※以前こちらで公開していた「怪獣の木」を、シリーズ化に向けて大幅に加筆したものです。
序章 約束のはじまり
序章 約束のはじまり
「か〜い〜じゅ〜〜〜〜〜〜!」
自分の背中で泣き叫ぶ妹の美咲を、良太はなだめようともしなかった。そのかわり、
――怪獣はお前だよ。
と、ため息まじりにつぶやいた。
保育園からの帰り道、美咲はいつもこの場所で泣き出す。最初は原因がわからず、怯える美咲をなんとか落ち着かせようと必死であやしていた良太だったけれど、今はもうあきらめた。
あの、がらんと広い空き地の奥に一本だけ、ある種の威厳を持って立っている木。
葉が右の方にだけ偏って、下に行くほど広がって茂っている。てっぺん付近だけが左側に張り出し、ちょうどティラノザウルスの頭のように見える。ご丁寧に、口に相当する部分がぱっくりと割れていて、今にも咆哮をとどろかせそうだ。美咲の目に、それが怪獣として映るのは、当然なことだったのかもしれない。
しかも、今夜は満月だ。
雲ひとつない夏の夜空に浮かぶ満月は、木を逆光の中に、よりくっきりと浮かび上がらせている。葉の一枚一枚が、湿った風にそっと吹かれて揺れながら、たまに月の光をきらりきらりと反射する。つまり、
怪獣は、いつも以上に活き活きとしていた。だから、美咲はいつも以上に怖がってしまう。
でも、と良太は顔を上げた。
明日最後の授業を受けて、あさって終業式が終われば、小学校は夏休みに入る。僕が家で美咲の子守をすれば、夜、この道を通ることもない。今日が、最後だ。
――それにしても、
今日の美咲の暴れっぷりは、普通じゃない。
両手両足を、まるででたらめに振り回している。絶え間なく泣き叫び、良太の背中から落ちそうになる。危なくてしようがない。
良太はいったん美咲を降ろした。美咲を立たせ、向かい合ってしゃがむ。
「か〜い〜じゅ〜〜〜〜〜〜! か〜い〜じゅ〜〜〜〜〜〜!」
もう、何で泣いているんだか自分でもわからない。そういう状態じゃないかな。
子供は、長い間泣いていると、惰性で泣き続けてしまう事がある。自分が泣いていることが悲しくて、悲しいことが悲しくて、悲しいことが悲しいことが悲しくて、という、無限ループに陥ってしまう。
そんなときの対策はただひとつ。
泣き疲れるまで、放っておくしかない。
この道は、建設業者がときどき材木置き場に使っている広い空き地と、林に挟まれている。空き地の奥の方は緩い斜面で少し高くなっていて、病院の敷地に繋がっている。そこからは建て替えで使われなくなった古い病棟が見下ろしているだけで、民家は少し離れたところにしかないから、泣き声もそれほど迷惑でもないだろう。良太は、美咲の小さな右手を軽く握って、美咲が泣きやむのを待った。
お母さんは、今日も遅いのかな。
父さんは、まあ、間違いなく遅いだろう。最後に会ったのはいつだったっけ?
良太は、働く両親を少しでも助けようと、美咲の子守を自分で引き受けた。とはいえ、学校まで連れて行くわけにはいかない。学校が終わり、宿題を済ませたら、晩ごはんの時間までに美咲を保育園から連れて帰る。その後は、他愛もない遊びにつきあったり、一緒にテレビを見たり、風呂に入ったりする。
模範的なお兄ちゃん。
いい子ぶるつもりはなかったけれど、結果的に良太は、両親からとても頼りにされるようになり、それが誇らしく、嬉しかった。
そんな思いにふけっていると、
ぴた。
まさしくそんな表現の通り、美咲が泣きやんだ。
同時に、ふう、と花の香りが良太を包む。芳香剤のように嘘くさくない、生花のように命の鋭さを持っていない、柔らかく、暖かく、少し切なさを含んでいる、花の香り。
良太は、美咲の視線で、自分の後ろに誰かが立っていることを知った。
――美咲の泣き声がうるさかったのかな?
