9,出会いの刻 楽を奏でる 肆
一気に血の気が引いた。ガクリと膝を折り、その場に尻を着いた。
知られたという思いと、殺されるという思いが、瞬時に交差した。
蒼潤は瞼を閉ざす。すべてを覚悟して――。
不意に視界が陰った。
峨瑛が蒼潤を覗き込むようにして、地に膝を着いている。
「恐れなくて良い。わたしは貴方をどうするつもりもない」
「命、奪う気も?」
蒼潤の瞳が戸惑いの色で揺れ動く。
――殺さない? 本当に?
蒼潤は、自分の性別が人に知られれば、殺されると思っていた。
そう言われ諭され、育てられたのだ。
峨瑛の声が静かに響く。
「わけも聞くまい。聞かずとも分かっている。――貴方の兄上は恙太后に命奪われた。貴方が生まれた時、兄上の二の舞にはすまいと、女子として育てることを決められたのであろう」
違うかと問われ、違わないと蒼潤は頷いた。
まさにその通りだった。
恙太后は蒼昏の子を何よりも恐れていた。
時折、蒼昏の様子を知ろうと、人を送ってくる程だ。
恙太后は蒼昏に男子が生まれれば、その度に命を奪う気でいたのだろう。
だから、蒼潤は女子でなければならなかった。
蒼昏の娘としてでなければ、生き延びることができなかったのだ。
恙太后さえいなければ。
彼女さえこの世からいなくなれば、と蒼潤はどれほど願っただろう。
この乱世に男として生み落とされながらも、女として生きなければならない者の苦しみは、誰にも理解できない。
そのように生きろと命じた父や祖母を恨んだりしない。
彼らは彼らなりに、蒼潤のことを想ってくれたのだから。
だが、胸の奥から湧き上がる想いを、この屈辱をどう扱えば良い?
峨瑛のような男を見ると、胸が苦しい。
同じ男なのに、と思ってしまう。
蒼潤の髪を風が乱す。
ちっぽけな存在を嘲笑うかのように。
「貴方にどうする気もないのならば、何も言わずに冱斡の地から去って欲しい。何もかも忘れ、何もかもなかったことに……」
「それはできない」
「なぜ?」
「わたしには蒼家の血が必要なのだ」
「ならば、姉か妹を娶り、早々に立ち去れ」
峨瑛は緩やかに頭を振った。大気が移動する。
彼の鋭い眼が蒼潤を貫いた。
「わたしは貴方が欲しい。貴方だ。潤」
「愚かな。私は男だ。貴方の妻にはなれない」
名を呼ばれ、その嫌悪感に、蒼潤の顔は引きつっていた。
「貴方の望みを叶えたいのだ」
「望み? 私の望みが何であるかも知らぬくせに」
「では、それを教えて欲しい」
「知ってどうする? 貴方に叶える力はない」
「聞かせて欲しい」
蒼潤は頭を左右に振った。
風が何かを叫びながら、駆け抜けていく。春の生暖かい風だった。
息を吐き出す。胸の奥底から。
「私の望みは唯一つ。――玉座だ」
蒼潤は拳を作る。
「恙太后の世が終わったら、男として生まれ直そうと思っていた。胡帝の長子、蒼昏の子として名乗りを上げ、玉座を手に入れよう、と。――違う。奪い取るわけではない。返して貰うのだ。本来座るべき者が座るだけのこと。そうだ。あれは、本来、父が座るはずであった椅子だ。そして、兄が座っただろう椅子。私は父と兄の無念を晴らしたい」
峨瑛は黙って蒼潤の言葉に耳を傾けていた。
「恙太后が死んだ。今が名乗りを上げる機だろうという時があった。名乗りを上げるべきだと言う者が回りにいた。 だが、同時に、機は熟していないと言う者もいた。姉上がそうだ。 姉上は賢い。姉上の言に従って誤ったことがない。だから、私はもうしばらく時を待つことにしたんだ」
蒼潤は目を伏した。
「呈夙という男を私は知らないが、彼の行いは耳に入ってくる。 恙太后を殺害したのも呈夙だと聞いた。礎帝をも。礎帝の後、玉座に着いた者は蒼絃という者らしい。私の従弟に当たる者だ。奇しくも私と年が同じだとか――」
自嘲の笑みを浮かべる。
年が同じというだけだが、蒼絃がもう一人の自分であるような気がしてならない。
蒼昏が失脚さえしなければ、今、蒼絃が手にしているすべては自分の物だった。
そのように思っている。
一つ何かが狂ってしまっただけだ。 もしも、それが狂っていなかったならば、蒼絃は蒼潤だった。
「呈夙は、蒼絃の弟たちをも殺したらしい。帝位に近しい者から順に殺害したと聞く。弟たち、叔父、従兄弟……。今、都には帝位継承者はいないと聞いた。皇族は皆、地方に逃げた、と。逃げ出した皇族の中に帝位を望む者はなく、また血筋を見ても、皇帝から遠い」
蒼潤が人伝に聞いたという話は事実であり、峨瑛は頷いた。
「そこに、私が男子であると世に出れば、間違いなく皇太子として祭り上げられることだろう。私以外に帝位継承者はいないのだから」
だが、と蒼潤は続ける。己の手のひらを見下ろした。
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