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過ち
作:北城 十


 貴方を幸せにできるなのなら他には何もいらない。財宝も、名声も、人々の優しさも。この身を全て投げうったって惜しくない。だから声など、一かけらの後悔もせずにくれてやれる。
 貴方を幸せにできるのならどんな苦しみを受けてもいい。身を切られる痛みも、飢えと渇きも、人々の軽蔑や憎しみも。じわじわと痛め付けられて殺されたっていい。だから足を襲う針の痛みや燃える熱さなど、どうだってよかった。
 一目で惹かれた。ほんの少しかけられた言葉と眼差しで恋に堕ちた。私はもう王たる資格などとうに失っていた。水に満ちるどんな音楽も私を楽しませてはくれなかった。暮れても暮れても思うのはただ一人、貴方だけ。
 皆が私をおかしいと、狂っていると非難する。でももう何も聞こえなかった。聞こえたのはそう、あの女の、魔女の声だけだった。
──お前の望みを叶えてあげようか?
──お前の体を人の体に作り替えてあげようか?
 代償は王となる者だけに与えられる、海を支配する声。海を捨てるつもりの私には、必要のないもの。



 足がじりじりと焙られるように熱い。ぶすぶすと細すぎず太すぎない長い針を、じっくりとさしこまれるように痛む。苦しくて、苦しくて、たまらなかった。それでもその苦しみの素を思えば、幸福で、幸福で、狂い死にしそうなほどだった。
 毎夜、奪われた声とは違う所で叫び、のたうちながら愉悦を味わった。
 冷たい氷の瞳は一度として自分を見なかった。視線も合わせずに、まるで汚らわしい物を扱うように私を
魚人マーマン
と呼んだ。もう鱗もないのに、水の中では呼吸もできないのに。
「貴方は一言も話せないどころか、本当に一切声も出せないのですね」
 喉を掻きむしり、水に濡れてのたうちまわる私を見て、王子の、あの人の側近である男が苦い声を出した。虚ろな目で見つめると、男の目の中で自分が溺れているようだった。あの人とは違う、緑に似た薄い青の目だった。
 私は、ああそうだと、でも幸せだと叫びたかったが、声は出ずに空気だけが漏れ、何もできずにどうしようもなくのたうちまわった。
 男は、苦しげに鳴咽を漏らし、私を抱きしめた。不思議と涙が出て、胸苦しく切ない気持ちが込み上げた。
 本当に欲しいのは、こんな腕ではなくあの人の──なのに……。
「明後日、陛下の生誕祭が行われます。それまでに、殿下は貴方を踊れるようにしろ、と」
 声は掠れていた。
 名前も知らないのに。
「ああ愛しい人魚姫、足を痛めた貴方を、私は踊らせなくてはならない……」
 翌朝から狂ったように踊った。あの人の心が少しでも安らぐようにと、焼ける石の床や鋭い針の山の上であでやかに微笑んでステップを踏んだ。初めて私を捉らえたあの人の目は、ギラギラとした暗い光をたたえた不気味で恐ろしいものだった。
「何が楽しいんだ! 何がおかしいんだ! 笑うなよ。笑うな!」
 あの人は怒って私を蹴りつけた。あの側近の男が必死で止めようとしても、壊れた機械人形のように蹴り続けた。
「出ていけ、ラルド! 二人にしろ。命令だ!」

 あの人が叫ぶと、男は大きく目を見開き、ブルブルと震えた。そしてバタンと、ドアが閉じた。
「もう駄目なんだ俺の魚人マーマン……」
 男がいなくなると、あの人は途端に頼りなく切なげな声をあげた。両手で私の頬を包んで私を見つめる。故郷の海が、深海が見えるようだった。
「助けてくれるよな。止めてくれるよな。狂っているんだ。そのために来てくれたんだろう?」
 そのとおりだよと、笑って答えたかったが、やはり声は出ず、地団駄を踏みたかったが痛む足がそうさせてはくれなかった。
 今夜も足が痛む。でもきっと明日は違う。



 生誕祭は海に面した大きなバルコニーのある広間で行われた。潮風と太陽は素晴らしかったが、海は大いに荒れていた。
 あの人は今朝からずっと落ち着かない。吸っても吸っても渇きが癒えない吸血鬼のように、幾度もワインの杯を重ねていた。それでもあの人の顔は赤みを帯びるどころかますます青ざめるばかりだった。
 食事の席、あの人がナイフを握る。
 ブルブルと震えていた。なのに誰一人として気付かない。どんどん呼吸が荒くなる。
 私は一、二、三、カウントする。
 ちょうど十。私は、叫びながら王に刃を向けるあの人につかみかかった。あの男は驚いて席を立ったまま動けなくなっている。
 初めて見た時、あの人があまりにも切なげな声で助けを求めるのを気にとめずにはいられなかった。あの人をこの苦しみから解き放ってあげたかった。この父殺しの呪いをかけられた王子を。
 私は王が腰に帯びた大剣を引き抜いた。そのまま、衛兵から逃れるようにバルコニーに駆ける。私はあの人を抱きしめて、自分ごとあの人を刺し貫いた。ぐらりと、暈のようにバルコニーから落ちる。
 やっと駆け寄ってくるあの男。その青ざめた顔を見ると胸を引き絞られる思いがした。
 これが、本当にどうしようもない結末だったのだろうか。何か、私は間違ったのだろうか。
 愛しさと罪悪感から、私は男に笑いかけた。あの人の名は知らないけれど、今ならこの男の名は分かる。
「ごめんなさい、ラルド……」














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