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お嬢様と秘密の恋。 作者:庚 真守
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極貧とお嬢様

 萌花は、校長室の前で立ちつくしていた。
 大きな樫材の重厚な扉である。おそらく校章であろうか。中央に金色の装飾のついたノッカーがはめ込まれていた。
 これまで通っていた公立の高校の扉は、白い合板の引き戸だ。校長室も教室も同じようなものだったはず……。
 さすがに私立のお嬢様学校ともなると、こんなところも違うのか。

 ノッカーに手を伸ばしかけたが、先にドアノブが動いた。
 焦って一歩引くより前に室内から出てきた人物が、目の前でひざまずく。

「……え……え?」
 何が起こったのか理解できない。たった今、校長室のドアの前に立ってから、数秒の出来事だ。
 凍り付いたように動けない萌花の目の前に白髪頭と黒っぽいスーツの背中が見える。

 ――何、何が起こったの……?

「萌花お嬢様。お久しゅうございます!!!」
 聞き覚えのある声。それにこんな呼び方されるのは、本当に久しぶりのことだった。
「あ、あの……い、犬飼さん……?」
 萌花に呼びかけられて白髪頭が跳ね上がった。
 分厚い瓶底眼鏡と、特徴的な髭。
 まさか、という思いと、たぶんそうだろうな……という気分が入り混じっている。
 萌花が生まれる前から執事として、祖父の代から仕えていた犬飼だった。

「お嬢様、おひとりでここまでいらしたのですか?」
 犬飼は、ひざまずいたままの姿勢で萌花を見上げる。
「あ、あの……こんなところで……その……た、立ってください……犬飼さん」
“犬飼”というより、飼われているほうの犬みたいだ。
 自分の両親よりも年上の男性にひざまずかれても、どうしたらいいのか分からない。

「ああ、これは大変、申し訳ありませんでした。お嬢様をこんなところに立たせたままなどと」
 重厚な扉を押し開き萌花を招き入れ犬飼は、丁寧に頭を下げる。

 ――いや、違うんですが……。
 心の言葉を飲み込んで萌花は、校長室に踏み込んだ。
 毛足の長い絨毯。贅沢な調度品と一緒にトロフィーが並んでいる。

「どうぞ、おかけください。じいやがお茶をお持ちいたしましょう。お嬢様のお好きな銀座の“空也もなか”がありますよ」
 上座の席を促されて萌花は、慌てた。
「い、いいえ、その……犬飼さん……じゃなくて、校長先生!」
 萌花の言葉に一瞬、犬飼の動きが止まる。
「…こ、校長先生…あたし、もうお嬢様じゃないですから……」
「いいえ、萌花お嬢様は、何があろうとわたくしのお嬢様です!!」
 強い口調で断言されると萌花は、口ごもってしまう。




 昨日のお嬢様も、今日は極貧。
 当たり前だと思っていた日常が、突然、なくなってしまうことがあるのだ。
 かつて萌花の自宅は、使用人を何人も抱えるたいへんな素封家だった。十年ほど前までは……。


「……だけど、あたし、ここの学校の生徒……にしてもらっただけで……」
 萌花が言い終わるのも待たずに犬飼校長は、興奮気味に萌花の手を両手で握りしめる。
「ああ、やはりお嬢様は亡くなった大旦那様に似ておいでです。どんな時もけじめを大切になる方でいらして!」
 校長先生の言う大旦那様とは、萌花の祖父のことである。三代目で会社が倒産とは、世間ではよくある話だ。
 とはいえ、外部環境も大きく影響していた。
 バブル崩壊、リーマンショック後の信用収縮……不景気の波はどうしようもない。
 さらに、主力商品のライフサイクルの衰退が重なる。そこで改革を行おうとすれば、これまでの歴史や企業風土を無視したといって古株の従業員たちの反感を買う。
 そうこうしているうちに、時代の流れに取り残されてしまうわけである。

 もちろん萌花がそんな大人の事情を知るはずもない。
 ただ、家族も同然の古くから仕えた“じいや”たちと離れるのが寂しかっただけだ。


 唐突に、閉めたはずの扉が音を立てて開いた。
 犬飼に手を握られたまま萌花は、振り返りかけたその時、荒々しい怒号が響く。
「止めてください。校長!」
 茶器を載せた盆を持った若い男が犬飼と萌花の間に割り込んできた。
「宇佐見はわたしの生徒です。むやみに触らないように!」

 低い声音。
 見上げるような長身……背中しか見えないので誰かは分からないが、おそらくは担任教師らしい。
 きちんとした高価そうなスーツ。どこかのブランドかしら。これも今まで通っていた公立高校とは違う。たいていの先生がたは、ジャージかヨレヨレの背広だった。

「何を言っているんだ。小太郎だって、幼馴染のお嬢様に久しぶりにお会いできて、嬉しかったんだろう?」
 不満げな声を上げる犬飼校長の言葉に萌花は反応した。
 ――小太郎?

「学校では、下の名前で呼ぶなと言ったな。クソおやじ!」
 低い声にいっそう凄みが加わる。萌花は、震えあがった。
 ――まさか、まさか……そんな?

「小太郎! お嬢様の前でなんて口のききかたを……」
「そのお嬢様に触んなって言ってんだろうが!!」
 目の前の人物がダークスーツを着ているせいか、その怒鳴り声のせいか、まるで暴力団関係のような……。
 ――いや、あたしだって、根っからのお嬢様ってわけじゃない。
 父の会社が倒産してからというものアルバイトもしたし、それまで通っていた私立の学校も辞めざるを得なかった……そして、今の状況はさらに悪化している。

「あ、あの……もしかして……お、お兄ちゃん?」
 思い切って、そう呼んだものの緊張で足が震えくる
 人違いの可能性もないわけではない。
 だが、犬飼校長を“クソおやじ”と言える人間は、ごく限られてくるはずだ。

 目の前のヤクザを思わせるような口ぶりの男性は、手にした盆を校長に押し付けると、萌花のほうを振り向いた。
 言葉遣いこそ悪かったが、その面差しは美しいと言ってもよいほど整っていた。
 年のころは、三十前後だろうか。

「萌ちゃん……」
 声が違う。
 ふわりと微笑むその表情が違う。
 色素の薄い肌と髪。猫を思わせるような、ややつりあがりぎみの大きな双眸だけが、かつての小太郎の面影を残している。
 かつての執事だった犬飼校長の一人息子だ。

「お、お兄ちゃん……本当に?」
「萌ちゃん。俺のお嬢様……やっと逢えたね」
 言うが早いか小太郎は、萌花の脇の下に手を差し入れそのまま抱きあげた。
 小さな子供をあやすように、高く持ち上げられる。子供のころには、よくそうやって遊んでくれたものだ。
 だが、すでに高校生になった萌花は、なんともいえぬ不安を感じてしまう。
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