オセロ
「白と黒。プラスとマイナス。陰と陽。男と女……物事というのは大概二種類に分けられるわ」
北国の秋は、なかなか寒い。僕にとっては、「恵みの秋」という印象よりも「冬の前哨戦」というイメージの方が強いくらいだ。
しかし、ピンチはチャンスでもある。
温かいコーヒーで一息というお客が多く、僕のバイト先は珍しく盛況だった。
そんな1日の営業を終えた喫茶店。2つの机をくっつき合わせて出来たスペースに、緑の碁盤を間に置き、僕と先輩は向かい合っていた。
ともすれば、息づかいまでも聞こえてきそうな程の距離だ。少し恥ずかしい僕は椅子に寄りかかって距離を保っているが、先輩はお構いなしに前傾になって僕との距離を縮めてくる。
背中にかかる程の黒いロングヘアーが、動作の度に揺れる。
オセロ。白と黒の争い。日本発祥のボードゲーム。
白黒をはっきりさせる遊戯。
しかし、僕は先輩の意見に納得がいかない。僕は平凡が好きだし、曖昧が好きだ。
それに、決めつけるように話す先輩に対し、ちょっと挑戦してみたかったというのもある。
僕は先輩の黒を自分の色に染め上げながら、問いをぶつけた。
「真ん中は無いんですか? 白と黒だとあまりに極端ですよ……」
「中間を選べば、そこはすなわち灰色。灰色の人生は嫌でしょう?」
流れるように受け答える。僕のちょっとした反抗など、想定の範囲内というわけか。
パチン、と音が響く。先輩が置いた黒は、先にあった黒と一緒に僕の白を包み込み、抱き込み、それを仲間にする。
負けじと僕も取り返す。置いたのは、今ある手の中で、最も多くを獲れる場所。間の黒3枚が白く染まる。
裏返す数と優越感は比例するのだろうか。してやった気分になって気持ちいい。
どうだ、と先輩を見ると、先輩は残念そうな顔をしていた。
いや、少し違う。
正確に言うならば、残念そうな目で僕を見ていた。
「目先の利益ばかり気にしていると……足を掬われるのよ、大司クン?」
余裕綽々と、先輩は僕の上を行く。
僕が数を重視している間に、先輩は着実に地盤を固めていた。先程僕から離反した、元・白の手引きによって城門が開けられ、白軍の兵士が5枚。斜めも合わせると7枚が、敵の手中に落ちた。
オセロは、味方の数が多ければ多いほど有利と言える。
もっとも、味方は敵の足場ともなりうるので一概には言えないかもしれないが……しかし、最終的な勝敗は数でつけられる。
多数決。数の勝利だ。
やがて盤上のほとんどが黒となり、僕ら白軍は白旗をあげた。
罰ゲームは後片付け。
直径34.5ミリメートルの石を集めていく。こうして集めてみると、黒の数の多さが際立ち、白の数の少なさが目立つ。
「そう言えば、オセロの名前の由来って悲劇ですよね?」
僕の問いに先輩は少し驚いたようだった。僕からこの話題が出るとは思いもしなかったのだろう。まあ、僕も詳しく知っているワケじゃないのだが。
「そう。シェイクスピアの四大悲劇の1つ、『オセロ』よ」
先輩は鞄の中から1冊の文庫本を取り出した。シックでお洒落なブックカバーを取り、石の片付けられた碁盤の上にポンっと置いた。
『知っておきたい シェイクスピアの四大悲劇』
「貸してあげるわ。もっとも、それに載っているのは粗筋や解説で、本編は載っていないのだけれど」
「良いんですか? 今、読んでたんじゃ……?」
「良いの。ソレ、2周目だから」
2周目なのに、何故先輩は持っていたのだろうか。
ひょっとすると、全て読んでいたのかもしれない。この話題を今日振ったら、僕が食い付き、興味を持つだろう、と。
先輩はそういうことを出来る人だ。常に先を見ているような、既に何もかも知っているような、そんな超人みたいな人こそが……今、僕の前に居る先輩なのだ。
「人生ってオセロみたいよねぇ……?」
「でも、先輩。オセロが人生だとしたら……人生が悲劇なんて僕は嫌ですよ?」
そんな風に茶化すと、先輩は少し真面目な顔をして口を動かす。
淋しそうに、大人びた表情を浮かべて、言ったのだ。
「人生なんてモノは、たいてい悲劇的なのよ」
大学生の僕、大平大司は、バイト先の古びた……もとい歴史を感じさせる喫茶店「ブラック&ホワイト」でバイトの先輩として……深浦深幸に出会った。
