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The Killer's Project AnthologyⅡ  作者: チーム殺し屋
選択曲『If Only』
2/6

ラスト・ラブレター

作:長谷川 ※R15


愛するアンジェラへ


 アンジェラ。君の手紙を読んだよ。

 正直驚いた。まさかあれがすべて君に仕組まれたことだったとはね。


 君は元々イタズラ好きなところがあったけど、さすがにあそこまでするとは思わなかった。そりゃアルバーノだって怒るさ。彼は、君には脚本家の才能があったんだって言ってたけどね。


 君がいなくなってもうしばらくが経つ。

 俺がやり残した最後の仕事はあと少しで終わりそうだ。

 これですべてが許されるとは思ってないし、俺が過去に犯した罪が帳消しになることもないだろう。

 だけど俺だって無傷じゃないさ。何せ俺が君に内緒でこっそり貯めていた金は、君と二人の家を買うためのものだったんだ。その貯金を崩すときの惨めさったら。

 なあ、アンジェラ。

 今、俺を笑ったろう?


 まあ、いいさ。

 どんな形であれ、君が今も笑っているならそれでいい。

 俺は君の笑った顔がとびきり好きだった。

 君が、煙草を持つ俺の手が好きだと言ったように。


 それにしても、まさかこの俺が直筆のラブレターを書く日が来るなんて思わなかったな。

 本当は今回もメールで返したかったけど、それじゃ君が怒るから。


 なあ、アンジェラ。

 俺も君に伝えたいことがたくさんある。

 だけど君に賛成だ。

 この想いは言葉にしちゃいけない。

 俺たちの間にはもっと話し合わなければならないことがたくさんあったけど、本当に伝えるべきことはもうちゃんと伝わってる。

 そうだろ?

 だから俺も一言だけ。


 アンジェラ。

 君を愛してる。


 俺は今まで君のわがままなら何だって聞いてきた。

 だから今回もそうしよう。

 初めからやり直すために。



 もう一度、君を見初めに行くよ。








挿絵(By みてみん)








 月曜の朝だというのに、居間のテレビは早朝から辛気臭いニュースを流していた。

 色褪せたブラウン管の向こうで、神妙な顔をしたニュースキャスターがしかつめらしく原稿を読み上げている。大開口の窓から注ぐ春の陽射しとは裏腹に、スタジオの空気はキャスターが着ている地味なスーツの色も相俟って、まるで真冬のロンドンのよう。


『昨夜タオルミナの海岸で見つかった男性の遺体は、住所不定のトンマーゾ・カルルッチさん二十七歳のものと判明。カルルッチさんの遺体の胸部には弾創があり、何者かがカルルッチさんを銃で殺害後、遺体を海に遺棄したものと見られています――』


 あまりにも穏やかな三月の陽気と、休日明けの気怠さの中で俺はあくびを噛み殺す。そうして広げた新聞の紙面には、たった今目の前のテレビが吐き出しているのと同じ事件がでかでかと掲げられていた。


 被害者カルルッチに多額の借金。

 マフィアとトラブルか。

 かつて麻薬の密売に関与?


 憶測だか事実だか定かでない文字が見出しに踊る。俺はあからさまに退屈なものを見る目でその記事を見送ると、さっさと次の紙面へ移動した。

 と、そこへ、


「――サリー。朝食ができたから持っていってちょうだい」


 カウンターの向こう、この季節にぴったりのやわらかな声が俺を呼ぶ。俺はそちらを振り向いて、思わずふっと微笑んだ。


 そこでは内巻きにしたモカ色の髪を揺らしながら、アンジェラが朝食の準備に勤しんでいる。彼女は今朝もうまいエスプレッソを淹れようと、コンロの上のマキネッタにご執心だ。

 だから俺は新聞を置いて立ち上がり、彼女の代わりに朝食のプレートを運ぼうとする。そのときふと、カウンターの隅に置かれた見慣れない本に目が行った。


「アンジェラ、これは?」

「ん?」


 まるで子供みたいに大きな目が、くるりと動いて俺を見る。よく磨かれた黒真珠のような瞳は今日も健在だ。


「ああ、それ。昨日届いたの」

「誰の本?」

日本ジャッポーネの古い作家の本らしいわ。この間ミレージ神父に勧められてね」

「ふーん。『蜘蛛の糸』?」

「短編集よ。ちょっと暗い話。でも人生の教訓になるって」

「俺は説教臭い話は聖書だけで十分だ」

「もう、またそんな罰当たりなこと言って。あなたもカンダタになるわよ」

「カンダタ?」

「地獄に堕ちるってこと」


 冗談めかして笑うアンジェラに俺も笑い返して、二人分のプレートをテーブルへ運んだ。今朝の食事は生クリームとジャムをたっぷり挟んだコルネットに甘いカボチャのスープ。チェードロの砂糖漬け。そしてアンジェラの特製エスプレッソだ。


 俺は陰鬱なニュースばかり垂れ流すテレビを切って窓を開ける。途端に潮の匂いを孕んだ風がふわりと吹き込み、アンジェラお気に入りのクリーム色のカーテンを揺らした。

 その春風を客人として迎えながら席につき、アンジェラと二人、いつものように朝食を食べる。

 穏やかな朝。窓の向こうの海も今日はご機嫌だ。


「ねえ、サリー」

「ん?」

「今度の日曜、また二人で出かけない?」

「昨日も君の買い物に付き合ったばかりだろ?」

「観たい映画があるのよ。『アンジェラ』っていうの」

「アンジェラ?」

「映画の題名。私の名前と一緒なんて素敵でしょ? サリー、ずいぶん前にこの町で撮られた『グラン・ブルー』って映画を知ってる?」

「ああ、ジャン・レノの」

「そう。あの映画を撮ったのと同じ監督の作品なのよ。パリを舞台にした冴えないペテン師と、そのペテン師の前に現れた謎の美女のお話」

「その美女が〝アンジェラ〟?」

そうよスィ

「面白いのか、それ?」

「フランスでの評判は良かったみたいよ」

「ってことはメロドラマか」

「サリー。それは偏見」

「分かったよ。君が観たいって言うなら」

「本当!? ありがとうグラーツィエ!」


 彼女の頼みを俺が断れるはずもないと知っていながら、アンジェラは無邪気に喜ぶ。こういうところもまるで夜を知らない少女みたいだ。


 彼女のそういう一面を見る度に、俺たちそろそろいい歳だろう?と思わなくもない。けれど俺は彼女のそういうところに惹かれている。どうしようもなく。

 いや、むしろ結婚してから三年、アンジェラのこういう無邪気さはますます顕著になっているような気がする。出会った頃の彼女は何となく陰鬱な感じで、笑っていてもどこか影が射している、そんな女だった。


 そのアンジェラが今ではよく笑い、よく喋る。彼女の笑顔から暗いかげりはなくなった。

 俺はそれを素直に嬉しいと思うし、今の彼女も変わらず愛している。あの頃いつも彼女の笑顔を覆っていた靄が一体何だったのか、その正体は今も分からないままだけど。


「それじゃあ、行ってくるよ」

「ええ、いってらっしゃい。気をつけて」


 朝九時。今日も出勤・・のために俺はアパートをあとにする。

 玄関まで見送りに来たアンジェラが、いつものようにクイッと顎を出した。俺はその唇にお決まりのキスをして、アンジェラの髪と同じ色のドアを開ける。


「チャオ!」


 頭上から、手を振るアンジェラの声がした。俺は二階の窓から顔を出した彼女に手を挙げて、路駐していたブレラに乗り込んでいく。

 一羽のカモメが「お先に」とでも言うように、坂道の先へ飛び去った。


 ここはシチリア州タオルミナ。


 眼下にイオニア海を望む、美しい崖の町だ。



              ×   ×   ×



 銃声と、閃光。


 飛沫いた血が若干顔にかかったが、夜だったのでさして気にかけなかった。


 それまで細い路地に響いていた命乞いの声は止み、夜が本来の姿を取り戻す。俺は冷たい石畳に倒れた男の懐をあさり、安っぽい黒の財布を抜き取った。

 が、中身はほとんど空同然。分かってはいたが思わず舌打ちし、死体に一発蹴りを見舞って、ひっくり返してから担ぎ上げる。


 タオルミナは坂と階段が多い。暗くて足元がおぼつかない深夜、大の男を担いでその町を移動するのはなかなか骨が折れたが、途中で死体は車に詰め込み、そこから海岸まで走って男を捨てた。


 そうして巨大な闇溜まりに呑まれた男こそ、今朝のニュースで一躍有名人となったトンマーゾ・カルルッチだ。


 カルルッチはイタリア本土からシチリアへ逃げてきた、ナポリの組織の下っ端だった。それが組織に納めるはずの金を横領し、その罪を咎められ、命を狙われてこの町へ逃亡してきたのだ。

 マフィアの巣窟と謳われる南イタリアで、このタオルミナは唯一闇の匂いが薄いと言われる。シチリア屈指のリゾート地であるタオルミナは夏になるとマフィアたちの避暑地となるため、裏社会の暗黙の了解として、この町に争いごとは持ち込まないという共通認識が持たれているのだ。


 カルルッチはそこにつけ込んだ。やつもマフィアの端くれとして、この町で銃をぶっ放すということが何を意味するかよくよく知っていたから、ここを隠れ蓑に細々と露命をつないでいた。


 だが、タオルミナにだってマフィアはいる。


 それが俺の所属する組織、マグラッシ・ファミリーだ。


「――サリー」


 手持ち無沙汰に煙草を吹かし、いつもの喫茶店バールで窓の外をぼんやり眺めていると、ようやくにして俺を呼ぶ声が上がった。

 入り口で揺れるベルの音につられて目をやれば、その先から背が高く恰幅のいい男が手を上げてやってくる。

 アルバーノ・ラヴェニーニ。

 マグラッシ・ファミリー傘下の情報屋であり、俺の育ての親でもある男だ。


「遅いぞ、アルバーノ。もう十時半だ」

「いや、悪い悪い。例のカルルッチの件をどうするか、上が揉めててな。それで遅くなった」

「俺の報酬から、カルルッチが持ち逃げした金額を差し引けとでも?」

「そうじゃないさ。ただ、カルルッチは素寒貧で金の回収は無理だったと伝えても、ナポリ野郎どもが納得しないみたいでな。うちの組織がカルルッチの奪った金をネコババしたんじゃないかと疑ってるらしい」

