蒸しかえるような暑さの中、私は警察署にいた。
別に私が罪を犯して捕まったわけではない。
むしろ私は被害者の立場。
私の名前は丹羽 香苗。
ごく普通の会社につとめる、どこにでもいるようなOL。
いつも朝早く起きて、仕事して、疲れ果てて帰ってくる毎日。
でも最近、いわゆる「ストーカー」という被害に遭っている。
一ヶ月くらい前から、知らない男が帰り道に必ず後ろを歩いて来るようになったのだ。
始めはただ後をついてくるだけで。
でもその男がマンションの前から私の部屋を覗いていたこともあって。
最初は気味が悪いって思っていただけで、私は気にも留めずに何にもしなかった。
でも、毎日毎日付き纏われるようになって。
私はかなり精神的に追い詰められていた。
だから警察に相談しようと思って、いま私は警察署にいる。
「それで、ストーカー被害のご相談ということですか」
目の前に座った中年の警察官が話す。
「そうです。もう毎日付き纏われていて……本当に気が狂いそうなくらい……」
「うーん。ストーカー行為っていうのは、取り締まるのが非常に難しいんですよ。
恋愛感情が満たされていなかった故の付き纏い、とかですね」
「でも、付き纏われているのは本当なんです!」
「何か思い当たる節はありますか? 昔付き合っていた彼氏だったり……」
中年の警官は書類に目を通しながら話す。
「確かにいましたけど、元彼は今海外に行っている、って聞いていますし……。
告白されたこともありました。でも――」
「ストーカーというのは様々な接点があるんですよ。例えば同じ会社の同僚であったり。
一度も話してくれなかった、というだけでストーカー行為をした前例もありますし」
「周りの人ではないと思います。一度ちらっと顔を見たんですけど、全然知らない人で……」
「うーん」
警官はペンで頭を掻きながら唸る。
「それで、具体的にはどんなストーカー行為を?」
「あ、はい――」
◇
あれは、私がいつも通り会社から帰ってきたとき。
私の会社は定時で終わるので、電車が遅れたりしなければいつもほぼ同じ時間にマンションに着く。
でも、一ヶ月前からそれが「いつも通り」ではなくなった。
ある日から、私の後ろを知らない男が付いてくるようになったのだ。
最初は同じ方向なのかな、と軽い気持ちでいた。
けれど、違う。
私のマンションまで付いてきて、中まで入ってきたのだから。
「でも同じマンションの住人かもしれない、って思って。それほど気にはしなかったんです」
「一ヶ月前に同じマンションに引っ越してきた、という可能性がありますね」
「でも……それから毎日後を尾けてくるんですよ!?」
「たまたま同じ時間に帰るだけだった、ということは?」
「それも考えました。でも違うと思います」
「それ以外にもストーカー行為を受けていた、と?」
「そうです――」
◇
土曜・日曜は休みなので、私は午前中に一週間分の買い物を済ます。
暇になった午後からは、近くのフィットネスジムに行っている。
夕方の五時にジムを出て家に帰るので、帰宅するのは五時半くらいになる。
その男は、休みの日である土曜・日曜の夕方五時にも現れたのだ。
私がジムを出る時間に合わせる様に、必ず後ろを付いて来る。
毎日後ろを振り返ればその男はいる。
私は怖くなり、一時期ジムから出る時間を三十分早くしたこともあった。
当然、その次の日には男は現れない。
それでも男は、二、三回現れなかっただけで、その後にも現れるようになったのだ。
「時間をずらしても現れるんですね?」
「はい……三十分早くしたり、一時間早くしても……必ず後を付いてくるんです」
「偶然という可能性はありますか?」
「偶然……?」
「はい、例えばその人は……そうですね。
土曜・日曜にジムの方向に用があって、帰るのが丹羽さんと同じ五時くらい。
丹羽さんが時間を変えたとき、たまたまその人も帰る時間が変わった――」
「有り得ないです! 私、何回も時間を変えているんですよ?!」
私は鬱憤を晴らすかの様に怒鳴った。
それに、偶然と決め付けられるのが何より腹立たしかった。
「うーん」
警官は困ったような顔をして書類に目を向けている。
「その人がどんな人かは分かりますか?」
「えっと……背は普通くらいで、痩せていて、髪は短かったです。
色白でメガネをかけていて……あと、いつも赤いリストバンドをしているんです!」
「ふむ……」
警官は書類の一ヵ所にその男の特徴を書いていく。
「それ以外にストーカー行為、というのはありましたか?」
「はい――」
◇
一度、私は勇気を振り絞って男を待ち伏せてみた。
一体この男は何者なのか、私は少しでも知りたかったからだ。
怯えていたままではダメだと思ったし、何よりこんな日常を少しでも変えたかったから。
いつもより早めに会社を出て、いつもとは違う進路を変えて歩く。
いつも帰っている道が見える場所で、私は男を待ち伏せていた。
そろそろ私があの道を通る時間。
でも……来ない?