大人の女性という立ち振舞いから、社会人だと思い込んでいた僕は、同じキャンパスで顔を合わせた時には、それこそ心臓が飛び出るほどに驚いた。
未だに高校気分の抜けきらない1年生の僕と、綺麗な2年生の先輩。歳の差こそ1歳しか違わないものの、そこには形容し難く、しかし圧倒的な、何かの差があった。
そんな僕と先輩は、ちょうど1ヶ月くらい前からオセロを始めた。
どこかから引っ張り出してきたソレを抱えて、珍しく活発に、先輩は僕を誘った。そんな先輩が何だか可笑しくて、1も2もなくその提案に賛成したのだ。
それからというもの、営業時間の終わった後にオセロをやって帰るというのが習慣となった。
今日も今日とて、碁盤を囲む。普段静かな先輩もこの時はどこか弾んでいるような印象を受ける。
僕と一緒だから楽しいのかな……なんて妄想するほど、僕も夢見がちではない。けれど、楽しい理由の内、1パーセントでも僕だったら良いなと心から願う。
と、昨日の夜遅くまで眺めていた、先輩から借りた本のことを思い出した。
「粗筋をザッと読んできましたけど、やっぱり悲劇って感じなオチばかりですね……」
『ハムレット』は、王子・ハムレットが父の仇であり、国王である叔父に復讐をし、最後には自らの命をも絶つというもの。
『マクベス』は、勇猛な将軍・マクベスが主君を討ち、王位につくが、やがて暴政によって彼もまた討たれてしまうというもの。
『リア王』は、王だったリアが長女と次女に国を譲るも、疎まれて国を追われてしまう。
別の国の妃となっていた末娘が、リアを助けるが、戦いの果てに末娘たちの国は敗れてしまうというもの。
そして、『オセロ』
軍人のオセロは、彼をよく思わない者に嵌められ、自身の妻、デズデモーナの不倫を疑い、殺害してしまう。
後に真実に気づいた彼は、妻の死体に口づけをしながら自害する。
「まあ、どれも見ていて気持ちいいものでは無いでしょうね」
肘をつき、組んだ手に顎を乗せると、先輩は持っていた石を置いた。中断して、話し込むようだ。
「でも、私はこう思うのよ。確かに悲劇的だった。けれど、衝撃的ではなかったし、刺激的ではなかった……ってね」
「……というと?」
「結局、悲しい劇としか感じれなかったのよ。ただの劇。どこか他人事のような、そんな感じ」
少し分かる気がする。
それこそ、ニュースで聞く事件のようなモノだ。
ああ、悲しいなぁ、怖いなぁ、と思いながらも……だからといって、どうするわけでもない。
そういうことを言っているのだろう、と僕はとらえた。
しかし、違った。
「結局のところ、物語なんて偽物なのだから」
先輩は、そう言って僕を見る。
……いや、僕を通して、その先の何かを見ている。
遠くの何かを。
「私はね、大司クン。物語に感動したことがないのよ。喜怒哀楽を揺さぶられたことがない。だって、それらは人生における偽物にすぎないのだから」
偽物は、本物にはなれない、と。
真面目に、当たり前のように、そんなことを言ってのける。
僕は、分かった気に、理解した気になっていた。
でも、違う。先輩は僕なんかとは違う。
人生を超える物語は存在しないから……だから、悲劇はあくまで劇でしかない。先輩はそう言っているのだ。
「悲劇なんて、当事者になって初めて感じるものよ。きっと」
そんなある日。ちょっとした事件が起きた。
事件というか、事故。
喫茶店のお客が車に轢かれて亡くなったのだ。店から出て、しばらく行った先の交差点で。
フラフラと車道に出ていった……とテレビの中で目撃者は告げる。
「怖い話ですよね」
「そうね。……ホントに怖い」
先輩は真面目な顔で、僕にそう答える。それは少し予想外の反応だった。いつものように他人事として、冷静に返してくると思っていたが……。
そんな話を先輩に振ったのは、ただの世間話だ。
その時の僕は、何とも思っていなかった。
確かに怖いが、別に事件性など無いらしいのだから。
ただ漠然と、信号はよく見て渡ろう……なんて小学生が思い付きそうな感想しか持っていなかった。
また、喫茶店のお客が交通事故を起こした。
今度は被害者ではなく、加害者。
