プロローグ
夕日のオレンジに染まる街“ネオ・ヴェネツィア” 外海へと続く運河、迷路のように入り組んだ水路。水の都と呼ばれる街。
水路を滑る1隻の黒いゴンドラ。身の丈を超えるオールを巧みに扱い、エメラルドグリーンの長い髪を風に遊ばせる。
ふいに聞こえた音色に少女はそちらに向く。遠目からなのでおぼろげにシルエットが見える程度。
「アリスちゃん?」
「あ、すみません」
アリスは気を取り直すと再びオールを優しく掴み、ゴンドラをオレンジ色の水面に滑らせた。
◆
数日後―――
あの日と同じ時間、あの日と同じ場所を今度は石畳の道を、アリスはミドルスクールの制服を身に包み、下宿先へ急いでいた。
あの日と同じ音色が聞こえ、そちらに目を向ける。左肩にバイオリンを当て、夕日のオレンジに染まる弦を弓で引き、音色を奏でていた。落ち着いたメロディにしばし時を忘れた。
ふいに演奏が止むと、演奏者とアリスは目が合い動きが止まった。アリスは我に返ると、下を向き通り過ぎようとした。
「僕の音色、どうでした?アリスさん」
アリスは自分の名前を呼ばれた事に驚きに振り返る。銀色の短い髪をなびかせ、中性的な顔立ちの少年は優しく微笑んでいた。
「私の名前…どうして?」
「え?やだなぁ、同じクラスの明石ですよ。1週間前にこっちに来たからあまり印象ない、かな?」
明石真。親の仕事の都合で地球から火星に越して来た。アリスはようやくその事を思い出した。
「ところでなぜ、ここで演奏を?」
アリスの質問に真は、眼前に広がる運河を見つめた。
「海が、よく見えるから」
真の言葉にアリスは、不思議そうな表情を浮かべ首を傾げた。
「でっかい意味不明です。火星は水の惑星ですよ?珍しい風景では…」
火星は150年ほど前に行われた、惑星地球化計画により、当初の予想を超えた極冠部の氷の融解によって9割が海に覆われた水の惑星となった。
そのため、見渡せば必ず海が見える立地条件になる。
アリスの質問に微笑むと、海に沈みはじめた太陽を指差した。
「ここは太陽が沈んでいくのがよく見えるんです」
ゆっくりと火星の海へと沈む太陽。立ち止まったままそれを見つめていたが、
「そろそろ、帰らないと」
アリスは我に返りつぶやくと、真に手を振り、帰り道を走って行った。
アリスを見送ると真は再びバイオリンを肩に当て、音色を奏ではじめた。
奏でられる音色はゆっくりと、オレンジの空に溶けていった。
《続く》 |