ブロック25/37
「うわあ、遅刻遅刻」
一応左右に気をつけながら玄関を飛び出し、くわえたトーストに気を取られながら高い塀のある曲がり角を抜けようとしたとき、体に衝撃が走った。
「あっ、大丈夫かい」
「痛って、ててて。あ、あなたは」
テニス部のキャプテン、女生徒の憧れのまと、二ノ宮先輩だった。
「君、名前は」
「さ、坂口と言います」
「そうか、覚えておこう」
というようなきっかけから始まった、生まれて始めての恋愛の結果、私は三十二歳で独身である。初恋が忘れられないどころか、相手の顔すら覚えていないのに。他にも恋愛の機会はあったのに。
なぜだ。
目が覚めると、いつものとおり胸の中は空っぽだった。
頭の中はいっぱいだ。これから始まる仕事、同僚とのやり取り、帰宅して過ごす時間の使い方。あれはこうしよう。これはもうやめよう。それは、どうしたらいいのか聞いてみよう。意識を傾ければ、手順がざっと流れてくる。うまくいくいかないは別として、一日の始末は見える。困難も喜びも。
でも、胸の中は空っぽなのだ。
それがなぜなのかも知っている。孤独だからで、さびしいから。
両親と同居、犬もいる。仕事場には大勢の仲間がいる。
それでもひとりぼっちだから。
取引先との契約内容に不備があったとかで、私の関わっていた企画がペンディングになってしまった。不備自体は私と無関係。契約内容なんて、始めの手続きじゃないか、そこで躓いてるなんて情けないと思ったが、口に出すほどの情熱をこめて仕事をしているわけでもなく、企画に思い入れがあったのでもない。会議室でさて、どうしましょうかという相談を始めても、どうしましょうかね、という顔をして時間を過ごすばかり。むだむだ。他の企画のサポートにまわったほうがいいよ。
ドアがノックされ、新人カナちゃんの清楚な横顔がちらりと見える。
「リーダー、日の下産業様の森田様がお見えです」
小林リーダーはぐったりしていた背筋を伸ばして対応。
「あ、そう。こちらにお通しして」
来るとは聞いていなかったが、他の人たちは平然としているから、私のような末端まで行き届かなかっただけなのだろう。
「ども、森田です。お世話になってます」
森田、森田。FAXで見かけたか。電話で聞いたっけ。世話した覚えはない。
「早速ですが、本題に入らせていただきます。契約内容の不備云々に関しましては、私、森田が御社に常駐させていただくことで折り合いをつける、という結果に至りました」
どういうことなのか分からない。リーダーは安堵しているような顔なので、良いところに落ち着いたのだろう。
「不足する人的要素に関しましては、繁忙が予想される時期は当社としても可能な限り確保する、また、御社にもご助力を願います、と、そういう具合でいいんですよね」
森田さんはリーダーに笑顔を向ける。苦笑を返したのは、可能な限りとか、ご助力とかいう部分に曖昧さが残っているからか。
「勉強させていただく部分が多いかと思いますが、なにとぞよろしくお願いいたします」
その日の夜は歓迎会という運びになるのは当然か。他の企画は忙しく動いているというのにお酒など飲んでいる暇があるのか。当事者たちはあ、そう、いってらっしゃいと乾いたものだけど。
「ああ、坂口さんはこっちこっち」
リーダーに誘われた席は森田さんの隣。なぜだ、という顔をするわけにもいかないからにっこり笑って「よろしくお願いします」。
反対隣にはリーダー。
「坂口さんは現場と事務の繋ぎ役で、長いから、いろいろ聞いておいたほうがいいですよ」
長いから、といわれて気にするくらいなら、さっさと結婚してしまえば良かったんだ私。機会がなかったわけでもないんだ。
「はあ、有難うございます。よろしくお願いします」
乾杯、改めて自己紹介という流れ。気安い居酒屋である上に十三人もいると、ざわめきの中に言葉の細部が埋もれてしまう。誰かが何か喋り初めて、その周辺は笑っているのだけど、何で笑ったのか分からないが合わせて笑う。
