を打って、さっそくデッキにセットした。
 それは「スハ・カナラ」というラーガ(断るまでもないが、ラーゲではない)で、本当は午前七時から九時頃までの遅い朝に演奏されるものだった。遅い午後のためのラーガもレコードでならあった筈だが、この際なんだって同じようなものだし、タブラをフィーチャーした二曲目の、〈儀式〉の終わりを告げる「ターラ」を含めて74分54秒あって、これはCDならではの醍醐味だ。タンブーラの持続音のイントロダクションが始まった瞬間に、男はもうその世界にのめり込んでいた。
 男はあることを思い付いて、「マリファナがまだ残っていたはずだ」と呟きながら、お香の入った抽斗を開けに行った。マリファナといっても、別に麻薬ではない。幻覚現象など期待できるような代物ではない。十年以上も前に横浜で大量に仕入れてきたもので、得体の知れないお香ではあったが、普通のお香と変わりはない。あまりいい匂いはしなかった。座禅を組んでみる。フローリングの上では少々痛い。閉め切られた部屋の中をお香の煙りが充満しはじめる。眼を瞑り、ヨガの呼吸方を試みる。それぞれの目的によっていろいろな方法があった筈だが、もう忘れてしまった。ドラッグレスによるトリップ。それがメディテーションだ。何だか身体が揺れてきた。このところの世情からするとアブナイ人のように思えてくるが、お香の煙りが脳髄の中まで充満してくるようだ。
 ……次第に何かが思い出されてきた。それは男が朝から一所懸命思い出そうとしていたある種の情緒とは別のものだったが、殆ど唐突にその時の情景や感情がありありと蘇ってきた。過去の記憶が年々色褪せていき、最近ではそれほど昔のことではないことでも、その当時の情感を伴って、切なくなるような懐かしさで思い出すということがなくなっていたので、久し振りに新鮮な感覚を味わった。あれは、上の子が生まれる少し前で、義父が急逝する直前のことだった。台風がやたらと来たのはその前年だったろうか。あの年の夏も暑かったように思う。前の仕事を辞めてから半年近くぶらぶらしていて、漸く次の就職先を探そうとしていた時だ。
 そうだ、あれは……

     *

 ある会社での面接が不調に終わった帰り、男は新宿の地下道を当てもなく歩いていた。このまま私鉄に乗って真っ直ぐ家に戻る気にはなれなかった。さりとて行く所もない。さてどうしようかと思った。いつもつまらないところで逡巡してしまう。
 新宿は相変わらず人でいっぱいだった。かつて妻がこんなことを言ったのを思い出す。東京の大学に入学したての頃、新宿を通るたび何処でお祭りをやっているのかと思ったと。それにしてもいつ来てもお祭りをしているなんて、と不思議に思ったらしい。妻はそんなど田舎から上京したのではない。仙台といえば東北屈指の大都市だ。それでも新宿は毎日が七夕祭りのような賑わいで、この人込みは一種のお祭りと云えなくもないが、むしろ茶番劇といった方がよかろう。何をそんなにあくせくしているのか。
 男にとってここは生まれた町であり、この地下道も子供の頃から通い慣れた古里みたいな所で、新宿という街にはいいしれぬ愛着があった。とはいっても、着慣れないスーツが鬱陶しかったし、うろうろしていても埒があかないので、やはり家に帰ろうと思って一度改札口に向かったが、切符も買わずに男は引き返してきた。
 そして、コンコースから四、五段ほどの低い階段を降りたところで、男は女と目が合った。男も女もすぐに視線を逸らしたが、余程ぼんやりしていたのか、それともお互いの何かを嗅ぎつけたのか、男は引き寄せられるようにしてその方へ歩み寄った。
 女は地べたに脚を投げ出し、壁に凭れていた。コンクリ打ち放しの壁は冷たくて気持ちが良さそうだった。女の足元には色とりどりの本が並んでいる。最初は古本でも売っているのかと思ったが、表紙の色がそれぞれ異なっているほかはどれも同じ造りの本だった。筵の上にただ本が並べられているだけで、立札もなければ看板のようなものもなかった。が、「ははあん、詩集だな」と男は思った。直観でそう思っただけで特に根拠はなかったが、こういう場所で売られているのはきっと詩集に違いなかった。それにどうやら宗教とも政治とも関係がなさそうに見えたし、「私の詩集、買ってください」というプラカードを首からぶら下げてよくここに立っていた少女――あれはいかにも貧相な少女で、見ている方がいたたまれなくなってくるような感覚にさせられたものだが、いったい売れたのだろうか?――とは、明らかに風情が異なっていたので、野次馬根性というのではなく男は近寄ってみる気になった。
 女はまるでTシャツか小物でも売る人のように見えた。実際、その横では金色に染めた髪を腰まで伸ばした男がブローチのようなものを広げていたし、その隣では白人のおそらく夫婦者が風景画や静物画の油絵を展示していて、さらにその向こうではデレデレの服を着た男女が何やら売っている。通路のど真ん中の柱の周りを陣取って定期入れやハンドバッグなどを叩き売っている玄人は別にして、商売気があるんだかないんだか何とも平和で長閑な雰囲気で、「ツルを折ってください」という連中や、やたらと手を翳したがる輩や、贋物の傷痍軍人がいないのが救いだった。女は、薔薇模様の金のラメの入った濃い紅色のTシャツを肩まで捲くり、ヴィンテージもののブルー・ジーンズという出で立ちで、いかにも気のなさそうな素振りをしていたが、その瞳は煌めいていた。
 男が近づいて来たのを女も認めていた筈だが、女は知らん振りしている。趣味がいいとはいえなかったが綺麗な装幀だったので、男は本を手に取ってみようとして、前にかがんだ。うん? この匂いはムスクか? 男が何か言おうとして上を向いた時、また女と目が合った。思わず笑みが零れた。女も「ウィ」という感じで微笑み返してきた。それは、以前どこかで会ったことがあるような錯覚を起こさせるほど、ごく自然で親し身の持てるものだったので、男は、
「ふうん、これ詩集だよね、いくらするんですか?」
 と気軽に声を掛けることが出来た。男には珍しいことだった。詩集そのものには大して興味がなかったが、女には興味があった。しかし、こういうのは声を掛けてしまったら最後で、男は参ったな厄介なものに引っ掛かってしまったと後悔した。
「値段なんかないわ。そんなのは買う人が決めてくれたらいいのよ」
 と悪戯っぽそうな目を逸らさずに女は言った。
「え、そう言われてもねえ……」
 男は一冊手に取って、重さを測るように矯めつ眇めつ眺めていたが、ちょっと躊躇ってからこう言った。
「……じゃあ、例えば一円でもいいていうこと?」
「うーん……」
 女は髪をかきあげ、少し考えてから、
「ちゃんと読んでくれる人になら、ほんとはそれでもいいんだけど……でも、元手も掛かってるから、やっぱりそれなりに貰えないとね」と言った。
「実費ってこと?」
「まあ、そんなところね」
「実費か。でもこれ何部刷ったのか知らないけど、そっちの方がよっぽど掛かってるんじゃないの」
「そうともいえるわね」
 何だか愉快になってきた。見ず知らずの女の子とこんなやりとりが出来るとは思ってもみなかった。二十五くらいだろうか、はっきりした口調で話す女のその声は、特徴的な潤いのある艶やかな声で、なかなか魅力的だった。
「……ほんとうは、一冊五百円、高くはないでしょ」
 とやや間を置いて恥ずかし気に言った女の声は、先程までとは変わってひどく幼く感じられたが、急に素顔になってしまったようで、好感がもてた。女は膝を抱えて甘えるような仕草をしたが、彼女が、自分の詩集を買わせようとして、媚を売っているのではないことは男にも分かった。
 男の眼はどうしてもそこへ行ってしまう。――女の剥き出しの二の腕が眩しかった。それは白いというより、桜色ががっていて、十分に肉がついていた。引き締まったウエストやすらりと長い脚に反して、腰からお尻にかけては形よく隆起していたので、スリムのジーンズが良く似合う。ふくよかで色白の顔立ちは、見様によってはエキゾチックな感じがする一方、ごく日本的な古風な顔にも見えた。それは、セミロングの、緑にも紫にも見えるややソバージュのかかった髪のせいかも知れない。東洋的というより、ジプシー的と言うべきか。そこだけ真っ赤な厚めの唇は、艶やかに濡れていて、男心をそそるものがあった。何よりも黒目勝ちな大きな瞳が美しかった。そして、Tシャツの、ちょうど胸いっぱいに描かれた薔薇の花弁があるところは、つんと上向きに盛り上がっていた。
「それにしてもこの詩集、全部あなたが書いたものですか」
「そうよ。色が違うだけじゃなくて、ちゃんと中身も違うのよ」
「へえー」
 それらは皆、『赤い表紙の詩集』とか『紫色の表紙の詩集』とか『金色の表紙の詩集』とか、要するにカバーの色そのものずばりの素っ気ないタイトルの付された詩集で、作者名はすべて小野麗子となっている。いま男が手にしているのは『黒い表紙の詩集』であるが、本文用紙は黄色味がかった上質のもので、詩集としてはやや厚く、百ページ以上あった。しかし奥付には何の情報も印刷されておらず、裏表紙の下に小さく「小野麗子詩集 Ⅹ 1991・夏」と記されているだけだった。
「小野麗子って、あなたですよねえ。ペンネーム?」
 男が訊くと、女は曖昧に頷いて、
「まあ、そういうことにしておきましょう。……もしかして私のこと知ってる人?」と身を乗り出して言った。
「いや、たぶん……知らない、と思うけれど」
「そう」
 女は小首を傾げて、
「……じゃあ、こう言えば分かってもらえるかしら」と言うと、すくっと立ち上がった。
 そして、はじめに両手を大きく広げ、それから膝を折り曲げながら右手をゆっくり前の方に降ろしてお辞儀をし、そのよく徹る声でこう宣うた。
「皆さん、いつもありがとうございます。お待たせいたしました。月影小夜子でございます。今宵ひととき、どうぞごゆるりとお愉しみください。よろしくお願い申し上げます」
 男は何が始まるのかと呆気にとられて見ていたが、女の身のこなしは物慣れた感じで、そのあいだ中、いかにも妖艶な笑みを絶やさなかった。
「へ、何それ。何の真似。いまの本名じゃないよね。芸名か何か」
「なんだ、ほんとに知らないんだ」
 女は芝居がかった笑みをすぐに引っ込めて、素顔の笑みを男に向けた。
「……ごめん。そうみたいだね」
「ううん、いいのよ。知らなければ知らない方が」
 何となく白けた雰囲気になってしまって、男は所在なくほかの詩集も捲ってみた。あるものは全篇ソネットだったり、あるものは一行からせいぜい数行の短詩ばかり集めたものだったり、あるものは最初から最後まで全然改行がなかったり、ダダイズムばりのものや、物語風な散文詩があるかと思えば唄の歌詞のようなものがあったりして、一冊ずつ意図的に形式を改えているのが見て取れる。内容的にはシュールなものばかりで、男には良く判らなかったが、なかなか実験的な試みをしているように思えた。最も古いのは赤いやつで、日付は1985・春となっていて、これだけには更に「二十歳の記念に」という題辞が添えられている。ということは、おれより二つ年下かと男は心の中で呟いた。しかし年齢以外は依然として謎のままである。よく注意して見ると、古い順に赤から紫までの七色は虹の配色と同じに並べられていて、それに金、銀が続き、最新作が黒というわけだ。
「この真っ白いのは」
 と男は訊いた。持っただけで汚れそうな純白の表紙のものは、表題や著者名はおろか中には何も書かれておらず、本というよりノートといった方が相応しい代物で、全くの白紙の本だった。
「それは売り物じゃないわ。オ・マ・ケ。三冊以上買ってくれたらあげるわよ。でも、メモ帳になんかしないでね。それには、買った人自身の言葉を書いて欲しいの。私の詩を読んだら、今度はあなたが書く番よ」
 男は一瞬ぎょっとした。心当たりがあったからだ。しかしその時は、そういえば昔、「白い本」というのがあった、要するにあれか、とそれ以上深く考えずに男は思った。男は彼女の詩集を特に買いたいとは思わなかったが、彼女からは立ち去り難いものを感じていた。それよりも急に疲労感と眠気が襲ってきた。
「……ねえ、俺もそこに坐っていいかなあ」
 女は、あんたも物好きねというような顔をしたが、
「ええ、別にいいわよ。どうぞ、お好きなように」と言って、少しずれてくれた。
 男は倒れ込むようにして腰を降ろすと、壁にぴったり背中を貼り付けた。なるほどこれは涼しくて気持ちいい。どこかのテナントから漏れるエアコンの冷気が、壁を伝わって流れてくる。窮屈な革靴も脱いでしまう。男は床に背広のまま横になった。一旦横になってしまうと、もうどうにでも動けなくなってしまった。女が何事か呟いて顔を覗き込んできたのまでは覚えているが、その後はもう意識がなかった。

