※東方Projectの二次創作物です。嫌いな方はごめんなさい。
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雪景色には白銀が映える、とレティ・ホワイトロックは思った。
一面の雪景色を白銀の世界とは言うけれど、雪は決して本当の白銀にはなれない。本当の白銀は、雪の白よりもなお冷ややかな色をしている。雪が肉体的な寒さを与えるなら、白銀のそれは心理的な寒さを与えるのに違いない。だから雪景色には白銀が合うし、白銀は雪景色に呑み込まれずに、こうして冷たく自己主張できる。
人里から少し離れた野原で、彼女は雪に半身を埋めたまま、手にした一本のナイフを淡い日の光に当てて眺めて、そう思った。
片刃で反りの無いブレードは、幅が広めで、さほど肉厚な感じはしない。けれど、素人目に見てもこしらえは確りしており、折れたり曲がったりはしそうにない。その丈夫さを弁ずるかのように、ハンドルは幾分か太めで握り込み易く、力いっぱい振るっても滑らず、手にしっくりと馴染む。ブレードとハンドルの間に上下に伸びたヒルトの、ブレードを仰ぐさまなど、美しくも逞しい趣がある。
戦闘用の業物というよりは、屠殺用か解体用だ。ブレードの背の付け根あたりに流暢な筆記体で「Bowie」と記されている。銘か何かだろうか。
これは先程通り掛かった、白銀のメイドが落としていったものだ。彼女は先のメイドと一戦交えた結果、降り積もった雪中に身を投じて、薄雲の掛かった空を見上げることになった。恨めしい気持ちは無い。元より遊び心だったので、結果には頓着しなかった。けれどまあ、悔しい気持ちはある。なので、この一本のナイフだけは、彼女が雪に埋もれた際、こっそりと背中の裏に隠してやった。
ひとしきりナイフを眺めた後、両手を広げて大の字になり、また灰色の空を見上げた。今年は冬が長い。何でこんなに長いのかは知らないけれど、彼女がはしゃぐには十分な理由だった。だから、いつもの冬であれば、降りしきる冬の贈り物を一身にまとい、さながら犬のように駆け回って遊ぶ程度なところが、急ぎ足で何処かへ向かう人間を、からかってみたくなった。
その白銀のメイドは、随分と面白い人間だった。人間なのか疑わしい程に、面白いことをした。まず、こんな物騒なものを大量に投げ付けてくるのだ。相手が私のような妖怪だったからなのかも知れないけれど、もし誰彼構わずそうしているのなら、人里は大変賑やかに違い無い。なかなかどうして、人間も捨てたものじゃない。
のみならず、その人間が投げたナイフは、不可思議な軌道で中空を踊った。さしもの彼女も、感嘆の溜息を漏らさずには居れなかった。あれが手品というやつだろうか。人間は無駄なことをして時間を潰すのを好むとは聞くけれど、成程ナイフがとんでもなく無駄に動いたというだけで、あんなに面白いものだとは思わなかった。
他にも、あんな姿で雪空を飛んで寒くはないのかとか、あんな格好をして周りの目は気にならないのかとか、色々なところが面白い人間だった。なかでも彼女が、ほんの出来心とはいえその人間にちょっかいを出した理由の一つは、そのメイドが雪雲の白銀と同じ色をしていたからだ。
彼女はおもむろに両腕を突いて上体を起こした。辺りは雪の降る音と、雪の積もる音と、雪の固まる音で支配されていた。足を屈めて体重を移し、その場にのそりと起き上がった。帽子や服に絡み付いた雪を払いのけ、肩からお尻に掛けて綺麗にしてから、くるりと一回転して辺りを見た。
坤の方角へ、どこまでも広く、なだらかな野原が広がる。艮から巽に掛けては、ちらくらと木々が繁り、その合間に霧の湖や人里が隠れて見える。少し見上げれば妖怪の山がそびえている。その、どれもが真白い。
