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お嬢様と秘密の恋。 作者:庚 真守
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中年執事とお嬢様

「どこにいても、きっと迎えに来るって約束したけど……ごめんね。すっかり遅くなって」
 楽し気な小太郎に対して萌花は、落ち着かない。
 これがかつて慕っていた“お兄ちゃん”だったとしても十年近い歳月が二人の間にはあった。
 その時間の隔たりは、簡単に埋まるはずもない。

「あ、あの……下ろして……ください。お、重いから!」
「そうだぞ。危ないじゃないか! お嬢様になんてことを」
 犬飼校長も横から萌花の身体を支えようとする。
「触るな。お嬢様に加齢臭が移る!」
 萌花から、犬飼校長へ振り向いた瞬間の小太郎の表情が一変する。まるで文楽人形の姫が、一瞬にして目を剥き口も裂けて鬼の形相になったようだ。
 それを目の当たりにして萌花は、抱き上げられたまま硬直していた。

「誰が加齢臭だ。それならお前だって!!」
「ジジイと一緒にするな」
「若作りしても三十すぎたら、中年だろうが」
“若作り”という犬飼校長の言葉に小太郎の眉がひくっと動く。
「……俺が中年なら、あんたは即身仏か?」
「即身仏なら、もう少し敬え」
「今すぐ富士の樹海に埋めてきてやるわ!」


「あ、あの!!!」
 二人の陰険な漫才が始まる前に萌花が止めに入った。
 昔から、このやりとりは変わっていない。
「あの、あの、校長先生も、お兄ちゃ……いえ、犬飼先生も……あたし“お嬢様”なんかじゃ……」
 へらっと笑おうとして顔が引きつった。
 目の前にいる二人の顔色が暗く沈んでしまったからだ。くだらない口ケンカをさっきまでしていたとは思えない。
 こんな大人の男性の今にも泣きだしそうな痛みをこらえるような……そんな微妙すぎる表情を萌花は、これまでの人生において見たことがなかった。
 あえて表現するならば、捨てられた仔犬(親仔犬というべきか)そっくりなのだ。

「あ、あの、父の会社が倒産して、あたし働くことを考えていたのに、こんな立派な学校に通わせてもらえるなんて……なんてお礼を言っていいか……」
 せめて気持ちを引き立てようとして萌花は、あわてて言った。

「いいえ、今の犬飼があるのも、大恩ある大旦那様のおかげでございます」
「いや、この学校の編入試験に合格したのは、お嬢様の実力だ」
 まるで、息をそろえたように同時に二人が別々に応じた。
 やはり親子なんだな……と、へんなところで感心してしまう。

 編入試験は、がんばったけど……奨学金やらこまごまとした手続きをして、この学校に通えるようにしてくれたのも、二人のおかげだった。
 電話やメールでは何度か連絡を取り礼を言うこともできたが、彼らも多忙である。萌花自身もバイトのあけくれで、なかなか直に会える機会がないまま、編入する当日にようやく再会できたのだ。

「あたし……本当に、何度お礼を言っても言い足りないほどです」
 小太郎に抱き上げられたまま萌花は、上から頭をさげた。
 さすがに小太郎は、萌花を下ろしてソファーに座らせる。すっかり冷めてしまった緑茶と菓子を勧められた。

「お嬢様は、銀座の“空也もなか”がお好きでしたね」
 そう犬飼校長が言うと、すかさず小太郎が言い返す。
「違う。銀座の“空也餅”だ」
 確かに、小太郎の言う通り萌花が好きなのは“空也餅”だが、あれは冬季限定の生菓子で予約してもなかなか手に入らない。季節外れのこの時期に……もち米に包まれた団子が懐紙の上に並んでいる。

「どうしたの? これ……」
 長い間、口にすることのなかった生菓子を前にして萌花は、つい昔のように話していた。
「萌花ちゃんが好きだから、ちょっと再現してみたんだ」
 小太郎に促されて、そっと団子をつまんで口に運ぶ。
 粒の残る餅生地がよく晒したつぶし餡を包んでいる。上品な甘みでさっぱりとした口当たり……。
 ずっと昔に食べたことの懐かしい味。でも、それは老舗の和菓子屋の味とはまた違う。
 これは“お兄ちゃんの味”とでもいうものだろうか。
 いつも遊んでくれた大好きなお兄ちゃんは、いつもこうやっておやつを作ってくれた。
 口の中に広がる甘い味は、幼い日を呼び起こさせる。

