理由
「やっぱり、俺たちって別れないといけないのかな?」
敦志が訊いてくる。
出会った頃に比べて、ずいぶん大人になったが、そうは行ってもまだ二十二歳の男の子だ。
三十一歳を迎えた亜美とはまだまだ年齢差を感じる。
「もう二人で決めたじゃん」
亜美は今、敦志の部屋にいる。
決してオシャレとは言えない部屋だが、汚くはない。
これも彼がこの六年で成長した部分だろう。
初めて来たときはそこら中に漫画だったり、お菓子のゴミが散らばっていた。
亜美が敦志と出会ったのは、家庭教師を頼まれたからだ。
当時、社会人だった亜美は異動になり、その異動先の職場に馴染むことが出来ず、仕事もうまくいかなくて、仕事をやめて実家に帰って来ていた。
ちょうどその時に、近所に住んでいる敦志の親から、家庭教師の依頼があった。
当時の敦志も高校に入ったものの、学校に馴染めず、不登校になっていた。
親としてはせめて勉強だけでもさせてあげたいという思いで、昔から頭がいいと評判だった亜美に頼んだということだった。
この話を聞いた時、初めは断ろうと思っていた。
確かに暇だったものの、次の仕事を探さなくてはいけなかったし、何より不登校の生徒など面倒でしかない。
実際に一度は断った。
しかし、断った後でもずっと気になっていた。
敦志の境遇が亜美と似ていたせいだろう。
結局、引き受けることにした。
第一印象はかなり暗い子だった。
あいさつしてもなかなか目を見てくれない。ぼそっと呟くだけだった。
やっぱり、失敗だったのかなと後悔した。
それでも、亜美が辛抱強く話しかけていると、次第に心を開いてくれるようになった。
一か月もすれば、自分から自分のことを話してくれた。
学校を不登校になったのは、第一志望の高校に行けなかったからだと言っていた。
元々勉強が出来た敦志は周りを見下し、自分が本来いるべき場所ではないと思っていて、同級生と距離を置いていた。
こんな奴らと一緒にいたら、自分まで馬鹿になってしまうと親にも言っていたらしい。
だが、しばらくすると自分一人だけがクラスの中で浮いていることに気付いた。
自分がそう望んでいたはずなのに、ひどく居心地が悪くなり、学校に行くのが嫌になった。
そして、本当に行かなくなったのだ。
亜美は一度、もしもう一度高校に入ったばかりの頃に戻れたら同じようなことをする? と訊いたことがある。
もう学校に行けるようになってからだ。
敦志はすぐに首を振った。やっぱり学校は楽しいから。
敦志は出席日数が足りなかったため、一年留年している。それでも、一日も休んだことはない。
嬉しいはずなのに、亜美はどこか寂しかった。巣立っていく子を見送る親のような気持ちだった。
「二人で決めたってさあ、俺、納得してないよ。もう怒ってないし。こういう時って俺が決めるもんじゃないの?」
別れるきっかけになったのは亜美の浮気だった。
今の職場の人と一夜を共にしたのだ。
それが敦志に見つかったわけではないが、亜美が自ら言ったのだ。
「あたしが嫌なの。だって、このままあたしにだけ負い目があるのって嫌じゃん」
敦志がこのことを知った時、ひどく取り乱した。
聞いた時は信じられないと言った様子で、冗談だろ? と繰り返すばかりだったが、状況が呑み込めてくるにつれて、ひたすら泣きわめき手が付けられなかった。
そんな様子でも、亜美に手を出すことがなかったのは敦志の優しさを感じさせた。
少しずつ落ち着きを取り戻した敦志に、亜美は別れようと告げた。
もう一度、取り乱すのではないかと思ったが、意外にも敦志はゆっくりと頷いた。
そして、恋人として過ごす最後の日に二人でゆっくりと思い出話でもしようと言うことで、敦志の部屋に来ることになった。
六年間、数えきれないほど通ったこの部屋も今日で来るのは最後になる。
小さなテーブルを挟んで向き合っていると感慨深いものを感じた。
「でも、俺が卒業したら結婚しようって言ってたじゃん」
「敦志君、そういうの好きだよね。付き合う時も大学受かったら付き合ってとかさ」
敦志は照れたように頭を掻いている。
「うーん、何かきっかけがないとそう言うのって言いにくいじゃん」
亜美は敦志が学校に通うようになってからもずっと家庭教師を続けていた。
敦志がそう望んだからだったし、亜美もそれを望んでいた。
勉強が得意だった敦志はみるみる成績を上げていった。
おそらく、誰が教えても今の大学には合格していただろうが、敦志は頑なに亜美のおかげだと言ってくれる。
亜美がいたから、学校にも行けるようになったし、大学にも合格出来たと。
確かに、勉強は多少手助けしたかもしれないが、不登校に関しては何もしていない。