居眠り運転をしたトラック運転手は歩道に突っ込み、擦り傷から骨折まで、多くの怪我人を出した。被害者側に死者は無かったものの、運転手はそのまま頭部を打って死亡していたという。
流石に今回は警察の事情聴取が長かった。
変わった様子は、問題はあったか……そんなことを何度も何度も聞かれた。
確かに、この喫茶店は客が少ない。そして回転率など度外視した、「癒しある空間」をモットーとしているためにお客は長時間滞在が当たり前。しかも常連ばかりなので、来た顔は全て覚えている。
だが、変わったところ、などと言われても……。
実りのある捜査とはならなかったようだ。刑事を名乗る人たちは頭を下げて去って行った。
しかし、それにしても肩がこった。グッと背伸びをしてみると、関節がポキポキと音をたてた。
ドラマではお馴染みの刑事。だが、実際に相対してみると、迫力というか何というか……強い意志のようなものをひしひしと感じた。登場人物たちのように余裕ぶることも、悪態を吐いてみることも、出来なかった。
「お疲れさまです。……大丈夫ですか?」
ふと、先輩に声をかけた。それは、僕にとって何となくの行動でしかなかった。ただ何となく、様子が気になっただけ。
しかし、その時の先輩はどこか様子がおかしかった。
疲労だけではない、何かがあった。
「先輩?」
「ええ、大丈夫。……ホント物騒よね」
僕に答えたのか分からないような返事をして、先輩は帰ってしまった。
去り際。すれ違いざまに見た先輩の顔は……火照り、熱があるかのようだった。
その日、僕と先輩はオセロをやらなかった。
いや、その日から、僕と先輩はオセロをやらなくなった。
何故なら、先輩がバイトを休んでしまったから。
それも3日連続で、だ。
何度かメールを送ったが、「大丈夫」としか記されていなかった。
何度も拭いたテーブルを、もう一度拭く。
そうしないとすることがなく、立っているだけになってしまうからだ。
ただでさえお客の少ない萎びた喫茶店は事件のせいか、さらに客足が減ったような気がする。
来客を告げる鈴の音を、ひたすら待つ。
カチカチカチ……と、針の音がやけにうるさい。
「つらいでしょう?」
何やら書き物をしていた店主の田辺さんが声をかけてくる。老体を鞭打って、常連客のために切り盛りしていたらしい彼女。
今回の一件で一番ダメージが大きいのは彼女だ。
それなのに、田辺さんは僕を優しく気遣う。
「いえ、大丈夫ですよ。ただ暇で暇で……」
と、僕はアクビの真似までしてみせる。田辺さんは温かく笑ってくれた。
やはり、この優しいお婆さんが一番損をするというのは……割りに合わない。
「彼女さんは、やはり休んでしまったようですね?」
「いや、まだ彼女ってわけじゃ……」
しかし、端から見ると、そう見えてしまうのだろうか。
……かなり勇気が湧いてきたぞ。
「閉店した後に、二人で何かやっていらしたんでしょう? わざわざ鍵の担当を申し出ちゃって」
イタズラっぽく、田辺さんは尋ねる。わざとらしく顔を扇ぐフリなんかもしてまで。……なかなかノリの良い人だ。
だが。あらぬ誤解を受けるのは心外だ。少し訂正を加える。
「違いますよ。オセロですよ、オセロ。この店にあるオセロを借りて、対決していたんですって」
またまた、謙遜しちゃって……などというリアクションが来るのかと思えば、田辺さんはきょとんとした顔で告げる。
僕の知らなかった事実、当たり前に受け入れていた事実を。
「あれ? でも、うちの店にオセロなんて置いてないんだけどねぇ……」
バイト後。自室で一人、考え事をしていた。
体を動かす気にはなれなかったが、頭はよく働いた。
先輩のことで頭が一杯になっていた。
普通なら、先輩はマスコミの取材や警察の事情聴取による心労などから休んでいる、と考えるのが当然だ。
けれど、何かがおかしい。
春に先輩と出会い、最近はほぼ毎日オセロをして触れ合った。
そんな僕は……先輩の行動・言動から、どこか違和を感じる。
先輩はどんな人なのだろうか?
半月かそこらの付き合いで、僕は先輩の何を語れるのだろうか?
僕は……深浦深幸の、何を知っているのだろうか?