良太はしゃがんだまま、恐る恐る、後ろを見た。
側面に大きな星がデザインされている、派手な色遣いの丸っこいスニーカー。
くるぶしまでの、短くて真っ白なソックス。
細いすねが、月明かりの中で透明に輝いている。
膝の上までの紺色のスカートが風になびく。
――ああ、これはセーラー服だ。
上着の裾から、素肌が見える。
良太の視線はいったんそこで止まる。
その上に、穏やかなふくらみを持った胸。
良太の鼓動が、速くなる。
信じられないほど細い首。
少し尖った顎。
への字の口、小さな鼻。逆三角形の目。
――への字? 逆三角形?
良太は、息をのんだ。
べつに、逆三角形の目がどうこうというつもりはない。
良太は自分が、まあ、押さえた表現で言えば美少年ではないこと、正直に言えば少しだけ不細工な部類に入ることを薄々感じている。
だから良太は、他人がどんな顔をしていようと、それをあざけるようなことはしなかった。ましてや、顔の部品の一つが逆三角形だろうと正五角形だろうと、気にはしない。
問題は、
その、逆三角形の目、への字の口と、それらが奏でる威圧感が、
自分と、美咲に、向けられているということだった。
鬼か、般若か、悪魔。
出会ったことはないけれど、もし会ったら、きっとこんな感じなんだろう。
少女は目だけをぎろりと下に向け、良太を無言で睨んでいる。理屈ではなくて、良太の体の中に残っている生物としての記憶が、その両足をがくがくと震えさせる。美咲はすでにぺたんと座り込んでしまい、良太は膝をついてなんとか体を支えている。
少女の体はどちらかというと華奢だけれど、良太の視界を覆いつくすほど大きく見えた。立っているだけで、ずずずずず、と地響きが聞こえそうだ。
良太は、その存在感に圧倒され、身動き一つできなくなった。
「ごっ」
良太は、喉をふるわせ、
「ごっ」
このまま踏みつぶされるのではないかという恐怖に駆られながら、
「ごっ」
自分と、美咲を守らなければならないという使命を、
「ごっ」
果たそうとして必死に、
「ごめんなさい…っ」
と謝った。
セーラー服の少女は、何も言わずに立っている。
良太も、それ以上何も言えない。
沈黙を破ったのは、美咲だった。
「う」
まずい。良太は瞬時に危機を感じた。
美咲はいま、恐怖の無限ループに陥ってしまった。
怪獣が恐い。お姉さんが恐い。
怪獣とお姉さんが恐い。
怪獣とお姉さんが恐い事が恐い。
怪獣とお姉さんが恐い事が恐い事が恐い。
恐い恐い恐い。恐い恐い恐い。
恐い恐い恐い恐い恐い恐い──。
「うー…」
「みっ、美咲! 大丈夫だから、な?」
無駄だと思いつつ、良太は必死でなだめようとする。
しかし、美咲を恐怖の無限ループから救ったのは、意外なことに(恐怖の一因である)セーラー服の少女だった。
「美咲」
少女は、逆三角形の目によく似合う低い声で、美咲に話しかけた。
「あれが、恐いのか?」
自分の視線で、怪獣の木に、美咲の視線を誘導する。
良太には、少女が、自分が恐怖の対象になっていることに気づいていないのか、根本の恐怖だけを見いだそうとしているのか、判断できなかった。
ともあれ、美咲の頭脳は、まだ複数の事象を同時に処理できるほど発達していない。
質問されたことで、美咲は恐怖の思考を止め、無限ループから抜け出た。
「…うん」
「そうか」
そう言ったきり、少女は黙ってしまった。
怖がらなくてもいいとなだめてくれるのか、手品のように怪獣の木を消してくれるのか。良太と美咲は、少女を黙って見つめた。
しかし、少女は二つの視線を気にせず、逆三角形の目を少し細めて怪獣の木をじっと見つめ、もう一度、「そうか」と言ったきり、去ってしまった。
良太は、美咲が怪獣のことを思い出さないうちに、美咲を背負って走って家に帰った。
家に着くと、母が珍しく早く帰ってきていた。
母は、晩ごはんの温かい香りと共に、エプロンで手を拭きながら二人を出迎えた。
「お母さん」
美咲は大急ぎで靴を脱ぐと、母にしがみついた。
良太は軽い嫉妬を感じながら、放り出された美咲の靴を揃える。
無口な母は、「おかえり」の代わりに、とびきりの笑顔を二人に向けた。
