声なき声
俺は大学にいた。昨晩帰ってから、家で一眠りすると、どうしようもなく外に出たくなったのだ。そんな気分でそもそも大学に行くこと自体が間違っているような気もするが、仕方がない。
車を駐車場に停め、学部に向けて歩く。何となく彩華のことを思い出してため息をついた。どうフォローしたらいいのか。
「よう、翔一郎」
いつかも聞いたような声がした。にっと笑う仕草も同じ。研究室の仲間にして、実際にはもっと複雑な関係の宮雪早苗である。廊下のベンチに座っている。休憩しているのだろうか。俺も笑いかえすと、ベンチの隣に座り込んだ。とりあえず、研究室に到着する前に邪魔が入ったが、そもそも研究室に行きたかったわけでもない。良しとしよう。
「実験は順調か?」
「まあまあかな。あたしの心配なんかより、自分はどうなってるんだ?」
「ぼちぼちか」
「嘘つけ。四年生にもなって留年はもったいないぞ。大学院に行くつもりがないにしても、普通に実験さえしていれば、卒業はできるんだからな」
「まあな」
俺はベンチのそばの灰皿を見つめた。たばこは特に吸わないのだが、こういうときには吸ってみたいとも思う。
「何を見てるんだ、この不良」
「不良って…高校生か、俺は」
「ほら、これをやる」
早苗は缶コーヒーを渡してくれた。
「いいよ」
「遠慮するな。研究室に持ち帰るために、数本買ったんだ」
影になっていて気づかなかったが、言われてみると椅子の上に数本転がっている。納得して俺は、プルタブを引いた。
「さんきゅ。何か今度おごる」
「それなら今からどう?」
「む…」
ちょっと考えた。彩華も気になるが、帰りたくはない気もする。早苗と飯を食いに行くくらいがちょうどいいかもしれない。
「そうだな、いいかもしれないな」
大学の近所のイタリア風のレストラン。大学の近所にしては高級めな場所ではあるが、こういう場所も悪くはない。別に着飾っているわけでもないが、場所が場所だけに俺たちのような客もけっこういる。端っこのカウンターに並び、飲み物を注文する。ビールでも頼みたいところだが、やめにする。
ディナーセットを注文したあたりで、飲み物が来る。軽くグラスをふれあわせる。
「乾杯」
カウンターの向こうの調理場を眺める。沈黙が降りる。ちらりと横を眺めると、早苗も何か物思いにとらわれていた。
「こうして外のレストランに来るのも久しぶりだな」
「…そうだな、いつもは食事と言っても学食ばかりだからな」
早苗はカウンターの向こうを向いたままだ。
「実験はうまくいっているのか?」
「まあ、それなりに…かな。うまくいったりいかなかったり、いつものことだ」
「俺も実験進めないとな」
「そうだぞ。光陰矢のごとし…。前にも言ったような気がするが」
「…」
またも沈黙が降りる。俺は窓の外を眺める。ここは三階。景色がいいというほどではないが、車が流れていくのが見える。またも彩華のことを思い出した。
「いつからだったかな」
早苗がぽつりと言った。
「…」
「昔はいつも一緒にいた。昼も夜も一緒に」
「…」
「でも、今はこうやって話をするのですら、お互いに気を遣ってる」
気を使い出したのはいつからだろうか。つい最近まで、恋人同士ではなくとも、気を遣わずに話していたような気がする。
「翔一郎と会うことも滅多にないし」
「…」
この間から早苗は積極的だ。こいつとなら、気楽につきあえる。同世代で同感覚で、何でも分かり合えた。だが…。
料理が来る。俺たちはナイフとフォークを取り上げた。またも沈黙のまま時が過ぎた。食べ終わる。早苗が飲み物を注文した。
「すまん、ちょっと長居しすぎた」
「え…!?」
俺は早苗の問いかけを無視して立ち上がった。財布から金を取り出し、前に滑らせる。
「釣りはいらない」
俺は早苗を見た。座ったままだ。
「じゃあ、またな」
微笑むが、早苗の表情は硬いままだ。俺はそれを見ないようにして、店の入り口に向かった。ドアに手をかけようとすると、ドアが向こうから開いた。男が立っていた。何とはなしに、その男を見つめた。背は180cm以上あるのではないだろうか、茶色い髪を肩のあたりまでざっと流している。顔つきは冷ややかで、俺を見ているのか見ていないのかよくわからない表情だ。もとより他人。俺は横に避けた。男は軽く会釈して、レストランの中に入る。俺は男の向かう先を何気なく眺めた。男は少し中を見回した。すぐにカウンターの方に向かう。そこそこ空いているのにもかかわらず、男は早苗の方に歩いていく。
「ここ、空いてますか?」
男の問いかけの声を背に、俺は店を無理矢理抜け出した。
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