放課後の恋人
秋。どこから入ってきたのか、銀杏の葉が廊下に落ちていた。どことなく寂しげで、拾わずにはいられなかった。
一年の半分以上が過ぎ、もうすぐあたしは高校二年生。そろそろ直したいと思っている忘れ物癖。
今まさに、宿題を出されている数学の教科書を教室に忘れてきた。
これで電車に乗り遅れるのは確実。一本ずらすと、他校のラッシュになるから嫌なんだけどな。
「ついてない」
忘れ物したのがいけないのだから、仕方ないか。自業自得だ。
「あれ、七海。帰ったんじゃなかったの?」
入ろうとしていた教室から、友達が笑顔で出てきた。どことなく顔が赤いのは気のせい、かな。
「数学の宿題あるの、駅で思い出したの」
「うわー。それはお疲れ様。じゃあ、また明日」
「うん、バイバイ」
一通りの会話を済ませると、彼女は名残惜しそうに教室を見てから歩き去った。
そんな彼女の行動に疑問を感じながら、開いているドアから中に入る。
教室は夕日に照らされていた。じきに暗くなるなぁとため息を吐き出す。
「…………あ」
そこに、誰かが残っているなんて気づかなかった。
ぼんやりと外を眺めて、時々ため息をついていた。淋しそうな目元をした彼。あたしはそんな姿を綺麗だと思った。
――桧山樹くん。
あたしは思わず、持っていた銀杏の葉を落としていた。
高校に入学した当初から人気者。
整いすぎている顔立ち、高い身長。優しく微笑み、全ての人を魅了する穏やかな性格。勉強も運動も出来て、欠点を探す方が難しいくらいの人。
男女ともに人気があって、同じ高校一年生とは思えないくらいの出来た人。
登校から下校まで、たくさんの生徒に囲まれている。さぞかし大変なんだろうな、と他人事みたいにあたしは思っていた。
――あ。そっか。
さっきすれ違った友達も、樹くんと会話するのを目当てにして残っていたんだ。
顔が赤かった原因がやっとわかった。
――そういうのって、よくわからないけど。
樹くんと一緒のクラスになったのはたまたまで、それでも隣のクラスの友達には羨ましいと言われた。
確かに恰好いいし、彼みたいな人が彼氏なら自慢だろうけど。好きだという感情はなかった。
例えば、芸能人でも見ているかのような冷めた感覚かな。
忘れ物をしたお陰で、お疲れ様な彼を目撃してしまった。運がいいんだか、悪いんだかわからない。
変に緊張する。
意を決して教室に入ると、樹くんの目線が動いた気がした。
気にしないようにして教科書を探す。
目当てのものを見つけて教室を出ようとしたら、
「待ってよ」
呼び止められた。
「なに?」
クラスメイト。だから特別な感情はない。当たり前だけど。
でも突き放すように冷たく返事をすると樹くんは驚いたようだった。
「君、違うね」
「なにが?」
「他の奴らと違って、ちやほやしない。気持ち悪い感情ぶつけてこない」
「贅沢ね」
樹くんは毎日、いろんな人に話しかけられてうんざりしているみたいだった。でも、あたしには贅沢すぎる悩み。
少し、イラッとした。
「あたしなんて、待ってても誰も話してくれない。特に男子なんか見向きもしないんだから」
あたしの言葉に、樹くんはクスッと笑った。
「オレは羨ましいけどな。えっと確か……七海ちゃん?」
「すごいね。名前知ってるなんて」
「オレの特技だよ」
そう言って樹くんは立ち上がった。カバンを持って、やっと帰る気になったようだった。
「一緒に帰る?」
「誤解されたくないから、やめとく」
残念だなと、からかうように笑って教室を出ていく。そんな樹くんを見送って思った。
なんだ。みんなと変わらない普通の高校一年生だよ。
それがどうして、あんなに人気があるんだろう。考えて、ため息まじりに答えが出た。
「顔か」
最初の出会いはそんな感じだった。
会話という会話でもなかった。
それよりも学校の王子様的な存在の樹くんが普通に話してくるなんてびっくりした。
そして、信じられなかった。
だって、あたしはどこにでもいるような平凡女子。名前を知っていることが不思議でならなかった。
あんな風にちやほやされる人が、みんなの名前をちゃんと覚えているなんて。そりゃ、人気も上がるなぁと他人事のように思っていた。
それからも、何度も教室で一人でいる樹くんに会った。
忘れ物を取りに戻ると、今までは誰もいなかったはず。それがあの日を境に、樹くんはいつも教室にいた。
不思議だと思いながらも聞けずにいた。何となく怖くなって。
「七海」
「呼び捨てやめない?」
「やだ」
いつも印象に残らないような普通の会話をして、別々に帰る。それが当たり前になっていた。
ちょっと変わった関係。
友達?