良太と美咲が手を洗っているうちに、食卓には、すでに茶碗が並べられていた。
レンジが嫌いな母は、弱火でことことと温めていた魚の煮物を器によそう。
魚が嫌いな美咲は、「ゲー」と言いながら椅子に座る。
良太は美咲の頭をポンと叩いて「好き嫌い言っちゃだめだよ」とたしなめる。
いつもの、いつもの、夕食の風景。
父が仕事で帰ってこないのは寂しいけれど、三人で囲む食卓にはもう慣れてしまった。
三人で「いただきます」と声を揃えたあと、良太は柔らかく味のしみた魚をほぐしながら、そういえば、と軽い気持ちで話し出した。
「今日ね、変な人に会ったんだ」
「え」
母の顔が一瞬こわばった。しまった、と良太は慌てて言葉を足した。
「中学生くらいのお姉さんなんだけど」
緊張を解く母の顔を見て、良太も安堵する。
「怪獣の木のところで美咲が泣いてたら、いつのまにか僕の後ろに立ってて」
「怪獣の木?」
「ほら、病院の近くの広い空き地。奥の方に、怪獣みたいに見える木があるんだ。あれが恐いかって」
そんなのあったかしら、と、母は顎に人差し指を当てた。
「美咲が恐いって答えたら、そうか、って言って帰っちゃった。なんだったんだろ」
「小さい女の子が泣いてたから、心配になって来てみたんでしょ」
良太は納得できなかったけれど、「きょうね、保育園でねー」という美咲の一言で、その話は終わってしまった。
美咲のとりとめのない話を、母は黙って聞いている。
ときどき大げさに驚いたり、話の続きを聞き出したり。
――お母さんは、無口だけど、聞き上手だよな。
美咲は、話だけではなく、今日教えてもらった歌を歌ったりもした。けれどそれは、音程やリズムがどこにも見あたらず、何の歌か、そもそも歌なのかどうかすら怪しい。
──このくらいの年の子なら、当たりまえのことなのかもしれないけれど…。
美咲は兄のひいき目かもしれないけれどかわいいし、素直でいい子だと思う。
ただ、この、歌の下手さだけが、心配だ。
良太は妹の将来を案じながら、少し冷めた味噌汁をすすった。
――それにしても、やっぱり、変な人だったよな。
美咲の世話を母に任せ、良太は久しぶりに静かな風呂を楽しんでいた。
良太は、可愛らしく丸っこいスニーカーと、逆三角形の目を交互に思い出し、なるべくその二つの間にある、
上着の裾から見えたすべすべの肌と、
その少し上にある、やわらかいふくらみは、
思い出さないように努力した。
もっとも、良太にとってそれは無駄な努力で、どうやっても妄想が広がってしまう。
「なんだったんだろう」
妄想を断ち切るために、良太は口に出してそう言った。
「美咲が泣いてたから来たのかな? でも、あんな人、この辺じゃ見たことないしなあ。それに、」
少し身をかがめ、口を水中に沈める。
「恐いかって、そんなことを聞いてどうするっていうんだ」
良太は、ざぶ、といったん湯船に潜ってから、風呂を出た。
「お兄ちゃん」
とてとてとて、と美咲が駆け寄ってくる。かわいいな、と良太はそれを抱きとめる。
友達は、妹なんて生意気なだけだって言うけど。美咲は、うん、かわいい。
「お兄ちゃん、明日も、迎えに来てくれるの?」
「うん、夕方まで、待っててね」
そうだ、あと二日。そうすれば、夏休みだ。
終業式の日は、学校が終わったらそのまま美咲を迎えに行こう。そうして一緒に帰ってきて、夜まで一緒に遊んであげよう。それから、そうだ。
「美咲、こんど、遊園地に行こうか?」
「ゆうえんち…? 遊園地!」
遊園地というのは、駅前からバスで二十分ほどの所にある、市営の小さな遊園地のことだ。簡単な乗り物があったり、ウサギなどの小動物に触れられるので、小学校低学年くらいまでの子供たちには人気があった。
良太自身は、もうそんな遊園地は卒業したけれど、
美咲と一緒なら、きっと楽しい。
「お兄ちゃん、やくそく!」
良太は、美咲が差し出した小指に自分の小指を絡め、心の底からの笑顔を浮かべた。
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