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EYES  作者: 佐野光音
7/10

ミカエルの憂鬱 7

 


 大学に通ってからも、生活は一変したわけではない。

 場所が変わり、学習が個人から集団になっただけだった。


 ケンブリッジ市内にあるスマクラグドスの別邸でも、満月と新月の日、日曜日の午前中は、務めとして祭祀を行う。学業よりも何よりも優先されるのが祭祀で、体調が悪い時もよほどじゃない限り休むことは出来ない決まりだった。



 ロンドンから北へ約八十kmに位置するケンブリッジシャーの州都ケンブリッジ市は、十三世紀に創立されたケンブリッジ大学が所在する学園都市として知られ、イギリスで最も美しい街と言われている。

 古くから国の重鎮地としてあり、街全体が文化遺産のような落ち着きを醸しながら、近年はハイテク産業の中心地にもなっていた。



 ケンブリッジ大学のシステムは非常に複雑で、それはオックスフォードも同様らしいが、複数のカレッジ制であり、学部での講義の他にそれぞれのカレッジ特有の教育指導が行われている。

 街中にカレッジが点在し、それらを総称でケンブリッジ大学と呼ぶ。

 人気や成績、経済力もカレッジによって異なり、歴史の古い所ほど入試の競争率も高い。


 三十一あるカレッジの一つ、トリニティ・カレッジに所属しても、寮生活はしなかった。

 殆どの学生がカレッジ内の寮に住む中で、特例措置が多く年齢も低い俺が明らかに浮いていたのは仕方がない。

 だが、十一歳のダンジズも同じカレッジにいたので、俺だけが場違いではないことに幾分安堵もあった。



 カレッジからは学生一人一人に付けられるスーパーバイザーがいて、俺にはスマクラグドス一族の者が選任されていた。


 大学院博士課程一年、二十歳のトニ・スマクラグドスは気さくで面倒見が良く、「勉強は僕が指導して欲しいくらいです」と笑って言い、俺に変に気兼ねして接することがない、付き合いやすい人間だった。

 卒業するまでの二年間、指導教員というより、他のとの橋渡しや学生生活が円滑になるような世話係を、誠実に引き受けてくれていた。


 カレッジを主席で卒業できたのも、周囲と軋轢が生じて煩わしい問題が起こらないよう、彼が細やかな気遣いを絶やさず配慮してくれていたからだろうと思っている。

 中枢の者ではなかったが、数年後、俺は彼を自分の秘書の一人に抜擢した。

 最初は辞退したトニも、今ではダンジズに劣らず側近としてよく働いてくれている。



 入学したばかりの頃、トニは「少しは観光もしましょう」と、他のカレッジや市内をあちこち案内してくれた。

 ケンブリッジ最古の建築物のセント・ベネット教会や、二番目に古く珍しい円形の教会としても有名なラウンド教会など名所を見て周り、市内に流れるケム川をパント(平底舟)でパンティングまでさせられた。

 春夏は川の両岸に花が咲き乱れ、しな垂れる柳の枝の緑も美しく、長い棹を使って小船を漕ぐ川下りに興じるのがここでは風物詩になっていた。



 冬以外の風光明媚な景色は、素晴らしいと思う。


 けれど、とにかく食事が不味い。街でも大学の敷地内でも食べれたもんじゃない。

 無難に味わえるのは、紅茶とスコーンくらいだ。


 格式にうるさいカレッジの食堂でさえそうだった。日々のランチやディナーはもとより、毎週火曜日と金曜日は黒いガウンで正装する公式晩餐会があるのだが、肝心のフルコースメニューは貧相なことこの上ない。