 人の動く気配で眼が醒めた時、一瞬自分が何処にいるのか判らなかった。どれほどの時間が経ったのだろうか。こめかみが痛かった。頭の上から女の声が聞こえた。
「……やっと起きたわね。呆れるぐらいぐっすり眠ってたわよ」
 女は男の顔を覗き込むようにしながらくすっと笑った。視界はまだ霞んでいて意識も朧気だったが、寝込む前とまるっきり同じ情景が展開されているような気がした。男はがばっと起き上がると、首を素早く二、三度左右に振り、両手で顔をこすり髪をかきあげた。そして大きな溜め息を一つ吐くと、おもむろにポケットから煙草を出して火を点けようとした。百円ライターはなかなか点かなかった。白い腕が伸びてきて火をくれた。慣れた手付きだった。赤いマニュキアが似合うほっそりした指はよくしなった。
「ちょうど良かったわ。食事に行こうと思ってたの。どうせ寝てるなら、これ見ててくださらない。もっとも、寝てるんじゃ意味がないけど」
「……あ、ちょっと待って。俺も一緒に行きたいな」
 すでに行きかけていた女を追って男も立ち上がったが、留守番していてくれと言われた手前、その場を動くわけにもいかずどうしようかと思っていると、傍らから、
「ああ、ぼくが見張ってますよ」と気さくに声を掛けられた。それは隣のブースで金細工のブローチや指輪を売っていた金髪のヘビメタにいちゃんで、
「またあそこ行くんですか。さっきは混んでたけど、今頃は空いてるんじゃないかな」と女に向かって言った。この女を年上の姐御として慕っているという風な意外と礼儀正しい態度だったが、青年と女の馴れ合いを目の当たりにして、男は妙な嫉妬を覚えた。彼の店は結構繁盛しているみたいで、高校生の女の子の一団に取り囲まれて、青年は汗を拭き拭き忙しそうにしていた。
 男は自分だけひどく場違いな所にいるような気がした。髪を短く刈り、髭もきれいに剃り、ネクタイをきっちり絞めた自分のスーツ姿が忌ま忌ましかった。しかしこうなったら後へは引けない。男は女を見た。女が「じゃあ、どうぞ」というような仕草をしたので、男は「サンキュー」と金髪青年に挙手で合図して、女のあとを付いて行った。
 ハイヒールの音をコツコツ響かせながら颯爽と歩く姿は、後ろから見ているとなるほどプロポーションがいいのが分かる。女の足は速かった。階段を昇ると汗がこめかみから流れ落ちた。地上に出る。ずっと薄暗い所にいたので、真夏の日中の陽の光りは眩暈がするほど眩しくて、一瞬本当に立ち眩みがした。横断歩道は陽炎にゆらめき、歩いている人の足が歪んで見えた。新宿西口の右往左往する人込みを、彼女は何事もないかのようにすり抜けて行く。
 二人とも無言のまま、男は女に曳かれるようにして歩いていた。こうしていると女の方が年上のように思えてくる。あるビルに差し掛かると、そこはもうカレーの匂いが立ち込めていた。忘れていた空腹感がにわかに蘇ってきた。朝から何も食べていなかった。久し振りに電車に乗って繁華街に出て来たのだから、食事でもしてから帰ろうと思って、改札口から引き返してきたのだったということを男はやっと思い出した。
 びっしりと蔦の絡まる欄干に、女はちょっと手を触れてから、煉瓦壁の階段を地下に降りて行った。本格的な印度料理を出すこの店に男も来たことがあった。がっしりした造りのマホガニーの扉を開ける。チベットの民謡が流れてくる。冷房の効いた薄暗い店内に入った途端、猛烈な空腹感に襲われた。
 女は、顔見知りらしいマスターに軽く人指し指を立てて「いつものね」と言うと、すたすたと中に入って行き、一番奥の席の壁際に坐った。マスターが会釈する。男は反射的に同じものを注文した。いつものって何だろう。女は年季の入った赤煉瓦の壁に背を凭せ掛け、足を組んで、燐寸を擦って煙草に火を点けた。
「あ、それクレオパトラ」
 席に着こうとした男は、テーブルに置かれた煙草の箱を指差して中腰のまま言った。女はボックス型のラベルを摘んで、
「よく知ってるわね」と言って、紫の煙りを吐き出した。
「それって現地でしか売ってないんだよね」
「そうなの? それは知らないけど、去年エジプトへ行った時、いっぱい買ってきたの」
 どうぞというように女が紫紺の箱を寄越した。
「前に妹がエジプトに行ったことがあって、土産に買ってきてくれたんだ。訳の分からない外国の煙草は、たいてい葉っぱ臭くて美味くないんだけど、これだけは美味いと思ったな。第一、名前がいいんだこれは」
 男はラベルをいじくりまわしながら一本引き抜き、鼻先で煙草の匂いを嗅ぐと、女に微笑んで、口に銜えた。女が燐寸を擦ってくれた。エジプトか、いいなあと呟いているところへ、一見女子大生風のウェイトレスが冷たいラッシーを運んで来て、男をちらちら見ながら、
「小夜子さんが男の人連れてくるの初めてね」と女の耳元で言った。「マスターが妬いてましたよ」
 女が意味あり気に曖昧な表情をしたので、ウェイトレスも無遠慮に男を見た。
「どうぞごゆっくり」
 ウェイトレスはお盆を胸に抱えながらそれだけ言うと、くるりと踵を返して引き上げていったが、男は何故かどぎまぎしてしまい、顔が火照ってくるのが分かった。多少なりとも下心がないとはいえない自分を恥じた。女は意に介さないという風にグラビア雑誌を捲り始める。何か喋らなければという義務感に責立てられて、男は、
「あなたのこと、小夜子さんて呼んだらいいんですか、それとも麗子さん?」と訊いた。
「うーん、ここでは小夜子さん、あそこでは麗子さん」
 女は雑誌を閉じ、手振りを交えてこう答えた。
「じゃあ、小夜子さん、あなたは一体何をしてる人なんでしょう」
「知りたい?」
「ええ、そりゃまあ、差し支えてければ」
「ストリップのダンサー。つまりストリッパー」
「えっ!」
「こう見えても、その筋じゃちょっとした有名人なのよ」
 女は悪戯っぱく笑った。冗談ではなく、どうやら本当のようだった。男は何と言っていいのか判らなくなって、しきりに頭を掻いたり、もう一本と言って彼女からもらったクレオパトラをやたらに吹かしていた。
 料理が来る。カレーソースは三種類あった。一つは海老をあしらったカシミール風のもの、一つはホウレンソウを和えた青いカレー、もう一つはベンガル風のソースで各種の野菜を煮込んだもの。それに、皿からはみ出さんばかりのナンとタンドリーチキンが付いたセットである。結構ボリュームがありそうだ。
「嬉しいな、俺、ナン好きなんだ」
「そう。趣味が合いそうね」
 にっこり微笑みながら言った女のその言葉は男を鼓舞した。しかし料理が料理なだけに食べながらは話しづらい。それにお腹が空いていた。殆ど無言でお皿を平らげると、男は一服して、
「すこし時間あるかなあ、チャイが飲みたくなったんだけど」と言った。
 男は先程のウェイトレスを呼んで追加の注文をした。
「あたしも一つね」
 女はウェイトレスに目で合図しながら付け加えた。