野原は敷布を掛けたように、どこまでも白一色の大地が広がり、一点の染みも無い。杉や松の木も綿帽子を被り、実に洒落ている。時折それを取り落すこともあるけれど、半刻もすればいつの間にかまた被っているんだから、きっと気に入っているのに違いない。同様に、人里の家々も、妖怪の山でさえ洒落た格好に着飾っている。それらはこぞって、凍て付いた霧の湖を鏡にして、誰が一番かを競い合っているんだろう。
そうすると、午の方にある迷いの竹林は、のけ者にされたようで少し可哀想だ。青々とした竹は、きっと綿帽子を被れないのが残念で、ああして霧の湖の鏡から離れて、皆を遠目に見ているんだろう。彼女は冬場にこの辺で遊んでいると、よくその事を気にした。いつかはあの竹林も、他の皆と同じように着飾らせてやりたい。あんなにすらりとして容姿端麗なんだから、きっと映えるに違いない。
さて他に、戦利品になる物は無いものかと足元を見回してみた。けれども、あんなに大量に投げられたナイフはどこへやら、戦いの跡はそこここに、ナイフの刺さった跡や落ちた窪みに見受けられるのだけれど、残ったものは彼女の持つその一本だけだった。
どうしてあんなに大量のナイフを持ち歩き、どうしてそれを彼女に悟られる事なく回収したものだろう。これも手品というやつだろうか。彼女は大いに謎を感じた。けれども、それは別に彼女の生活に直接関わりのあることでもないので、不思議だなあと思うだけに留められ、それ以上は考えなかった。
そうしていると、霧の湖の方から、雪のそれとは異質の冷気がこちらへやって来た。それは彼女が白銀のメイドをからかった理由のもう一つで、チルノという氷の妖精だ。実のところ、今回の件はこいつが黒幕だったりする。もう少ししたら人間がきっとこっちにやって来るから、悪戯してやろうと言い出したのがこの氷精だ。あたいは最強だから一番乗りよ、とか何とか言ったから、それじゃあ後に控える私は黒幕ね、と適当に話を合わせた結果、こうなった。
先の通り、元より遊び心だったので、結果如何は彼女にとってどうでも良かった。けれど、少しはしゃぎ過ぎて、冗談混じりに黒幕だ、とばかりに白銀のメイドに挑んだら、何故か本気で彼女のあずかり知らない異変の黒幕にされそうになったので、慌てて否定した。
この氷精を見て、そんな恥をかいてしまった事を思い出し、文句の一つも言ってやろうと、彼女は半眼で睨め付けた。睨め付けられた当の本人は、全く気楽な顔をして、いやあもう少しだったのに逃げられたわ、全く人間は小狡いわね、などと弁解している。腕組みをして不敵な態度を取る氷精の姿を見ると、服も体もすり傷だらけの切り傷まみれだ。どう甘く見積っても、善戦すらしていない。
彼女は、この氷精を馬鹿だと思った。ただそれは、そんなに悪い意味はなく、馬鹿だからこんなに楽しそうにしていられるのだと思った。私もここまで楽しむことができれば良いのに。でも残念ながら、彼女には馬鹿になれるだけの理由が無い。いや、理性、というか意思を持てない。
そもそも、妖怪と妖精では、根本は同じなのに、由来が違う。さる賢人の見解では、妖怪というのは、怪しき妖しを言う。民間信仰において、人間の理解を超える奇っ怪で異常な現象、またはそれを引き起こす何かだそうだ。対して妖精というのは、精の妖を言う。古来より普遍的に受け継がれた、命や神や霊や魂などを表す概念だそうだ。
どちらが偉いとか、どちらが凄いというものではない。けれど、立場というか、存在としての意味合いは、どうしたって妖精のそれの方が、より根源的な自然の側に立っている。だから、こうしてごく自然に、馬鹿で居られるのだろう。