 肉はガチガチでパサパサ、サラダ扱いのライスは水分でベシャベシャ。海に囲まれた島国で新鮮な魚介類が手に入るお国柄なのに、出される魚は決まって燻製にされている。

 いじらないで普通に調理すればいいのに、英国人という人種は、なぜここまで食材を台無しに出来る才能があるのか、食事の度に首を傾げたのは俺だけではなかった。


 閉口したダンジズと、「家で以外まともな食べ物にありつけない」とランチになると愚痴りあい、こんなところで寮生活なんかしたら、三ヵ月後にはミイラになると囁きあう。

 トニは、「すぐに慣れますよ」などと笑っていたが、これに慣れたら人として終わるのではないかとまで思わされた。

「イギリス人が七つの海を制覇できたのは味盲だったから」とは真実だろう。食に拘りがないのだ。


 それまで、イギリスに暮らしながら、食事は殆どがクィーンパレスか専属シェフの料理で、外の食事のひどさを身に染みて知ることはなかった。

 経験は大切だと、食を通して洗礼を受けたとも言える。




 常にSPを連れて歩く子供の俺に、話しかける人間は余りいない大学生活は、楽しくもなければ辛くもなかった。スマクラグドスの別邸と大学を往復し、勉強をする、それだけの日々。


 専攻は自由にしていいと父に言われ、化学を選んだ。

 経済を含めて、紙と鉛筆で事足りる学問は家でのカリキュラムで一通り修めてきたし、これからも自分で続けられるので、違うことに取り組んでみたかった。


 後に医学を学ぶことは決められていたから、医学に活用できるフィールドのもの、生命倫理に囚われない、人間を物質的観点から追究できる学問をライフワークにしようと考えていた。肉体を知ることも医療の研究も、生命の尊厳を損なわないレベルから携わったほうが限界がない。



 入学当初から、俺がスマクラグドス一族、財閥総帥の息子だとは知れ渡っていたから、誰もが関わるのを恐れて遠巻きにしていた。関心を強く持たれているのは伝わってきたが、人脈にしようにも俺の年齢が幼なすぎて、近づく方法も見出せなかったのだろう。


 会話をするのは、ダンジズとトニと教授だけで不足はなかった。

 他人の寄り集まった中で知る孤独は、一族に守られて気を遣われていた状況よりも気楽な分、悪くないとも感じた。強がりはあっても、病気をして寝込む時以外、寂しいと感じる時間もなかった。



 普段見ないふりで過ごしているから余計だろうか、寝込んでベッドで過ごすと、必ずといっていいほど、寂しさや恐怖でうなされていたけれど。




 どこまでも続くパレスの中を、誰かを探して歩く。

 夢の世界で昼を過ごし夜を迎えても、その世界での登場人物は自分だけ。

 誰かを探しても見つからない。いるはずなのに、見つけたいのに、誰もいない。



 ――――皆が俺を、必要だと言う。あなたは大切な人だと言う。


 ――――では、なぜ、誰も俺を見つけてくれないのか。誰もつかまえてくれないのか。


 ――――抱きしめて、愛してると言ってくれないのか。



 床から、沢山の手が伸びてくる。何千、何万の無数の手。

 助けてくれと求める手。


 自分の足音と助けを呼ぶ声だけが響いていた世界に、四方からの悲鳴が津波になって襲い来る。


 逃げようとする俺の足元を掴んで、離さなくなる。



 違う。――――こんなんじゃない。こんなふうに求めないでくれ。




 目を開くと……涙が零れていた。この夢を見ると、必ず自分の悲鳴で目を覚ます。


 俺は、一人じゃないはずだ。父も母も弟も、祖父母もいる。ダンジズもいるし、大学で出会ったトニだっている。



 …………俺は、何を望んでいるのだろう。



 誰もが称賛する尊い地位。誰もが羨む贅沢な暮らし、有り余る富。



 これ以上を望むのは、我儘でしかないと……分かっているのに。










 十三を迎えた年は、最悪から始まった。

 誕生日を迎えて間も無く、「精神修業と緊急に備えて自力で生き抜く力」を鍛える為に、GPSと生命確認チップのみを付けられて、ひと月の間アマゾンの奥地へ放られたのだ。


 食料も一人で探さなければならず、ヘビやカエルを焼いて食べて生き延びたあの経験は、自分で衣服のボタンを留めることすらさせてもらない境遇で育った人間には、それまでの環境さえ全否定したくなるサバイバルだった。