 ……店を出て、二人は再び雑踏の中を新宿西口の地下広場へ向かった。お腹が一杯になり、暖気に晒されるとまた眠くなってきた。身体は気だるかったが、しかし意識は妙に昂揚していた。階段を降り、地下通路を通り抜け、いよいよ彼女の〈売り場〉が見えてきた時、男は自分でも全く思いがけない言葉が口を衝いて出ていた。言ってしまってから自分で自分の言葉に愕き、狼狽したが、一度言ってしまった言葉を収めることは出来ないので最後まで押し通すしかなかったし、滑り出したらもう止められなかった。男は掌を汗でぐっしょり濡らしながら、彼女にこう言ったのである。
「あの詩集は一冊五百円で、全部で十色あるから、全部買うと五千円だよね。それで白い本が付いてくる。最初は全然買う気はなかったけれど、あなたとこうして話しているうちに、何だか読んでみたくなってきた。だから、五千円で全部買ってもいいんだけど、それよりも……あの、麗子さん……あなたを買いたいんだけど」
 男は顔から火が出るような思いで、彼女の顔をまともに見ることも出来なかった。まして女の反応を窺う余裕などなかった。
「いや、買うといったって、そんなに持ち合わせはないし、別に、変な意味で言ってるんじゃないんだ」
 男は額の汗を拭いながら、彼女が何か言う前に、とにかく最後まで言いたいことを言ってしまおうと更に続けた。
「あのう、何と言ったらいいのか……きょう一日、いやあと半日、あなたと一緒に過ごしたいんだ。もらろん僕には、あなたを自由にするほどのお金はないから、僕はただついてゆくだけで、あなたは好きなように過ごしていてもらえばいいし、ただ、あなたみたいな人が普段どんな生活をしているのか、何を考えているのか興味があって、もちろんプライベートな事まで詮索するつもりはないけれど、もっと別な所でゆっくり話がしたいんだ。それで……」
 いくら出せばいいですか、と言いそうになって、さすがに男は口を噤んだ。これではまるで、ハウ・マッチ? と言っているのと同じだし、男が一番恐れていたことは、男が、彼女がストリッパーだと知ったから、こんなことを言い出したのだろうと、彼女に誤解されることだった。彼はあくまでも、小夜子さんにではなく、麗子さんに言っているのだから。しかしそれなら、最初からお金のことなど言わなければいいのに、最初の切り出し方が悪かった。要するに、普通に女の子を軟派するようにすれば良かったわけで、話が変なことになってしまったのである。
「……それで?」
 と女は微笑みながら言った。
「あ、いや、だからその……」
 男は困惑し、しどろもどろになった。たぶん男の表情があまりにも生真面目だったので可笑しかったのだろう。女は「ぷっ」と吹き出して、
「すごい汗よ。はい、これ」といかにも可笑しいというようにハンカチを出してくれた。
 下着を着けていなかったのでYシャツから直に汗が滲んでいた。ハンカチを受け取る。ほろ苦いような、甘いような、麝香の薫りが五感を刺激する。心なしか女の体臭も漂ってきそうで、容易に使うことは出来なかった。しかし男は、彼女が怒っていないことを知って少しほっとして、漸く彼女に向き直ることが出来た。
「さっきも言ったでしょ、そういうのは買う人が決めるものよ。……もっとも、私は、本は売ってますけれど、本人は売ってないんだけどなあ」
「………」
「でもまあ、交渉次第ね」
「………」
 男は段々冷静になってきた。そうだ、買えるわけがないのだ。こうなったら、冗談だよと言って、笑い飛ばすしかないだろう。
「……あなたって面白い人ね。小夜子さんを買いたいっていう殿方は吐いて捨てる程いるけど、麗子さんを買いたいっていう人は初めてだわ。私なんて買ったってどうしようもないのに……。私はパートタイムの詩人で、お遊びだと言われてしまえばそれまでだし、あの詩集だってどれ程の価値があるかは判りません。そうね、少なくとも文学的にはたいしたものじゃないかも知れない。だけど、作者自身よりは価値があると思っているわ。そうは思わない?」
「………」
「それに、売ったことないから相場が判らないわ。あなた知ってる?」
「いや……」
「巷ではどレくらいで売買されてるのかしら。まあ、相場なんて関係ないわ」
 女は妖艶な笑みを浮かべながら、
「麗子さんねえ、きっと高いわよ。あなたに買えるかしらね。たぶん買えないでしょう」と言った。
 そりゃそうだ。男が答えに窮して黙っていると、彼女はこう言った。
「それより、あたしがあなたを買うわ。五千円でどう? 取り敢えず、あの荷物持って頂戴な」

