第三話:サルの勝機
私は犬千代と歩いていた。皆は犬千代の事を利家や利家殿と呼ぶ。織田家直参である犬千代は、容姿端麗で背も高い。そんな犬千代には正室の妻がいた。芳春院、皆はまつ殿と呼んでいる人だ。美しく、そして強いお方だ。学問や武芸にまで広く関心を持たれた方だ。
私が信長様に仕えて丁度半年が過ぎた。ここでの暮らしにも慣れ、知り合いも多くなった。
「お〜、利家殿に夜宵ちゃんでわないか」
前から声をかけて来たのは、初めて信長様と面会した際に、堪えきれずに最初に笑ったお方だ。皆からはサルサルと呼ばれている人だ。
「サル、お主も早く妻を貰ってはどうだ? いつまでも一人では寂しいであろう」
犬千代がからかう。
「そりゃ、利家殿にはまつ殿がおるからいいが、ワシはいつまで経っても一人身じゃ」
サル殿はそういうと私の方を見た。
「誰もおらんかったら夜宵ちゃんに嫁いでもらおうかの」
私は顔を赤らめた。
「人間に嫁ぎたいそうだ」
犬千代はサル殿にそう言った。
「そんな事はない。サル殿は面白いお方だし、知恵も持ってらっしゃる」
「サル知恵だけどな」
また犬千代がからかった。
「ひどいのぉ利家殿は。夜宵ちゃんの方がよっぽど素直じゃ」
サル殿はそう言って笑いながら去って行った。犬千代もずっと笑っていた。私はサル殿の笑顔が好きだ。あの人の笑顔は人を幸せにする。
私は犬千代と共に家に戻った。まつ殿の夕飯が待ち遠しい。
「まつ、今帰ったぞ」
いい香りがしている。山椒だろうか。
「お帰りなさいませ犬千代様、夜宵ちゃん」
まつ殿は私と同じ歳。12歳で犬千代の元に嫁いだらしい。私と同じとは思えぬくらいの落ち着いた人だ。武士の妻としての鏡的な人であり、また、女としての鏡的存在の人だ。
「腹が減った。まつの美味い飯を待っておったのだぞ」
犬千代はまつ殿が作る飯が一番好きだ。私も無論まつ殿が作るご飯は格別においしいと思う。
「帰ってたんですか利家殿」
佐乃助が部屋から出てきた。長門佐乃助。古くから前田家に仕えてる武士だ。
「夜宵、退かぬか。利家殿の横は俺の席だ」
佐乃助が怒鳴る。
「犬千代の横は私が座る」
私も負けずに言い返した。
「犬千代って!! なんども言ってるだろう!利家様だ!」
言われなくとも何回も聞いている。
「良いのだ佐乃助。夜宵は私の家来ではない。信長様の家来だ。本当は私とは対等な立場なのだぞ」
犬千代が言い添えてくれた。
「本当でしたら佐乃助の方が夜宵ちゃんのこと、夜宵殿って呼ばなければならないかもしれないわね」
まつ殿も味方をしてくれる。
「まつ殿まで・・・仕方ない。今日は譲りますよ、夜・宵・殿」
私は佐乃助に向かって舌を出した。犬千代もまつ殿も笑っている。ここはすごく心地がいい。こんな日が続いてると、村のことを忘れてしまいそうだ。信長様は忘れろとおっしゃったが、忘れることなどできぬ。半年経った今でさえ、まだ覚えている。
「そういえば、利家殿は明日から駿河に潜入でしたよね?」
そう、犬千代は明日から駿河への潜入する。今川義元。海道一の弓取りと称される、駿河の大名だ。遠江、三河、そして尾張の一部にまで勢力を伸ばしている。現時点で最も天下に近い男とされている。義元自身も優れた内政手腕、それに文武両道の人だが、何より松平元康の力も影響しているだろう。
「大丈夫なのか?」
私は少し心配だった。無事で帰って来てくれるのだろうか?
「心配するな夜宵。私は無事で帰ってくる」
「そうよ、利家殿はこう見えても昔は、槍の又佐衛門って呼ばれた荒れくれ者だったんだ」
今の犬千代からはあまり想像はつかない。確かに武芸の腕は素晴らしい。しかし荒れくれ者だというのは意外だ。
「別に心配などしておらぬ!!ただ他の者の足手まといにならないかというのが心配だったのだ!」
どうも私は素直になれぬ。本音とは違う事を言ってしまう。しかし犬千代は微笑み。
「心配しなくても、足手まといにも、死ぬこともないさ」
そういって私の頭を撫でた。まつ殿も笑ってらっしゃる。本当にここは居心地がいい。
朝早く犬千代は出て行った。眠い目を擦りながらも犬千代の背中を見届けた。無事で帰ってくるのを願う限りである。
私は毎朝修行をしている。忍び足る者毎日の修行は欠かせぬ。幼い頃から叩き込まれた修行の成果か、常人離れした運動能力を持っている。瞬発力や俊敏さ。視野に適用能力。すべてにおいて昔から叩き込まれていた。しかし実戦はまだ無い。人を殺めたこともない。私は、信長様に仕えたといってもそれほどのことはしていなかった。ただ世の中のこと調べろと、そう信長殿は仰った。それから私は何度も城下に下り、いろいろな情報を集めていた。潜入もした。しかし未だに人を殺めたことはない。しかし戦となれば私も人を殺めなければならなくなる。
「夜宵ちゃんじゃねぇ〜か」
サル殿だ。
「ま〜た情報集めに行っとたんか」
餅を食べながら歩いてきた。
「サル殿。ええ、私にはこれくらいしかすることがないので」
サル殿は石に腰掛けた。
「お主の目から見て、今後どうなると思う」
サル殿が爪楊枝を加えながら聞いてきた。
「駿河の今川義元。恐らく近いうちにこの尾張にも攻め込んでくるではないでしょうか」
サル殿は背伸びをして、
「やはりそう見るか。恐らくそれは正しいじゃろうな。相手は最も天下に近い男と言われておる奴じゃ。織田家とてひとたまりもないじゃろうて」
私もそう思っていた。しかしサル殿の次の一言に驚いた。
「まぁ、そうとも限らぬかもしれんがのぉ」
そう言ってヤル殿は笑いながら去っていった。人並みはずれた知恵を持ってらっしゃるサル殿がそう言うとは驚いた。圧倒的な力の差は歴然。何か秘策でもあるのだろうか。私もサル殿の言った勝機とやらを考えていた。
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