「ああ、いかにもナポリ人が言いそうなことだ。だが最初にネズミ駆除を依頼してきたのはやつらの方だろ?」

「まあ、そうなんだがな。上はそこまで言うなら依頼料は返すと言ったそうなんだが、それじゃあカルルッチが持ち逃げした額には足りないとごねてるらしい。だからナポリ人の言うことなんか聞くもんじゃねえと、俺は最初に言ったんだがね」


 向かいの席につくなり、アルバーノもそう言って煙草を咥えた。相当気疲れする話し合いだったのか、そうして渋い顔をしている初老の男に、俺は口の端をちょっとだけ上げてライターを差し出す。

 アルバーノは礼を言ってその火を受け取ると、このところすっかり灰色になってしまった髪を掻き上げて煙を吐いた。

 おまけにでっぷりと突き出た腹。その腹をこうして見せつけられる度に、この人もいよいよ老いたのだなと、俺は少しばかり物寂しい気持ちになる。


「で、結局俺の報酬は?」

「お前、最近金にうるさくなったな。昔はそんな紙切れに興味はないとか、こましゃくれたことを言ってたくせに」

「あんただって既婚者なら、奥さんには毎日うまいもんを食わせてやりたいと思うだろ?」

「いや、うちのはちょっと肥えすぎた。これ以上太らせるのは夫として忍びない」

「よっぽどいいものを食わせてきたんだな。って、あんたの腹が言ってる」

「余計なお世話だよ。ほら、きっちり満額もらってきてやったんだ、感謝しな」


 面白くなさそうな顔をしながら吐き捨てて、アルバーノは懐から掴み出したユーロ札を無造作にテーブルの上へ放った。俺は「どうも」と言ってその金を受け取ると、念のために金額が合っているかどうかの確認をする。

 アルバーノは向かいから呆れたようにそれを見ていたが、やがてカウンターにいる男に水を頼んだ。

 ちなみにその男――無精髭のダンテもまたファミリーの一員だ。このバールは我らがマグラッシ・ファミリーの所有物。だからこそこうしておおっぴらに仕事・・の話ができる。もちろん一般の客がいないときに限り、だが。


「……よし。確かに八千ユーロ」

「満足したか?」

「ああ、おかげさまで」

「それは良かった。ところで次の仕事の話なんだが……」

「待て、アルバーノ。その前に、例の話はどうなった?」


 と、ときにアルバーノがさらりと〝次の仕事〟などと言い出したのを聞き咎め、俺はすかさずそう尋ねた。

 するとアルバーノは途端に苦い顔をする。わずかに細められた青緑の瞳は、まるで不良息子に手を焼く父親のそれだ。


「だから次の仕事の話をするんだ、サルヴァトーレ」

「それはつまり、答えは〝〟ってことか?」

「お前、喉渇いてないか?」

「話を逸らすなよ」

「実は最近、ジョバンニ通りの方にいい葡萄酒ヴィーノを仕入れる店ができたらしいんだ。ちょっとそこまで行ってみないか?」


 先程ダンテが運んできてくれたグラスをすっかり空にして、アルバーノは言う。ヴィーノだったらここでも飲めるだろう、と思いながら俺がちらと横目に見れば、案の定ダンテが面白くなさそうな顔をしていた(まあ、当然だ。ヴィーノならこの店だってダンテが選りすぐりのものを仕入れているのだから)。


 しかしダンテには悪いが、俺はアルバーノのこの誘いを断るわけにはいかない。要するにこの男は〝詳しい話は外でする〟と言っているのだ。

 俺は不承不承といったていを装いながら腰を上げ、アルバーノと共にボックス席を出た。そうしてダンテに軽く挨拶し、通い慣れたバールをあとにする。


 どうやらアルバーノは歩きで来たらしいので、俺は外に停めていた自分の車に彼を招き入れた。

 シートベルトを締め、エンジンをかける。

 黒い車体が低い唸りを上げて震えると同時に、助手席に座ったアルバーノが深いため息をつくのが聞こえた。


「なあ、サリー。お前には酷な話だが……」

「許可は下りなかったんだな?」

「いや、そうじゃない。……上にはまだ話してないんだ」

「どうして? 今回の仕事が終わったら上に掛け合うって約束だったろう?」


 思わずなじるような口調で言えば、アルバーノは俺を見ず、ただゆっくりと首を振った。

 それが拒絶なのか何なのか俺には分かりかね、更に言い募ろうとしたところで、突然アルバーノが一通の封筒を差し出してくる。


「次の標的だ」

「アルバーノ」

「黙って従え。どうしても断るわけにはいかない依頼だ」

「そうやって死ぬまで俺を飼い殺すつもりか。俺はもう十分組織のために働いただろう?」

「サルヴァトーレ。お前は信じないかもしれんがな、俺だってお前のことは実の息子のように思ってる。できることなら願いを叶えてやりたいさ。だがな、父親だからって息子の願いを何でも叶えてやれるかと言われたらそいつは無理だ。そんなことができるのは、父親は父親でもジェズ・クリストの父親くらいさ」

「あんた、いつから伝道師になったんだ?」

「いいから聞け。お前が急にこの稼業から足を洗いたいなんて言い出した理由は分かる。お前はアンジェラを心から愛してるんだ。そうだろう?」

「……ああ、そうだよ」

「なら、今は黙ってこの依頼を受けろ。理由は中身を見れば分かる。ただしここでは見るな。家に帰って、一人になったときにでも確認しろ」

「どうして今見たら駄目なんだ?」

「お前、銃を持ってるだろ?」

「ああ。持ってるけど、それが?」

「だからだよ。ほら、分かったらさっさと車を出せ。ダンテに怪しまれる」


 まったく意味が分からず、俺は露骨に眉をひそめて、中途半端に受け取ってしまった封筒と隣のアルバーノとを見比べた。

 だがアルバーノの言うとおり、店の中からダンテの視線を感じる。ちらりとバックミラーを確認すれば、グラスを拭きながら怪訝そうにこちらを見ている黒い瞳と目が合った。


 仕方なく封筒を懐に捩じ込んだ俺は、前を向いてエンジンをかける。

 もう一度バックミラーを確認し、鏡を見たのは髪を整えるためですよとでも言いたげに、癖の強い黒髪をサッと後ろへ撫でつけた。

 そうしていざハンドルを握り、目の前の坂をゆっくりと下りていく。


 結局、アルバーノが言っていた店には寄らなかった。


 フロントガラスから注ぐ春の陽射しが、俺の心に届く前に温かさを失っていく。



              ×   ×   ×



 俺がアンジェラと出会ったのは、ベトナムの首都ハノイでのことだった。


 四年前の冬。俺は組織を裏切ってベトナムまで逃げた大馬鹿野郎ストロンツォを追って、単身ハノイへ渡った。現地には組織が手を回した協力者がいたから、物心ついた頃にはアルバーノに拾われ、裏社会にどっぷりと浸かって生きてきた俺にとって、裏切り者を一人粛清する程度のことは造作もなかった。


 その裏切り者のアホ面に鉛玉を撃ち込んだ帰り道、俺は観光客はおろか地元民さえもあまり寄りつかないという界隈にふらりと入って、そこで見つけたオンボロ酒場に立ち寄った。

 何故その店を選んだか。理由は特にない。

 とりあえず酒が飲みたかった。

 それもなるべく人目につかず、一人で静かに、だ。


「――すみませんシンローイ……」


 その望みを叶えるため、薄汚れたカウンターに席を取り、ちょうど一杯目の酒が運ばれてきた頃。

 不意に店の入り口からたどたどしいベトナム語が聞こえてきて、向かい合っていた俺と店主は同時にそちらを振り向いた。

 立っていたのは、一目で欧米人と分かる白人の女。


 それがアンジェラだった。


 アンジェラは最初、頼りなく明滅する照明の下、まるで何かに怯えるように肩を竦めて立ち尽くしていた。その顔面は薄暗い店内でもはっきりと分かるほど蒼白で、体も震えていたように思う。

 それを見たベトナム人の店主は怪訝な顔で彼女を見つめ、次いで俺を振り向いて言った。「あんたの連れかングォイ・クェン・クァイン・ハー?」と。

 店主がそう思ったのも無理はない。何せ地元民も寄りつかないような裏路地の酒場に、旅行者と思しい欧米人が二人続けて示し合わせたように現れたのだ。

 けれども俺は「違うホン」、と答えた。こんな場所に欧米人がいるなんて珍しいな、と思いつつ、正直それ以上の興味は湧かなかった。


 ところがそのとき、俺を見つけて血相を変えた彼女が、ヒールを鳴らしながらものすごい勢いで近づいてきたのだ。

 そして言った。「英語で話せますかキャン・ユー・スピーク・イングリッシュ?」と。


 彼女がイタリア人だと気づいたのはそのときだ。英語の発音にイタリアーナ独特の訛りがあると思った。だから、


「英語でも、イタリア語でも」


 俺が母国語でそう答えたときのアンジェラの目の輝きを、一体何と表現すればいいのか。

 たとえるならあれは驚きとか喜びなどと呼ぶよりも、瞳の中で彼女の命が燃え上がったかのような、そんな感じだった。

 そしてそのまま、燃えに燃えて一瞬で彼女を燃やし尽くしてしまいそうな。

 そんな危うい輝きが、当時の彼女にはあった。

 まるで彼女自身、そうして燃え尽きることを望んでいたかのように。


「すみません、助けて下さい。実は道に迷ってしまって……」


 俺との出会いをひとしきり神に感謝した彼女は、そう言って俺に助けを求めた。当時彼女は一人でベトナムを訪れていたらしく、他に頼れる相手がいないのだと懇願された。

 出身を聞けば、ローマだという。十代の頃から色々とやんちゃをして、両親とは絶縁。今は男にフラれた傷を癒やすための感傷旅行中なのだと、こちらが訊いてもいないのに彼女はペラペラと捲し立てた。


 その饒舌さがどこか引っかからなかったと言えば嘘になる。

 ついでに言えば、俺はカタギとつるむのが趣味じゃない。


 けれどもその晩、俺は親切にも彼女を宿泊先のホテルまで送ってやった。あのときどうして彼女の頼みを聞き入れようと思ったのか、その理由は今思い返してみてもよく分からない。

 ただ一つだけ言えることは、放っておけなかったとか、下心があったとか、そんな単純な理由ではなかったはずだと言うこと。

 俺は……確かめたかったのだろうか?