 ずっとあのころから過保護で……別れる時には泣いて、泣いて……。
 懐かしさにじんわりと涙が込み上げてくる。
 団子をほおばったまま萌花は、涙をこらえた。

「お嬢様は、オムツのとれるのも早くていらして……」
 その様子を見ていた犬飼校長が感慨深げに言う。
「ふぐっ?!」
 何を言い出す気か……。
 喉に団子が詰まりそうになりながら萌花は、茶碗に手を伸ばす。

 すかさず小太郎が萌花の背中をさすりながら答えた。
「お嬢様のオムツを取り換えたのは俺だ!!!」
 ――その話は……ちょ、ちょっと……。
 小さいころには、お兄ちゃんがオムツから何から面倒を見てくれていたというのは、何度も聞かされた話だ。本人には記憶がないのだが……。

 ――それでも当時は、お兄ちゃんとのつながりの深さを感じられて嬉しかったんだけど……。
 今の大人になったお兄ちゃんにそんなこと言われるのは恥ずかしすぎる!!

「小太郎は、あのころからお嬢様には触らせてくれないから……」
「お嬢様は、すぐにおむつかぶれをされるのに、紙おむつを使おうとするからだ。オムツは布だろ?!」
 ――お兄ちゃん、布おむつ派だったんだ……っていうか、もう止めてください。
 何なのこの状況は……。再会の喜びもどこかへ飛んで行ってしまった。
 なんの罰ゲームなの。これ?

「今の紙おむつは、なかなかの優れものなんだぞ! お嬢様には、産婦人科でも使用されているというあの有名な……!」
 お願い。本当にもう止めて!!!
 萌花の必死の思いが通じたのか、どうかは分からないが犬飼校長は恨めしそうに小太郎に訴えた。
「小太郎……お父さんだってお嬢様と」
「校長のせいで、今後の学校生活に支障があったらどう責任を取るつもりですか?」
「もちろん。私はわきまえているつもりだよ。犬飼小太郎教諭」
 冷たくあしらわれて犬飼校長は、わざとらしいほど仰々しく言った。
「どこが?」
 肝心の小太郎は、気にしている様子もない。
 萌花の茶碗に新しいお茶を注いでいる。
「きみを産休代替教員として、大学から呼び寄せたのもそのためだ」

 ――え?
 思いがけない犬飼校長の言葉に驚いて小太郎を見上げる。
 萌花の頭に小太郎は、そっと大きな手をのせた。
 ふっと優しい微笑みを見せながら、犬飼校長に対してだけドスの効いた声で言う。
「エスカレーター式の女子校で編入生は珍しいんだ。お嬢様、いや生徒に迷惑をかけないようにしてください。校長先生」
「そのへんは大丈夫だ。犬飼小太郎教諭。お嬢様がおひとりでは寂しいかと思って、たまたま編入生がいたので同じクラスに……」
 そう言いながら犬飼校長は、萌花にずいっとせり寄ってくる。
 ――ち、近い!

「近寄るなって言ってんだろが! このボケ老人が!!!」
 すかさずお兄ちゃんは、あたしの腕をつかんで引き寄せた。
 一瞬にして、職場における上下関係は崩れたらしい。
「お嬢様の前で、その言葉遣いは止めなさいといっただろう。小太郎」
「では、校長先生。うちの宇佐見に触れないでください。加齢臭が移ります」

 いたって冷静な小太郎と違って萌花のほうは、心臓が口から飛び出そうな思いをしていた。
 抱き寄せられて、ちょうど頭が小太郎の胸のあたりにぶつかる。
 幼いころはともかくとして、年頃になって家族以外の男性と身近に接するなどなかった。

「失礼だな。お父さんは、加齢臭予防のために念入りに首の後ろを洗っているんだぞ。そもそも加齢臭というのは、だな……」
 校長の加齢臭の話は、まだ続いている。
 今の萌花には、小太郎のかすかな匂いのほうが気になっていた。
 ――薄荷草の匂い。

 子供のころとは、違う匂いだった。
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