それにしても十三人。誰が銀貨をもらって、誰を売るのだろうか。
「森田です。三十歳独身。趣味は読書、基本的にインドア派です。よろしくお願いします」
私よりも二つも年下か。いいなあ男は。いくつになってもそれなりに売りようがあるから。下手すっと四十過ぎてもアイドルだったりするかんな。
酔っ払ったか私。そういや飲むのも久しぶりだ。
微醺が雰囲気を改め始めると、仕方のないことだが身内は身内の話題で盛り上がり始める。森田さんは機嫌よく相槌を打っているが、隣にいる者にとってはいたたまれないくらいついていけてないのが分かってしまう。
「森田さん、仕事の話、いいですか」
私の周辺がよそに耳を傾け口を開き始めたので振ってみる。
「ああ、よろしくお願いします」
「ブロック25よりもブロック37のほうが精度も高いし、作業性もいいと思うんですが。現場からの意見なんですけど」
「ううん」首をひねる。後頭部が見えるまで捻らんでもいいだろ。「コスト、という問題もありますが」顔が戻ってきた。
「他にもあるんですか。それだけかと思ってましたが」
「ブロック37は実は外注品なんですよ。当社で開発したものではないので、大々的に使いにくいんです。コストだけなら、実は生産性もブロック37の方が高いので、大量に使えばいくらでも下げられる」
「ふうん。何だかつまらない話ですね、いいものが安く使えるのなら、そのほうがよさそうだけど」
もう一人の私が笑う。なんだ、えらそうじゃないかあんた。そんなに仕事に情熱を傾けてるとは知らなんだ。
森田さんは顔をぐっと近付けて眉をひそめる。近い近い近い。
「厄介な話にもなりかかってまして。ブロック37は共同開発という形にしていますが、イニシアチブは向こうが持っているんです。一定期間が過ぎたあとはあちらが好きに売ってしまってかまわない、と。なにしろ費用のほとんどは向こうに持ってもらっているので、文句のいいようもない」
「だとすると」
「もちろん、うちには売らなくなるということはありませんが、よそにも売る、そっちの
方が割がいいということにでもなれば」
「あら、うちの会社にも関係してきますね」
「そうなんです。ブロック25を使って出来たものよりも、ブロック37を使ったほうがいいものが出来るに決まっているんだから、勝ち目がない」
「どうしたらいいんでしょうね」
大事な話になってしまった。上司は知っているんだろな。どうなってるんだこの企画は。引っかかってばかりじゃないの。
「で、当社としても危機感をもちまして」当たり前だ。「新商品を開発しようと」
「えー、なんで。素直にブロック37を使えばいいんじゃないんですか。これから造るって、時間もお金も大変でしょう」
「大変です」せっかくつまんだお刺身を落とすほど大変なのか森田さん。「大変ですが、主力商品の中核を担う部分を外注に任せてばかりいるのも問題なので、ここらで改善という意味もこめて、努力しようということになっています」
翌日はお休み。誰からも、どこからもお誘いはない。そりゃみんな結婚だの家計のやりくりだの育児だの始めるんだもの、さびしいと思っている女の面倒まではみられない。こっちから声をかければあったかく迎えてくれるとは思うのだけど、すっかり母親になってしまっている友達の顔は、まぶしすぎて見られない。
そしてまた四十八時間の空白をどうしようか考える。考えれば考えるほど空白が広がっていく。あれも出来ない、これも出来ない。それはしたくない。否定ばかりでは前を向けないのは分かっている。でも、でも。
駄目だ。とりあえず起きよう。階段を降りよう。
「コロ、おはよう」
玄関に犬。リビングから母。
「あんたねえ、犬におはようなんていってる場合じゃないでしょ。もうちょっとしゃんとしないと」
四、五年前はこれに、そんなんだからお嫁にも行けないのよ、と続いた。もう嫁入り前という限定も外れ、人間として、社会人として最低限しゃんとせよという警告になってしまった。お嫁に行けなんて贅沢は言わないから、せめて人間としてきちんとしておくれ。親の気持ちは切実だ。