尤も、それを本人に告げると、訳の解らない話ではぐらかして、またあたいを馬鹿にするんだから、とどやされるので、彼女はそういう話はしない事にしている。でも、どうしたって彼女は、ここにいる馬鹿を羨ましく思わずには居られない。こうして他愛も無い悪戯の顛末を言い合う間でさえ、彼女は素直に、この馬鹿を羨望の眼差しで見つめてしまう。
すると困った事に、この馬鹿は、全く自然に彼女の眼差しを受けて、ごく普通に、どうしたの、と問い掛けてくる。答えられるものじゃない。答えたって、どう仕様も無い。結局のところ、彼女は適当な話ではぐらかして、この馬鹿を馬鹿にするしかない。するとやっぱりこの馬鹿は怒るから、始末に悪い。彼女は実のところ、この馬鹿が苦手なのかも知れない。
だから彼女は、うまく話をはぐらかすために、氷精に先の戦利品を見せてやる事にした。案の定、氷精は目を輝かせながら、その無骨なナイフに食い付いた。ほうとか、へえとか、まるで空気の抜けていく風船のような音を鳴らせて、そのまま瞳の内にしまい込んでしまうんじゃないかと心配になるくらいに見つめてから一言、すっげえ、と叫んだ。
その一言で彼女は、何だか誇らしげな気持ちになってしまい、つい氷精に対して文句を言うのを忘れてしまった。氷精はしきりに、凄え、凄えを繰り返して、見事に戦利品を勝ち取った彼女を賞賛した。
本当は、勝ち取ったわけじゃないんだけれど。でもまあ、こんなに手放しで楽しんでくれるのなら、良いか。
彼女は笑顔になり、氷精は笑顔をほころばせた。その間を一陣の風が通り抜け、彼女と、その氷精の元に、涼やかな白銀の粉雪と、暖かな白桃色の花びらを届けた。
◇◇◇◇◇◇
幻想郷はその日の夕刻、それは見事な金色に輝いた。
鈍く重い雪雲は、妖怪の山の向こうへとなりを潜め、薄雲に掛かった夕日がまぶしく辺りを照し出す。レティ・ホワイトロックの目には、その燃え立つような朱が、幻想郷の全てを呑み尽くして沈むように感じられ、そしてそれは誰しも、そうしようと思わずに居れないだろう、と納得した。それ程に、幻想郷は麗しく見えた。
辺りは、雪の割れる音と、雪の融ける音と、雪のぬかる音で支配されていた。彼女以外に動くものは何も無く、野原は金色の絨毯を敷き詰めたかのようで、一点の染みも無い。杉や松の木も、人里の家々や妖怪の山も、今は金毛の綿帽子にご満悦だ。
氷精も、もうどこかへ行ってしまった。是非とも彼女の武勇伝を他の妖精達に伝えてくると言い残し、そのままあらぬ方向へ姿を消した。恐らくもうそんな事もすっかり忘れて、他の妖精と楽しく遊んでいるに違い無い。今に始まった事ではないけれど、現金な奴だ。
彼女は能力を使い、寒気を操って吹雪を起こしてみた。吹雪けば、雪はまだちらちらと宙を踊った。だから彼女は、能力を込めて、静かに、優雅に舞ってみせた。
白く、儚く、輝く雪は、優雅に舞う彼女と共に、時に激しく、時におぼろに、幻想の野を踊った。それはこの世に有るまじき風景を織り成した。この地に羽を休めた、かすかな粉雪の、その一粒一粒の確かな軌跡を伝えるように。淡く消え行く粉雪の、自身の姿をこの地にさらし、忘れさせないように。くるり、ひらりと。
そうしてひとしきり雪景色にたわむれてから、彼女は唐突に舞うのを止した。余韻に浸るものはことごとく、その勢いを削がれ、金色の舞台に身を投じて静止した。そこには、桜の花びらばかりが横たわっていた。
冬も終わりね。彼女は暮れなずむ野原を見渡して、そう呟いた。雪雲は、もう既に彼女が見える場所から遠退いていた。
夜が明けると、まるで昨日までの事が夢幻であったように、幻想郷からは雪が無くなっていた。野原は青々として、土筆や菜の花が、その生を謳歌している。木々も生き生きと青葉を繁らせ、その合間に霧の湖や人里を見る事も難しい。妖怪の山は威厳に満ちて、この幻想郷全てを見下ろしている。晴れ渡った青空には濁りの無い白をたたえた雲が行き、全てを暖かに、春日が注がれている。遅過ぎた春は、ようやくこの幻想郷に根を下ろした。