 あのときアンジェラの瞳の中で燃えていたものの正体を。


「ねえ、お礼がしたいわ。明日も会える?」


 だからホテルの前で別れる間際、彼女にそう言われたときも俺は頷いてしまっていた。

 そうして自分の連絡先を教え、翌日も彼女と会い、二人で異国の街を歩いた。

 アンジェラは貼りつけたように笑い、ぎこちなくはしゃぎ、そうしながら瞳の中で絶えずあの炎を燃やしていた。

 そので時折俺を見るのだ。じっと、何かを渇望するように。


「要はそのときからお前に惚れてたんだろう」


 と、その話をすると決まってアルバーノは言う。

 だけど違うんだ。

 あのはそんな類のものじゃなかった。


 まるで求めるもののために、落ちると分かっている吊り橋へ敢えて踏み出そうとしているような。


 そんな瞳だったんだ――。


「……」


 そのアンジェラが、今ではとても穏やかな目をしている。

 あの頃何度も俺の心を騒がせた炎はもうどこにもない。

 今、あの炎の行方を尋ねれば、アンジェラはきっと「あなたが消したのよ」と笑うだろう。

 だから俺は決めたんだ。

 殺し屋を辞め、残りの人生を彼女のために捧げようと。


 なのに。


 なのに――。


「どういうことだ、これは……」


 唇の間から思わず呻きが漏れ、俺は手にした書類を握り締める。クシャクシャと紙が悲鳴を上げて文字が歪み、もはや書かれている内容は読み取れない。

 だが俺はそうする以外に、全身に走る震えと激情を堪える手段を知らなかった。


 昼間、アルバーノから受け取った次の仕事ころしの資料。


 そこには俺の妻の名前と、いつ撮られたのかも分からない彼女の写真が添えられている。


「――サリー?」


 居間の方から、俺を呼ぶアンジェラの声がした。

 ハッとしてベッドサイドに置かれた時計を見る。

 午後八時二十二分。夕食の時間だ。


「サリー? 寝てるの?」

「いや、今行く」


 上擦りそうになる声を何とか平坦に整えて、俺は寝室からそう返した。そうしながらたった今握り潰したばかりの紙屑をジャケットの裏へと突っ込み、更に時計の脇に置いていた携帯を取って立ち上がる。

 サイドテーブルに乗ったランプは消し、暗い部屋を出た。

 俺たちの暮らすアパートはそう広くない。寝室を出ればその先はすぐリビングだ。


「ああ、サリー。良かった、起きてたのね。そこの料理を……って、どうしたの? 顔が真っ青よ」


 壁に並んだブラケットライトが仄暖かく照らし出すリビング。そこに一歩足を踏み入れた途端、俺はアンジェラに呼び止められ、駆け寄ってきた彼女に見上げられた。

 深刻な眼差しが俺の顔の上を彷徨い、頬に手が添えられる。その手がやけに冷たいのは、直前まで洗い物をしていたせいだろう。

 恐らくそれは、俺を安心させるための仕草。しかし今の彼女の体温はただでさえ冷えきった体の芯を更に凍りつかせるようで、正直なところ触れられているとたまらない。


「何かあったの?」

「いや……ちょっと、仕事でトラブルが。すぐ戻るから、外で電話してきても構わないか?」

「ええ、それはいいけど、大丈夫なの?」

「大丈夫、何とかする。君は先に食べててくれ」


 うまく回らない頭でどうにか当たり障りのない言い訳を拈り出し、俺は一旦家を出た。何せアンジェラは俺がマフィアの一員であることを知らないのだ。彼女のいる場所で仕事の話などできるわけがない――ましてや彼女を殺す話など。

 俺は路肩に列を成している車の中から自分の愛車を見つけ出し、飛び込むようにして鍵をかけた。

 ジャケットの裏から例の資料を取り出すと同時に、握り締めてきた携帯からすぐさま電話をかける。相手はもちろん、アルバーノだ。


もしもしプロント?』


 コールは三回。もっと焦らされるかと思ったが、意外と早く電話の向こうから声が返った。

 それも腹が立つほど悠長に構えた声だ。向こうも電話をかけてきたのは俺だとわかっているはずなのに――その苛立ちが、いよいよ俺の感情に火をつける。


「アルバーノ。封筒の中身を見たぞ。これは一体どういうことだ!」


 目の前のハンドルに資料一式を叩きつけ、俺は電話越しに叫んでいた。

 再びグシャッと音を立て、今度はアンジェラの写真が歪む。しかしアルバーノは初めからこうなると分かっていたのだろう、取り乱す気配もない。


『どういうことも何も、見てのとおりだ。ちゃんと一人になってから見たのか?』

「ああ、馬鹿正直にあんたの忠告に従ったさ。こんなことなら昼間あんたの隣で封筒を開けてやるんだった!」

『サリー、お前ができた息子に育ってくれて嬉しいよ。おかげで俺は今こうして女房の特製パスタを食っていられる』

「アルバーノ、悪いが今はあんたの冗談に付き合ってる場合じゃない。この依頼を寄越したのはどこのどいつだ?」

『俺が必要だと判断しない限り、依頼人の情報はお前にも教えない。なあサリー、俺たちはもう十年以上そういう約束でやってきたはずだぞ』

「教える必要がない? 俺の妻が狙われてるのに? あんた、血の掟を破るつもりか」

『じゃあ何だ、今から俺を殺しに来るか? お前がそうしたいなら止めないが、そのときは組織が黙っちゃいないぞ。お前もアンジェラも、結局最後には殺される』

「そんなことは分かってる! ……一体どういうことなんだ、アルバーノ。頼むよ、説明してくれ……」


 いよいよいきり立つことに疲れた俺は、目の前のハンドルにぐったりと上体を預けて呻いた。

 こういうときのアルバーノに、俺は口で勝てた試しがない。普段は軽口ばかり叩いているくせに、いざ仕事・・のこととなると決して融通の利かない男。それがアルバーノだ。


 だがそれを分かっていても、今回ばかりは引き下がるわけにはいかなかった。

 予想もしていなかった事態に、頭がひどく混乱している。アルバーノの声を聞けばいくらか落ち着くかとも思ったが、生憎とそんな気配は一向にない。


『サルヴァトーレ』


 そのとき電話の向こうで、一際低い声が俺を呼んだ。


『すまない。これでも最善は尽くしたんだ。だが俺にはどうにもできなかった。恥じてるよ、自分を』

「……それも分かってる」

『ああ、お前なら分からないはずがないと信じてたさ。だがな、さっきの言葉は本気だぞ』

「さっきの?」

『今回ばかりはな、俺はお前に殺されても仕方がないと思ってる。許してくれとは言わない。その仕事が誰からの依頼で、何故アンジェラが狙われるのか、その理由も言えない』

「……」

『その代わり、だ。たった一つだけ、言うべきことを言うぞ』

「何だ?」

『お前、昼間にこう言ったな。自分の妻を心から愛していると』

「ああ、言った」

『だったら選べ、サリー。愛する女を自分の手で殺してやるか、それとも運命に殺させるか』


 ――俺から言えるのはそれだけだ。

 硬い声でそう言って、アルバーノは電話を切った。

 最後に俺の答えを待つような沈黙があったが、無駄だと悟ったのだろう。数秒後、プツッと何かが切れる音がして、電話は不通音を吐き出し始める。


 俺はハンドルの上に突っ伏したまま、延々とその不通音を聞いていた。


 崖の下で、波が渦巻く音がする。



              ×   ×   ×



 これは報いなのだろうか?


「サリー、急いで! 早くしないと映画が始まっちゃうわ」

「……ああ」


 日曜日。俺はアンジェラと二人、町の中心街にある映画館を目指して歩いていた。

 このあたりの区画は道が細いこともあり、車で入ることができない。代わりにあたりは観光客だらけ。東欧系やアジア系の顔もちらほら見える。

 細い路地の両側に連なる蜂蜜色の壁。色とりどりの鉄の門。

 その間に伸びる階段を縫うように登りながら、俺は前を行くアンジェラに生返事を投げた。


 俺が彼女の殺害依頼を受けてから、明日で一週間になる。

 アルバーノから預かった資料には、〝次の月曜までに片をつけろ〟という走り書きがあった。

 つまり仕事の期限は明日だ。だが俺は未だに最後の一歩を踏み出せずにいる。


 いや、踏み出せるわけがないんだ。


 だって、生まれて初めて愛した女を殺せと言われて、素直に殺せる男がどこにいる?


「ねえ、サリー。どうしたの?」

「ん?」


 人通りの少ない裏路地を抜けて、再び大通りへ。そうして買い物客や観光客でごった返す商店街へ出たところで、不意にアンジェラが尋ねてきた。

 俺の隣に並び、こちらを見上げた二つの黒真珠には不安と不審の色がある。彼女はわずかに眉根を寄せながら、しかし俺の反応を確かめるようにさりげなく腕を絡ませた。


「今日のあなた、何か変よ。話しかけてもどこか上の空だし、さっきからやけに周りを気にしてるし……」

「……そうか? 気のせいだろう」

「気のせいなもんですか。ひょっとして映画、観たくないの?」

「そんなことない。君が観たい映画なら、俺だって観たいさ」

「なら、いいんだけど……」


 明らかに納得していない素振りを見せながら、しかしアンジェラはそれ以上の穿鑿せんさくをしなかった。

 問い詰めるだけ無駄だと察したのだろうか。彼女は依然浮かない表情のまま、俺の肩にそっとモカ色の頭を預ける。


 俺はそんなアンジェラに弁解しようと思ったが、何と声をかけるべきか、すぐに言葉が出てこなかった。


 ――組織から君を殺せと言われているんだ。

 この人混みの中にも、もしかしたら君を狙う殺し屋がいるかもしれない。


 そう告げることができたら、俺の心も少しは軽くなるだろうか?