ああ、また空白が広がっていく。日常を茶化すのにも限界がある。胸の中でもやもやするものは、ときどき痛みを伴う。泣けないのに泣きたくなる。
寂しさは情緒を荒らす。
仕事場に来れば割合しゃんとする。大事な何かをごまかすために仕事をしているのではないかと、どこかで聴いた歌の文句ではないが感じたりもする。
いいじゃないか、ごまかしがきくのであれば。
伝票を届けにラインに出ると、森田さんはパートさんたちの作業を見ている。会釈をすると軽く右手を上げる。それ以上は何もない。
何だ。何か期待しているのか私は。ぼんやり歩いていたらフォークリフトに轢かれそうになってしまった。
「大丈夫ですか坂口さん。つか、オレが大丈夫じゃないですよ。妻子ある身で怪我でもさせちゃったらあとが大変じゃないですかオレ」
木下君は妻になれない身に対する気遣いが足りなくないか。
「はいはいごめんなさいごめんなさい」
普段なら何か言い返すところだけど今日は何だか面倒だった。
昼休みはパートさんたちと一緒に食事。会社ではお弁当を用意しているのだけど、パートさんたちはたいてい自分で造ってくる。
私の親もそうだ。大変だっただろう。夫を持ち、子供を持ち、寂しさはないだろうけどやっぱり大変だろう。内でも外でも何かに追いかけられるのだから。
孤独は気楽だ。それは正しいのだけれど、でも、孤独を選んだのでもない。
森田さんはパートさんの輪の中に入ってお弁当を食べ、冗談を言い、意見を交換し、情報収集に余念がない。
ブロック25はどうなるのだろうか。いや、指先程度の大きさの、つまらない機械などどうなってもかまわないのだけれど。
テレビを見ても一人。本を読んでも一人。映画を見ても一人。飲んでも食べても一人。
何かを取り入れると、気持ちが動く。おいしいものを食べれば、ああおいしかったと言いたくなる。映画などなら、ああ面白かった。
これで満足できないのだ。ああ面白かった「ね」と言いたい。おいしかった「ね」と言いたい。誰かと同じものを共有したい。いや、共有できなくてもいいのだ。
「面白かったね」
「そうかなあ。あんまり」
でもいいのだ。よかったのだ。
え、どうして。どこがどうあんまりなのよ。このずれにこだわりすぎると男女は分かれる。少なくとも私はそうだった。同じ入力からならば同じ答えが出力される機械のようでありたかった。出てきた答えが同じなら幸福で、幸福になるためには答えが一致するように努力するべきだと考えていた。
自分は努力した。でも相手にはそれがない。なぜならば愛情がなくなったからで、すくなくとも恋は終わったのだと感じた。ではその先を見るのか。答えの一致をあきらめてもっと別の、あるのかないのかさっぱり分からないものを探すためにお付き合いを続けるのか。
私には無理だった。しまいには男女を問わず違う答えを聴く事を拒否するようになった。態度をあらわにしたわけではないけれど、どうもそんな気がする。
でも「そうかなあ、あんまり」でもよかったのだ。違うのだから。違う人なのだから。無理をして同じ答えを引き出したところで無理は無理、くたびれる。
不器用者はどうしたってうまくいかないのだ。寂しさに対してうじうじしている自分にも、最近は慣れてきた。これはこれで楽である。
休日出勤ですか、ご苦労様ですねとは言うのだけど、私は嫌いではない。平日のように追い立てられるようなペースの仕事はないし、人も少ない。空き時間も結構あるから、普段出来ない片付けものをするもよし、コンビニでひっつかんできた雑誌を広げても良し。
仕事場は、仕事以外のことをするのが楽しい。
「ども、こんちわ」
「あれ、森田さん」
来るという話は聞いていない。ラインはほぼ止まっているし、パートさんたちもいない。何をしに来たのだろうか。スーツなのだから散歩の途中ではないのだろう。