 突きつける決まり事が極端すぎ、半端じゃなさすぎて、「どこまで人を振り回せば気が済むんだ!」と何万回罵倒したかしれやしない。


 これはラマイエ聖族と呼ばれる中枢の、スマクラグドスの高位の男なら誰でも経験させられる通過儀礼で、人によっては山奥や無人島に送られることもあり、大不評極まりない悪習である。


 神殿の真っ暗な石室に九日間置かれる総帥の息子限定の儀式といい、この一族の先祖たちは本当にロクな事を考えない。

 脈々と受け継がれている血にはドロドロとしたサディスティックな精神が息づき、それによって子孫を支配し続けているのだろう。




 シャラと出会ったのは、その年のことだった。


 後々、俺とシャラはお互いに一目惚れで付き合い始めたとか、そんな話の類も耳にしたが、それは違う。

 ゲームをするための男女一組になるクジ引きで、男性陣の一番人気のシャラを俺が引き当てたのがきっかけだった。



 それは三月の終わり、復活祭を間近にして開かれたパーティの場でのこと。この時期のヨーロッパの各都市はどこも混雑しているのが普通で、パリも観光客で溢れ返っていた。

 乗っているベンツが渋滞に巻き込まれ、予定時刻を大幅に過ぎて会場のドルバック邸に着いた時にはすでにうんざりしていて、顔を出さないで帰ろうかとすら思っていた。


 お茶だけ飲んでさっさと退散しようと憂鬱でいたところに、今度は「復活祭のゲームをするから帰らないで! 男女十五人づつで頭数がピッタリなのよ!」などと足止めを食らった俺は、不機嫌なまま集団の輪を観察した。



 十代から二十代前半の、若い男女のグループだけで三十人ほど集まったそこに、一際注目を浴びてちやほやされている女性がいて、それがシャラだった。


 顔立ちの華やかさを、淡い緑の瞳と向日葵色のくるくるとした長い癖毛が引き立てている。


 フリージア色の、人によってはけばけばしくなる派手な黄色のカクテルドレスを品良く爽やかに着こなして、彼女自身が香り立つフリージアの花に見えるような存在感を放っていた。



 大人びて見えるがまだ少女らしさもある彼女を狙って、我先にと話しかける男共一人一人に、彼女は彼らを勘違いさせるだろう垣根のない笑顔を振りまいていた。



 シャラ・オブライエン。



 シャラの名にもオブライエンの姓にも憶えはあったが、フルネームでの心当たりはなく、まさか彼女が双子の妹だとは思いもしなかった。


 俺にとって、二度三度耳にした程度の双子の片割れの存在は他人よりも遠く、その名と妹がすぐに結びつくことはなかったし、ダンジズの母の家系にオブライエンの姓があったことも思い出しもしなかった。珍しくない名字だったのもあると思う。



 その頃、ヨーロッパの方々で開かれる表向きにならない社交パーティや茶話会に俺は度々顔を出していた。父親からの指示で隠密に調べている事があり、身を隠して、表沙汰になりにくい情報の収集をするのが目的だった。


 十三になれば、方々の名家や資産家の子息令嬢も社交界デビューを果たし、大人のパーティに参加するのも容認される。アルコールや煙草、葉巻の類に手を出さない規則を守り、深夜まで続く集まりでなければ、未成年でもある程度は出入りが自由だった。



 正式な場以外では、俺はアレックス・ティンと名乗っていた。


 長い金髪も瞳の色も目立つので、黒いウィッグと同様に黒のカラーコンタクトで変装して出歩くのは気晴らしにもなり、パーティは好きじゃなくても自分じゃないふりをして人と接するのはスリルもあり面白い。