     *

 ――それからどうなったんだっけ、と男は思い出そうとした。途中の記憶が曖昧だった。
 夏の日は漸く暮れようとしていた。CDプレイヤーをオートリピートにしてあったので、どこから始まってどこで終わるのか分からないようなシタールの演奏は殆ど切れ目なく延々と続いてた。スティック状の長いお香もすでに三、四本灰になっていた。一旦ステレオを止め、煙草に火を点ける。そして床に寝そべった。煙りが輪を作る。
 それから、新宿の大ガードを潜り、歌舞伎町を突き抜け、職安通りを渡って大久保の方へ行ったのか、それとも、そのまま地下道を東口に進み、区役所通りから花園神社の脇を抜けて、むかし都電が走っていた道を登り、抜弁天から余丁町の方へ行ったのか、あるいは戸山ハイツの方へ向かったのか、全く思い出せない。花園神社でお賽銭を投げたような気もするし、コマ劇場の裏を通ったような気もするし、アルタ前の交差点で信号待ちしたような気もする。新宿にまつわるいろいろな記憶が折り重なって錯綜している。ただ、途中で女が薬局に寄ったのだけは憶えている。何を買うんだろうとどきどきしていた。きっと男は物欲し気な間抜け面をしていたのだろう、女は店から出てくると、
「ばか。何考えてんのよ」と言って、また歩き出した。
 いずれにしろ、真夏の太陽の下、重い荷物を両手に捧げて、相当な道のりを歩いたのは確かで、
「なんだか、まるで付き人みたいだなあ」と男は音をあげそうになった。「詩人の付き人なんて聞いたことないよ」
「文句言わないの。五千円で買われたんだから。それに、ストリップ嬢の付き人だと思えばいいでしょ」
 女は振り返ってにこっと笑った。
「そりゃまあそうだけど、それにしても、これどうやって持って来たの。こんな重い物よく運べたねえ」
 と男は溜め息を吐く。汗が滴り落ちる。肩が抜けそうだ。それでも女は涼しげに歩き続ける。しかも、新宿の中心街にこんな路地があったのかというような、家と家の隙間の細い路地から路地へ曲がりくねって来たので、終いには何処を歩いているのか判らなくなった。人ひとりやっと通れるような私道を抜け、少し開けた所に出ると、女は正面の臙脂色のタイルのマンションを指差して、
「ここよ」と言った。
 男は最初そこが彼女の自宅だとは思わなかった。何かの事務所だろうと思った。エントランスに入る。禿頭のいかにもスケベそうなオヤジの管理人が目敏く彼女を見つけるとわざわざ出てきて、にやけた挨拶をし何か言葉を掛けようとしたが、男の姿を見て胡散臭そうに眉を寄せた。女は管理人に、気にするようなあれじゃないわよというように微笑んだ。エレベーターで七階に昇る。中は蒸れていた。エレベーターを降りる。彼女は先に立って、外壁と共色のスチールの扉を開ける。
「どうぞ」
 そう言われ、中に入ろうとした時、表札が目に入った。そこには「小野麗子」と書かれてあった。男は一瞬「えっ」と思ったが、とにかく荷物を降ろしたかった。こんな状況でなければ大いなる期待を抱かせる瞬間であったろう。
「そこでいいわ」
 言われるままに荷物を置き一息つくと、男は部屋の空気を思い切り吸い込んだ。何とも言えない生な女の匂いがした。それと木の香りが漂っている。遮光性のカーテンの僅かな隙間から木漏れ日が射していた。カーテンは閉じられたまま、女が蛍光灯を点ける。眩しいくらいの昼光色の明かりだ。男は部屋を見回す。いい部屋だ。独り暮らしには贅沢過ぎる間取りたが、男の影はなさそうだった。どういうわけかビートルズのホワイト・アルバムが似合いそうな部屋だと思った。そんなことを思っていると、天井に掛かったボーズのスピーカーからいきなり「マジカル・ミステリー・ツアー」が飛び出してきた。男は女と目を見交わし、グッドと親指を突き立てた。しかしそれによって、それまでのいくぶん淫靡な雰囲気は消え失せてしまった。
「コーラでいいかしら」
 という女の声で振り向くと、男はぎょっとした。女が頭を取り外そうとしているように見えたからだ。
「カツラだったの!」
 束ねた髪を解くと、癖のないストレートの長い髪が顕れた。それは栗色の、まるでシャンプーのコマーシャルに出てくるような、光沢のある柔らかそうな髪だった。この髪型の方が女の顔をより一層華やかに見せ、二十歳くらいにしか見えなかった。こんなにもイメージが変わるものかと驚嘆し、男は目を輝かせて言った。
「その方がいいよ」
 なんだか急に麗子の部屋から小夜子の部屋へ迷い込んでしまったような感じがした。女は浮遊するみたいな軽い足取りで殺風景な部屋の中を移動する。リビングルームは実際広かった。しかも家具の類が何もない。それで尚更広く感じる。フローリングの床ばかりがやけに目立つ。まさにフロアという感じ。
「どこでも好きなとこ坐って」女は言う。
 ところが椅子ひとつないのだった。何処かで聞いたことのあるようなシチュエーションだと思った。そうだ、「ノーウェジアン・ウッド」だ。ジョン・レノンの浮気の相手の部屋。中学生の頃、この曲には随分想像力をかき立てられたものだ。大人の女への憧れ。北欧ロマン。アルバム『ラバー・ソウル』あたりからビートルズの詞の世界は変わってくる。あれはシタールを初めて導入した曲で、メルヘンチックな曲調に反して、ジョンの物憂げなヴォーカルは大人の恋を唄っていた。そういう状況が目の前に展開されてもおかしくない年齢になっていることに、男は今更ながらのように気付いた。
 女は滑らかな動作で冷蔵庫を開け、ペットボトルからコーラを注ぎ、グラスを運んでくると、いい音を立てて氷を入れた。そして、インド象を浮き彫りにした民芸品らしい小箱を持ってきて、
「どれがいい」と言った。
 男は紫色の円錐を摘み、
「きみにはこれが似合うな」と言って、お香に火を点けた。
 再び妖しい雰囲気が立ち込める。