「今日、小林リーダーは出勤じゃないんですか。いや、たまたま近くまで来たものだから」
「そうですか。いますよ。追加の締め切りが三時までなんですけど、手が空いてしまうので外をぶらぶらしていると思います」
「そうですか。お邪魔ですか」
「大丈夫ですよ」
ほっとした様子で腰を下ろしたところは私の隣。机の上にレジ袋を置き、中から手提げのついた箱を取り出す。デフォルメがきつすぎて犬だか猫だかわからなくなっているイラストが描いてある。明らかに甘いものだ。醤油味で硬いものが入っていたら製造元はどうかしている。
「差し入れです。食べませんか」
「あ、うれし。でもリーダーが帰ってきてからの方がいいんじゃないですか」
「ま、お先にさせて頂きましょう。どうも小腹がすいて」
「じゃ、お茶入れましょう」
「僕が入れます。お仕事中に邪魔しているのだから」
さっさと席を立ち、給湯室に向かう。一ヶ月足らずでこんなにも馴染むものか。
「では、どうぞ」
男の入れた茶はあまりおいしそうなものではないが、気配りが利いていると思えばうれしいものである。
「いただきます」
「ところで、ブロック37なんですが」
「いきなりか」茶を吹きそうになったよ。言葉遣いも素になってしまったよ。「どうしたんですか」
「前にお話したじゃないですか、他社に流されてしまいそうだって」
「ああ、はいはい」
「どうやら本決まりになりそうでして。で、リーダーとも相談したんですが、しばらくはブロック25の改良と作業能率の改善で対抗していくしかないとしても、その先をどうするのかと」
「新規開発になるんじゃなかったんですか」
「間に合いません。あ、遠慮しないでどうぞ」箱の中身はドーナツだった。ドーナツだろうなあと見ていたらドーナツだったので、納得するやら物足りないやら。
「いただきます。そりゃ間に合わないでしょうねえ。もう売り始めますよと言っているところに対して、これから造りますよとやってたんじゃ」
われながらうまいこと話を合わせている。これは実は孤独の結果である。一人でじっくり本を読んだりテレビを見たりしていれば、ああこういう話し方はいいなあとか、自分ならこう喋るのにとか考えるようになる。考えたところで孤独なのだから使い道がないのが難点ではあるけど。
「そうなんです。はじめのうちは開発も頑張っていたんですが、ブロック37はやはり完成度が高い。そうそう追いつけるものではありません」森田さんはドーナツをおにぎりみたいに頬張るが、胸焼けしないか。口の端っこにしがみついているクリームには、気がついているんだろうな。「だんだん雲行きが怪しくなりまして。今は企画自体を考え直そうとか言い出す人もいます」
「え、そうなると」
「こちらさんとの取引自体もなくなるかもしれません。リーダーは、売れないものを造っても仕方がないし、仕事は他にもあるからうちはさほど困りません、とおっしゃってくださいましたが」
それは事実だ。うちみたいに小回りが利くところは細かい仕事をたくさん抱えている。軸になるものもあるにはあるが、それは森田さんのところのものではない。
ないが。
「残念ですね。森田さん、せっかく頑張っていたのに」
「そう見えましたか」
「え」
「頑張っているように見えましたか。それは申し訳ありません、嘘です」
「嘘って、嘘とは」
自棄になっているような、自嘲を含んだようなため息を大きく吐く。
「ええ。歓迎会のときに坂口さんも言ってたじゃないですか、なんだかつまらない話ですねって。要するに会社としての体面を気にしているだけだからうまくいかなくなっちゃってるんですよ。だからもうばかばかしくて。ほんとつまんない。僕はただ、会社に言われたことをやってきただけなんです。ちっとも頑張ってない」返す言葉がないのでドーナツを齧る。「だから、申し訳ありません」
いろいろと難儀が重なって、ドーナツ自棄喰いしてるんじゃないのか。大丈夫か。
「でも、森田さんは頑張ってたよ。私はそう思う」