 アレックスは本名のミドルネームのアレキサンダーから、姓はイギリスの名門ティン公爵家から許可を得て使用していた。

 身元が不明では胡散臭がられるため、「ティン家の親戚」で通せば都合がよかったのだ。



 一族の外でもミカエルと連呼されるのは嫌気がさしていて、大学生活ではアレックスを通り名で使い、そう呼ばれるのにも慣れていた。


 自分の名であるのに変わりはないとの思いから、シャラと付き合い始めても訂正はしなかった。姓はいつかは明かそうと考えていたが、社交界デビューをしていればスマクラグドスの名を知らない人間はいないだろうと思うと気が重く、話しそびれるまま過ごしていた。


 家のことなどどうでもいい気持ちもあったし、恋が暗くなる隔てを二人の間に置くことを避けたくもあった。



「アレックス。あの彼女見たかい?」


 舞い上がった足取りと口調でやってきた男共の一人に、「どの彼女のことですか?」と切り返してやろうかと冷やかな目を送りながら、「あの彼女ですね。見ましたよ」と適当に頷く。



「おいおい、随分と冷静だな。あんな美少女見たことないって、皆大騒ぎしているのに。十三とは思えない容姿と落ち着き方をした美少年だって、君も評判にはなってはいるけどね。ああ、彼女も君と同じ年らしいよ」


 同じ年ね。そんな小娘に、十八やら二十五やらの男が群がるのも、どうかと思うが。



「綺麗だとは思いますが、他人の美醜にあまり興味がないんです」



 それは多分、両親が容姿で騒がれすぎて辟易しているせいもある。


 淡々と答えると、三十分前に、フィリップと自己紹介していた五歳年上の彼は、興醒めした顔で俺を上から下まで眺め回した。


「そりゃ、君ならね。毎日鏡で自分のその姿を見ていれば、女性の美に関心は持てなくなるかもしれないね。その髪も瞳も魅力的だし」



 髪も瞳もフェイクだと内心で嘲笑い、俺と背の変わらないフィリップを見やった。


「先日も人に言われました。そんなにナルシストに見えますか?」



「いや。なんていうか、つかみ所がないっていうかね」

 如才なく笑いながら視線は再び「あの彼女」を追い始めた彼が、自分とは違う生き物に思えてくる。



 どこのパーティでもそうだが、なぜ男は、女の容姿に異常な好奇心を寄せるのだろう。

 女から離れて男のグループになるとすぐに、あれが綺麗だのこっちが色っぽいだの、胸が大きいだの足が細いだの、果てには処女か非処女か、経験は何人くらいありそうだと推測し始める。


 大抵の場では俺が最年少だからなのか、結婚相手が血族婚で定められている環境で女を自分から切り離して見ているからなのかは分からないが、周りの男が騒ぐような興味を持てない俺は、この手の話題には白けてしまう。