 それからどうなったんだっけ。期待させられるようなことは何もない。丁度「ノーウェジアン・ウッド」と同じだ。いや、あれの方がまだましだ。――しばらく寛いでいると、女はいそいそと〈プリントゴッコ〉の箱を持ってきて、男の前に置いた。そしてくつくつと笑った。
「まだ暑中見舞い出してないの。もう残暑見舞いだわね。それでも遅すぎるけど、まだ暑いからいいわよね。早くしないと夏が終わっちゃうわ。……原稿はこれね。はがきはそこにあるから」
「なに、俺に刷れって言うの。……そういう事か」
「やり方知らない?」
「いや、知ってるよ。うちのと同じやつだし、でも、この間もやったばかりなんだよな」
「それから……」
「え、まだあるの。参ったなあ。まさか部屋の掃除をしろとか言うんじゃないだろうね」
「違うわよ。まあ、それはいいわ。とにかくやってよ。いいアルバイトでしょ。そっちに広げていいからさ」
 男が原稿をスクリーンに熱転写するところまでは女も繁々と眺めていたが、それが終わるとさっさと居なくなってしまった。男はインクを数本掴んで、色はどうすればいいのと訊いた。キッチンのテーブル越しに、お任せするわという答えが返ってきた。それではとぱっと思いつくままに配色を決め、それから男はひたすらはがきを刷った。女は何か書き物をしている。音楽はいつの間にかビートルズからモダン・ジャズ・カルテットに代わり、次いでムソルグスキーがかかっていたと思ったら、突如「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」になった。
「ねえ、俺この曲好きなんだけどさあ、プリントゴッコするにはテンポが合わないよ」
 すると今度はラヴィ・シャンカールのシタールが流れてきた。インクを乾かすために印刷した端からきれいに並べていたので、床は壮観な眺めになった。やっと刷り終えたところで、煙草をゆっくり燻らせながら、
「ところでさあ、さっきから気になってたんだけど、このカーテンは何」と訊いてみた。「なんでこんな所にカーテンがあるの」
 三間はゆうにありそうな西側の壁一面は、天井から床まで届くぶ厚いカーテンで覆われていた。皺ひとつなかった。コールテン地の濃い紫のカーテンで、カーテンというよりまるで暗幕のようだった。舞台の幕のようにも見えた。窓がある方角ではなかったし、開けるともう一つ別の部屋が出てくるような気もしたが、そのような気配は感じられない。壁を隠すための単なるインテリアなのか。それともバレエ教室のような大きな鏡が出てくるとか。そういえば踊りのレッスンには丁度いい部屋だ。ちょっとした教室が開ける。あるいはストリップを踊る彼女の等身大のパネルが飾られているとか。それにしても高そうな生地だ。
 女はテーブルを立つと一度背伸びをし、相変わらず舞うように歩いて来て、
「あら、終わったの」と言い、床いっぱいに整然と敷き詰められたはがきの中から一枚摘んで、
「うまいうまい。よく出来てるじゃん。これからもお願いしようかしら」とからからと笑った。
 そして、紫のカーテンを指差して、
「気になる?」と意味あり気に微笑んだ。
 そう言われた瞬間男は、目の前の幕が遠隔操作でするすると開き、巨大なスクリーンが現われて、そこに素っ裸で踊る彼女の姿が映し出されるような幻想を抱いた。それを言うと彼女は、
「ばかね。男ってどうしてそういう事しか考えられないの」と笑いながら、カーテンを全部開いてみせた。
 男は目を瞠った。そこは壁ではなかった。もちろんスクリーンでもなかったし、レッスン用の鏡が出現したのでもない。そこは本がぎっしり詰まった書架だった。ちゃんとした大工に依頼して作らせたと思われる白木の造り付けの本棚で、色とりどりの背表紙が犇めき合っていた。生活感のない殺風景な部屋もすっきりしていてなかなかいいものだが、この部屋には何かが足りないと思っていた。それがそこにあった。古本屋の店先のような匂いが漂ってくる。懐かしくて心が落ち着く。男は殆ど感動していた。男の周りには本集めが趣味みたいな友人がたくさんいるが、彼らの書架を見るようだった。並んでいる書籍にも心当たりがあった。男は女と目を見交わした。きょう一日でこれで何度目だろう。初対面とは思えなかった。男の目はきっと輝いていたに違いない。何も言わなくても、この本棚を眺めているだけで、分かり合えるような気がした。
 するとにわかに彼女がストリッパーだということが信じられなくなってきた。からかわれているのかと思った。そう言うと彼女は風俗雑誌を二、三冊引き出してグラビアの頁を開いて見せた。それはまさしく、スポットライトを浴びて煽情的な姿態で踊る、殆ど裸の彼女だった。それらの多くはローアングルで撮られ、剥き出しの肉体は艶めかしかった。男の欲望が露出しているようで、男は顔を赤らめ眼を背けた。本人を前にしてじっくり見られるようなものではなかった。
 それで男はもう一度本棚に眼を移した。そして一冊一冊タイトルを確かめるようにしながら隅から隅まで眺めているうちに、あるものを見つけ、
「あっ、何だこれ!」と叫んだ。身体が凍り付いた。と同時に全身が熱くなってきた。
 一番下の段の隅っこに、大判の画集や百科事典に隠れるようにして、ある大学の卒業アルバムがあった。カーキ色の函の背に金箔で大学名と年号が捺されている。それはまさしく男の家にあるものと同じだった。男はアルバムを函から引き抜くと、大急ぎでページを翻した。そして、
「これ、俺」と女に差し示した。
「えっ、うそー。ちょっと貸して」
 と女はアルバムを手に取り、そこに写っている男の顔と目の前の男の顔を交互に見詰めた。
「うそじゃないだろ」
 男の風貌は学生の頃から殆ど変わっていない。
「ほんとだ。確かにあなたね。でも、どうして学生服なんか着てるの。体育会?」
「いや、単なる趣味」
「へんなの」
 今度は女がページを捲る。しかし彼女が自分の載っているページを認めたと思った途端に、彼女はやーめたと言ってアルバムを閉じてしまった。男はどうしていいじゃないと言いながらアルバムを取り返そうとした。やーよと言って逃げる女と軽く揉み合った末にアルバムを引っ手繰ると、男はこの辺だったなと当たりを付け女を探した。
「あった、これだ。へえ、演劇だったんだ。……やけに清純そうに写ってるじゃん」
「何よ、今は清純じゃないて言うの」
「いや、そうじゃないけどさあ……。いかにもっていう感じじゃない」
「そうよ。私、ほんとは清純派だもん」
 彼女は拗ねたように言った。男はこんな女子学生が同じ大学にいたのかと思っだが、三年以上前の写真の彼女を見ているうちに、何だか見掛けたことがあるような気がしてきた。二歳年下だか、男の方は一年浪人した上に一年留年しているので、同じ年の卒業ということになる。専攻は違うが学部も一緒だ。しかし彼女は一部で男は二部だったので、同じ校舎にいた時期は二年しかなく、しかも男は五年目の学期は週に一回しか学校に通っていなかったので、接点があるとしても実質的には一年間だけだ。だから見掛けたというのもそう思えるだけなのかも知れないが、
「ねえ、よく図書館にいなかった?」と、男はなかば当てずっぽうだが、図書館には時々校内ではあまり見掛けないはっとするような可愛い子がいたりすることがあったので、そう言ってみた。
「ええ、よく行ってたわ。本の虫だったから」
「やっぱり。この写真の子なら見たことあるよ」
「今更そんなこと言ったって、そういう手には乗りませんよーだ」
 女はそう言って、笑いながらアッカンベーをした。