とんがっていた口元が緩む。そして、
「ありがとうございます」
と、続いた。
あ。笑顔。
あ。やばい。
私は。私は。
目が覚めると、胸の中がいっぱいになっていた。久しぶりのこの感覚は、やはりきつい。この歳でこれはちょっとやっぱりやばい。
どうしよう。お化粧に気を使いたくなる。石鹸やシャンプー、リンスも変えなくては。制服のしわ、どうしよう。胸についているリボン、左右のバランスが。
気分も波が高くなる。なんだかわけも分からず楽しくなる。理由もないのに悲しくなる。いままで見慣れていた景色、とくにどうということでもない会社への道のりが、とつぜんいきいきと動き始める。みんなが目覚め始めた。いや、私が変わってしまったのだ。
会社に行ったら行ったで大変である。誰かのつまらない冗談で大きく笑ってしまう。視線を向けられ、心の中を見透かされたような気がして慌てて態度を改めようとする。今度はそれが行き過ぎて暗い顔になり、どうしたの、なんて声をかけられたりする。どうもこうもない、私は。
仕事も上の空。それでもなんとかなっているのは、慣れのおかげだろうか。頭のどこかに、いい歳をして、という言葉が張り付いているから、ぎりぎりのところで歯止めがきく。
そして森田さん。
気持ちを分かってもらいたいのはもちろんだ。でも、ばれてはいけないような気がする。どうして。いま私の中にいる森田さんには変わって欲しくないから。いや、いい方には変わってもらいたい、私を好きになってもらいたい。でも、逆の可能性もあるのだ。むしろそっちの方が高い。私の気持ちが分かって、それでもどうにもできませんよ、という森田さんには変わって欲しくない。だから普段どおりに、今までと変わらない私でいなければならない。え、今までの私って何だ。普通にしていなさい、普段どおりに。しかし、意識してする普段どおりほど難しいものはない。意識を向けると、普段は全く普段でなくなってしまう。
企画の破綻に伴って、森田さんは実のところ、することはなくなっていたはずだ。だからかどうか、一作業員になってパートさんたちの手伝いをしていた。
「新人パートの森田です、よろしくお願いします」
と、ふざけて声をかけてきたりするから、どきどきしてしまう。
「こ、こちらこそ」と返すのが精一杯。調子がいいときなら「ああしっかり頼むよ」くらいのことは言えるのだが、言いたいのだが、笑いを取っている余裕はない。笑顔からいろいろとややこしい事が始まっているというのに。
休憩時間に、彼は言った。
「実は、辞令が出まして。今週いっぱいで、皆さんともお別れです。皆さんには迷惑だけかけてしまいました。お世話になりました」
本格的に取引が中止になったのだ。私がふわふわしている間に、企業は、前か後ろかはともかくとして進んでいく。私はどうしたらいいのだろう。告白するべきだろうか。いや、駄目に決まっているのだ。断られて無闇に傷つくよりは、今の私にとって致命傷になりかねない状況に陥るよりは、まあ、仕方ないかと諦めて孤独な暮らしに戻ったほうがいいんじゃないか。
でも、もしかしたら。もしかしたら。独身って言ってたし。でも彼女くらいはいるだろう。分からない分からない。
分からなくて困ったら行動を起こさなければならないのに、ちょっと、ほんのちょっとだけなんだから。
ここで何もしなかったら、もうきっと会う機会はなくなってしまうだろう。取引の中止は向こうの不手際から発していて、会社同士での今後の接触はなくなるだろう。そうなれば、連絡をする手段はほとんどない。あるのだろうけど、難しい。他人に関わってもらうしかなくなる。転勤にでもなったら、もう本格的にどうにもならない。私の中の森田さんは、そうなれば死んだも同然である。
そんな。そんな。死んじゃいや。
勝手に殺してしまったが、むしろ、私のそばから離れて元気に生きている森田さんを思い描いてしまうのが辛いのかもしれない。もう、殺意に近いところまでいっているのだ。恋愛のもつれで人を殺すなんてばあかばあかしいと思っていたが、他人事ではなくなってしまった。