 俺は右腕に絡むアンジェラをぐっと引き寄せるふりをしながら、腰の後ろ、ジャケットの裏に隠した拳銃ベレッタの感触を確かめる。


『――自分の目をよく見て。何が見える?』


 そのあとアンジェラと共に観た映画は、予想に反して奇想天外な話だった。


 パリのどこか。大きな鏡の前に立った詐欺師のアンドレと、金髪の長身女〝アンジェラ〟がそれぞれ自分と向き合っている。

 上映開始の時間から考えて、ストーリーはそろそろ中盤を過ぎたあたりだ。スクリーンの中のアンジェラはすまし顔で醜男アンドレの肩を抱きながら、愛について滔々と説いている。


『……〝愛してる〟と、口に出すのは難しい』

『そうね。でもなぜだか分かる? 言われたことがないからよ。人に愛されないと、自分を愛すのは難しい』


 冒頭から変わらず白黒で流れていく映像。

 その映像の中から、突然アンドレを残してアンジェラが消えた。すうっと、まるで幽霊ファンタズマのように。


『自分を見つめて。そして言うのよ』


 何故アンジェラは消えたのか。

 理由は簡単だ。彼女は天使なのだ。

 〝アンジェラ〟という名前は、〝天使〟を意味する〝アンジェロ〟――フランス語では〝アンジュ〟だが――をもじったのだろう。彼女は人生にどん詰まったアンドレを救うため、神によって遣わされた。そして今、アンドレの心を救うべく彼に愛を教えている。


『……無理だよ』


 だがこれまで最低の人生を生きてきたアンドレは、自分を愛することができない。そんなアンドレに天使は言った。


『できるわ。愛もなく、信頼もなく、傷ついた自分の体を見て』


『拒絶しないで、その傷ついた体を。不平も言わず、長い年月耐えてきた体よ』


『大切だと言ってあげて。居場所があると』


『ふさわしいものを、与えてあげて』


 ふと、隣の席に座るアンジェラの異変を感じて振り返る。

 そこでじっとスクリーンを見つめ、アンジェラは泣いていた。

 鏡の中のアンドレと一緒に。


『愛してる』


 暗いシアターに、アンドレの台詞が響いた。


『愛してる、アンドレ』


 映画のラストは、とってつけたようなハッピーエンドだった。


 正直俺は、あの奇天烈な設定はイマイチだと思うのだが、アンジェラは『アンジェラ』をいたく気に入ったようだ。


「素敵な映画だったわ」


 と、買い物のあとに入った大衆食堂トラットリアで、アンジェラは本日何度目になるか分からないため息をついた。

 どうもアンジェラはあの映画の内容にすっかり陶酔してしまったらしく、先程からずっと同じ感想を繰り返している。詐欺師と天使、二人が迎えた結末について語るアンジェラの目はいつになくうっとりとしていて、俺は思わず葡萄酒ヴィーノのボトルを手に取りアルコール度数を確かめたほどだ。


「……酔ってるわけじゃないな」

「え? 何か言った?」

「いや、何も」

「もう、とにかくね、最後のアンドレのモノローグ。あれが最高だったわ。今までずっと他人も自分も欺いてきたアンドレが、天使の導きでようやく本当の自分と精神の自由を手に入れたのよ。そのアンドレが天に帰るアンジェラを引き止めたときに言った台詞も素敵。〝お前に教わった、ウソをつくなと。ならまずは自分からやれ!〟って。私、後半はもう泣きっぱなしよ。明日もう一度観に行きたいくらいだわ」

「ああ、そうだな。とにかく君が楽しめたなら良かった」


 可能な限り冷めた言い方にならないよう注意しながら、俺は笑って目の前のパスタをつついた。口元が引き攣っていないか、今はただそれだけが心配で、半ばヤケクソのようにヴィーノを呷る。


 天使。

 そう、天使ね。


 そんなものが本当にいるなら、早くこの状況を何とかしてくれ。

 娼婦の格好をした天使ならギャングも拳で一撃?

 そりゃあいい。だったらウチの組織もさっさと叩き潰してくれないか。

 そうすれば俺はこの稼業から足を洗える。自分の妻を手にかけなくて済む。あるいは長く苦しい逃亡生活を強いられる必要も。


 なあ、神様とやら。

 あんた、フランスの詐欺師は救うのに、罪もないイタリアの女は見殺しか?


 そんなことをとりとめもなく考えながらパスタを食っていると、嫌でも乾いた笑いが込み上げてくる。どうやら酔いが回っているのは俺の方みたいだ。


「サリー? どうしたの?」

「いや、悪い。ただの思い出し笑いだ。あの詐欺師がスペイン人に騙されたときの顔を思い出してた」

「ああ、競馬のシーンね。私もあれはブルートって馬の名前を聞いた時点で予想できたわ」

「そりゃそうだ。ブルートがジュダと同じくらい有名な裏切り者だってことは、学のない俺でさえ知ってる。あそこはぜひ〝ブルート、お前もか〟って台詞を持ってきてほしかったね」

「〝名は体を表す〟」

そのとおり(スィ、ジュスト)

「あなたもよ、サリー」

「え?」

「サルヴァトーレ。私の救済者」


 ワイングラスを傾けながら、意味深に笑ってアンジェラは言った。

 救済者サルヴァトーレ

 そう、確かにそれは俺の名だ。


 名付け親は誰だか知らない。ただ気づいたときにはそう呼ばれ、殴られ、蹴られ、盗みと物乞いを繰り返す日々を送っていた。

 そんな俺に一体誰がこんなふざけた名前をつけたのだろう。誰かを救うどころか、組織うえに命じられるまま多くの命を奪ってきたこの俺に。


「ねえ、サリー。あなたは言える?」

「……何を?」

「鏡に映った自分に。〝愛してる〟って」

「……」


 アンジェラの突拍子もない話は、まだ続いた。俺はそんな彼女に見つめられるのが苦痛になり、蒸しエビに刺したフォークへ視線を落とす。


「……そう言う君は?」

「私?」

「そう。君は言える?」

「言えるわ。だって私にはあなたがいるもの」


 無邪気に笑って、アンジェラは言った。


 ――人に愛されないと、自分を愛すのは難しい。


 映画の中の天使の台詞だ。

 恐らくアンジェラはあの台詞を指して言ったに違いない。


「ね、サリー。あなたは? 言える?」

「俺は……」



 ――そんなこと、言えるわけがなかった。



 身も心も汚れきった自分を、愛してる、なんて。



 今、俺は猛烈に後悔してるんだ。これまでまっとうな人生を歩んでこなかったことを。

 もちろんあのクソみたいな生活から救ってくれたアルバーノには感謝している。この稼業に手を染めなければ、きっとあの日ベトナムでアンジェラと出会うこともなかっただろう。


 だけど、それならいっそ。

 出会わなければ良かった。

 アンジェラは、俺なんかと出会ったばっかりに。

 俺のせいで、こちら側・・・・へ引きずり込まれようとしている。


「サリー?」

「……」

「ねえ、サリーったら」

「……アンジェラ」

「ん?」

「またベーコンを残してる」


 最近いよいよ鬱陶しくなってきた前髪を掻き上げながら、俺は誤魔化すようにアンジェラの皿を示した。

 彼女が向かいの席で食べているのはブロッコリーのニョッキだ。そこにアクセントとして厚めのベーコンがゴロゴロ入っているのだが、アンジェラはそれを皿の脇によけてニョッキとブロッコリーばかり食べている。


 これが彼女の悪いところだ。アンジェラはとにかく食べ物の好き嫌いが激しい。肉は鶏の肉(しかもごく一部)しか食べないし、タコ、イカ、貝類も嫌い。キノコもダメ。揚げ物フリットも絶対に食べようとしない。

 これだけはいくら言っても治らない彼女の癖で、俺が偏食を指摘すると案の定、アンジェラはみるみる眉根を曇らせた。


「私は毎日サプリを飲んでるからいいって言ってるでしょ」


 不機嫌にそう言って、アンジェラはより乱暴にベーコンをよける。まるでその肉の塊が不倶戴天の敵であるかのように。

 それきり俺とアンジェラの会話は途絶えた。

 夕食時を迎えたトラットリアの賑わいが、俺たちの間をそらぞらしく通り過ぎてゆく。



              ×   ×   ×



 帰りの車の中でも、アンジェラはずっと不機嫌なままだった。

 こちらから話しかけたところで、何も答えない。何がそんなに気に障ったのか、帰りがけに彼女の好きな海辺をドライブしても表情、沈黙共に変化なしだ。


「なあ、アンジェラ。いい加減機嫌を直せよ。俺が悪かったって」


 普段は柔和で人当たりのいいアンジェラだが、一度こうなると手のつけようがないのは誰よりもよく知っている。だから俺はアパートへ帰るなり、さっさと寝室へ引き取っていくアンジェラに後ろから謝罪を投げた。

 こういうときはとにかく俺が折れないと話が進まない。たとえこちらに非がないとしても、まずは俺が謝る。そうしないとアンジェラが耳を貸してくれないからだ。


 だがそれは逆に言えば、ひとまず謝罪さえすればアンジェラも話し合いに応じてくれるということでもある。

 案の定、アンジェラは俺の謝罪を受け入れた。紅いシーツのかかったダブルベッドに鞄を放り投げ、髪を振り払うように俺を顧み、そして、いつになく険しい顔つきで言う。


「足りなかった?」

「何?」

「私じゃ満足できなかった?」

「一体何の話だ?」

「愛の話よ! 夕食のとき、あなた、私の質問に答えてくれなかった。あれはつまりそういうことでしょう? あなたは自分を愛してない。なのに私一人だけはしゃいで、馬鹿みたいだわ」


 叩きつけるような口調で言って、それきりアンジェラは顔を背けた。

 だが俺はアンジェラの言葉が意外で、図らずも間抜け面を晒してしまう。


 だって――〝愛の話〟だって?


 こう言っちゃ何だが、彼女はそんなことで怒ってたのか?