 ――そらから二人は、大学時代の話や、文学や音楽や芝居の話をして大いに盛り上がった筈である。具体的にどんな話をしたのか、男は今ではまるで思い出せない。男と女の親密度が増したことは確かである。しかし、その質はにわかに変化していた。同窓生だと判ってみると、ストリッパーで詩を書く女という、それまで謎めいて見えていたものがすべて氷解してしまったようだった。それまで部屋に漂っていたセクシャルな雰囲気は跡形もなく消えていた。要するに旧友と再会したような感じになってしまったのだ。だから彼女と喋っていて、Kと話をしているような錯覚に陥ることもあったし、彼女もO先生のゼミにいたような気になったり。(実際、彼女は先生の講義を履修したことがあると言っていた――それは大いにあり得ることで、彼らの通った学校は一部と二部、あるいは他学部同士の行き来がわりあい自由だったし、しかもO先生の専門は近代詩で、元は詩人だったのだから)。それに、今にして思えば、と男は新たな発見をして苦笑した。彼女はどことなく妻に似ているようなところがあった。例えばいくぶん剽軽なところとか。理屈っぽいようでいてそうでもなく、感性だけかというとそんなこともなく、話し方やちょっとした仕草にも何となく似たところがあった。彼女との話の内容もおそらく、Kと会えばいつもその話になっていたような話題や、ゼミ仲間(その中には妻も含まれている)と当時盛んに議論していたようなことと大差はなかっただろう。
 いずれにしろ、一人の健康な男(彼に妻や恋人があろうとなかろうと)が、通りすがりに出遇った女の部屋に行き、しかも彼は女に買われた恰好で連れてこられ、彼女とは音楽や文学だけでなくいろいろな点で趣味や嗜好も合い、ストリップのダンサーをしているという女は、当然十分過ぎるくらい性的魅力に溢れ――彼女の身体つきはファッション・モデルなどと違って非人間的とも思えるようなスレンダーなものではなく、よく節制されてはいたが、どちらかといえばかなり肉感的な方で、この男の好みにも適っていたし、〈仕事〉を離れ自宅で寛ぐ姿には自然な色香があった――その上、彼女の方に男が付け入るスキが全然なかったわけでもなく、そしてたっぷり時間もあったのに、何事も無く帰ってきてしまったというのは全く間抜けな話である。
「はい、約束の五千円」
 いつの間に用意していたのか、女は男に御祝儀袋を渡した。
「いいよ、こんなの。別にアルバイトしに来たわけじゃないから。それに、最初に僕が言った通りになっていたら、ほんとうはこっちが払わなければいけないのだし……」
「でも、思わぬところで助かっちゃったし、タクシー代にでもしてよ」
 はじめ男は固辞していたが、女は御祝儀袋を無理やり男の懐へねじ込んだ。
「わかった、じゃあ、そうさせてもらうけど、でもタクシーなんかに乗るような身分じゃないし、せっかくだから」と男は言い、袋から中身(それは印刷の匂いがぷんぷんするようなピン札だった)を出し、
「これで、君の詩集、十冊まとめて買います」と言った。
 七色の虹、即ち太陽光線のスペクトルと同じ配色に表紙が色分けされた七冊と、金、銀、黒の三色を加えた十冊の詩集は、第一集から順に背を揃えると確かに綺麗だった。そして付録として、本当は一度に全部買ってくれても一冊しかあげられないんだけれど特別よと言って、女は「白い詩集」を三冊くれた。どういうわけか、その何も書かれていない本というよりノートが彼女の一番の自信作であるかのように。男はそれを受け取ることに戸惑いを覚えた。彼女の言いたいことは判っていた。物凄いプレッシャーを感じた。受け取ってしまったら、もう後には引けなくなるだろう。参ったなと思った。急に胃が重くなってきた。しかし彼女の微笑みにつられて受け取ってしまった。その瞬間、何か電気的なショックが手に伝わった。
 帰り際、振り向いた時、玄関先の薄闇の中で、彼女の形のいい赤い唇だけが浮かび上がって見えた。ダウンライトに照らされて、そこだけがくっきり濡れて光っていた。と思うと彼女の顔が急に接近してきて男はびっくりした。しかしそれは男を素通りして靴べらを拾い上げただけだった。
 結局最後まで何事もなく、男は彼女の十冊の詩集と三冊の白いノートを抱えて深夜の街に帰って行った。「小野麗子」の部屋にいるあいだ、妻の顔が一度も浮かばなかったわけではない。だがそれほど後ろめたさは感じなかった。それに男は特に恐妻家というわけでもない。しかし彼女と妖しげな雰囲気になると何かが引っ掛かって邪魔をした。こうして何事もなく彼女の部屋を辞して、エレベーターでマンションを降り、エントランスを出て新鮮な外気に触れた時、男は何となくほっとした。――しかし、〈何事〉もなくという〈何事〉とは一体何を指しているのだろうか。通常この場合、当然男と女の事だと思われる。だがそれが〈何事〉と云えるほどのものだろうか。本当はもっと別の〈何か〉があったのではないか。
 彼女のマンションを出て、男は何処をどう歩いて来たのか全然覚えがない。新宿より近い駅があったのかも知れない。とにかく終電に間に合ったのだろうし、電車に乗って家に帰ったことも確かのようだ。普段から鉄砲玉の男は何の連絡もなく帰宅が遅くなっても怪しまれることはなかった。尤も怪しまれて困るようなことはしていないが。家に帰ってからのことも覚えていない。男が唯一憶えているのは、女の部屋を後にした時、しまった、いっぺんに全部買うことはなかった、今度彼女に逢う口実がなくなってしまったじゃないか、と後悔したことだった。そして何故か寒かったように記憶している。コートの襟を立てて帰ってきたような気がする。あれは夏だった。だからそんな莫迦なことはないのだが……。
 また縁があったら会いましょうというようなことを女は言い、男もそのようなことを口にした。しかしその後、男は女と二度と遇うことはなかった。小野麗子とも月影小夜子とも。
 夏も終わり、秋が来た。彼女との邂逅の直後から男の生活環境は激変していった。いよいよ本気で面接に行き、ある会社に就職した。表向きは転職だったが、男にとってごく普通の企業に正社員として入社するのは二十八歳にして初めての経験だった。就職が決まった翌日から、例年通り大学のゼミ合宿に参加した。学生らともう一日遊んで行こうと予定を延ばそうとした矢先、義理の父親の急死を知らされた。盛岡にいた。仙台は近い。新幹線で直行しようかとも思ったが、とにかくすぐ帰京すると、その足で再び北へ向かった。真夜中の東北道を猛スピードで車を飛ばした。臨月間近かの妻を母親に預け、先に出発したのだった。そのひと月後、新しい会社に入社して一週間もしないうちに、今度は男の祖父が亡くなった。そして更にそのひと月後、妻が最初の子供を出産した。入社と同時にある仕事を任されていたので、仕事もすぐに忙しくなった。女のことを思い出している余裕はなかったし、そういう気にもならなかった。そして年月だけが経った。

     *

 ……男は永い瞑想から醒めた。すっかり夜になっていた。また食事かと思った。当然何も用意していない。朝も昼も夜もコンビニだ。米くらい炊いておくべきだった。レトルトパックのカレーならあったのに。プロ野球の途中経過も気になった。しかし意識が拡散されるのを恐れてテレビはつけなかった。どうせきょうは一日終戦五十年特集だ。食事が終わり、煙草を一服した後も男は暫くぼうとしていた。もはや記憶は生々しく蘇ることはなかった。床に寝そべり、ただ漫然と天井を見詰めていた。やることと言ったら煙草を喫うことくらいしかない。一人で寛ぐお盆休み、考えてみれば、何かをしなければならないということはないのであった。しかし……。
 もう一度外の空気を吸いたいと思った。玄関から外の廊下へ出る。いくら暑くてもやはり昼間とは違う。大気の肌理は細やかになっている。清少納言に言われるまでもなく、夏は夜だと思う。時代は刻一刻と変化しているし、人間の生活は大きく変わったが、人間そのものは大して変わっていない。深呼吸をする。東京の夏は、昼間は埃っぽいだけで匂いがない。しかし夜は独特の匂いがある。もちろんそれは、夏の始めから夏の盛り、夏の終わりと微妙に変化してゆく。今は夏の盛りであるが、夜の空気にはすでに秋の匂いが混じっている。秋の気配を感じると男の精神は活性化してくる。身が引き締まってくるようだ。男はもう一本煙草に火を点ける。そして部屋に戻りアイスコーヒーをグラスに注ぐと、それと蚊取り線香を持って母屋の書斎に降りて行った。
 小野麗子の詩集はその後読み返していない。どこに仕舞っただろう。当時男を圧倒したのは質よりもその量だった。彼女の饒舌さは並み外れていた。畳み掛けてくる彼女の言葉に男は圧倒された。饒舌と云ってもしかしそこに蛇足や余分なものがあるようには思えなかった。そしていくつかの詩句は確かに男の琴線に触れた。しかし、それよりももっとぐさっと突き刺さってきたのは、丁度男のリクエストでかけたケイト・ブッシュのファースト・アルバムを聴いている時に言った、彼女の言葉だった。
 彼女は、むかし書いたものはもうどうでもいいと言った。本当は詩集なんか作る必要もないし、ましてそれを自分で売るなんていうことは愚の骨頂で、本当はそんなことはどうでもいいの。まあ、深く考えなければそれはそれで愉しいし、ああいう所で商売するのもなかなか面白いのだけれど。……もしいまの自分が過去の作品を少しでも愛せるとしたら、それらが紛れもなくその時の自分にしか書けなかったもので、どう転んでももう二度と同じものは書けないだろうという哀惜の念からだけで、私にとってはもう出来上がってしまった作品なんてどうでもいいの。だって、私は何よりも書いているのが愉しいんであって、それは男たちの前で裸になって踊りを踊っている時にも通じるんだけど、はっきり言って、セックスするより好きなの。感じちゃうのよ。その為だけに書いているようなものだわ。書くという行為というか動作によって、エクスタシーが味わえればそれでいいの。たとえ他人から自己満足だと言われようとも、まず自分が満足できるようなものでなければ意味がないでしょ。彼女はそう言って、モンブランの男物の万年筆を取り上げた。これでオナニーしているようなものね。と片目を瞑って最後はおちゃらけてみせたが、男の心を一番揺り動かしたのは、彼女の詩句そのものよりも彼女のそういう言葉だった。彼にも同じ思いがあった。考えてみれば、男が中学から高校時代にかけて心血を注いだ、KとUの三人でやっていたバンドはまさにそういうものであったし、それでどうこうするつもりはないのだが、それでもやらずにはいられなかったのだ。そしてそのことは、たとえ形が変わっても今でも同じ筈なのに……。しかし〈思い〉だけではどう仕様もない。彼女はそれをちゃんと実践していた。この違いは殆ど不条理なほどの違いだ。
 ――男は彼女の詩集を部屋中引っ掻き回して捜した。本棚には入れていなかった筈だが、あるいは後ろ側にいってしまったか。二重に並んでいるところを表側を手前に引いて捜す。押入れを開ける。本が堆く積み重なっている。それらを全部引っ繰り返しているうちに、男は自分が一体何を捜しているのか判らなくなってしまった。男が捜していたのは、実のところ彼女の詩集ではなかった。そう、あの「白い本」だった。収納ケースを開ける。書類入れも開けてみる。机の抽斗も捜してみる。そして男はひとり苦笑した。