なにか違う。
放課後限定の友達。そんな感じ。
でも月日が経つにつれ、あたしは忘れ物の数が減っていった。
減ったというよりも面倒になっただけ。わざわざ取りに戻るほど大事な物はなかったから。
教室に戻ることもなくなって、放課後限定の友達とも話さなくなった。でも気にならなかった。
だって、学校の王子様と会話出来るなんて、有り得ないこと。平凡女子のあたしには非日常だったから。普通に戻っただけ。
数ヶ月後。
春休みを明けたら、あたしたちは二年生になる。休み前の最後の日。
「マズイ」
駅。
カバンに入れていたはずのスマホがないことに気づいた。なくしたらシャレにならないし、学校では禁止されているから先生に見つかったらマズイ。
「先に帰ってて!」
友達に先に帰るように言って走った。
階段を降りて、少し坂道になっている通学路を行く。ちらほらと帰っていく人たちとすれ違った。
――早く帰れたはずなのに。
イライラを抑えながら走り続け、学校の前で息を整える。すでに静かになっている学校。
人気のない昇降口。上履きを履くのも面倒で、靴下のままで廊下を歩き、慌てて教室に入った。
でも、あたしは忘れていた。放課後限定の友達がいたってこと。
「久しぶり」
そう声をかけられて、初めて樹くんだと気づいた。そして急に思い出した。忘れてしまいそうな、つまらない会話の数々を。
「……久しぶり」
久しぶりというのもおかしな感じだ。
同じクラスで授業受けたり、すれ違ったりはしていたのだから。
樹くんは、昼間に見せる笑顔とは違う淋しそうな顔をしていた。初めて会った日の横顔を思い出した。
「探してるの、これだろ?」
「え?」
あたしは、なぜ彼がスマホを持っているのかわからなかった。どこかに落ちていたのかもしれない。
そんなことを思っていたら、
「ごめん」
樹くんは急に謝った。
どういうことなのか、わからないでいると樹くんは微笑んだ。
「七海ちゃんに会いたくなった」
言うまでもなく、あたしはドキッとした。あんな笑顔で言うなんて反則だ。
「勝手に持ち出して、ごめん」
樹くんは教壇のあたりまで歩いていってスマホを差し出す。
あたしは気持ちを抑えるように呼吸しながら、樹くんのところまで歩いていった。
赤いスマホを受け取り、すぐにカバンに入れた。何を言えばよかったのかわからなくて、ずっと無言だった。
この間まで、あんなに普通に喋っていたのに。どうしたんだろう。
「じゃ、帰るね」
だから、もう帰るしかなくて樹くんに背を向けていた。
「待てよ!」
樹くんに右手を掴まれて、驚いてカバンを落としていた。静かな教室にけたたましい音が響く。
中身が散乱。拾うの大変そうだな。なんて考えながら、手を掴んだ樹くんの顔を振り返る。
また淋しそうな顔をしていた。
「なに? 帰りたいんだけど」
冷たくしてしまったのは、この気持ちがバレないようにしたくて。今まで気づきもしなかった気持ちが、なぜ今頃――。
だから早く離れたかった。
じゃないと……。
あたしは無理やりその腕を振り払う。カバンなんてどうでもいい。教室を出たい。離れたい。
慌てて一歩を踏み出した時、樹くんに押されるように黒板で頭を打った。
「い――」
痛いと言う前に、樹くんの両腕が風を切る。激しい音にびっくりして目を瞑ってしまった。
恐る恐る目を開けてみる。
背の高い彼が目の前で見つめる。黒板についた両腕に挟まれて逃げられない。