腕時計を見てみる。
もういつもの私はこの道を通り過ぎてしまっているし、あの男も通り過ぎてるはず。
(もしかしたら終わったのかも……?)
そんなことを思って、私は少し安心してしまった。
そして何気なくふと後ろを振り返ってみてしまった。
――あの男が、後ろから歩いてきた。
なんで?!
どうして?!
私は時間も道を変えてここで待っていたのに……どうして!!?
私は恐怖で足が動かせなくなっていた。
電柱にもたれかかるようにその場で固まってしまう。
男と目が合う。
せせら笑う様に、それでいて私を見下すように。
嫌な目で男は私を見て、それからゆっくりと脇の道へ歩いていった。
信じられない。
あの余裕のある態度は……見せしめ?!
私がどんなに逃げても……追いつけるという余裕?!
嫌!
もう嫌!!
怖すぎる!!
「大丈夫ですか……?」
「ぁ……は、はい。大丈夫です」
警官に現実に呼び戻される。
思い出されえる恐怖に、私はしばらく我を忘れそうになってたみたいだ。
「うーん……分かりました」
警官はボールペンのキャップを閉めて口を開く。
「もう少しだけ……様子を見ましょう。今日以後、また付き纏われるようならもう一度来てください」
「え……今すぐあの男逮捕できないんですか?!」
「なにぶん、まだまだ確証が取れていませんので」
「そんな……」
私は絶望を感じながら警察署を出る。
もう何もかもが嫌だった。
警察署を出た瞬間から、あの男に付き纏われているように感じてしまう。
「…………」
でも、もう一度警察に相談すれば……あの男は逮捕される。
そう考えた私は、何故か笑みを浮かべていた。
◇
その頃、警察署に一人の男が入ってきた。
背は普通の高さで、痩せていて、髪は短め。
黒縁の洒落たメガネをかけて、腕には赤いリストバンドをしてい若い男性だ。
「はい、何の御用でしょうか?」
受付の若い警官が話しかける。
「た、助けてください! いつも知らない女に待ち伏せされているんです!!」
男は顔面蒼白で、顔からは必死さがこれ以上ない程伝わってくる。
「ま、待ち伏せ……? 後を尾けられているのではなくてですか?」
いきなりの事で、若い警官は少し圧倒されつつもなんとか応える。
「は、はい! いつも必ず僕の前を歩いてこっちを見てくるんです!
毎日時間を変えても……帰り道を変えても必ず僕の前にいるんです!!」
「毎日、なんですか?」
「そうです……土日はアルバイトがあるのに……。それなのに、僕の前にいるんです」
「う、うーん」
「怖くて……絶対に通らない道を歩いたのに……なのに、前の電柱の影から僕を見ていたんです!!
もう怖くて……本当にどうして良いか分からなくて……」
男は話しながらガタガタと震えている。
長い間味わった恐怖を思い出したのか、目には涙さえ浮かべていた。
「お、落ち着いてください。それはいつ頃からなんですか?」
「僕がここに引っ越してきた一ヶ月くらい前から……ずっとです」
◇
後日、一人の女性が逮捕された。
罪名は「名誉毀損罪」及び「虚偽告訴罪」であった。
供述に意味不明な点が多く、妄想と狂言の疑いから精神科の鑑定も予定されているという。
供述は以下の通り。
「アイツが引っ越してきた日の朝……私と目が合っても挨拶しなかった。私を無視した。
だからアイツを陥れようとしたのに……本当に後を付き纏われて……怖くて……嫌! もういや!
アイツは本当に私に付き纏った……! だから警察に訴えた!! アイツがストーカーだ!!」
犯罪心理学の教授によると、過度の被害妄想から引き起こされたヒステリー症状ではないか、とのこと。
なお、被害者の男性からは詳しいことは語られていない。
警察はストーカー規制法に規定されている「恋愛感情」が丹羽香苗にはあった、として捜査を進めている。
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