そのことはいつまでも働かない自分にも後ろめたいところを感じていたからだ。
今の自分に学校へ行けなんていう資格はないと思っていた。
何がきっかけで学校に通うようになったのかは本人に直接聞いたことはない。
ただ、敦志の親が言うには亜美を喜ばせたかったかららしい。
高校生に勉強を教えるということは大学行かせるためで、そのためには高校へ行かないといけないと思ったそうだ。
正直、亜美としては、そこはどうでも良かった。
本人が大学に行きたいのであれば行けばいいし、高校なんて行かなくても大検だってある。
行きたくないところに行く苦痛は亜美も分かっていた。
敦志は夏休み明けから学校へ通うようになった。
五月から不登校だったので、留年することは決まっていたのだが、それでも勇気を振り絞って学校へ行った。
クラスメートに恵まれたおかげもあって、すぐに受け入れてもらって、それからは学校を休むことはなかった。
そして、三年半が経って、受験を前にした時、敦志が亜美に言ったのだ。
――もし、大学に受かったら付き合って欲しい。
亜美は驚いた。十歳近く歳の離れている自分にそんな感情を抱いているなんて、思ってもいなかった。
結果として敦志は第一志望に合格して二人は付き合うことになる。
出会って四年が経った二人が今さら恋人関係というのは少し照れくさかったがそれでも幸せだった。
「敦志君ももうすぐ就職だもんね。あの頃に比べたら、だいぶ大人になったよね」
「まだまだだよ。あと一年はある」
もう大学三回生も終わりにさしかかった敦志は就職活動中だった。
「会った時は高校生になったばっかりだったのに、もう社会人だね。早かったね」
「色々あったからね。でも、やっと付き合えたのに亜美が就職しちゃったから、全然デートとか行けなかったじゃん。そんなんだったら、大学なんて行かずにあのままの方が良かったよ」
亜美は敦志の大学進学を機に就職した。
それは前から決めていたことだった。
そのため、付き合う前はほぼ毎日会っていたのに、付き合ってからは週末ぐらいしか会えなくなってしまっていた。
付き合ったからと言って、二人の関係がそんなに変わったわけではない。
デートと言っても、たまに出かけるぐらいで、ほとんどは敦志の部屋で過ごしていた。
唯一変わったのは、敦志が亜美のことを、亜美と呼び捨てにするようになったことだ。
付き合っているということを、何か分かりやすいもので感じたかったらしく、それが敦志にとっては彼女の呼び方だった。
敦志も亜美に呼び捨てで呼んでもらいたかったみたいだが、四年も君付けで呼んでいたのに今さら変えるというのは抵抗があったので、亜美は今でも敦志君と呼んでいる。
「でも大学に行って後悔はしてないでしょ。いつも大学の話してるじゃん」
「そりゃ楽しいけどさ。でも、俺が大学行ったから亜美は就職したんでしょ。亜美が就職しなかったらあいつと会うこともなかったのにさ」
ここで言うあいつと言うのは亜美の浮気相手のことだ。
亜美より二歳上の同僚だった。
会社に入ってすぐに仕事を教えてくれたのが彼だ。
そのため、プライベートでもよく飲みに行ったりしていたが、あの夜以外は一線を越えたことはなかった。
なぜなら、彼には家族があったからだ。
相手のことは敦志にも言ってあったが、このことだけは伝えていない。
「ほら、せっかく最後なんだからもっと楽しい話しようよ」
「こんな状況で楽しい話ってのもな」
「敦志君がそうしようって言ったんじゃん」
「そう言わないと来てくれなかっただろ」
「そんなことないよ」
「嘘吐く時、絶対目逸らすもん」
癖を指摘されてドキッとした。
確かに亜美にはそのような癖があった。
「あの時だってそうじゃん。仕事が入ったって言って、会社の飲み会だった時。あの時、俺、楽しみにしてたんだから」
その日は二人でずっと前から約束していたデートの日だった。
年に一回の花火大会で、二人で色々計画していたが、会社の付き合いでどうしても断れない飲み会が入ったのだ。
「いつまでも昔のこと引きずってるともてないよ」
「俺だってもう子供じゃないんだから、正直に言ってくれれば納得するのに、ずっと目逸らして喋るんだもん。余計怪しいじゃん」
「だって、飲み会なんて言ったら怒るかなって思ったから」
「そりゃずっと楽しみにしてた花火大会だったから、残念だったけど、嘘吐かれる方がもっと嫌だよ」
「だから今度は正直に浮気を報告したんじゃん」
「そう言われても」
敦志は口ごもる。
「新しい彼女が出来ても、女の嘘は見逃してあげるべきだよ。いちいち細かいこと言う男は嫌われちゃうよ」
「それで俺のこと嫌いになったの?」
「だからそうじゃないって。別れるのはあたしの問題」