《もちろん、何処を捜しても、そんなものがあろう筈はなかった。――》

 その代わり、去年の夏に書いて実際には投函していない、Kに宛てた長い手紙が出てきた。ワープロで打たれたその手紙はある目論見から書かれたもので、その後、秋、冬と続く筈であった。更に同時に、Sという大学の一年後輩にも男は同じ目的で手紙を書こうとしていた。KやSだけでなく、ほかにも何人かの先輩・後輩・友人、果ては妻に宛てて別々の内容の手紙を書くことによって、何かをしようとしていたのだ。実際その前段階として、去年の夏は事ある毎にほうぼうから絵はがきをいろいろな人に出していたのだった。昭和から平成へ代わる頃にも、男は同じようなことを試みていた。
 そのプリントを見つけ、あれからもう一年かと改めて男は溜め息を吐いた。昼間多摩川の河原に寝そべって、競輪場の灰色の建物を眺めながら思ったのとは別の感慨に襲われた。この一年、業績不振による経営の悪化――それはもう三年前から続いていた、つまり男が入社した直後から、そしてそれは単に世の中全体が不況だという理由からだけではなかったので、勤め先ではいろいろな事があったが、自分自身の生活で変わったことと云えば子供が一人増えたということくらいで、何も進歩していなければひとつも成長していないということを、その手紙は能弁に語っている。あれからKとも会っていない。Uに至っては、平成になってからまだ一度も会っていない。やはりそろそろ連絡しなければと思った。しかし、それには手ぶらというわけにはいかないだろう。


    Kへの手紙

 ……それから僕は一体何をしようとしていたのか――。そもそも僕は何をしてきたのか。いや、何をしてこなかったのか。そして……また元のところに戻ってきてしまった。三年まえにも、五年まえにも、おなじような事があったような気がする。僕は、昇る速度と同じ速度で沈む螺旋階段を歩いてきたようなものだ。沈む速度の方が速くないだけましといえるのか。いや、実際には少しずつ沈んでいるのかも知れない。ともかく、そのようにして十年が文字通りあっと言う間に経ってしまった。僕の貴重な二十代、それはけっして短くはない時間だ。
 僕は、もうすでに冷めてしまったコーヒーをひと息に飲み干すと、煙草に火を点けた。紫の煙りが渦を巻く。これで何本目だろうか。夜とコーヒーと煙草。そしてひとりの時間。これがなければ僕は生きてゆけないだろう。
 午前一時。昼に殺された魂どもが目醒める時刻だ。僕の町は眠りに就こうとしている。夜はその艶めかしさを更に増して、のっぺりと貼りつき、音もなく膨張し、いつの間にか部屋の隅々まで蔓延している。やっと昼間の呼吸困難が解消されてきた感じだ。
 いずれにしろ、僕らは終わったところから始めねばならなかった。どこかで聞いたことのあるような科白だが、僕らはもう一度初めからやり直さなければならなかった。あまりにも遅すぎて、もはや取り返しのつかないところまできてしまっているのかも知れないが、それしか方法はないだろう。精神的にはともかく、肉体的には留まっていることなど出来ないのだから。命あるもの逆向きに歩くことは出来ない。逆行しようが後退しようが、時間だけは確実に前へ進む。ならば、沈む速度より速く駆け昇るしかないのだ。

 ……そんなわけで、貴方のなかで僕が不在のあいだも、僕はともかく生きていました。「生きていた」なんて云うのはいささか大袈裟だし、むかしの僕ならきっと、それは「生きている」とはいえないと言ったであろうたぐいのもので、実情は〈生活〉していたといった方が正解でしょう。生活か、それも怪しいもので、傍からはそうは見えないようだが、実際のところは、地に足のついた、確固たる生活というようなものにはほど遠く、何はともあれという感じでして、いずれにしろ健康上は何事もなく、まあ、相変わらず元気だったという程度のものです。
 そして同じように、というか当然のことながら、僕のなかを貴方が留守にしていたあいだ、貴方にもやはり生活があったようですね。僕のいう生活とはたぶん質の違うものでしょうが、貴方にももちろん貴方のエリア――それは僕の知らない貴方の領域であり、なんとなく踏み込めないものがあって、へんなことを言うようだが、僕は軽い嫉妬を覚える――での〈暮らし〉というものがあり、先日は突然子連れでお邪魔したために、多くを聞くことができず残念でしたが、貴方にしてはけっこう波瀾に富んだ、今までにない展開があったようですね。
 特に、貴方の〈ロマンス〉についてはゆっくり話を聞きたかった。正直言って非常に興味がある。そういう方面に関しては、むかしからお互い妙な羞恥心が働くのか、まともに話し合ったことがほとんどなかったので、貴方がどういう風に女性と接し、どんな恋をしてきたのか、そして現在どのような恋愛をしているのか、たいへん興味をひかれました。と同時に、すこし安心した。というのは、僕のまわりには、〈恋する〉ということを忘れている人がなんと多いことか。恋をすること自体面倒臭いという。もしかしたら恋をしたことがないのかも知れないが、好きな女ができれば面倒臭いなどどいうことは吹き飛ぶはずなのに。恋は多忙だ。しかし多忙を忘れさせてしまうものだ。どうしようもなくかわいいと思う女や一度でもいいから抱いてみたいと思う女、あるいは一緒にいるだけで幸せになれるような女の一人や二人いなくてどうするのだというのだが、とにかく面倒臭いらしいのだ。それで淋しくないのかと僕などは思うし、第一、いい歳してセックスの処理はどうしているのかと思ってしまう。妙な言い方だけど、貴方がごく普通のオトコで安心した。貴方ほどの人を夢中にさせてしまうような彼女はきっと素敵な女性なのでしょうね。また近いうちに会って今度はゆっくり話を聞かせて下さい。貴方の女性遍歴などをじっくりと……。
 僕の方はといえば、この三年近く、いろんな事があったといえばあったし、何もなかったといえば何もなかった。いや、本当はいろいろな事があったのだろうと思う……否応なしに、家庭の事情だとか(実際問題として僕の場合、結婚してから親戚の数が単純に二倍以上になったというだけでなく、いろいろとありまして……)、社会だとか世間だのという、仕事や生活上のさまざまなしがらみ、いわば他者との関係性(こういう言葉遣いはあまり好きではないが)のなかで、いわゆる〈もまれて〉きたのは確かで、事実、大なり小なり〈事件〉と呼べるようなものにもたびたび遭遇させられてきてしまった。--そのへんの事情に関しては、貴方にしても似たような事を経験しているだろう。お互いもうそういう歳になってしまったわけだが、だからといってそれで〈大人〉になったとも思えず、僕に限っていえば、結局、何も起こらなかった。いや正確には、何も起こせなかったというべきか――。残念ながら……。それまでどういう風に日々暮らしていたかも憶い出せないくらい、今日ではあたりまえのように受け入れているが、確かに日常生活の上では大きな変化(これはやはりたいした違いだといわねばならない)があった。でも……僕自身は何も変わってはいない。いい意味でも悪い意味でもね。――そんなわけで、相変わらずお約束の《嵐》はいまだ吹かずといった案配です。
 ――ところで、どうして突然、手紙なんか書いているのでしょう。久し振りとはいえついこのあいだ会ったばかりだし、近所なのだから会ってゆっくり話そうと思えばいつでも出来るわけなのですが――といっても、どうしてどうしてそれがなかなか難しいことになってしまっていて、何年か前の貴方からの年賀状にもあったように、貴方と僕の距離は「近くて遠い」ことになってしまっていて、貴方に限らず最近はほかの友達とも間遠になりがちで、かつてのように、何か特別な用事がなくてもしょっちゅう連るんでいるというようなことがなくなってしまいました。それはきっと僕らももう〈青春〉を通り過ぎてしまったからなのでしょう。僕の愛読するある作家の小説にこんな文句がありました。「青春は仲間を作り、仲間の解散は青春の終りを象徴する」――確かにそうなのだ。僕はすでに十代の時にそれを予見していたし、だからこそそうならないようにかなり意識的に行動してきたはずなのに、三十を越して僕自身の意識が衰えてきたせいか、それも仕方がないと思いはじめてきた。でも僕の、自分自身の何かを取り戻したいと思う気持ち、二十二くらいの頃からずっと思い続けてきた、十五から十七歳までの自分に戻りたいという気持ちに変わりはない。要するに例の《嵐は何処に》というテーマのことだ。十七歳が僕のすべてだった、とは今では必ずしも思っていないが、僕はいまだに十七歳の自分自身を越えられないでいる。では、どうすれば越えられるのか。あるいはせめて対等になるにはどうしたらよいのか。その答えはわかっている。わかり過ぎるくらいわかっている。でも出来ない。なぜ出来ないのか。それを探究しようと思った。しかしそれを探究するということは、すなわち〈書く〉ということだ。十代の頃の曲を作るということに代わって、書くという〈行為〉によって、自分を取り戻そうというわけなのだが、それすら出来ない。それならば、なぜ出来ないのか、ということを書けばいいのだが、それは、書けないということを書くということであって、そもそも書くということが出来てさえいれば、そんなつまらないことを書く必要はないわけだし、一方で、書けないことを書くという矛盾を犯しているのだが、そのへんのところをクリアーにしておかないとどうにも先へ進まない。というのは思い込みに過ぎないのかも知れないが、とにかく書けないということをまず書かなければならない。――ところで、書くということは一種の〈習慣〉であり、訓練だ。なにも僕はむかしのように〈詩〉を書こうとしているのではない。詩はそういうわけにはいかない。しかし今の僕にとっては、何でもいいから〈書く〉ということが大事なのであって、その〈行為〉を通じてしか、心の中の《嵐》を呼び醒ますことは出来ない。そもそも僕のいう《嵐》とは、そういう〈行為〉そのものだったのではないのか。……実にまどろっこしい説明になってしまったが、こうしていま貴方に手紙を書いているのは、そのとっかかりにしようという意図に基づくものだ。単純に手紙なら「書ける」だろうという安易な考えなのだが、こんな手紙をもらう方はいい迷惑かも知れない。悪しからず。「NK通信」が十数年振りに再会されたとでも思っていて下さい。
 実は……