「ふざけるなよ」
初めて怒った顔を見た。泣きそうなくらい真剣で、でもあたしは思っていた。
すごく綺麗だ、と。
真剣な顔をして、感情を露にする樹くんは本当に美しい。
いつも気だるそうにしている樹くんとは比べ物にならないくらい、カッコいいと思った。
「オレの気持ちを掻き乱して、そのくせ冷たい態度でまたオレを混乱させる」
「そんなの、あたしは知らない」
静かな教室。
開いた窓から、咲き始めた桜の花びらが舞い込んできた。撫でるように樹くんの頬を過ぎていく。
なぜか、涙みたいだって思ってしまった。
「なんで……」
樹くんは下を向いて、掠れるような声で言った。
「知らないよ」
「七海はなんで、他の奴らと違う! オレを正面から見ようとしない!!」
何となく言わんとしていることがわかったあたしは、彼を鼻で笑った。
「前にも言ったでしょ? 贅沢だって。樹くんが笑えば、みんなしっぽ振ってついてくる。いいじゃない」
ダンッとまた後ろの黒板が音をたてた。
「放課後。オレに会いたくて、わざと忘れ物してるかと……っ」
「違うわ。今日だって樹くんがいるなんて、忘れてたくらいだもの」
やっと正面を見た樹くんと目が合う。ずっと下を見ていたせいか、前髪が目にかかっていた。
前髪の向こうにある鋭い瞳が、あたしを見つめて離さない。
「ずっと会いたかった」
まるで懇願するように言うから、あたしはいい気味だなんて思ってしまった。
いつも、みんなにちやほやされている樹くんの余裕ない表情。
あたしだけが知ってる、樹くん。
「あたしは靡かないわ。どんなに顔が良くても、勉強できても、あたしにとっては同級生。ただのクラスメイトよ」
意地悪だったかもしれない。でも、あたしは思ったんだ。
この気持ちは恋愛じゃないかもしれない。ただ、びっくりしているだけかもって。
だったら相手にも失礼。
あたしには、まだわからなかった。本当の恋心が。
「七海じゃないと意味がない」
樹くんはなぜ、あたしにそんなことを言うのかがわからなかった。
他に女なんて、たくさんいるのに。
どうして、そんなに頬を染めているんだろう。あたしには、わからない。
「好きなんだよ、七海が!」
真っ直ぐに気持ちをぶつけられて、靡かないはずがない。
あたしは、多分好きなんだ。
好きな気持ちに正直になれずに、避けていた。
ずっと……。
忘れ物なんてしないように、慎重になったのは樹くんのせいだ。
「そんなにあたしが欲しいなら、靡かせてみせればいい」
想いとは裏腹に、そんな言葉があたしの口をついて出た。
「わかった」
そう言うと、右手はあたしの手を絡めとるように握って、左手は黒板に押し付けたまま。
近づいてくる彼に、鼓動がおかしくなった。
ふわりと、前髪が触れた。
どうしようと思っていると、頬にキスされていた。
優しくて、でも脅えるように震えていて。樹くんの温もりがあたしを包んで離さない。
唇が離れると、
「絶対に好きだって言わせてみせる」
「あたしは手強いわよ」
そんな会話を交わして笑った。
学校一のイケメン王子が、あたしに夢中。
滅多にない経験。少しだけ焦らしたくなる。
あたしはもう、樹くんに夢中だった。
「七海が好きだ」
あたしも、樹くんが好き。
でも、まだ教えてあげない。もっと、好きになって欲しいから。
――あたしも好きに、なりたいから。
また、桜の花びらが教室に入ってきた。
まるで、あたしたちを応援するかのように。