平生の彼女であれば、春が来る頃には次の冬まで、静かで涼しい場所に籠もっている。ところが、今はまだ春眠にさえ身をあずけずに居た。でもさすがに野原はもう暑いように感じられるので、霧の湖のほとりで一人、木陰に身をゆだねている。まだ冷たさの残る岩場に腰を下ろし、つまらなさそうに足をぶらぶらと揺らしている。
一つ、気に掛かる事がある。腰元に掲げた皮袋から、その気に掛かる代物を取り出して、まじまじと見据えた。「Bowie」と記された、恐らく日用品と思しき、実用性を備えた無骨なナイフ。それは昨日、彼女がからかい半分に手を出した、白銀のメイドが残していったものだ。
昨日こそ、それは戦利品のようにも思えたけれど、考えてみれば、彼女が彼女の都合で、悔しさまぎれにかすめ盗ったも同然である。そう考えると、どうにも居心地が悪いような気がして、昨晩は思うように寝付けなかった。
今にして思えば、その居心地の悪さは、彼女がこのナイフを、自分の落ちた雪の下、背中の裏に隠した時から感じていたのだろう。だから彼女は、それをあえてあの氷精に見せびらかしたのだ。きっとあの氷精なら、そうしたものを欲しがって、仲間の妖精に自慢をするのに違いない。ところが、全く当てが外れてしまった。
氷精は、その戦利品はあんたが得たものなんだから、悔しいけれどあんたのものよ、存分に他の妖怪に見せびらかしてやんなよ。何か言うようなら、あたいが話をつけてやるからさ、と答えた。
全く、そういう所はがぜん律儀な質で困る。普段は馬鹿なのに。彼女は全く悪びれず、目の前に広がる霧の湖に棲むという湖上の氷精を、そう評した。その感情は、彼女にとっては至極真っ当なものだったし、氷精の質も、それはそうなのだ。
彼女は妖怪であるが故に、人間の理解を超える奇っ怪で異常な現象を引き起こす質じゃなきゃいけない。だから彼女は、他者に迷惑を掛けてこそ、彼女たり得るとも言える。
そして、氷精は妖精であるが故に、自然のなりゆきから大きく外れることはしない。自重するというよりは、そうした考えに及ばないから、氷精は自分のものではないこのナイフを欲しがらなかったのだろう。
つまり、妖怪は小狡いもので、妖精は馬鹿なものなのだ。彼女は、そうした立場としての妖怪と妖精を認識したつもりで、この幻想郷に居る。だから、そうした感情も悪びれず表に出すし、それをはばかることはしない。
ただそれでも、気になる。こんなお荷物を抱えたまま、次の冬までおちおち寝ちゃ居られない。寝付かれない。眠りが浅くなる。寝覚めが悪い。何でこんな物をかすめちまったんだろう。別に、欲しくてそうしたわけじゃないんだけれど。大体、こんな可愛げの無いナイフなんか、使い所が無いじゃないの。メイドってこんな物が必要な仕事だったかしらん。便箋を切ろうものなら、はずみで机を真二つにしかねないわ。
ああ、何だか考えるのも厭になってきた。昨日で冬も終わってしまったし、どうにも暑くていけない。いっそ捨てちまおうかしらん。この霧の湖に、ぽいと投げ込めば、誰にも解らないわ。でも、うん。やっぱり、解決しないわね。物があるから気になるのではないもの。ああもう、厄介ねえ。
彼女はナイフを膝に起き、遮二無二頭を掻きむしった。わさわさと揺れる、白く透き通った髪の毛は、それでも崩れる事なく彼女の首元に、ふわりと戻る。冬場の彼女であれば、それはそんなに気になるものでもないのだろうけれど、冬が過ぎて、突然春の盛りに放り出された彼女には、それが鬱陶しくてたまらなく感じた。その鬱陶しさは、今彼女の膝に置かれているナイフがもたらしているように思えて、彼女は全く恨めしく、それを睨んだ。