殺してしまうよりはましだ。とりあえず聞いてみよう。彼女がいるかどうかくらい、日常会話の中で聞いてみてもいいはずだ。どうせお別れなら、これはこれで美しい終わり方ではないか。
森田さんが去る日の夜に送別会という運びになるのは当然か。他の企画は忙しく動いているが、もうそれどころではない。私は私の言うべき言葉、自分の気持ちを崖からつき落とす覚悟を決めるので精一杯である。
「ま、いろいろと繋いでもらったから」
リーダーは森田さんの隣に私を誘った。頼むからそうしてくれ、でなけりゃ揚げ物がいっぱいのっかった大皿で殴る、と胸の中で叫んだのが効いたか。
乾杯、改めてご挨拶という流れ。
「えー、いろいろとお世話になりました。決着の付け方としては最悪です。お詫びのしようもありません。送別会も、辞退させていただこうかと考えていましたが、会社としてはともかく個人的な接触があった方々には、やはり個人的にご挨拶申し上げたい。申し訳ありませんでした。有難うございました」
いくらか神妙な空気に。いきさつを考えれば送別会を開くのは、会社としてはおかしな話である。でもリーダーは当然のような顔をして人を集めた。会社のやり取りと個人との関わりあいをごっちゃにするとややこしくなる。それはそれ、これはこれと上手にすり合わせるのは、他社の人間の出入りが多い現場で苦労して来た人の考え方だろうか。最大限の賛辞を送りたい。
「で、せっかくですので、些少ながら会社からふんだくってまいりました。存分に楽しんでください」
拍手。
森田さんはしばらくリーダーと話し込んだあと、一人ひとりにお酒を注いで回る。ちゃんと戻ってきてくれるだろうか。もうこのままいったきりになってしまうのではないだろうか。大丈夫、私が耐え切れずに泥酔してしまう前に帰ってきた。
「いろいろとお世話になりました。力及ばずで申し訳ありません」
「いえ、こちらこそ。というよりも、仕方ないですよ」
「やり方がまずかったかなあ、と。こちらでうまく振舞えば良い結果になるのではと考えていましたが、なにより先に自分の会社を何とかしておかなければいけなかった」
こういう話から、どう「いま、つきあっている人いますか」という方向に持っていったらいいんだ。とりあえず「いえいえ、ご苦労様でした」と相槌を打つにとどまる。
「坂口さんには救われました。思えば歓迎会のときから」
「え、なんで」
「僕の気持ちと同じだったからですよ。なんだかつまらない話だな、と。安くて良いものが使えない、なんてね。ずばっと言われて、ああ、理解してくれる人はいるんだなと。うれしかった」
そうか。誰でも同じことを言いそうな気がするけど。そんな言葉が嬉しいほど、逼迫していたのだろうか。話は続く。
「で、お仕事ぶりというか、坂口さんのやり方を見せていただいて、あ、いいなあと」
「え、なにが」
「いや。ええと」ビールを一口。「たまには会えませんか、仕事抜きで」
小声、でも確かに聞こえた。
聞こえたからには携帯を取り出さずにはいられない。いや、その前に返事をしろ私。
数年経った。私は苗字が変わり、四歳と一歳、二人の娘を持つ母親になった。
あるとき箪笥の整理をしていると、長女が「これなあに」と小箱を拾い上げた。思わず笑みがこぼれる。たくさんある小物の中からこれを選んだのは、ただならぬ気配を感じたからか。
「開けてみて」
人差し指の先ほどの、ひとつは灰色で四角く、もうひとつは乳白色で丸みを帯びたもの。
「なあにこれ」
「ブロック25とブロック37」
そもそものなれ初めである。当時の森田さんが会社から、堂々とくすねたものである。
娘は首をひねる「なんなの」。
「これはね」
由来を話し始める。この子はどんな恋愛をするのだろうかと思いながら。
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