出しっぱなしの敷き布団に寝転がる。何か癒しが欲しかった。
ふと、枕元の本に目がいった。
あの日、先輩から借りた本。「四大悲劇」の本。
パラパラとめくり、ボーッと中身を流し読みする。
ボードゲーム「オセロ」の名前の由来は、シェイクスピアの同名悲劇『オセロ』から来ているという。
目まぐるしく変わる展開が、白と黒を何度もひっくり返す様子と対応している、と。
まず、主人公である軍人オセロはデズデモーナと大恋愛の末にかけ落ちをするのだ。
しかし、彼を嫌う旗手は讒言する。
「デズデモーナは不倫をしている」
虚言とも知らずに驚愕したオセロは決意する。
デズデモーナを私の手で殺す、と。
そして、デズデモーナを殺した直後、旗手の妻が駆け込み、オセロに告げる。
「全ては彼のでっち上げだった」
失意の中でオセロは妻の死体を抱き締めながら、後悔を噛み締めながら、自害する。
思えば……この時に話した内容は、初めて先輩の内面に触れるものだった。
ニュースを他人事に思うように、物語もまた偽物であり、他人事でしかないから感動できない……そう先輩は言っていた。
人生経験だけが、彼女の感情を揺さぶる。
……そうだ。これが違和の正体。
「だとしたら、先輩は……」
僕は、先輩にメールを打った。
本を返したいので閉店後の喫茶店で会いましょう、と。
無視されるかもしれない。
けれど、僕は会わなくてはならない。話さなくてはならない。
岩戸をこじ開けなければならない。
嫌な役回りだ。
さながら、デズデモーナを殺すオセロのようで。
願わくは、彼のように手遅れにならないことを。
先輩に悲劇の訪れないことを。
久し振りの対面を果たした先輩は、以前よりも痩せた気がする。肌も透明になりそうな程に白い。
しかし、そんな様子が逆に美しさを引き立てている。
儚げな、雪の結晶。
「久し振りね。前より男らしくなったんじゃない?」
勝手にコーヒーを淹れながら、先輩はそんな風に茶化す。
ついこの前までなら、そんなことを言われた日には舞い上がって、盛り上がって、はしゃいでいただろう。
けど、今日は違った。平常心で相対している。
僕は先輩の軽口にニッと口角をあげることで、流す。
そして、スーッと息を吸い込んだ。夕時の、秋の冷たい風が僕の肺を冷やす。
その空気は肺から循環して脳に渡る。そして、頭を冷静にしていった。
淹れてくれたコーヒーを口につけ、カラカラの喉を濡らす。優しい味わいを感じ、躊躇いがちになりかける意思と意志。
しかし、僕は口を開く。
「先輩……お話があります」
いつもと違う風に切り込んだ僕に対して、先輩はいつもと変わらず、余裕綽々と受けた。
「まずは……この本、ありがとうございました。勉強になりましたよ」
「そう? 役に立てたなら何よりだけれど」
実際、面白かった。僕の知らない知識がそこに書いてあった。
しかし、これは本題ではない。
「ところで先輩、どうしてですか?」
「え?」
「どうして、僕とオセロを始めたんですか?」
先輩の顔に困惑が浮かぶ、しかしそれもまた、演技なのだろう。
ならば、僕はその演技を止めさせる程に追いつめるしかない。
「どうして、あの時に先輩は怖がっていたんですか?」
ーー私はね、大司クン。物語に感動したことがないのよ。喜怒哀楽を揺さぶられたことがない。だって、それらは人生における偽物にすぎないのだから
だったらどうして……他人事のような事件に対し、怖がっていたのか?