ほどなくして、彼女の周りが冷気に包まれていくのを感じ、彼女は顔を上げた。彼女の足元の少し先の木陰が丁度被るか被らないかの辺りに、氷精がぼんやりと立っていた。自分の顔と同じくらいの大きさの氷を両手で持ち、何も考えていない顔で首だけをはすに構え、彼女を見ている。氷の中には、蛙が白いお腹を見せていた。
彼女にとっては冷気があるのは有り難いのだけれど、どうもこの氷精の放つ冷気は異質で、心地良くない。彼女は冬の妖怪で、冬の寒気にこそ慣れているのだけれど、氷精のそれは、自然の冷気を無理矢理強くしたようで、自然の理から若干外れている。
この氷精のそういうところも、彼女は苦手だ。だから彼女は、目の前に現れた氷精に見つめられて、きまりが悪いように感じるのを、それがためだと考えた。
今ひとたび、白桃色の花びらが、どこからともなく舞い降りてきた。氷精はそれを目で追い、彼女は氷精から顔を背けた。
◇◇◇◇◇◇
それから、幾日かが過ぎた。レティ・ホワイトロックは、まだ浅い眠りを繰り返しながら、一日おきに顕界に現れては、小春日に灼かれて憂鬱になる日々を過ごしていた。腰元には皮袋を掲げている。皮袋の中には、やはり彼女を悩ませる頭痛の種が納められていた。
これは罰なのかも知れない、と彼女は思った。それは妖怪の道としての外道の罰だ。
彼女は冬の妖怪で、それは冬に関係してこそ在る。例えば荒れ狂い猛りすさび、温もりある者を屠る吹雪。例えば立枯れの老木に凍て付き、霜と雪の化け物に魅せる樹氷。例えばしずしずと、しんしんと、音無き音で野山をめかす幻惑の粉雪。例えば華やかに咲き乱れて、冬の陰気を打ち払う霜の華。人間がそれを、まるで不思議なものと思えば、そこに彼女は在り、彼女の冬の妖怪としての道がある。けれど、そのいずれを取っても、彼女が人間の持つ道具をかすめ盗る道理は無い。
尤も、雪は野山を覆い隠しはする。野山のみならず、雪は人里にも降り立ち、人間の文化の様々なものを覆い隠す。だけれど、春になれば雪は融け、野山も、人里も、元の通りに戻される。隠すだけで、無くしはしない。冬はちゃんと皆に失せ物をことごとく返している──いや、あるいは、それはやはり彼女の考えるところの外道であり、罰なのかも知れない。
雪は野山を、人里を覆い隠して、人間をあざける。そのうえで、吹雪が、樹氷が彼らを驚かし、粉雪が、霜の華が彼らを惑わす。そうして罪業を重ねた結果、春の陽気にその身を焼かれて、雪は融かされてしまうのかも知れない。雪に似た白桃色の花びらは、罰を受けた冬の雪の、あまたの墓標なのかも知れない。
そうであれ、そうでなくとも。いずれ彼女は、ここにこうして居る事を、罰なのだとしか考えられなかった。
彼女は遠く広がる野原の、まばらに生える木陰に身を寄せていた。霧の湖のほうが涼しいし、まだ居心地が良いのだけれど、どうにもあの氷精の見つめる顔が脳裏をちらつき、行く気になれなかった。
時刻は彼誰時に近い。夕焼けの空はいつかのように燃え立つかのごとく朱く、幻想郷はいつかのように見事な金色に輝いていた。ただ惜しむらくは、その金色は彼女の好む静謐なものとはまるで異なる、生気と活気に満ちあふれた、熱く灼けるような金色だった。木々が、草花が春風にざざめく轟き。虫が、蛙が陽気に誘われる息吹。土が、空が雪解けに闊達となる響き。春を謳歌する幻想郷の、全てが彼女と全く相容れないように感じて、彼女は顔をしかめた。
いつまでこうして居れば良いんだろう。いつになれば罰は下るんだろう。明日か、明後日か、それとも。私も、雪のように融けてしまわなければいけないんだろうか。
彼女は、自分の考えに心細くなり、膝を抱えてうずくまった。連日の睡眠不足に、少々気が参っていた。だけれど、そうした考えをうちやって、例年のごとくに静かで涼しい場所に籠もるには、腰元の皮袋がいささか重いように感じたし、それをねぐらの隅にやったところで、その白銀がいささか眩しいように感じた。