 俺はてっきり、いつもの偏食を指摘されたのが気に食わなかったのだろうと思っていた。それがまさか、あのとき俺が答えをはぐらかしたことを怒っていたなんて。


「アンジェラ」

「やめて。その名前で私を呼ばないで」

「どうしたんだ、急に?」

「だって私は天使じゃないもの。あの映画の天使アンジェラみたいに、あなたを満たしてあげられない。役立たずで薄っぺらな女よ」

「そんなことはないだろう。俺は君を愛してるし、君の想いだっていつもちゃんと感じてる。君を薄っぺらな女だなんて思ったことは一度もない」

「じゃあ言ってよ。愛してるって」

「それなら今――」

「私にじゃない。あなたに!」


 言って、振り向きざま、アンジェラは俺を指差してきた。その指でどんと俺の胸を突き、大きな目でこちらを睨み上げてくる。

 呆気に取られてそれを見た俺は、しかしすぐにハッとした。

 何故なら俺を見つめるアンジェラの目が、潤んでいたから。

 それまで激しい怒りに燃えていた表情はみるみる悲しみに染まって、アンジェラは厚い唇を噛み締める。


「サリー。私、あなたを愛してるわ。本当に愛してるの」

「ああ、知ってるよ、アンジェラ」

「だけどその愛はあなたに届かない? 私じゃあなたの救いにはなれない?」


 ついにぽろぽろと涙を流しながら、アンジェラは言った。彼女はその答えを心臓に聞こうとしているのか、俺の胸に手を添えて、それきりうつむき何も言わない。

 一体何が彼女をそんなに感傷的にさせるのか。俺にはまるで分からなかったが、こんな風に泣かれて、それでもなお彼女の願いを拒むほど非情にはなれなかった。


 ――いや、違うな。


 彼女と出会う前の俺なら、多少情を通じた女にこんなことを言われたところで、鼻で笑って相手にしなかっただろう。

 自惚れるなよ。何様のつもりだ? お前に俺の何が分かる――あるいはそんな風に相手を詰ったかもしれない。

 けれどその俺が今、人並みに誰かを愛し、傷つけたくないとさえ願えるようになったのは。


 アンジェラ。

 君のおかげだ。

 君が俺を人間にしてくれた。

 だから、その君が望むなら。


「アンジェラ」


 俺はアンジェラの名を呼び、髪を梳いて、うつむいたままの彼女の顎を持ち上げた。

 そうして涙に濡れた彼女の瞳を覗き込む。

 そこに映り込んだ自分を見つめて、はっきりと、言う。


「愛してる」

「……!」

「愛してるよ、サリー。お前はどうしようもない男だが、天使と巡り会い、そして愛した。それだけでお前を愛するに値する。愛してるよ。……これでいいか?」


 そう言って、ちょっとからかうように俺は笑った。アンジェラの瞳から大粒の涙が零れた。

 彼女はくしゃくしゃになった顔を伏せて、小さく神の名前を呼ぶ。

 それから俺を見上げ、笑った。

 ちょっと困ったような、けれど満たされた表情で。


「私も愛してるわ、サリー」


 たまらなくなって、俺はアンジェラの唇を奪った。彼女もそれに応えてくる。

 そのままベッドに雪崩れ込み、二人で激しく愛し合った。

 こんな風に、互いを貪るように求め合ったのはいつぶりだろうか。

 俺たちの胸裏に灯った炎は幾度達しても衰えず、それどころか更に煌々と燃え上がった。


 これが最後かもしれない。

 アンジェラと肌を合わせられるのは。

 明日にはすべての運命が変わって、きっと俺たちは俺たちでいられなくなる。


 だから、せめて最後に。


 最後に――。


「サリー」


 熱を上げていく肌の下で、アンジェラが俺の名前を呼んだ。


「サリー。お願い――私を殺して」


 それは、譫言うわごとのように。


「あなたが本当に私を愛してくれているのなら――私を殺して。あなたの愛を示して。お願いよ、サリー――」


 その声が耳の中でまざまざと響いたのは、すべてが果てたあとのことだった。

 明かりが消えた部屋に、アンジェラの寝息が聞こえている。

 カーテンを透かす月明かりが、アンジェラの体の線を闇に浮かび上がらせる中。

 俺はそっと体を起こし、彼女の首に手をかけた。


 今なら、殺せる。


 この手で――俺の手で、アンジェラを。


「……」


 長い長い、夜の静寂。

 遠くから潮騒の音が聞こえる。


 俺はアンジェラの細い首に手をかけたまま、泣いた。

 笑いたくなるほど力の入らない指先を、情けなく震わせながら。


「……俺には無理だ、アンジェラ」


 俺は人間だ。


「俺には、君を殺すなんて、できない……」


 君が俺を人間にした。


 だから俺は殺せない。

 たとえそれが君の望みだとしても――。


 俺は殺せない。

 君を失いたくないんだ。

 それは君を愛してないってことになるんだろうか?


 許してくれ、アンジェラ。



 無言の懺悔と共に、夜が更ける。



              ×   ×   ×



 翌朝目が覚めると、隣にアンジェラの姿がなかった。

 数瞬空のベッドをぼんやりと眺め、それから俺は飛び起きる。

 アンジェラ。

 昨夜、哀願するように〝殺してくれ〟と言っていた。


「アンジェラ!」


 素っ裸だった俺は適当なシャツを羽織り、黒い細身のパンツを履いて、慌てて寝室を飛び出した。

 だが、直後に全身から力が抜ける。

 何故ならいつもの朝の景色の中に、いつものアンジェラがいたからだ。


「ああ、サリー。今起きたの? おはよう」


 キッチンに立った彼女は、今日もマキネッタにご執心。けれども俺の呼び声に気づくと顔を上げ、いつものように明るく笑った。

 俺はそんな彼女の笑い顔を、呆気に取られて眺めている。

 ……昨日のアレは夢だった?

 それとも情事の最中のことで、彼女は覚えていないのだろうか?


「朝食、もうすぐできるから待ってて」

「あ、ああ……」

「どうしたの、ぼんやりして? 寝惚けてるならシャワーでも浴びてきたら?」


 カウンターの向こうでちょっと首を傾げながら、アンジェラは不思議そうに俺を見つめた。途端に俺は何だか居心地が悪くなり、曖昧に返事をして風呂場へと足を向ける。


 ――俺の考えすぎだったのか。


 ほとんど水に近いぬるま湯を頭から浴びながら、俺はようやく冷静になって自嘲した。

 まあ、そりゃそうだ。本当に自分を愛してるなら殺してくれ、なんて、そもそもそんなことを真面目に言い出す方がどうかしている。あのときはアンジェラも熱に浮かされて、思考が正常ではなかったのだ。

 それもベッドの上ではよくあること。かく言う俺も過去に何度か似たようなことをやらかしている。愛してもいない女の耳元で熱っぽく愛を囁いたり、一緒に逃げよう、と言われて思わず頷いてしまったり。


 その度に後日、怒り狂った女たちから手ひどい報復を受けた過去の失敗を思い出し、俺は苦笑して蛇口を拈った。

 昨夜のことは、もう忘れよう。深刻な顔で「昨日のアレは本気だったのか?」なんて尋ねようものなら、きっとアンジェラに笑われる。


 ある意味俺は愛を試されたのだ。

 あのときアンジェラの首を締めなくて本当に良かった。

 一歩間違えていたら、俺は本当に彼女をこの手にかけていたかもしれない。

 そう思うと人を殺し慣れた自分のことが空恐ろしくもあり、俺は戒めのように目を閉じる。


 やはり、殺し屋稼業からは足を洗おう。

 組織がそれを許そうが許すまいが関係ない。

 今日、もう一度アルバーノと会って話をつけてくる。

 その間、アンジェラには絶対に家から出ないよう伝えなければ。


 ついでに俺が生きて戻れなかったときのために、何か策を練っておく必要がある。せめて彼女だけでも遠くへ逃れ、平穏な余生を送れるように――。


「アンジェラ」


 俺は、覚悟を決めた。

 すべての身支度を終えてリビングへ戻る。

 そこでアンジェラへ声をかけようとして、ふと彼女が何か捨てているのを見た。


 あれは――彼女がいつも飲んでいるサプリの瓶?


「珍しいな。切らしたのか?」


 廊下からリビングへと至るドア。その前に立って俺が尋ねれば、ハッとしたように彼女はこちらを振り向いた。

 急に声をかけられたので驚いたのだろう。彼女は束の間何を言われたのか分からない、というような顔をしたのち、ようやく気づいて俺と目の前のゴミ箱とを見比べる。


「ああ、ええ、そう、そうなの。私としたことが、うっかり買い足すのを忘れてたみたいで」

「いつも絶対切らさないようにしてるのに?」

「うん……早くまた取り寄せないとね」


 そう言って、彼女は笑った。

 どこか少し、物寂しそうに。


「さ、それはそうと、朝食、もうできてるわよ。早く食べましょう」


 けれども次に顔を上げたとき、彼女の表情はいつものそれに戻っていた。

 いや、それどころか――普段よりずっと機嫌がいいくらいだ。

 今朝のアンジェラはいつも以上によく笑い、よく喋り、持ち前の無邪気さを振り撒いた。

 まるで欠けていた何かを埋めるように。

 離れていくものを引き止めるように。


「今朝はやけに機嫌がいいな。何かいいことでもあったのか?」


 俺がそう尋ねれば、アンジェラは「言わせないでよ」、と笑った。


「あんなに情熱的なあなたは久しぶりに見たわ」

「何だ。結局言うんじゃないか」

「あなたが言わせたんでしょう?」

「そういう君もかなりよがってたけどな」


 そんな他愛もない会話をして、互いに笑い合う。

 今日も暖かな春の風が吹いていた。

 こんな日が人生最後の一日になるのなら、俺も少しは報われる。


「それじゃあ、行ってくるよ」

「ええ。いってらっしゃい、あなた」


 すっかりお決まりになったやりとり。俺は今日も玄関まで見送りに来たアンジェラにキスをして、途端に胸が切り刻まれるような切なさを覚えた。

 この唇に触れられるのも、これが最後になるかもしれない。

 そう思うとそのままアンジェラを押し倒し、昨夜の続きに溺れたくなる。

 けれども俺はその劣情を抑え、唇を離して笑いかけた。


 俺は、最後にちゃんと笑えていただろうか?


 彼女が俺に与えてくれた人間・・の顔で。


「今日の昼は早めに戻るから。その間にさっき言ってた荷物が届いたら頼むよ」

「ええ、大丈夫よ。任せておいて」


 目の前のドアに手をかけながら、俺は去り際に念を押す。今日の午前中に俺が趣味で買った荷物が届くから、その受け取りのために君は家に残っていてくれと朝食のときに伝えたのだ。