亜美は立ち上がって本棚からアルバムを取りだした。
そのアルバムには二人で撮った写真だけが収められている。
一番初めのページは敦志の卒業式の写真だ。
この時はまだ合格発表がされてなかったので二人は付き合ってなかった。
「これ卒業式だね。まだまだ子供っぽいね」
亜美は今の敦志と写真の顔を見比べる。
「そうかな。まあ、三年も前だし」
「二十歳前後って一番人の顔って変わるよね。でも、この時の敦志君の顔、本当に明るいね。高校楽しかった?」
「楽しかったよ。むしろ四年も通えてラッキーだったかも」
ページをめくると次は大学の入学式の朝に二人で撮った写真があった。
初めての敦志のスーツ姿の記念だった。
「似合ってないね。まだまだスーツを着るには子供っぽい」
「そりゃ、高校卒業したばっかだもん」
「何か、敦志君にスーツが馴染んでないよね。スーツが浮いちゃってる感じ」
「何それ」
次は初めてのデートで映画を見に行った帰りに撮ったプリクラが貼ってあった。
「プリクラの写真って何か気持ち悪いよね。みんな同じ顔になっちゃうし」
「女の子はまだいいんじゃないの? 男がこんなに目大きくなってたら、ニューハーフみたい」
「でも、敦志君のこの服装気合入りすぎ」
「初デートだったんだからそうなるって。あの時、雑誌とか読み漁って選んだんだから」
「普通でいいんだよ。似合わない服着てるよりも、自然体でいるのが一番かっこいいよ」
二人はアルバムをめくりながら一枚ずつ思い出を語り合った。
祭りに浴衣を着て行ったこと、クリスマスのイルミネーションの下で撮った写真、成人式、お正月の初詣、そして敦志の部屋で撮った写真など、一時間は話し込んだ。
「これで終わりか」
アルバムを見終わって亜美が呟いた。
「意外とアルバムって見ないものだよね」
敦志は寂しそうにアルバムの表紙を見つめていた。
「そうだね。現像した時は見るけどね」
「でもこれぐらい時間が経ってから見た方が楽しかったりもするけど」
「じゃあ、このアルバムはあたしがもらっていくね」
「え? 何で?」
「だって元カノの写真とかあったら、次の彼女怒るよ」
「でも」
「いいから」
亜美は敦志が何か言おうとするのを遮った。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
「もう帰るの?」
「だって十分あたしたちの思い出語ったでしょ」
「もうちょっといいじゃん」
「ダメ。そんなこと言ってたらいつまでも踏ん切りつかなくなっちゃうよ。ほら、早く玄関まで送ってよ」
敦志は渋々立ちあがった。
そして玄関先で最後の別れをする。
「なあ、やっぱり別れなきゃダメなの?」
「まだ言ってるの?」
「だって、俺は別れたくないんだよ」
「この話はおしまい。もう決めたんだから」
「俺と別れてあいつのところへは行かないよな?」
「行かないって」
「別れても連絡はしていいだろ?」
「どうしようかな」
「少しでも気が変わったらすぐに連絡してくれよ。俺、ずっと待ってるから」
「はいはい。じゃあね」
亜美は手を振って敦志の家を出た。
これ以上、敦志の顔を見ていられなかったのだ。
敦志に秘密にしていることがある。
それは浮気の理由だ。
一か月前の定期検診で乳がんが見つかった。
症状としては決して重いものではないが、軽いものでもない。
手術をした後、再発防止のために薬物治療を行わなくてはならない。リハビリも必要だ。
だけどそれに自暴自棄になったから浮気をしたわけではない。
この病気の重みを敦志に背負わせたくなかったのだ。
まだ二十二歳の敦志には重すぎる。まだまだ若いのだ。
これから先にもっと楽しい未来がある。
それを自分の病気で邪魔をしたくなかった。
だから本当のことを言わずに別れたかった。そのために浮気したのだ。
最低だということは分かっている。
でも、少しでも引きずらないような別れ方をしたかった。
もし、敦志が自分と同じぐらいの歳だったら、おそらくこんなことはしなかった。
二人で病気を乗り越えて行きたいと思ったはずだ。
やはり、十歳近く離れていることで、どこか敦志に遠慮してしまっていた。
敦志は何も知らない。初めは何度か連絡が来るだろうが、無視していれば次第に無くなるはずだ。
彼の周りにはいっぱい恋人候補がいる。すぐに新しい彼女が出来て、忘れてくれるだろう。
でも、いつか本当のことを知って欲しいとも思っている。
五年先でも、十年先でもいい。
敦志の横に大切な誰かがいて、そうだったんだと少しだけ思い出してくれればいい。
背中に敦志の存在を感じながら、少しずつ離れて行く。
こらえることが出来ずに涙が溢れてきた。
ギュッとアルバムを抱きしめて前へ進む。