「声をかけてきたら如何ですか。こっちはお気遣いなく。のんびりコーヒーを頂いています」


 輪から離れて一人でいた俺を、彼は気に止めて話しかけてきたのだろう。彼女のほうへ行くよう水を向けたとき、彼が俺の腕を掴んだ。


「辛気臭いこと言うなよ。ゲームが始まる。一緒に楽しもう! 卵探しならぬチョコレート探しゲームだ」



 お節介はやめてくれ、と口から漏れかけたのを噛み殺す。


 チョコ探しゲームだって? 子供がやるお遊びだろ。



 勧められるまま嫌々クジを引いて、カードを見れば、優雅な筆記体で名前が書かれていた――――シャラ・オブライエン。



「何のクジです?」


 引いてからフィリップにカードを差し出せば、彼の顔が引き攣っている。



「男女ペアになって、イースターチョコを探すんだよ」



 …………なるほどね。



「譲りましょうか?」


 尋ねると、フィリップは哀しそうに首を振った。その顔には、今しがた俺を強引に誘った後悔がありありと滲んでいる。


「ルール違反だからね」




 復活祭では、英語ではイースターエッグ、仏語ではブリコラージュと呼ばれるものを隠し合って、探して集めるイベントがあるのが一般的だ。

 キリストの復活に準えて、生命の象徴として用いられる卵を、めんどり、ウサギ、魚の形などのチョコレートに変えて探すのも、フランスでは流行っているらしい。


 そして俺は、悪趣味な遊びに参加する羽目になり、うんざりしていた。


 このゲームは、卵だのチョコだのを探すのが本来の目的ではない。


 ペアになった二人が探し物をする名目で物陰に消えていける合法的手段、出会ったばかりの男女に刺激的な時間を提供する、というものだ。


 …………面倒くさい。



 何人かの女性から、

「アレックス様がよかったわ」

 と小声で囁かれるのを聞き流して、俺はシャラ・オブライエンへと視線を向けた。


 ゲームのパートナーへと近づいてくる彼女と、無表情でそれを迎える俺を、男性陣が恨めしそうに眺めている。


「あなたが、私のカードを引いてくれた方?」


「アレックス・ティンです」


「はじめまして。シャラ・オブライエンです。どうぞ宜しく」



 差し出された手に、軽く握手を返す。


 令嬢らしい、白く細い指にも興味は湧かなかったが、誰かの声に似ていると気を引かれた。

 その時、その直感をもっと追究すればよかったのかもしれない。双子だと分かってから、母の声に似ていたのだと気づかされた。


 夢見るような淡い緑の瞳も、小首を傾げて人を見る癖も、黙っていれば人形そのものなのに笑うと臆面もなく白い歯を覗かせる気取りのない笑顔も、母と似ているのに。どことなく懐かしい、そう思っただけで、直感を置き去りにしてしまっていた。




「では、どこから探しましょうか」


 事務的に言い、さっさと部屋を出ようとする俺に、彼女が目をしばたたかせる。

 執拗に絡んでくる男たちに慣れているから、自分に無関心な態度を取られたのが意外だとでも言いたげに。



「どの辺りに隠してあるのか、見当もつきませんの」

「庭を含めて屋敷全体にあると思いますよ」

「庭を含めて屋敷全体? けっこうな部屋数がありますよね?」


 驚きの声を上げるシャラに、七十位ではと答えると、彼女は瞳をぐるりと回して息を吐く。



「十五ペアだから、そんなに大変でもないのかしら。制限時間は言ってました?」


「制限時間はありませんよ」


「え?」


 どうやら彼女は、このゲームの趣旨を理解していないらしい。



 玄関近くのゲストが待機する応接間、暖炉やソファやクッションの下、花瓶の中、カーテンのドレープの内側から、ラッピングされたチョコレートを見つけて、前もって渡されていた籠にそれを入れる。


「けっこう簡単に見つかるのね」


 いたずらじみたお遊びに瞳を輝かせている彼女へ、誰もクソ真面目に探してなんかいるもんかとは言わずに、俺は無言のままイースターチョコを探す。

 