 アンジェラはそれをすっかり信じ切っているようで、何も疑う様子なく頼まれてくれた。

 あとは彼女を保護する手段さえ確保すれば大丈夫だ。俺は愛する女の姿を目に焼きつけると、今度こそドアノブを回す。


「――サリー」


 そうして家を出ようとした俺を、不意にアンジェラが呼び止めた。


「愛してるわ」


 振り向いた俺に、アンジェラが言う。


「誰よりもあなたを愛してる。私の救済者サルヴァトーレ


 まるで今生の別れのように。


「俺も愛してるよ、アンジェラ」


 俺がそう答えると、満たされたようにアンジェラは笑った。


 泣き出しそうな笑顔だった。



              ×   ×   ×



 仕事へ行く夫をいつものように見送ったあと、アンジェラは窓辺へ移動した。

 その窓からは穏やかなイオニア海の青と、アパートの麓に列を成す住人たちの車が見える。

 アンジェラはその車列の中から、夫の愛車である黒いブレラを見つけてじっと見据えた。

 するとほどなく道の角から夫が現れて車に乗り込み、運転席でしばし誰かと電話したあと、細い坂道の先へ去っていく。


 アンジェラはその車影が遠のき見えなくなるまで、ずっと窓辺に佇んでいた。

 まるで時が止まったかのような静寂に、彼女の心は溶けてゆく。


 蜘蛛の糸を一本架けたように、細く煌めく水平線。


 アンジェラはしばしぼんやりとそれを見つめたあと、電話を取った。もうすっかりお馴染みと化した番号をダイヤルし、春の陽射しの中で目を閉じる。


「……もしもし、私です」


 電話はすぐにつながった。


「ええ……ええ、そうです。……分かっています。大丈夫。もう思い残すことはありません。――終わらせます」


 祝福か弔いか。


 教会の鐘が鳴っている。



              ×   ×   ×




 ダンテのバールで十時に落ち合う約束をして、俺はアルバーノとの電話を切った。

 ――もう一度会って話したいことがある。

 改まってそう告げた俺の意図は、アルバーノにも既に伝わっているだろう。


 育ての親を疑うような真似はしたくないが、こと仕事・・に対しては厳格なあの男なら、俺と会う前に何かしらの手を打ってくるかもしれない。

 だからこちらも先手を打つ。俺は火をつけた煙草を咥えて車のエンジンをかけ、アパートの麓の車列を抜け出した。


 目指す先は、タオルミナの海岸付近にある公衆電話。昨夜トラットリアからの帰りに海沿いを走ったとき、あまり客の入りがなさそうな古い商店の入り口に一台設置されているのを、気まずい車内から確認した。

 そこから匿名で電話をかけ、警察にアンジェラの保護を求めるのだ。

 マグラッシ・ファミリーの名を出せば警察は必ず動く。ヤツらが最近内通者を失ってヤキモキしていることは知っているのだ。何せその内通者どもを闇に葬ったのは他でもない、この俺なのだから。


 しかしアンジェラ殺害の依頼人が誰だか分からない以上、警察に頼ったところで彼女の身の安全が保証されるとは限らない。この件にケリをつけるには、依頼人の身元とアンジェラが狙われる理由をアルバーノから聞き出さなければ。

 俺は左手にタオルミナのビーチを眺めながら、緩やかなカーブに沿って車を走らせる。その傍らで相棒である愛銃ベレッタの装弾を確かめ、腰のホルスターへ戻した。


 まさかこの銃をアルバーノに向ける日が来るとは思わなかったが――ここまで来たら、もう手段は選んでいられない。

 アルバーノは俺に失望するだろうか? 息子ビンボとまで呼んだ俺の裏切りを嘆くだろうか?


 波間の煌めきの間に、ガキの頃アルバーノと過ごした幻影が見える。

 俺はそれを振り切るようにスピードを上げた。が、そのときだ。


『リリリリリ……』


 助手席に放っていた携帯が鳴り響く。

 ふと画面に目をやると、アルバーノの名前が浮かんでいた。

 さっきの電話を終えてから、まだ二十分も経っていない。

 嫌な予感を覚えて、俺はすぐさま携帯を手に取った。


もしもしプロント?」


 一抹の緊張と共に電話に出る。車は如才なく目的地へと走らせたまま。


『ああ、サリー。お前、今どこにいる?』

「どこって、ダンテのバールに向かってる途中だが?」

『悪いがその予定はキャンセルだ。今すぐカターニアの空港へ行け。ローマ行きのチケットを手に入れてある。俺も今から向かうから、十一時に向こうで合流だ。そこでチケットと当座の金を渡す』

「空港? おい待て、何の話だ?」


 突然予想もしていなかった言葉をかけられ、俺は混乱した。

 だって、この期に及んで何故〝空港〟なんて単語が飛び出す?

 しかもローマ行きのチケットと当座の金だと?


『サリー、悪い知らせだ』


 俺は前方にようやく目的の商店が見えてきたのを確認し、その駐車場に車ごと滑り込んだ。

 そうしてハンドルを切る間、耳元でアルバーノのため息が聞こえる。まるで明日世界が終わると告げられたかのような、重いため息。


『落ち着いて聞け。――組織の情報が警察に漏洩した。お前の顔も割れている。すぐにカルルッチ殺しの件で引っ張られるぞ。そうなる前にこの町を出ろ。もう時間がない』


 耳障りなエンジン音を切り、そして静寂が俺を支配した。

 背筋を冷たい汗が流れ、吐き出そうとした言葉が喉の奥に引っ掛かる。仕方なくそれを飲み込んで、俺は改めて別の言葉を取り出した。


「アルバーノ。あんた、俺をハメる気か?」

『ハメる? 俺がお前を? 何のために?』

「とぼけるなよ。俺が今朝あんたを呼び出した理由は分かってるだろう? 動機なんてそれだけで十分だ」

『おいサリー。お前がアンジェラのことを根に持ってるのは分かってる。あれは確かに俺が悪かった。だがあの女はな――』


 言いかけて、しかしアルバーノはその先の言葉を飲み込んだように思えた。

 だが俺は内心意外に思う。アルバーノがアンジェラを〝あの女〟なんて呼ばわるのは初めてのことだ。これまでは息子おれの妻として、最大限アンジェラを尊重してくれていたアルバーノが。


『とにかく詳しい話はあとだ。俺が信用できないって言うなら、家まで直接迎えに来い。そこでボディチェックでも何でもして、空港まで道連れにすればいいさ。まあ、俺に人質としての価値があるかどうかは疑問だが』

「……ってことは、あんたの奥さんも一緒か?」

『ああ。今準備をさせてる』

「なら、俺もアンジェラを――」

『――それは駄目だ』


 即答だった。受話器から聞こえた短い返事には、有無を言わせぬ響きがあった。

 アルバーノの、これほど厳しい声を聞くのはいつぶりだろう。一週間前、俺にアンジェラを殺せと言い聞かせたときだって、アルバーノの声はここまで強張ってはいなかった。


『サリー。空港へはお前一人で来い。アンジェラのことはもう忘れろ』

「何だって?」

『仕方がなかった。お前がしくじったからだ。なあ、サルヴァトーレ――ここまで言えばもう分かるだろう?』


 ――これ以上俺を困らせないでくれ。

 電話の向こうから聞こえたその言葉には、これまで俺も聞いたことがないほどの苦渋が滲んでいた。


 つまり、それは。


 すべてを悟ったところで電話を切る。

 アルバーノには、迎えに行くとも行かないとも言わなかった。

 すぐさま狭い駐車場からバックで抜け出し、車を飛ばす。今度は右手にビーチを控えながら。


 けれど波間には、もう何の幻影も見えなかった。


 午前十時前。俺はアパートへ帰り着く。

 お行儀良く車を停めている時間も惜しく、俺は狭い道を塞ぐような形で駐車しそのまま飛び出した。

 高基礎の階段を駆け上がり、共用部へ続く扉をぶち破る。

 体側に引きつけた両手にはベレッタ。

 目指す先は二階の南部屋。

 俺は玄関に鍵がかかっていないのを確かめて、すぐさま中へ踏み込んだ。


 するとすぐ目の前に――アンジェラ。


「――! さ、サリー?」


 いきなり飛び込んできた俺を見るなり、アンジェラは目を見開いてあとずさった。俺はわずかばかり弾んだ息を整えながら、それを追うように一歩踏み出す。ふと目をやった彼女の足元には、小型の黒いキャリーケース。


「さ、サリー、どうしたの? 仕事に行ったんじゃ……」

「どこか旅行にでも行くのか?」


 アンジェラの質問を遮り、俺は顎の先でそのキャリーケースを示した。

 途端にアンジェラの表情が強張る。まあ、無理もないだろう。

 何せどこからどう見ても、そのケースはアンジェラの私物もの。そしてついさっき俺が家を出たときにはそんなもの、そこに置かれてはいなかった。


「ち、違うのよ、サリー。これは――」


 と、ときにそう言いかけて、アンジェラの顔が凍りつく。

 その視線は俺の手の中の銃に向いていた。銃口はまだ床を向いたままだったが。


「さっきアルバーノから電話があった。金とチケットを用意したから、これからローマに飛べと。俺は君も一緒に連れて行くと言ったんだが、断られた」

「……」

「なあ、アンジェラ。君は誰だ?」


 アンジェラは目線を俺に合わせないまま、微かに笑った。

 よく見ればその肩には、小さめのショルダーバッグがかかっている。


「私はアンジェラ・サントラム。あなたの妻よ」

「神にそう誓えるか?」

「ええ。誓って」

「なら何故俺を裏切った?」


 アンジェラの目が、ようやく俺を見た。

 途端に俺はぞっとする。

 何故ならそこには、いつか俺の心を騒がせたあの炎が宿っていたから。


「裏切ってなんかないわ、サリー。私は知ってたの。最初から」

「最初から?」

「ええ。四年前、私が何故ハノイであなたに声をかけたと思う? 見ていたからよ。人気のないベトナムの裏路地で、あなたが人を殺すところを」


 ――クソッタレカッツォ

 俺が思わず小声で呟くと、アンジェラは改めてうっすら笑った。

 それはどこか寂しげで、何かを諦めたような。

 けれどもその瞳では、なおもあの炎が燃えている。


「だから言ったでしょう。〝私を殺して〟って」

「……」

「ずっと待ってたのよ。あなたが気づいてくれるのを」

「……」

「だけど、もう時間切れ。あなたと過ごした三年間はとても楽しかったけど――そろそろ、終わりにしなくっちゃ」


 そう言ったきり、アンジェラは立ち尽くした。何かを乞うように、じっと俺の目を見つめたまま。

 住み慣れた部屋に静寂が落ちる。そのときふと目をやった、床の陽だまり。


 この部屋で過ごした三年間は、まるでその陽だまりのように暖かかった。


 それまで人を殺める以外何の取り柄もなかった俺に、アンジェラが与えてくれたもの。

 ぬくもり。思い出。充足感。

 それらがすべて、この部屋には詰まってる。


 そしてそれが、俺にとっての紛れもない真実だ。


「サリー」


 アンジェラが、促すように俺を呼んだ。

 俺は再びアンジェラを見つめ、首を振った。


 硬い音が響き、石の床に銃が落ちる。


 アンジェラが目を見張った。俺は笑いかける。ちょっとばかり皮肉げに。


 けれど、ちゃんと笑えていたはずだ。


「どこまで行くんだ?」

「サリー」

「送ってくよ。だがカターニアは駄目だ。たぶん組織の人間が集まってくる」

「サリー、銃を取って」

「これは俺にはもう必要ないよ」

「駄目よ、サリー」

「俺はもう誰も殺さない」


 アンジェラが唇を噛み、瞳を潤ませる。俺は彼女へ手を伸ばした。

 だがアンジェラはその手を拒み、暴れるように振り払う。

 次に一歩あとずさったとき、彼女は銃を構えていた。

 かなり小型の、銀色の拳銃だ。恐らく肩から提げた鞄の中に忍ばせていたに違いない。


「サリー、お願いよ。銃を取って」

「できない」

「取らないと撃つわよ」

「君がそうしたいなら」

「サリー」

「俺は君と出会って、償いたいと思った。今までの自分の過ちを。だけど一体どうすれば償えるのか……警察に出頭することも考えたが、それじゃ意味がない。何せ俺は組織の秘密を知りすぎてるからな。たとえ刑務所に逃げ込んだって、鉛玉が飛んでくるのは時間の問題だ」