ここ幾日かのうちで、極力それの事を考えないようにして、長めの睡眠を取ろうと努めたこともあった。けれども、代わりに胸の内に生じたものは、最後に霧の湖に行った折に見かけた、あの氷精の何も考えていないような馬鹿面だった。どうしてそれが浮かんだのか、彼女にも解らなかった。けれど、あの馬鹿の顔が浮かべば浮かぶほど、それは彼女に対し繰り言を述べているように思われて、否が応にも彼女はそれに耳を傾けなければいられなかった。
曰く、あんたはここで何をしてるの。曰く、どうしてあんたがまだ居るのさ。曰く、まだそんなもの持っているの。
曰く、ぜんたいお前はいつまでそうしているつもりか。
そのどれも、あの馬鹿が実際に紡いだ言葉ではない。最後に霧の湖で見掛けた時も、あの馬鹿は白桃色の花びらに心奪われて、馬鹿のようにどこかへ行ってしまった。
だからそれは、彼女の疲れた頭が紡いだ、しかし全くその通りの、素直な言葉だった。ただ、その言葉を発したものがあの馬鹿の顔だったので、結局彼女はその晩も、あの馬鹿に胸をむかむかさせながら、浅い眠りに落ちただけだった。
結局のところ何をなせば良いのかは、彼女自身にも解り切っている。ただそれを今日まで引きずってきたのは、ひとえに彼女の怠惰が故だ。何か都合の悪いわけもない。誰のせいなわけでもない。ただそれは、時が経ち、日を経るにしたがって重荷になるがごとく、ナイフをかすめ盗った事実が重大なことのように感じられて、結果足を運ぶのが億劫になっただけだ。
確かに彼女は、かの白銀のメイドがどこに住むものかを知らない。けれどそれは、あの氷精に聞けばそれで解る。そのメイドに対して後ろ暗いところはある。けれどそれは、合って話さなければ変わらない。そのメイドに何と説明すれば良いのか解らない。けれどそれは、自分を含めて誰に問うたところで、明確な答えなど有りはしない。
だから、後は動くだけだ。彼女はそう思い、春の陽炎のように、ゆらりと立ち上がった。当然ながら気は乗らない。足取りも重く、考えもまとまっていない。だけれどこれは罰だ。冬が過ぎて春になるには、その罰は清算されなければいけない。淡雪の雪解けのごとく、彼女は彼女が覆い隠したものを元の通りに戻さなければいけない。
運命。
そういえば、かの紅魔館には、運命を操るという幼い吸血鬼が棲んでいると、どこかで聞いた事がある。そこには人間も居て、吸血鬼に忠誠を尽くし、従者として影となり生きていると聞いたことがある。その白銀のメイドは、さては彼の従者だったか。
運命というのは、天命によって定められた、人の上に訪れる巡り合わせだ。だからそれは、そのメイドにこそ訪れた巡り合わせに違いない。だけれど彼女は、その運命というやつが、どうしてか自分の目の前に下りてきて、これがお前の天命だと言われたように感じ、それを全く当然であるように受け入れて疑わなかった。
霧の湖へ向かおうと彼女が顔を上げた先に、そのメイドは居た。金色の野に立ち、春風にざざめく草花に白い足を洗われ、白銀の色をなびかせて、腕組みをして彼女を見ていた。
黙し、二人は対峙した。辺りは黄昏の朱に燃え立ち、ゆらゆらとゆらめいて二人を包囲した。木々が、草花が灼けた大地にざざめき、焔を做す。虫が、蛙が焔に炙られ、絶え絶えの息を吐く。土が、空が炙られて燻り、黄昏をより朱く燃え立たせる。彼女は今まさに、断罪を受けていた。
「冬の妖怪が珍しいわね。貴女が使い魔……では、ないわよねえ。亡霊で納涼中かしら」