 一刻も早く帰りたい、後三十分探して籠いっぱいに見つけたら、それを彼女に渡して退散するつもりでいた。



 次に入った部屋は図書室らしき所で、ドアを開けてすぐに俺は立ち止まる。

 見覚えのある男女、さっきグループ内に見かけた二人が、濃厚なキスシーンの真っ最中だった。


 失礼、と呟きドアを閉める。


「ここはやめたほうがいい」


 まだ廊下にいて目撃していなかったシャラにそう告げて、隣りの部屋へ向かう。

 そこは剝製を展示する間になっていた。


 慎重に様子を窺ってから中に入ろうとした俺は、シャラのほうへ腕を伸ばし、進もうとした彼女を制止する。

 熊や虎の物陰に紛れて、やはり見たことがある男女が忙しなく服を脱ぎながら抱き合っていた。



 …………よくやるよ。しかもこんな、趣味の悪い剥製に囲まれた所で、なぜそこまで盛り上がれるんだか。


 できるだけ静かにドアを閉めた俺に、鈍くはないらしい頭で事情を察していたシャラが囁いた。



「みんなちゃんと、チョコレートを探しているのかしら?」

「目的は最初からチョコじゃない。俺たちだけが最年少のペアみたいだし、真面目に探そうとしているのも多分俺たちだけでしょう」

「私、こういうパーティってまだ馴染みがないのだけど、こういうものなの?」

「こういう場合もある」


「……組んだのがあなたで、よかったわ」


 全身で溜息をつく彼女を横目に、一応は訂正を試みておく。



「ゲームのルールとして、同意を得て進んでいるはずですよ。誰と組んでも、君にその気がないなら同意をしなければいいだけの話では」


「そうは言っても、二人きりになって迫られるのは怖いわ。本当にあなたが相手で一安心よ。私にまったく関心がないみたいだから」


「他の男はみな、飢えた目であなたを見ていたと?」


「飢えているかどうかは分からないけれど、どなたも熱心に話しかけてくださって、困っていたの」



 困っていたわりには、四方八方にそつのない愛想笑いを振りまいていたようだが。男に誤解を招かせる態度を自分で取っておきながら、何を言ってるんだか。



「自意識過剰」 


 呆れて毒舌を吐いた俺に、シャラは目を見開いて押し黙ってから、おもむろに、そして実に可憐に微笑した。


「そうかもしれないわね」






 粘ってゲームをしたがったシャラに「あなた、私のパートナーでしょう」と引きずられ、結局二時間もチョコ探しをさせられた。


 その頃には、男女のお遊びに満足したらしいペアもぞろぞろとメインルームに戻ってきていて、俺たちの籠から溢れたラッピングの山に「いったい何をやってたのか」と大笑いしていた。


 何をやってたのかって、ゲームはゲームだろうと憮然として、もうこれでいいだろうと帰宅しかけた時、シャラに呼び止められる。



「今日はありがとう。とっても楽しかったわ」



「こちらこそ」

 こっちは時間を無駄にしただけだとうんざりしながら応える俺に、彼女が囁く。



「私ね、アレックス。言われっぱなしって、好きじゃないの」



 その直後よろめいたふりをして、皆の前でシャラが突然、俺へと抱きついてきた。


 周囲から歓声が沸き起こる中、いらずらっぽく微笑んでこちらを見上げている。



「女の子に自意識過剰なんて、言わないほうがいいわ。失礼よ」


「根に持ってたんだ?」


「だから、さっさと帰りたそうなあなたを、嫌がらせで引き止めたのよ」



 おくびにも出さずに腹を立てていた彼女に、面白い性格の女だと一瞥をくれて、ドルバック邸を後にした。


 いつもにも増してつまらないパーティだったが、一風変わった少女とのやり取りが、それまでの俺の不機嫌を宥めて、「こんな日も悪くない」くらいに思わせた。




 パリ郊外にあるスマクラグドスの別邸に、そろそろ着こうという頃になって、自分から甘い匂いが漂ってくるのが気になった。


 何かを付けたのだろうかと見回しながら、上着のポケットに手を入れてみる。



「!?」


 ぬるりとしたものに触れて、ギョッとした。


 そこには、むき出しにされたチョコレートが入っていた。元は手のひら大の魚の形をしていた物が、丁寧に割られていくつか突っ込まれていたのだ。


 体温と衣服で溶けて、右手にベットリとついた茶色の粘着物を、まじまじと見やる。



 抱きついてきたのは……これだったのか。


 …………マジかよ。あの女。



 思わぬ状況に、怒りよりも笑いが込み上げてくる。



 ――――“言われっぱなしって、好きじゃないの”



 よくやるよ。ったく。



 また会うかもしれないし、二度と会わないかもしれない彼女の、茶目っ気たっぷりな瞳を思い浮かべて、一人首を振りながら苦笑いが止まらなくなっていた。






来週は更新を予定しています。


関係ないですけど、先週、「光より速い素粒子ニュートリノ」のニュースを読んで、

ということは、過去に行けるってことになるのかな?とぼんやり考えました。

近年は、タイムスリップができても過去には行けない、が定説になっていたので、

これがホントに計算ミスでなければ、いろいろ定説が覆りますよね。

ロマンだけど、大変な学者さんもおられるだろうなぁ。。(苦笑)



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