「……」

「だからせめて、君を幸せにしようと……俺の残りの人生を、自分以外の誰かのために使おうと決めた。俺の命は君のものだ。好きにするといい」

「どうして……」

「言ったろ、アンジェラ。君を愛してる」


 銃を持つアンジェラの手が震えていた。

 瞳から大粒の涙が溢れ、彼女の頬を濡らしていく。


 今、銃を取って彼女を殺せるなら、昨夜のうちにそうしていた。


 俺はもう選んだんだ、アンジェラ。たとえ君が誰であったとしても。


「だから次は君が選んでくれ」


 再び春の静寂が降りた。

 うつむいたアンジェラの瞳から、床に向かっていくつも雫が落ちていく。

 そうしてどれほどの沈黙が流れただろうか。

 やがて彼女は顔を上げ、言った。


「……分かった。選ぶわ」


 言って、アンジェラは構えていた銃を下ろす。

 そしてその銃を、


「――アンジェラ!!」


 俺が目を疑い、とっさに手を伸ばしたのと。


 アンジェラが自らへ銃を向け、引き金を引いたのがほぼ同時だった。


 銃声。

 血煙が上がった。

 アンジェラが自らの顎を狙って撃った銃弾は、彼女の左肩、鎖骨の下に当たって弾けた。

 俺がとっさに彼女の手を掴んだためだ。おかげで狙いは外れたが、俺は仰向けに倒れ込むアンジェラをとっさに支え、再び叫んだ。


 ――クソッタレ!


 俺が間一髪で逸らしたと思った銃弾は、彼女の動脈を貫いている。


「アンジェラ!!」


 俺は無意識のうちに彼女の傷を押さえた。

 が、そんなことをしたところで海の一滴だ。背を反らし、天井を仰いで浅い息を繰り返すアンジェラの背中には、みるみる血溜まりが広がっていく。


「クソッ……クソッ!! どうしてだ、アンジェラ!! どうして……!!」

「サリー……」


 弾むような息をつき、アンジェラが血塗れの手を伸ばしてきた。

 その手が俺の頬に触れる。滲んだ瞳で微笑みながら。


「ありがとう、サリー……でもね、私を許さないで」

「アンジェラ」

「あなたは優しい人だから……きっと、自分を責めるだろうけど……違うの。違うのよ……」


 血が止まらない。

 アンジェラの顔から、どんどん生気が失せていく。

 俺は。

 俺は、どうすれば良かったんだ?

 なあ、教えてくれ。

 教えてくれ、アンジェラ……。


「サリー」


 彼女を抱いて咽び泣くしかできない俺に、アンジェラが囁いた。


「お願い。私を殺して。楽にして――」


 俺は無様な泣き顔を上げる。

 アンジェラと目が合った。

 彼女は変わらず微笑んでいる。


 俺は、すぐ傍に転がっていた彼女の銃に目をつけた。


 震える手を伸ばし、銃把を握る。

 俺の手には小さすぎる銃。

 しかし見たところ二連銃身だ。弾はもう一発残ってる。

 俺はゆっくりと撃鉄を起こした。

 微笑んだアンジェラの瞳から、最後の涙が落ちていく。


「愛してるわ、私の救世主サルヴァトーレ


 撃った。


 アンジェラの額へ向けて、一発。


 それですべてが終わった。


 血溜まりが更に広がっていく。

 結局俺に出来たのは、人を殺すことだけだった。

 彼女に与えてもらったと思っていた、俺の人生は――


「――サリー!」


 そのとき突然、ドアをぶち破るようにして玄関が開いた。

 緩慢な動きで顔を上げた先。

 そこには額に汗をかき、息を切らしたアルバーノの姿があった。

 その手には銃。

 アルバーノは血溜まりに座り込んだ俺と、俺の腕の中で仰向けに倒れたアンジェラを見やり、途端に表情を歪ませる。


「やったのか?」


 何かを堪えるように、アルバーノは問うた。


「お前がやったのか?」


 俺はやはり緩慢に頷いただけだった。

 それを見たアルバーノが銃をしまい、よろよろと俺の向かいに膝をつく。

 そうしてアンジェラの頬に触れ――アルバーノは、泣いた。

 まるで愛娘むすめを労る父親のように。


「アンジェラ……」


 そう彼女の名前を呼んだきり、アルバーノは声を詰まらせた。

 何か言葉をかけたそうに――けれどその言葉が見つからないと言いたげに、何度も何度もアンジェラの頬を撫でている。

 そんなアルバーノの姿を見て、俺はぼんやりと疑問を覚えた。


 ――何故この男が泣くのだろう?


 そもそも何故、アルバーノがここにいる?


「来い、サリー」


 そうしてひとしきりアンジェラの死を悼んだあと、アルバーノは魂が抜けたように呆けている俺の腕を引き、強引に立ち上がらせた。

 その声の響きには、やはり有無を言わせぬものがある。おまけにこの体格だ。

 今の腑抜け切った状態ではアルバーノの膂力りょりょくに逆らえるはずもなく、俺は引きずられるようにしてアパートの外へ連れ出された。

 途中、銃声を聞きつけたアパートの住人が血塗れの俺を見て悲鳴を上げるのが聞こえたが、アルバーノはそれに頓着する素振りもない。


「お前を連れていかなきゃならん場所がある」


 そう言ってアルバーノは俺を車に押し込み、発進した。


 アルバーノの愛車の、銀のフェラーリだった。



              ×   ×   ×



 アルバーノが俺を連れていったのは、海の見える教会だった。

 幸い礼拝の時間は過ぎている。血塗れの俺が案内された聖堂に礼拝客の姿はなく、ただ一人、アルバーノと同年代と思しい神父が説教台に立っていた。

 海鳥の声がやけにうるさい。神父はアルバーノが引きずるようにして連れてきた俺を見るや、二つの真円を描く玳瑁たいまいの眼鏡をひょいと上げた。

 神聖なはずの聖堂が、一気に血生臭くなる。けれども神父は突然の闖入者ちんにゅうしゃに驚いた様子もなく、むしろ畏まった顔で講壇を下りてきた。


「ラヴェニーニ。――彼か?」

「そうです、ドン・ミレージ。これがアンジェラの夫、サルヴァトーレです」


 硬い声で言い、アルバーノが乱暴に俺の体を放り出す。突き飛ばされた俺はよろめいて膝を折り、左右に並ぶ長椅子の間に座り込んだ。

 するとその前に神父がやってきて、ゆっくりと膝をつく。

 白い祭服に身を包んだ、小柄な神父だった。

 わずかな口髭や髪の毛まで、あつらえたように白い。


「はじめまして、と言うべきかな、サルヴァトーレ」


 低くてドスの効いたアルバーノの声とは、まったく違う響きの声だった。

 アルバーノがミレージと呼んだ神父の声は、広い堂内によく響く。それでいて晴れの日の海のごとく穏やかで、聞く者の体をそっと抱き締めるかのようだ。


「アンジェラから話は聞いているよ。彼女にはぜひ一度君を紹介してほしいと頼んだんだがね。彼女は説教嫌いの君を連れ出すのに、ずいぶんと頭を痛めたようだ」


 そう言って、神父は目尻の皺で微笑んだ。

 まったく話が見えない俺は後ろを向き、目だけでアルバーノに訴えたが答えはない。それどころかアルバーノは強情そうに腕を組み、ぐっと唇を上向きにすると、手近な椅子にどっかり腰を下ろして黙り込んだ――どうやら答える気はないらしい。


「この血は君の血かな?」

「……違います」

「ではアンジェラの血か?」

「……」

「彼女は死んだかね」

「……」

「君が殺した?」

「………………はい」


 長い、長い沈黙を経て、俺はそう頷いた。頷くだけで精一杯だった。


 俺が、アンジェラを、殺した。


 その事実を改めて認めた途端、腹の底から嗚咽が込み上げてくる。

 そうして俺は、その場に屈み込んで泣いた。

 みっともなく泣いた。

 こんなはずじゃなかったのだと。


「お、俺は、アンジェラを……彼女をただ、幸せに」

「ああ、分かっているよ」

「なのに、俺は、彼女を……彼女を、死なせてしまった」

「そうだな。だがサルヴァトーレ、君はよくやった」

「は……?」

「君は彼女の望みを叶えたのだ。そうだろう?」


 床に膝をついた姿勢から、更に身を屈めて神父は言った。俺と目線を合わせるためだ。

 その蒼色の瞳は、慈悲を湛えて微笑んでいる。


「アンジェラは君に殺されたがっていた。違うかね?」

「そ、それは……でも、俺は……」

「彼女が君に殺されたいと望んだ理由を?」


 尋ねられ、俺は首を横に振った。すると神父はその穏やかな目を、背後に座るアルバーノへと向ける。

 しばしの沈黙が流れ、アルバーノのため息が聞こえた。やがて後ろから近づいてきた足音がぐいと俺の体を持ち上げ、最前列の椅子に座らせる。

 その隣に神父が座った。

 目の前に、巨大なステンドグラスと聖母マドンナの像がそびえている。


「これを」


 産着にくるまれたクリストを抱き、慈悲深き微笑みを浮かべた聖母。

 その白い面差しをぼんやりと見上げていた俺に、神父が何か差し出した。

 無意識に受け取ったそれは――一通の封筒。


「アンジェラから預かっていたものだ。すべてが終わったら君に渡してほしいと」


 その言葉に耳を疑った。そして同時に思い出す。

 〝ミレージ神父〟――。

 その名前を、いつかアンジェラの口から聞いた。


 確か、何か本を勧められたと――そう言えばアンジェラは一年ほど前から急に信仰熱心になって礼拝に通っていた。それまでは俺と同じ、重度の説教嫌いだったはずなのに。

 一体どういう風の吹き回しだ?と俺がからかい半分に尋ねると、アンジェラは笑ってこう言った。


 ――信頼できる神父さんに出会ったの。海辺の教会の神父さんよ。


「……あんたがミレージ神父?」

「ああ、いかにもそうだが」

「この一年、妻の口からあんたの名前をよく聞いた。親切で、どんな話も聞いてくれる優しい人だと……」

「ふふ、どんな話も、か。まあ、それが私の務めだからね。告解に来た信徒の言葉に耳を傾けるのは、神父として当然のことだろう?」

「告解?」

「そうだ。アンジェラはここへすべてを話しに来た。自分のことも、君のことも」


 告解。それくらいは、生まれつき信仰心とやらをどこかに置いてきた俺でも知っていた。

 つまりアンジェラはこの神父にすべてを打ち明けていたということだ。

 自分の罪も、俺の罪も。神の許しを乞うために。


「ああ、安心してくれていい。我々聖職者には守秘義務というものがあってね。たとえいかなる犯罪の告白であろうとも、告解の内容を警察に通報したりするようなことはない。通常であれば自首を勧めるがね」