黒幕の次は、使い魔にされそうになった。まるで何の事やら解らないけれど、またもそのメイドは何か急いでいるようにしていた。交わす言葉や、時候は似ても似つかない。けれど、奇しくも二人はまた、同じ場所で再会した。それを彼女に与えられた運命と言わず、何と言えば良い。それを彼女に対する断罪と言わず、何と言えば良い。我知らず、彼女は腰元の皮袋から白銀のナイフを取り出し、まじまじと見つめた。
片刃で反りの無いブレードは、幅が広めで、さほど肉厚な感じはしない。けれど、素人目に見てもこしらえは確りしており、折れたり曲がったりはしそうにない。その丈夫さを弁ずるかのように、ハンドルは幾分か太めで握り込み易く、力いっぱい振るっても滑らず、手にしっくりと馴染む。ブレードとハンドルの間に上下に伸びたヒルトの、ブレードを仰ぐさまなど、美しくも逞しい趣がある。
人の持つ道具には、人の心が宿るという。このナイフを持つ人間は、冷徹に迷う事なく在るその心に、何者にも折れず自分を曲げない信念がある。主従を絶対として、主に忠実に、逆らわず、厭われずに馴染み、けれど己をそこに示して生きている。そうした自身をこそ何者よりも尊重して、仰ぎ見、誇らしげに胸を張り腕を広げたさまはまさに、威風堂々。
本人を目の当たりにして、彼女は改めてそう思った。そのナイフは、疑いなく目の前に居る白銀のメイドそのものであり、目の前のメイドは、すべからく彼女の手中にある白銀のナイフそのものであるように感じた。もう、何を迷う事もない。彼女はやはり、彼女が覆い隠したものは、元の通りに戻さなければいけない、と思った。
彼女は一度、目の前のメイドを見た。そして躊躇なく、ナイフを投げた。それは緩やかな放物線を描き、ゆっくりと回転をして、目の前のメイドに届いた。
白銀のメイドはなおも彼女を見ていた。そして躊躇わず、ナイフを受けた。それは元からそうだったかのように、そのメイドの差し出す手にハンドルを添えて、手の内に納まった。
渡されたナイフをしばし見つめ、メイドは腰の後ろにそれをしまった。そうして改めて彼女を見つめ返し、爽やかな笑顔で──
まるで重い鉛玉が心臓を打ち抜くような、鈍く鋭い音を彼女の耳元に残し、白銀のメイドはかき消えた。その音は彼女の頬をかすめるように振動を伝え、夕闇の近付く野原の、ことごとくを凍て付かせるように震わして、同じくかき消えた。その刹那に、彼女は確かに冬のそれと同じような寒気を心の内に覚え、驚きその場へ腰を落とした。それは肉体的な寒さではなく、心理的な寒さだった。
それは刹那の事だったのか、悠久の事だったのか。正体を取り戻した彼女には既に判断はできなかったが、辺りはもう宵が訪れ、巽の空には不知夜月が顔を出し、藍色の野原に煌々としていた。
呆けた頭で彼女は、あの白銀のメイドはやはり、雪雲だったのかも知れないと思った。
その雪雲は、私の心の内に、過ぎてしまった冬の名残りを届けてくれたのじゃないかしらん。断罪を受けた私は、その場で淡雪の融けるごとくに、くずおれて胡乱になったけれど、最後にまた巡る冬を想わせてくれたのじゃないかしらん。
彼女はようやく、彼女の持つ罪業を清算できたような気がした。立ち上がりしな、身を寄せていた木に突き立つナイフの白銀と、それにはりつけられた一枚の便箋に初めて気付いた。
「次の冬に、このナイフを紅魔館まで返しに入らっしゃい。改めて、紅茶でお持て成し致しますわ」
彼女の想像は、その便箋を以て確信に換えられた。そうして今、改めてようやく、彼女の冬は終わりを告げたように感じた。彼女はもう、何を悩む事もなく平生で居られた。
彼女の立ち去った後に、白桃色の花びらがまた一枚、音も無く舞い降りた。月明かりに照らされて映えるそれは、冬の墓標に違いなかった。
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