ーー悲劇なんて、当事者になって初めて感じるものよ。
答えは簡単だ。当事者だったから。
あれは他人事なんかじゃなく、自分の事だったから。
先輩が……加害者だったから。
止まらない。疑問が溢れて、止まらない。
「どうして、コーヒーに睡眠薬を入れたんですか?」
先輩の顔から笑みが消える。
シロからクロへ、反転する。
「刺激が欲しかったのよ」
先輩は語る。真相を。僕の疑問に対する、答えを。
僕の失礼とも言える追求について、何も言わない。
それはつまり、「正解」ということか。
「私は、物語に感動できない。偽物に感動できない。けれどね、ソレってやっぱり物足りないのよ」
物足りない。
先輩は別に物語が嫌いというわけではない。
けれど、それに感動することができない……そんな体質であり性質なのだ。
「だったら、自分の人生に喜劇を、悲劇を……刺激を求めるしかないじゃない?」
さも当然のように語る先輩に僕は同意しかける。
けれど、違う。その意見には同意しかねる。
だって、先輩が求めた刺激は、あまりにも強い。
周りを巻き込むほどに強力な刺激。
周りに協力を強いる、壮大にして壮絶な劇。
「私が書いたシナリオは単純よ。私を信頼している誰かを絶望に叩きつける。衝撃の事実を開示して、ね?」
その「誰か」という配役が僕だった。
僕ほど扱いやすい役者もいなかっただろう。
「悲劇『オセロ』の話を、大司クンからしてくるとは思わなかったわ……。でも、そんなアドリブも醍醐味よね」
先輩は僕とオセロをやり、四大悲劇の話をした。
わざわざ自分でオセロを持ち込んでまで。
それは『伏線』を張るため。
僕の脳内に染み込ませるため。
「ちなみに……お客に睡眠薬を入れるのは、実はかなり前からやっていたの。 もちろん、量を調節していたから、せいぜい仕事中に寝ちゃうくらいの被害だけだったけど……」
……止めてください、先輩。
そんなことは聞きたくない。
僕の思う……僕が好きだった先輩は、そんなことをしない。
「でもね、軽い気持ちで多く入れてしまったせいで人が死んだとき、私は高揚を抑えられなかった……」
やがて、罪悪感を感じなくなった……と先輩は呟いた。
僕は先輩に何をすれば良いのだろうか?
黙っている? 通報する?
僕に選択肢など無いことに気づいたのは、それからしばらくしてからだった。
先輩の告白を聞きながら、僕の視界は何故かぼやけだす。
眠い、なんて可愛いものじゃない。
重くなった瞼が僕を別の世界に誘おうとする。
頭以外の機能が、停止しているかのような感覚。
動けない。たまらずにテーブルに伏せてしまう。
顔をあげた先には、先輩の黒髪の先端。催眠術でもかけるかのようにゆらゆらと揺れる。
「どう? 大司クン。……慕っていた先輩に裏切られた気分は?」
このコーヒーを淹れたのは、僕が語る前。
その頃から先輩は分かっていたのか?
僕が探偵を気取って、真実を探ろうとすることを。
そして、何の躊躇いもなく、睡眠薬を入れたのか?
「あはは、色んな感情が入り交じった良い顔ね……最っ高!」
狂っている。
いや、違う。これは夢だ。このまま寝てしまえば忘れてしまうような、他愛ない夢に違いない。
僕の知っている先輩は……。
体が動かない今、唯一動かせる頭を僕は回転させ続けた。
やはりおかしい。先輩の理論には矛盾が生じる。
劇作家になったところで、それは今までと一緒じゃないか。
「だって先輩……。それじゃ……それじゃあ、また悲劇を端から見ているだけじゃ……!?」
そんな僕に対し、先輩は遠い目を見せる。僕のことなど、もはや眼中に無いというように。
「……誰かの悲劇というのは、同時に誰かの喜劇なのよ」
黒い。先輩の笑みが、黒い。
違う。違う。違う。
何かが違う。嵌められた?
「だって、こう言うじゃない? 『他人の不幸は蜜の味』って」
ゾクッと背中に冷たいものを感じるが、頭は状況を理解しようと未だに回転して熱を出す。クラクラとして気持ちが悪い。胃の中身が逆流してきそうだ。
「私の配役は、オセロを騙した旗手かしらね。そして、真実を告げた旗手の妻……」
何故、僕は……。
コーヒーの黒と、カップの白。
髪の黒と、肌の白。
そして、テーブルの上に置かれたオセロの黒と白。
ぼやけていく視界の中で、先輩の声が鼓膜に響いた。
「悲劇は楽しんでるかしら……オセロ役の大司クン?」
ああ、僕がオセロだったのか。
讒言に踊らされ、妻の貞操を疑い、殺した男。
真実を知った時には、もう手遅れだったという愚かな男。
なんてピッタリなキャスティングなのだろう。
真っ白になった視界が反転し、全ては黒に染まろうとする。
最後に前を向くと、先輩はニッコリと笑った。
恐らく、僕に見せた最初にして最後の……本当の笑み。
メイクの剥がれた、彼女の本性。
ああ、先輩は今まさに劇を楽しんでいるのだろう。
僕にとっての悲劇。先輩にとっての喜劇。
最後に先輩を楽しませることが出来たのなら、役者として冥利に尽きるといったトコだろうか。
スポットライトが消え失せる。
閉幕。終劇。次回公演は未定。
やがて、僕は何も見えなくなった。