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お嬢様と秘密の恋。 作者:庚 真守
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極貧令嬢

 萌花は、校長室の前で立ちつくしていた。
 大きな樫材の重厚な扉である。おそらく校章であろうか。中央に金色の装飾のついたノッカーがはめ込まれていた。
 これまで通っていた公立の高校の扉は、白い合板の引き戸だ。校長室も教室も同じようなものだったはず……。
 さすがに私立のお嬢様学校ともなると、こんなところも違うのか。

 ノッカーに手を伸ばしかけたが、先にドアノブが動いた。
 焦って一歩後ろに引くより前に室内から出てきた人物が、目の前でひざまずく。

「……え……え?」
 何が起こったのか理解できない。たった今、校長室のドアの前に立ってから数秒の出来事だ。
 萌花の目下に白髪頭と黒っぽいスーツの背中が見える。
 身なりのきちんとした白髪の年配の男性が、高校生の前でひざまずくという日常では、あり得ない事態に萌花は凍り付いた。
「萌花お嬢様。お久しゅうございます!!!」
 上ずった声は今にも泣きだしそうだ。家に電話をかけてきた時もこの調子だった。
「あ、あの……い、犬飼さん……?」
 萌花に呼びかけに白髪頭が上がる。
 分厚い瓶底眼鏡と特徴的な口髭。日本人離れした風貌に芝居がかった言動。
 まさか、という思いと、やっぱり……という気分が入り混じっている。
 萌花が生まれる前から執事として祖父の代から仕えていた犬飼。
 小さいころは“じいや”と呼んでいたが、あの頃の犬飼は髪も口髭も黒々としていたと思う。今は見事な銀髪だ。
 けれど優しいじいやの面影は、昔のまま残っている。

「お嬢様、おひとりでここまでいらしたのですか?」
 犬飼は、ひざまずいたままの姿勢で萌花を見上げる。
「あ、あの……こんなところで……その……た、立ってください。犬飼さん」
 ――“犬飼”というより、飼われているほうの犬みたいだし……。
 自分の両親よりも年上の男性にひざまずかれても、どうしたらいいのか分からない。
 欧米人でも女性の前でひざまずくといえばプロポーズの時ぐらいだろう。

「ああ、これは大変、申し訳ありませんでした。お嬢様をこんなところに立たせたままなどと」
 重厚な扉を押し開き萌花を招き入れ犬飼は、丁寧に頭を下げる。

 ――いや……問題はそこじゃないでしょ。なんで、ひざまずくんですか。何時代だ。ここは英国王室ですか。
 心の言葉を飲み込んで萌花は、校長室に踏み込んだ。
 毛足の長い絨毯。贅沢な調度品と一緒にトロフィーが並んでいる。

「どうぞ、おかけください。じいがお茶をお持ちいたしましょう。お嬢様のお好きな銀座の“空也もなか”がありますよ」
 上座の席を促されて萌花は、慌てた。
「い、いいえ、その……犬飼さん……じゃなくて、校長先生!」
 萌花の言葉に一瞬、犬飼の動きが止まる。
「こ、校長先生……あたし、もうお嬢様じゃないですから……」
「いいえ、萌花お嬢様は、何があろうとわたくしのお嬢様です!!」
 強い口調で断言されて、萌花は口ごもってしまう。
 そんなことを言っていた人がもう一人いた。
 いつもは“萌ちゃん”と名前を呼んでくれたはずなのに別れ際になって急に“お嬢様”と……言われたことがいっそう寂しくて泣いてしまったことを覚えている。




 昨日のお嬢様も、今日は極貧。この世は諸行無常。
 当たり前だと思っていた日常なんてどこにもない。
 かつて萌花の家は、使用人を何人も抱えるたいへんな素封家だったという。そんなことを今の萌花は、ほとんど覚えていない。
 十年前も昔の話だそうだ。
 萌花は、小学校に入学したてのころかもしれない。
 そこでは“お嬢さま”なんて呼ばれたことなど一度もなかった。
 執事喫茶にでも行けばともかく、リアルに執事という人種とは無縁の生活だ。



「……だけど、あたし、ここの学校の生徒……にしてもらっただけで……」
 萌花が言い終わるのも待たずに犬飼校長は、興奮気味に萌花の手をとった。力を込めて自分の両手で握りしめる。
「ああ、やはりお嬢様は亡くなった大旦那様に似ておいでです。どんな時もけじめを大切になる方でいらして!」
 校長先生の言う大旦那様とは、萌花の祖父のことだろう。。三代目で会社が倒産とは、世間ではよくある話だ。
 とはいえ、外部環境も大きく影響していた。
 バブル崩壊、リーマンショック後の信用収縮……不景気の波はどうしようもない。
 さらに、主力商品のライフサイクルの衰退が重なる。そこで改革を行おうとすれば、これまでの歴史や企業風土を無視したといって古株の従業員たちの反感を買う。
 そうこうしているうちに、時代の流れに取り残されてしまうわけである。

 もちろん当時の萌花がそんな大人の事情を知るはずもない。
 両親も話してくれないことだが、少しずつ周囲の状況を見たり聞いたりしているうちに、萌花自身が勝手に考えて想像したことである。
 当たらずとも遠くないだろう。
 あの頃は、家族も同然の古くから仕えた“じいや”たちと離れるのが寂しかっただけだ。
 そんな感傷も今にも泣きださんばかりに訴えてくる校長を前にしていると、ノスタルジックな感傷から現実に引き戻され、しだいに冷静になってくる。



 困惑する萌花の背後で、唐突に閉めたはずの扉が音を立てて開いた。
 犬飼に手を握られたまま萌花が振り返りかけた時、荒々しい怒号が響く。
「その手を放せ!!」
 茶器を載せた盆を持った若い男が犬飼と萌花の間に割り込んできた。

「お嬢様に気安く触れるんじゃねぇ……」
 低い声音……いや、ハッキリ言って、このドス声が怖い。
 見上げるような長身……背中しか見えないので誰かは分からない。もしかしたら担任教師だろうか。だとしたら、嫌かも……こんな怖そうなタイプ。
 それでも着ているものは、仕立てのよいスーツのようだ。
 父のクローゼットの中にあるのが、十年前に仕立てたフルオーダーと既製品のスーツがある。たまに昔のスーツを虫干しするのだが、そんなものを見ていれば、どちらがいいのか高校生でも分かる。
 これも今まで通っていた公立高校なら、たいていの先生がたはジャージかヨレヨレの背広だった。

「教育委員会につるし上げられる前に、この俺がその窓からつるしてやろうか?」
 本当にこの学校の教師なんだろうか。
 声のトーンだけではなく発言の内容もかなり危ない。
「何を言っているんだ。小太郎だって、幼馴染のお嬢様に久しぶりにお会いできて、嬉しかったんだろう?」
 それでも犬飼校長のほうは、いたって落ち着いていた。そのせいで聞き逃しそうになった名前。

 ――コタロウ?
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