「……」

「アンジェラはここへ、救いを求めてやってきた。彼女自身の救いではない。君の救いだ」

「俺の……?」

「君はあまりに多くの罪を背負いすぎていると。しかしそれは生きていく上で仕方のないことだったのだと。鷹が子兎を狩るように。狼が羊を喰らうように」


 ――その罪を主に許していただくことはできないか。


 アンジェラはそう言って、この教会の門を叩いたのだと神父は言った。

 俺は手元の封筒へ目を落とす。茫然と、靄がかかったような頭で。


「手紙を」


 神父もあとはもう、俺をそう促すだけだった。

 俺は朦朧とした意識の中で封を開ける。質素な白の封筒の中には、びっしりと文字の書かれた便箋が二枚。


 見間違えるはずもない。


 確かにアンジェラの筆跡だった。


 俺はその文字の海へ、吸い込まれるように飛び込んでいく。



----------------------------------


愛しのサリー


 Ciao、サルヴァトーレ。

 久しぶりにあなたへ手紙を書いています。


 こんな風にラブレターを書くのは何年ぶり?

 結婚する前……私がまだローマにいた頃以来かしら?


 あの頃、私はあなたのメールアドレスを知っていたのに、敢えて手書きの手紙を送ったわよね。その方が、どっちつかずな私の想いがあなたに伝わるんじゃないかって期待したの。

 なのにその返信をあなたがメールで寄越したときは、正直ちょっとガッカリしたわ。「これだから男は!」って、呆れちゃった。


 だけどあのメールがあったから、私はシチリアへ渡ったのよね。

 今でも昨日のことのように覚えてる。あなたに直接会って、一言文句を言ってやろうと息巻きながら飛行機に乗り込んだあの日のこと。


 サリー。私はすべてが終わったら、この手紙を敬愛するミレージ神父に預けようと思っています。前に何度か話したわよね? 海辺の教会にいらっしゃる、小柄で優しい神父様よ。


 だから、この手紙を今あなたが読んでいるのだとしたら、私はもうこの世にはいないということ。

 あなたがこの手紙を読むとき、私は一体どんな最期を迎えているのだろうと思いを巡らせると、少し怖い。


 だけど、サリー。

 あなたならきっと私を殺してくれているだろうと信じています。


 さあ、何から話そうかしら。

 神父様はどこまであなたに話した?

 アルバーノさんがあなたに撃たれてないといいのだけれど。


 始まりは四年前のベトナム。

 あの日、私はあなたがハノイの裏路地で人を殺すところを見ました。

 そして胸がときめいたの。

 ああ、この人なら私を殺してくれるかもって。


 あなたと出会う一年前。

 私の体には病気が見つかりました。

 世界中を探しても、百万人に一人という難病。

 原因不明の不治の病でした。


 医者には三十歳まで生きられるかどうかと言われ。

 当時結婚を約束していた――私が人生で唯一、あなた以外に本気で愛した男にはゴミみたいに捨てられたわ。


 あの頃、私は人生のどん底にいました。

 死んでしまいたかった。

 だって、どうせ三十まで生きられやしないんだもの。

 だったら自分で死んでやるって思った。

 運命の奴隷になるのは嫌だったの。


 だけど、どうしてかしら。

 私は死ねなかった。

 何度も自殺未遂を繰り返して、それでも天が私を死なせてくれなかった。

 薬を飲んでも、手首を切っても、橋の上から身投げしても。必ずどこかで邪魔が入って――あるいは失敗して、私は生きながらえる羽目になった。

 生きながら地獄にいるような日々でした。


 それが若い頃に両親を散々悲しませた罰だったのだと気づいたのは、あなたに出会ってから。


 とにかく、私はあなたに殺してもらうことを期待してあとを追ったの。

 実は途中で知らないベトナム人に鞄を盗まれそうになって、とんでもなく怖い思いをしたんだけど……不思議ね。あのとき逃げずに上手くやれば、あなたを頼らなくたってあのベトナム人が私を殺してくれたかもしれないのに。

 どういうわけか、私はあなたに殺されたかったみたい。

 あなたがハンサムだったから?

 だとしたら私はどうしようもないアバズレね。

 知ってたけど!


 だけど、それがどうしてあなたと結婚なんてしてしまったのかしら?

 私はさっさとあなたの罪を暴いて、口封じに殺してもらうつもりだったのに。

 気づいたら三年もあなたと連れ添って、そして愛してしまった。

 どうしようもないくらい。

 あなたのことを、愛していました。


 気が利かなくて、気まぐれで、ヘビースモーカー。

 不器用で、傷だらけで、いつも空っぽに笑っていたあなた。

 だけどそのあなたの笑顔が少しずつ何かに満たされていくのを見ていたら、愛しくてたまらなかった。こんな私でも必要としてくれる人がいるんだって。

 そう思わせてくれた、あなたのすべてが愛しかったのよ。


 サリー。私の救済者。

 あなたが私にそうしてくれたように、私もあなたを救いたかった。


 だけどあなたの重ねてきた罪はあまりにも重すぎたし、私の寿命はそろそろ尽きてしまう。もう目が霞んであまり物が見えないの。あなたの顔をずっと傍で見ていたいのに。


 だけど、運命よ。

 もう一度お前に宣言するわ。

 私はお前の奴隷にはならない。

 私の愛する人だって、決して連れていかせはしないわ。


 ねえ、サリー。

 突然だけど、『蜘蛛の糸』って話を知ってる?

 生前悪事を働いて地獄に落とされた男の前に、神様が一本の蜘蛛の糸を垂れて下さるお話。男は死ぬ前に一度だけい行いをしていたの。足元を通った蜘蛛の命を憐れんで、その場で殺さなかったのよ。

 だから神様は男にチャンスを与えた。たった一度だけ、蜘蛛の糸を伝って天国へ逃れるチャンスを。


 神父様からこの話を聞いて、私は閃いたわ。

 それなら私があなたのための蜘蛛になろうって。

 だって私は元々、あなたに殺されるために近づいたのだから。

 あなたは私の願いを叶えるの。

 私があれほど必死で追い求めた死を、あなたの手で……。


 ああ、サリー。

 もしかして怒ってる?

 でもお願い。アルバーノさんのことは責めないであげて。

 今回の狂言を考えたのは全部私なの。アルバーノさんはそれに手を貸してくれただけ。

 最初は、それはもうすごい剣幕で反対されたわ。正直ちょっと怖かった。

 あの人は、本当の父親より厳しく私を叱って……そして、抱き締めてくれた。


 ねえ、サリー。


 私は幸せでした。


 だから次はあなたの番。

 どうか神様があなたの上に祝福を垂れてくれますように。


 あーあ、ごめんなさい。何だか長くなっちゃったわ。

 本当は伝えたいことがもっとたくさんあるのだけれど、敢えてここで筆を置きます。

 私はこの想いを正確に伝える言葉を持たないし、今はもうそれでいいと思う。

 だって無理に言葉にすると、全部嘘くさくなっちゃうから。


 ああ、だけど一つだけ。

 最後にわがままを言ってもいい?

 サルヴァトーレ。

 あなたを本当に愛していました。


 だから、もしもまたどこかで出会えたら。



 もう一度、私を見初めてね。



----------------------------------



 たぶん。

 アンジェラが最後に見ていた景色は、こんなだったのだろうと思う。

 視界が霞んで何も見えない。


 ああ、アンジェラ。

 君はずっと泣いていたんだな。

 俺はそれに気づいてやれなかった。


 それなのに、アンジェラ。

 君はそんな俺を愛してくれた。

 ヘビースモーカーで、気まぐれで、まったく気が利かないこの俺を。


 それでも君は幸せだった?

 俺は君を救えたかな?

 人を殺すしか能のないこの俺でも――


 否。


 その俺にしかできない方法で。


「サリー」


 うなだれた俺の肩に、アルバーノの手が置かれる。

 その掌が熱かった。俺はアンジェラの文字がどんどん滲んでいくのも構わずに、空いた手でアルバーノの手を掴む。


「アルバーノ」

「何だ?」

「俺の貯金を、全額あんたに預けても?」

「それはいいが、どうするつもりだ?」

「手紙を書くよ。俺がこれまで殺した相手の遺族に。あんたならそれを届けるくらい朝飯前だろ?」

「サリー」

「俺はあんたから、一生かかっても返せないほどの恩を受けた。……これ以上迷惑はかけられない」


 そう言って見上げた先で、アルバーノのも滲んでいた。

 けれどそれ以上は何も言わず、アルバーノは両手を広げてみせる。

 俺はゆっくりと立ち上がり、言葉もなくアルバーノと抱き合った。


 感謝と、別れの抱擁だった。



              ×   ×   ×



 どこかで鐘が鳴っている。

 祝福か弔いか。

 そのを運ぶ潮風かぜは強い。

 

 岬に立って、俺は最後の煙草を吹かしていた。

 そんな俺のすぐ上を「お先に」とでも言うように、カモメがすい、と飛んでいく。


 海は、今日も輝いていた。

 まるで空との境界に、蜘蛛の糸が一本架かったみたいに。


 その煌めきに微笑んで、俺は煙草を投げ捨てた。



 青が、俺を待っている。







※作中に登場した映画の台詞は、Luc Besson監督作のフランス映画『Angel-A』(2005年公開)より引用しました(日本語:松岡葉子氏訳、一部作者意訳)。敬愛するLuc Besson監督に最大の感謝と愛を込めて。

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