     *

 プリント・アウトされているのはそこまでだったが、その後も長々と続いていた筈だ。去年の夏、まとまった休みが取れたので、軽井沢から仙台、そして山形の出羽三山を巡る旅をした。この旅は男に強い印象を与えた。それで各地から、何人かの人物に宛てて、絵はがきや手紙でその時々の感想をしたためた。それらは断片的で、しかもそれぞれ重複しないよう分散させてしまったため、旅で得た感慨をKへの手紙で纏めてみようと企画したのだ。しかし最後は途中で終わっているのではなかったか。Kからのメッセージが留守番電話に入っていたのは、丁度帰京した日だった。次の休みにKと会い、その二週間後には再び大学のゼミ合宿で軽井沢に行っている。その折り、ゼミの先生からあるものを受け取り、男は後輩のSに極めて実務的な手紙を送っている。それは彼らにとって重大な内容のものではあったが、男が本当に書きたかったことはもっと別なところにあったので、Kへの手紙に続いてS君への手紙を書こうとしていた。
 しかし、どちらにしても、一年経った今ではもう遅い。一年前の記憶もすっかり色褪せてしまい、もはや鮮明に思い出すことは出来ない。旅の新鮮な記憶も、そしてそれに続くその時の自分の気持ちも。時の経つのに伴い失ってしまうもののなんと多いことか。そう思ってもどうすることも出来ない。それは意志の持続力の問題とも関係しているが、その時すぐに書き留めておかなかった所為だ。仮に思い出して再構成したとしても、それはあくまでも再構成であり、一年前のものではあり得ない。そういう繰り返しを何度してきたことか。もはや二度と取り戻せないのなら、繰り言を言っても無駄だ。もう去年のことはいい。四年前のこともいい。十年前、十五年前のことは取り敢えず置いておく。それより今日のことだ。今日のことだって明日には過去になる。そして消えて無くなり、二度と帰って来ない。だから……。
 夜は完全に更けていた。お盆休みで街は静かだ。都心の騒めきは鳴りを顰めている。空気の密度は濃くなり、再び夜が降りてくる。そして男の身体を夜が包みはじめる。
 小野麗子は「あなたの言葉」を書けと言ったのだ。詩を書けとも小説を書けとも言ったのではない。論文や日記を書けと言ったのでもない。〈言葉〉を書けと言ったのだ。彼女は何を意味していたのか。
 Kのことを思った。彼のことを思うといつも心が疼く。彼にしたって悶々と日々を送っているのにかわりはない。しかし何故か自分よりいつも一歩前を行っているような気がする。彼に会うには、こちらが態勢を整えておかなければ会えないような雰囲気になってしまい、もう何年ものあいだ年に一回会うか会わないかになってしまったのは、そういう態勢がなかなか整わなかったからだ。しかし、Kの〈存在〉は常に感じていて、かつて一緒にバンドをやっていた頃、男の弾くリズム・ギターのストロークとKが刻むベース・ランニングはアンサンブルを求めてハモるというよりは、闘っていると云った方が相応しいものであったが、それは今でも続いているのである。男がKに顔向けできない本当の理由は、男が音楽をやめてしまったからだ。男が歌わなくなってしまったからである。〈新曲〉を持って行かなければ、彼には会えないのだ。
 S君の顔が浮かんだ。彼とは不思議と通じ合えた。どことなくKと似ていたが、下級生という気安さがあった。彼には勇気付けられるところがあったし、判って貰えるような気がした。最も信頼している友人の一人だ。そしてO先生とある先輩の声がした。胸が詰まった。それから、さまざまな友人の顔が浮かんでは消え、妻と子供の笑い声が聞こえてきた。そして最後に、十五歳の自分自身の顔が浮かんで……消えた。
 ――ともかく、二度とないきょう一日の出来事をまず書こうと男は思った。出来事といっても特別なことがあったわけではない。何も無かったといった方がいいだろう。五十年目の終戦記念日、朝から多摩川の土手にある男が寝そべっていた。ただそれだけのことだ。彼は何をするわけでもない。何者かも分からない。それからどうなるのか全然判らなかったし、考えてもいなかった。一体どういう物語が始まるのか予想もできなかった。それでも生きている限り、彼はきっと何かをしてくれるだろう。彼が何をするのか、その後どうなるのか、全く予定されていなかった。予測されていないからこそ、彼の行動を追うことによって、男は、自分を何処か未知の世界に連れて行ってくれるような気がした。
 夜はこれからだ。朝までにはまだ間がある。男の中にも再び夜が降りてくる。夜の成分は細かい粒子となり、身体の中に浸透してくる。活きた血が流れ出す。
 男は机に向かった。眼を閉じて、耳を澄まし、呼吸を整える。白い表紙のノートはなかったが、白いボディのワープロならあった。――こうして男は、ワードプロセッサのスイッチを《ON》にした。
                      (了)
『ある夏の一日』西山正義
〔第一稿~第三稿83枚〕
起筆・平成七年八月十五日
擱筆・平成七年九月三十日
(一部執筆=「Kへの手紙」
 平成六年八月三十一日~九月十二日)
*原題『昼と夜』
〔第四稿=初出稿90枚〕
加筆・平成七年十月二十一日~十一月十二日
*原題『ある夏の一日――或いは、「小説」のために』
【初出】『日&月』創刊号・1995年12月発行
〔第五稿90枚〕
平成九年八月十七日~八月二十一日
〔第六稿90枚〕
平成十二年五月十日~十一日/十六日未明
(C)1995 Nishiyama Masayoshi

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